紅魔館に住み込みで働くことになりました。そして咲夜さんの先輩メイドです! 作:ライドウ
ドタン!ガシャン!!
その音は、とても大きかった。
ちょっとやそっとの足音なら聞こえないし、ティーカップを落として割ったとしてもよほど耳のいい狼女でなければ聞こえないほどの防音性だ。
けれど、レミリアに命令を与えられ……メイド長たるマリアの執務室を警備、もとい監視している狼女たちは、その大きな音に、嫌な予感と不信感を懐いたのだった。
「……ねえ、今の音聞いた?」
「け、結構大きな音だったよね~。」
この二人の狼女は、館内に配備された狼女たちの中でも、その音が聞こえた事で異変に気付けたのである。
恐る恐る、お互いの目を見て意見を交わし、二人同時に頷いて、メイド長の様子を確認することにした。
トントンとノックし、声を掛ける。
「め、メイド長?すごい音がしましたが、大丈夫ですか?」
《…………。》
返事がない。
ヒヤリと首筋に冷や汗が流れる。
また、別の勢力にさらわれたのだろうか……それとも、私たちに対するイタズラとか?
狼女たちはそう思いつつ、もう一度ノックする。
「メイド長?はいりますよー?」
片目隠れの狼女が、恐る恐る執務室のドアを開ける。
扉の隙間からインクのにおいが通過し、本の匂いに混ざってメイド長の香りが廊下に抜けてゆく。
けれど、変だ。インクのにおいが、余計に濃い……?
「……あれ、メイド長?」
「わわっ、インク瓶が倒れて大変なことになってる!」
「わーっ!?メイド長なにしてるんで……す?」
おかっぱ頭の狼女の動きが止まる。
その表情は、ポカンとしたものから……段々と信じられない、信じたくない、と言う絶望に染まってゆく。
相方の片目隠れの狼女も、おかっぱ頭の狼女のみているものを見て……同じように表情を絶望に変えてゆく。
メイド長の執務机に隠れるように、空色に似た髪の女が倒れている。
その女は、息苦しそうに短い呼吸を続け、段々とその肌を蝋人形のように白くさせてゆく。
ふと、その女の手を見れば……
二人の狼女は、信じたくなかったのである。
今にも死んで、消えてしまいそうなその女が――――――
自分たちすら愛してくれたメイド長、十六夜マリアであることを、信じたくなかったのである。
鳴り響くアラートに、
《だ、誰か、誰か助けて!メイド長が、メイド長がぁっ!!》
アラートを鳴らす魔石と一緒に、狼女たちに渡されていたであろう情報伝達の魔石。
その魔石から、狼女の悲痛な叫びが聞こえて来た。
多くの修羅場を生き抜いてきた
《め、メイド長が、死んじゃう……死んじゃうよぉっ!!》
ピタリと……時が止まった。
誰もが息を忘れ、鳴り響いた言葉に耳を疑った。
メイド長が死に掛けること自体、そんなに珍しい事ではない。これまで
けれど、今回は……いつもみたいにメイド長は生き残って最後はケロッとしているという、安心感が無かった。
メイド長が本当に死ぬかもしれないという不安が、胸を揺らす。
メイド長が本当に居なくなるかもという恐怖が、息を詰まらせる。
メイド長ならきっと大丈夫と言う安心が、ゆっくりと崩れ去ってゆく。
紅魔の鎹が、ここに崩れたのだった。
「……やるなら、今ね。」
……混乱から、数時間。
時間というものは、不思議なほど不均等に流れる。
楽しい宴の夜はあっという間に明けてしまうのに、こういう夜は――誰かが倒れ、誰かが泣き、誰もが何をすればいいかわからないまま廊下を行き来するだけのこういう夜は――まるで時計の針が錆びついてしまったかのように、少しも前へ進もうとしない。
医療・救急隊とその隊長たるメディーの迅速な処置のおかげで、十六夜マリアは一命をとりとめ、意識を取り戻した。
意識を取り戻した、というのは事実ではあるが、それが「いつも通りのマリア」に戻ったことを意味するわけではなかった。目を開けはしたが、その目はどこか遠いところを見ており、口数も少なく、起き上がろうとした体はひどく覚束なかった。それでも「ご心配をおかけしました」と静かに言ったのは、いかにも彼女らしい律儀さであったが、その声はいつもより幾分か薄く、まるで遠くから届いてくるような響きを持っていた。
メディーによる、十六夜マリアの検査は
そして、妖精をよく知るノワールが代わりに説明したそれは、ひどく静かな声で、それだけに残酷なものだった。
まず、十六夜マリアは490年を生きる妖精だ。
人間の感覚では気が遠くなるほどの年月だが、それ自体は妖精にとって珍しいことではない。妖精とは本来、長命な生き物である。しかし、長命であることと、長命であり続けることは、まったく別の話だ。
妖精の原種であるノワール、妖精よりも怪物に近い性質のかつてのブラウ、特殊な事例を持つルージュとプリムといった特例の妖精を除けば、その生きた年数はこの館において最年長ともいえる年数だ。490年という時間は、ただ積み重なるだけではない。積み重なれば積み重なるほど、その重みで何かが少しずつ変形してゆく。鉄も、長い年月の中では歪む。石でさえ、風雨に晒され続ければ形を変える。
当然、その性質はそれだけ長く生きていれば変質や変容があってもおかしくはない。事実、メイド長にはそれが起きていた。
……誰も、気付かないまま。
彼女自身も含めて。
今のメイド長の状態を表すなら、さなぎの中の溶けた幼虫と言うべき状態だろう。
さなぎとは、外側から見れば静かで安定しているように見える。変化の予感もなく、ただそこにある硬い殻。しかし内側では、かつて幼虫であったものが完全に溶け、全く別の何かへと作り替えられてゆく過程が進んでいる。ある意味では完全な崩壊であり、ある意味では生まれ変わりの一段階でもある。しかしメイド長の場合、それは蝶になるための溶解ではなかった。ただ溶けている。行き先も、形も、定まらないまま。
かつてのメイド長は、レミリア・スカーレットの専属メイドという依り代を与えられた、家付き妖精のような状態であった。
依り代、という言葉は魔術的な意味合いを持つが、ここでは比喩として理解するのがよい。役割が、存在を規定する。「誰かのメイドである」という事実が、彼女に形を与えていたのだ。名もなく、過去もなく、ただそこに在るだけだった存在に、「専属メイド」という輪郭を与えることで、彼女は初めて「彼女」になることができた。人でいえば、自分の部屋と名前を与えられたようなものである。
この状態でかつてのメイド長は安定し、現在に至るまでの自我を形成することになり、後に"十六夜マリア"の名を与えられることでその自我は確固たるものとなっていた。
名前というものは恐ろしい力を持つ。名を持つことで、存在は固定される。他者からの認識が積み重なり、やがてそれは本人の内側へと深く根を張り、「自分がここにいる」という確信となる。十六夜マリアという名は、ただの呼び名ではなく、彼女の存在そのものを縛り付ける楔であった。それは同時に、彼女を守る檻でもあった。
しかし、思い出してほしい。
メイド長は、十六夜マリアの名を与えられる前も、度々死に掛けていた。
フランドール・スカーレットの最初の暴走、そしてドラゴンゾンビ襲撃事件の二度、メイド長は死に掛けていた。
どちらの事件も、今となっては館の歴史の一部として語られることがある。しかし語られる時、その話の中心に彼女がいることは少ない。気付けば立っていた、という話になる。どこからともなく復帰していた、という認識になる。彼女自身がそれを望んでいたのか、それとも誰もがそこまで深く考えなかったのか、今となってはわからない。しかしいずれにせよ、そのたびに彼女の体の中では、見えない何かが傷ついていたのである。
そのたびにメイド長は、生死の境をさまよい……そして、"メイド長"と名付けられた器にひびを入れていたのである。
器というのも比喩だ。魂と呼んでもよいし、存在の器と呼んでもよい。妖精にとって、その「器」とは単なる肉体を指すのではなく、自我と生命力が宿る構造そのものを意味する。茶碗が割れれば茶を注いでも漏れるように、器にひびが入れば、そこから中身が少しずつこぼれ落ちてゆく。
器に入ったヒビからは少しずつ、だが確実にメイド長の器から、生命の波長とも言うべきエネルギーが流れ出していたのである。
生命の波長、というのはノワールの言葉を借りたものだが、平易に言えば「生きている力」そのものだ。それが滲み出してゆく感覚を、当人は自覚できるのだろうか。あるいは自覚できないからこそ、彼女はいつも通りに振る舞い、いつも通りに仕事をこなし、いつも通りに笑うことができていたのかもしれない。
本来であれば、このヒビは時間の経過とともにゆっくりとふさがってゆくもので、決して永遠に残るモノではない。
これは妖精の持つ回復力の話だ。傷は癒える。ひびは塞がる。それが正常な流れであるはずだった。
だが……その状態で"メイド長"と名前の付いた器の他に、"十六夜マリア"と言う新しい名前が上書きされたのだ。
この上書き自体はとてもうまくいっていた。何の違和感もなく、そうであると本人が無意識に受け入れていたというのもあるが、マリアを知る人々の認識がその融和を速めていたのである。
人の認識とは馬鹿にできない力を持つ。特に、妖精や異形の存在にとっては、「そういうものだ」と思われることが、文字通り「そういうもの」にしてしまう力を持つことがある。皆が彼女を「十六夜マリア」と呼び、皆が彼女をそう認識し続けたことで、その名はゆっくりと彼女の存在の奥深くまで浸透していった。水が砂に染み込むように。光が石の色を変えるように。
しかし、それは器の中身に関する話である。
ヒビの入った状態のメイド長の器に、十六夜マリアの名が与えられた時……その
「理」というのはこの世界における根源的な秩序のことだ。物事がどうあるべきかを規定する、目に見えない文法のようなもの。そしてその理が「ヒビのある状態が正常だ」と判断してしまった瞬間、それは「異常として修正されるべきもの」ではなく「あるべき姿」となった。治らなくなったのではなく、治る理由がなくなったのだ。それはもはや傷ではなく、彼女の一部として定義されてしまったのである。
そうなれば当然、ヒビは治らない。そして、治らないのだから、その日々から生命の波長とも言うべきエネルギーは流れ続けている。
岩から水が染み出すように、僅かに……だが、確実に流れてゆくそれは……徐々に、徐々にメイド長の命を削っていたのである。
ゆっくりとしたものだ。急ぎもせず、焦りもせず、ただ粛々と、決まった速度で流れ続ける。それは静かな喪失だった。大きな音も、激しい痛みも伴わない。気付けば、昨日より少し軽くなっている。気付けば、昨日より少し薄くなっている。誰も気付けない。本人でさえ、気付けない。そういう種類の、消えていき方だった。
誰も知らない場所で。誰も見ていない時間に。ずっと、ずっと。
そこに加え、
呪いというものは、憎しみから生まれると言われるが、パメラのそれは純粋な怒りから生まれたものだった。怒りの呪いは、憎しみのそれよりも長く残る。憎しみは時間とともに薄れるが、怒りは正しさを持つことがある。正しさを持った怒りの念は腐らない。石棺の奥深くで、何年も、何十年もかけて醸造されたそれが、じわりじわりとマリアの魂に滲み込んでいたのだ。
彼女が笑っていた時も。仕事に励んでいた時も。
誰かの名前を、優しく呼んでいた時も。
そのすべての瞬間に、見えないところで、彼女は少しずつ失われ続けていた。
「……つまり、どういうこと?」
レミリアは目の前で淡々と説明を続けていたノワールをにらみつけた。
その目には苛立ちがあった。純粋な苛立ちだ。理解できないことへの苛立ちではなく、理解してしまうことへの抵抗感から来る苛立ちに近かった。長い説明の間、レミリアはずっと椅子の肘掛けを指先で叩き続けており、その小さな音だけが執務室にリズムを刻んでいた。
マリアが倒れて、目を覚ましてから1時間。レミリアの執務室に
普段は広々と感じるこの部屋が、今夜に限っては妙に狭苦しく感じられた。全員が集まっているせいだけではない。空気が重かった。誰もが無意識に呼吸を浅くしていたせいかもしれない。窓の外では月が雲に隠れており、部屋に差し込む光は燭台の炎だけだった。
話す話題は、マリアの状態の話であった。
しかし、メイド隊や警備隊……この
対して、フランドールは何かを察したのか、口を手で覆い、顔を青ざめさせていた。
フランドールは感覚が鋭い。理屈で理解するより先に、何かを感じ取ってしまう性質がある。ノワールの説明が進むにつれ、フランドールの手が少しずつ強く口元を覆っていった。まるで、自分の口から言葉が出ることを恐れているかのように。あるいは、聞こえてくる言葉が現実になることを、口を塞ぐことで止められるとでも信じているかのように。
「……レミリアお嬢様、ホントに気付けないのか?」
「本当にどういうことなの、ハッキリ言ってちょうだい。」
目を紅く光らせ、ノワールに答えを言わせようと威圧する。
吸血鬼の目が光る時、それは単なる感情の表れではない。意思の力が視線に乗る。相手の思考を揺さぶり、言葉を引き出そうとする、本能的な支配の発露だ。しかしノワールは妖精の原種である。吸血鬼の眼光程度で揺らぐような存在ではない。
……ノワールはその威圧にまったく調子を崩さないものの、ハァと明らかに失望のため息をついていた。その息は短く、だが重く、部屋の空気をわずかに変えた。ノワールが失望するのは珍しいことではないが、このタイミングでのそれは、単なる呆れ以上の何かを含んでいた。諦念に近い、静かな悲しみのようなものが、その短い息には混じっていた。
だが、主命は主命、求められたのならばレミリアにその答えを言わねばならないのである。
それがノワールという存在のあり方でもあった。感情があり、意見があり、時に反発もする。しかし最終的には、主の求めに応じる。それを弱さと呼ぶ者もいるだろうが、ノワールにとってそれは誇りであった。だからこそ、言いたくない答えを、それでも口にしなければならない時の重さを、彼女はよく知っていた。
ノワールは、一瞬だけ目を伏せた。
長くはない。ほんの一瞬のことだ。しかしその一瞬が、妙に長く感じられた。部屋の中の全員が、無意識にその瞬間に気付いていた。なぜかはわからない。ただ、あの沈黙の質が、普通ではなかった。
何かが告げられる前の、静けさだった。
嵐の前の凪ではない。嵐の後の、全てが終わってしまった後の静けさに近かった。
ノワールが口を開く。
その声は、いつもと変わらなかった。速くもなく、遅くもなく、感情の起伏を表に出さない、あの平坦な声だった。それがかえって、残酷だった。怒鳴られたなら反発できる。泣き声で告げられたなら、こちらも感情で受け止められる。しかしあの淡々とした声は、告げられた言葉をそのままの形で、過不足なく、脳の奥へと届けてしまうのだ。
「今回倒れたのは予兆であろう。それほどまでに魂は傷つき、命を流している。」
予兆。
その言葉が最初に落ちた時、誰もまだ理解していなかった。予兆というのは、これから悪くなるという意味だ。つまり今はまだ、最悪ではないということだ。そう聞こえた。そう聞こえたかった。
「このままであれば――」
ノワールの視線が、一度だけ部屋の全員を見渡した。
パチェを。咲夜を。美鈴を。フランドールを。レミリアを。
それはまるで、これから言う言葉を誰かに押し付けないために、全員に均等に配るような視線だった。
あるいは……全員の顔を、この言葉を言う前にもう一度だけ見ておくための、静かな覚悟だったのかもしれない。
「十六夜マリアは遠からず、」
部屋の空気が、変わった。
変わった、というより――止まった。
燭台の炎が揺れるのをやめたわけではない。時計の針が動かなくなったわけでもない。しかし確かに、何かが止まった。息を吸う音が消えた。心臓の音が遠くなった。ノワールの唇が動いているのは見えているのに、次の言葉が来るまでの間が、永遠のように引き伸ばされた。
「――死ぬであろう。」
「早くて明日には亡くなるかもしれないし、」
明日。
その言葉が出た瞬間、フランドールの肩が小さく跳ねた。
明日というのは、今日の続きだ。今夜が終われば来る、あの朝のことだ。カーテンの向こうがやがて白んで、館の中が目を覚まして、誰かが廊下を歩いて、誰かが名前を呼んで、いつものように一日が始まる、あの朝のことだ。
その朝に、マリアがいないかもしれない。
昨日まで当たり前にそこにいた人が、明日にはもういないかもしれない。
「遅くて100年先で亡くなるかは、私にもわからないがな。」
100年。
それだけ聞けば、長いように思える。100年というのは果てしない時間だ。しかしこの部屋にいる全員が、100年という時間の本当の速さを知っていた。気付けば終わっている。振り返れば、ほんの少し前のことのように感じられる。この館に来た日も、初めて名前を呼んだ日も、笑い合った無数の夜も、全部。ほんの少し前のことのように。
それだけの速さで、100年は過ぎる。
……………………………………。
十六夜マリアは、近いうちに死ぬ。
その言葉は、どこか遠いところから降ってきたように感じられた。
執務室の中で告げられた言葉のはずなのに、どこまでも遠く響いた。あるいは、脳がそれを遠ざけようとしていたのかもしれない。現実として受け取ることを、本能が拒んでいたのかもしれない。
しかし拒んでも、言葉は消えなかった。
反響して、消えたように見えて、消えていなかった。部屋の空気の中に溶け込んで、全員の肺の中に入って、全員の血の中を巡り始めていた。もう取り出せない。もう忘れられない。
この瞬間から、この部屋にいた全員の時間は変わってしまった。あの言葉が告げられる前の時間には、二度と戻れない。
誰もが、信じられないと目を丸くしていた。しかし同時に、どこかで信じていた。
胸の奥の、一番正直な部分が、とっくに気付いていた。最近のマリアが、少しずつ薄くなっていたことを。笑い方は変わらないのに、その笑いの奥にあるものが、少しずつ減っていたことを。呼んでも、一瞬だけ遠いところから戻ってくるような間があったことを。
全部、知っていた。知っていたのに、見なかった。
見なければ、現実にならないと、どこかで信じたかったから。
明日には、マリアが死んでいるかもしれない。
遅くても、100年なんて
……今日、廊下で真剣な顔で仕事の段取りを確認していた彼女が。
昨日、何でもないように紅茶を運んできたあの人が。
名前を呼べば必ず振り向いた、あの背中が。
いなくなる。
それだけのことが、今夜この部屋で、確かなものとして告げられた。
抗う手段を探す前に、まず全員がその事実の重さの下に、静かに潰されていた。
レミリアは手が震え、冷や汗を流しながらも……解決策を見い出そうと、ノワールを見る。
スカーレットの名を持つ者が震える時、それは恐怖ではない。怒りでもない。どうしようもない無力感が、体の末端から滲み出してくるような感覚だ。それでもレミリアは視線を逸らさなかった。逃げることを、この女は知らない。正確には、逃げ方を知らない。それがこの吸血鬼の、美しく哀れな性分であった。
「残念ながら、それを直す手立てはこの土地では、私であってもない……そう断言しよう。」
「私であっても」という言葉が重かった。ノワールは万能ではない。しかし、この館の誰よりも古く、この館の誰よりも多くを知るノワールが「私であってもできない」と言うことの意味を、全員が正確に理解していた。それは単なる謙遜ではない。確認された、限界の宣告だ。
「……この、土地では?」
「………………。」
長い沈黙。そしてノワールの苦虫を噛み潰したような不快そうな表情。
ノワールが不快そうな顔をするのは珍しいことではないが、この不快さには別の種類のものが混じっていた。言いたくないことがある、という種類の不快さだ。選択肢を提示することで、また何かが動き始めることへの、ある種の躊躇いのようなものが、その沈黙の奥にあった。
だがそこに活路があるとレミリアは見い出し、ノワールに言うように促す。僅かに身を乗り出したレミリアの動きは、小さかったが、部屋の全員に見えていた。
「……幻想郷であれば、あるいは私であれば手立てができるかもしれない。
あそこは、古い力が多く残された土地だ。
調べなければならないが……少なくとも、可能性はあるやも……。」
可能性、という言葉はか細い。しかし今のこの部屋には、か細い可能性以外に縋れるものは何もなかった。それで充分だった。それ以外に、あるはずもなかった。
バン!とレミリアは机をたたいて立ち上がる。
乾いた衝撃音が部屋に弾け、炎が揺れた。立ち上がったレミリアの影が壁に大きく伸びる。それは威圧ではなく、決意の形だった。
その目に、迷いはなかった。
あるいは……迷いを、捨てるしかなかったのかもしれない。迷っている時間が、もうないことを、レミリア自身が誰よりも正確に理解していたから。
「全員、聞いて。」
レミリアの言葉に全員が自然と背筋を正す。
命令だからではない。声の質が変わったのだ。これがレミリア・スカーレットという存在の核心だ。本気になった時の彼女の声は、命令を超える。聞く者の体が、先に反応する。
「なにがあっても、私たちは幻想郷に行くしかなくなったわね……。
メイド長を……マリアを長生きさせるために、出来る限り早急に、幻想郷へ進攻することにしたわ。」
レミリアの瞳から光が消え、仄暗い狂気が宿り始める。
光が消えるというのは、柔らかさが消えるということだ。吸血鬼の目が完全に吸血鬼のものになる瞬間というものがある。そこには感情があるのに、感情が見えない。熱があるのに、氷のような冷たさを纏う。それがレミリア・スカーレットの、本当の顔だった。普段は奥にしまってある、当主の顔が。
恐ろしいほどに冷たいカリスマが、部屋の空気をじわりと塗り替えてゆく。先ほどまでの重さとは異なる。これは重力だ。彼女を中心に、全てが引き寄せられ、全てが従う方向へ動き始める、そういう重力。
「当主命令よ。
メイド隊と警備隊は早急に転移の用意と、戦力の増強、戦争の用意を。
パチェ、幻想郷のどこでもいいわ。とにかく大規模転移の用意を、コストはどれだけかかってもいいわ。
フラン……アナタには、マリアを見ていてちょうだい。」
フランの名前を呼ぶ時だけ、わずかに声のトーンが変わった。そこだけは命令ではなく、頼みごとの色を持っていた。見ていてほしい、という言葉の裏に、目を離したら消えてしまうかもしれないという恐怖が透けていた。
「そして、最後になるけれど……
だれか、異論はある?」
……その言葉に、誰も反論するものは居なかった。
それほどまでに、レミリアのカリスマが優れていたのか?
いや……レミリアの狂気が、そして状況が、それを許さなかったのである。
しかしもう一つの理由があった。全員が、心のどこかで同じことを思っていたのだ。それが正しいことだ、と。彼女にはもう、メイド長である必要などない。肩書きよりも、ただそこにいてほしいという気持ちが、この館の全員の中にあった。それを言葉にする必要がなかっただけで、それはとっくに全員の答えだった。
誰もが知っていた。
これは、始まりではなく。
もしかしたら、終わりの始まりなのかもしれないと。
それでも動かなければならない。動くことしか、今この瞬間の自分たちにできることはないのだから。
「……マリアには、私が直接伝えるわ。
準備、始めて頂戴。」
レミリアは最後にそう言い、一足先に、自らの執務室を後にしたのであった。
廊下の石畳は冷たかった。靴底を通してそれが伝わってくる感覚に、レミリアは僅かに目を細めた。
誰も見ていなかった。だから、誰も知らない。
扉を閉めた後、レミリアがほんの一瞬だけ立ち止まり、その場でゆっくりと一度だけ息を吐いたことを。
その吐いた息が、白く、冷えた廊下の空気の中に溶けて消えたことを。
まるで最初から、なかったかのように。