「結局、この家を依頼人に譲渡した老婆の一人勝ちってわけだ」
汚泥を飲み込んだような顔をして師匠が言う。
この家の前の住人は、老婆と初老の男性だったはずだ。
「……その老婆って」
「さっきの話に出てきた正妻だろうな」
とすると男性の方はその息子か。
すっきりとした解決にはならなかったものの、この家の謎はあらかた解けた。
恐らく、息子の方も大体のことは知っていたのだろう。
自分が生まれたことで、死んでしまったふたり。
この数十年、絶え間なく母親の業を見せつけられる心境はいかなものだったのだろう。
その夜、僕には這いずりまわる音に加え、おぎゃあおぎゃあと母を求めて泣く赤子の声が聞こえたような気がした。
それから2日ほど、僕たちは為す術もなくその家で過ごした。
師匠の料理をたらふく食べて、酒を飲んでは怪談話をして、綺麗に掃除したお風呂に入って寝る。
赤子の幽霊も井戸も気にはなったが仕方がない。
その頃には少し慣れ始めていた。
それに……。
師匠との関係を進めようにも、そんな状況下だったのでどうしようもなかった。
これは神に誓って言うんだけど、あんな幽霊たちがいなければ、ふたりはもっと大人の関係になっていたはずだ。うん。
今回のところは大目に見てやる。
誰にともなく言うと、湯船に肩まで浸かる。
換気のために開けた窓から、悲しい声音が聞こえている。
依頼人は明日の夜帰って来るらしい。
僕たちの同棲生活もどきも、これで終わり。
ふぅと吐いた大きなため息が、窓の外へと消えていった。
最終日の朝、僕は井戸の前に立っていた。
母親の霊が封印された井戸。
初日の夜に感じた邪悪な感じは未だに感じるものの、それが子供を求める母親のものだと今は知っているから、若干違ったもののように感じる。
何もできないけど、せめて……。
「何してんだ、お前……」
両手を合わせていると、師匠がやってきた。
「これも何かの縁ですから」
そう告げると、師匠がニヤリとイタズラな笑みを浮かべる。
その笑顔に嫌なものを感じた刹那、師匠が井戸の蓋を取り除く。
「ちょっと師匠!!」
「どうせなら直接拝んでやった方がいいだろ」
師匠がその深みを覗き込んで、真面目な顔をしている。
僕はそこに恐ろしいものが潜んでいるような気がして、どうしてもその後ろに続くことができない。
それが母親の霊だとしても、憤怒と怨嗟のためにどんな変容をしているかわかったものではない。
「お前も私の弟子なら、見ろ」
その一言にどこか寂しさを感じて、僕は勇気を振り絞ってそれを覗き込む。
朝日の光は井戸の底まで届かない。
そこは淀んだ空気と、カビの匂いで充満している。
……霊の気配は感じなかった。
昼間だから?
それとも、もう母親の霊は……
「霊はトンネルと井戸に引き寄せられる」
師匠が僕の思考をかき消すように語り始める。
「産道にも似たそれを通って、成仏することを求めているのだとか」
みんな、なにかになりたくて。
なににもなれなくて。
それでも……
「結局、そんなことをしても報われないのにな」
師匠の言葉が井戸の奥深くへ消えていく。
僕たちは、その家を後にした。
後日。
「うるせぇ、ご馳走してやるっつってんだから、文句言うな」
依頼人に報告書を提出すると、解決していないとはいえ、多少は色を付けてくれたらしい。
「だからって、すき焼きはないでしょう」
暦の上では残暑とはいえ、まだ八月だ。
「山菜とキノコが余ってんだよ」
聞くと師匠は山で大量に採ってきたとか。
山……?
山菜と……キノコ……??
「ちょっと待ってください。これって……」
「あの家の裏山から拝借してきた。
依頼人の土地なんだから構わんだろ」
しれっと言いながら、師匠が野菜を煮詰めていく。
「……これ、大丈夫なやつなんですよね?」
「ちゃんと図鑑は確認したぞ」
ほれ、と師匠が隣人から借りて来たらしい百科事典を指さす。
「そういう意味じゃなくて」
もっと、こう、山菜やキノコの栄養になったもの的な意味で!!
「食べないのか?」
師匠がほどよい色になった肉を、手元の溶き卵にダイブさせて、むしゃぶりつく。
「食べますよ!! いただきます!!」
僕も自棄になって、肉に手を出す。
がっつく僕を見て師匠が笑う。
「そうだ、師匠。せっかくですから花火でも見に行きましょうよ」
できるだけ自然な体を装って誘ってみる。
「屋台の代金はお前持ちな」
「なんでもう金無くなってるんですか」
「てへっ」
舌を出して、「おねがいー」と言いながら身体をくねくねさせる師匠。
ちくしょう、かわいいじゃねーか!!
「さんざんお世話になりましたからね。いいですよ」
「よっしゃ」
僕たちの夏はもう少しだけ続く。