大学三回生の夏だった。
俺は音響のHNを名乗る少女に呼び出されていた。
この少女と関わるとロクなことにならない。
それでも久々の外出ということもあり、極力オシャレな恰好をして待ち合わせ場所のファミレスに向かう。
「それで、今日はなんだよ」
ファミレスのドリンクバーで注いできたブラックコーヒーを飲みながら、ぶっきらぼうに言葉を投げる。
黒いゴスロリ服に身を包んだ音響は、本来の可愛さもあってやたらと人の目を引く。
一緒に居ても周囲の好奇の眼差しに居心地が悪い。
……下心があってオシャレしてきたわけじゃないぞ。断じて。
「これなんだけどさ」
音響が黒光りするゴツゴツしたものをテーブルに置く。
手に取って見てみる。
小さなスイカくらいの大きさで、正三角形による多面体。
黒光りした表面は半透明なようで、冴えない自分の顔を反射させていたが、その向こうにある音響の顔も透かして見える。
「リンフォンって知ってる?」
音響の問いかけに記憶をまさぐる。
前にネット掲示板で見かけたことがある。
なんでも地獄に繋がってるだか、地獄そのものなんだとか。
首を縦に振る。
「ちょっといじってみたんだけど、思ったより面倒なのよね」
熊、鷹、魚の順番にリンフォンを変化させることで地獄の門が開かれるはずだ。
それで、と言葉を続けようとする音響を手で制する。
「あのなぁ、俺を便利屋かなんかと勘違いしてないか」
コトンとリンフォンをテーブルに戻す。
どうやってこれを手に入れたかは知らないが、地獄に興味はない。
「いいじゃない。どうせ暇なんでしょ」
「おいおい、俺にだって大学が」
「今度こそちゃんとデートしてあげるから」
くそう、もうそんな手には乗らないぞ。
そう言いつつ、俺は再びリンフォンを手に取っていた。
ルービックキューブの要領でくるくる回転させながら、正解の部分を押し込んだり引っ張たりするとちょっとずつ形が変化していく。
永遠とくるくるさせて色んな所をいじるだけな単調作業ではあったけど、これがなかなか癖になる。
一本道のルートしかないので、安心していじくりまわすことができるのも、飽き性の俺が投げ出さなかった理由として挙げられる。
ちょっとずつ形が崩れ、やがて熊の形が見えてきた。
もうちょっともうちょっとと、リンフォンをいじり続け、両手を頭上で大きく広げた熊の形ができるころには朝になっていた。
軽く寝た後、昼過ぎに師匠のボロアパートに行くと、今日は休日だったらしい師匠がそうめんを湯がいてくれる。
お互いの近況報告なんかしながらそうめんを啜り、そういえばと師匠にリンフォンを見せる。
熊の形になったリンフォンを見て、
「お前は」
と師匠が何かを言いかけてやめる。
その後は麦茶を飲みながら師匠の昔話を聞く。
弟子の務めってやつだ。
別れ際、師匠が
「もう一人で暗闇を見つめられるんだな」としみじみとした口調でつぶやいた。
歩くさんや京介さんが卒業して県外に出てしまってからは、師匠もすっかり大人しくなってしまった。
いや、それは俺も変わらないか。
たった半年で随分と変わってしまった。
師匠と別れた帰り道、毎日のようにバカみたいなことや、恐ろしいことを経験していたあの頃を思い出して、ちょっぴり感傷に浸る。
家に帰ってからもリンフォンをいじり続ける。
熊の形が再びばらけていき、何か翼のようなものが見え始めた。
これは鷲になるのも近いんじゃ……そう思ってリンフォンを触っていると、ドンドンと壁が叩かれる音がした。
ビクッとしたものの隣の住人が何か壁にあてたのかなと思い、気にしないようにした。
嫌な空気になってきたので、その日はもう寝ることにした。
確か隣は先週引っ越していったはずだ。
翌日、携帯の鳴る音で目を覚ます。
電話に出てみたけど、ノイズが混じっていて何を言っているのか聞き取れない。
イタズラかと思い電話を切ってその辺に投げ捨てる。
パンをかじりながらリンフォンを触る。
鷲のくちばしが完成する。体と翼はもう少しでできあがる、そう思ったころにはすでに周囲は暗くなっていた。
隣では宴会でもやっているのか、ガヤガヤと声がする。
うるせえぞ、と壁を叩くとすぐに静かになった。
一日無駄にしたなぁ、と思いつつさらにリンフォンをいじり続ける。
翼を広げ飛ぶ鷲の姿が完成する頃にはもう日付も変わっていた。
また携帯の鳴る音で目を覚ます。
出ても相変わらずノイズだらけで何も聞き取れない。
唯一「早く助けて」と言っているのが聞きとれた。なんだ、やっぱりイタズラか。
通話終了ボタンを押して、その辺に投げ捨てる。
イタズラ主もしつこいのか、その後も電源が切れるまで永遠と電話が鳴り続けていた。
リンフォンを触る。あとは魚の形にするだけだ。
そういえば音響のやつ、「ちょっといじってみた」と言いながら、一つもパズルを進めていなかったな。
つまり、あいつはリンフォンの持つ危険性を何か感じ取っていたのかもしれない。
バンバンと壁が叩かれる。天井からはドシドシと音が響く。窓がビリビリ震える。玄関のノブがガチャガチャと回される。
部屋の内側で何者かのヒソヒソした喋り声が聞こえる。
さすがに普通じゃないと思う。
師匠から貰った稲川淳二の怪談を大音量で流して、大きな声で独り言を言いながら俺はリンフォンを触り続ける。
周囲の霊障が消える。あいつらはこちらが静かにしているから調子に乗るのだ。
騒がしくしていれば大人しいものだ。ニヤリとほくそ笑む。
くちばしや翼が収納されると、やがて魚の形が見えてくる。
リンフォンに反射した自分の顔を見て驚く。
目の下はくぼみ、頬はこけている。
自分のことながら、とても生きている人間には見えない。
やつれるというよりは、老け込んでしまったようだった。
そういえば、昨日の朝パンをかじっただけで、そのあと何も食べてないな。
そう思いながらリンフォンをいじる。
これが完成したら、駅前に何か食べにいくか。
電源が切れたはずの携帯電話が鳴る。
しばらく無視してリンフォンを触っていたが、数時間が経った頃にいい加減イライラして電話に出る。
今度はノイズが聞こえてくる前に「うっせーよ!! 今出してやる!!」と一方的に叫んでから切った。
尾びれ、続けて背びれが魚から突出する。
これで完成だ。いよいよ地獄の門が開かれる。
何が起こるか期待していたのに、待てど暮らせど地獄は開かれない。
なんだ、つまらん。
俺はちょっと遅い朝ご飯を食べに外に出ることにした。
外に出ると、夕日が毒々しい色を持って俺を迎え入れる。
ギャーギャーとわめくカラスに、ただならぬ悪意を感じる。
道は人で溢れている。
皆どこかしら欠損していて、とても生きている人間には見えない。
メガネを外しても、景色はぼやけない。
なんだ、夢か。そう思い家に引き返しかけたが、思いとどまる。
お腹が空いた。夢の中でくらい豪華な食事を食べに行こう。
闊歩する亡者に紛れて、駅前を目指すことを決意した。
ヴぉおおおおおお。
アパートの敷地を出ると、亡者の一人が俺を指さして叫ぶ。
その瞬間、全ての亡者の目線が俺に集中した。
なんだ、と思っていると、亡者たちがこっちに向かって歩いてくる。
さながらバイオハザードのようだ。
一番近くにいた亡者を蹴り飛ばして、俺は駅に向かって走り出す。
奴らは諦めることなく、俺を目掛けて殺到してくる。
正確には、俺の持つリンフォンに。
いくら奴らの足が遅いとはいえ、多勢に無勢。
すぐに俺は進むことも退くこともできなくなってしまった。
師匠ならなんとかしてくれるのかもしれないが、師匠のボロアパートまで辿り着ける気がしない。
公園の茂みで身をひそめて、奴らをやりすごそうとしていると、不意に電話が鳴る。
携帯電話ではない。目の前にある公衆電話がジリジリと音を立てて鳴っているのだ。
へぇ、公衆電話ってこんな音を出して鳴るんだな、なんて現実逃避気味に考える。
どうせ何かの間違いだろうしすぐに止むだろうと思っていたけど、ジリジリとけたたましく鳴り続けている。
亡者もそれには興味がないらしく、リンフォンを探してウロウロと歩き回っている。
少し興味を惹かれて、俺は亡者たちの目を盗んで公衆電話のボックスに入り、受話器を手に取って耳に当ててみる。
俺はてっきりノイズや亡者の声が聞こえるものと覚悟していたのだけど、
「それは偽物よ」そう断言した声の主は若い女性のものだった。
懐かしさを感じる前に、バリンと音を立てて世界が崩れる。
目が覚める。
なにか変な夢を見ていた気がする。酷い寝汗だ。
床の上には魚の形が完成したリンフォンが転がっていた。
「何にも起きなかったよ」
翌日、音響を呼び出して魚の形になったリンフォンをテーブルに置く。
「なんだつまらない」
たいして興味もなさそうにメロンソーダを飲みながら音響が言う。
「地獄に繋がってなかったのね」
そりゃそうだ。
「リンフォンなんて作られたお話さ。もしネットに書き込まれたようにこれが2500年も前に作られたものだとしたら、つじつまが合わない」
俺はブラックコーヒーを飲みながら、リンフォンの話の矛盾点を説明する。
「INFERNOの綴りを変えてRINFONEだと言うけど、イタリア語のInfernoじゃなくて、ラテン語のInfernusであるべきだ。
だから、リンフォンは地獄にはなりえないんだよ」
音響の手前、大人ぶってブラックコーヒーなんて飲んでるけど、栄養失調気味の体は糖分を切実に求めている。
「じゃあリンフォンってどういう意味なの」
「知らん。リンボが訛ったんじゃないのか」
「結局一緒じゃないの」
言いながら音響が魚をバッグに仕舞う。
「なんにしても偽物だったのね」
ジュッと音を立てて音響が飲んでいたメロンソーダが無くなる。
「じゃあね」
そう言って席を立とうとする音響に
「デートは?」と聞くと、
「今してたじゃない」と答えが返ってきた。
あんぐりと口を開ける俺に背を向けて、音響が店を出る。
地獄に落ちろ。彼女の背中に俺は中指を立てて念を送り続けた。
「それとも」不意に音響が振り返る。
俺は慌てて指を隠す。
「今から心霊スポットでも連れて行ってくれるの?」
不敵に笑う彼女に帰れ帰れと言いながら、手でしっしと追い払った。
そう言えば、と思い返す。
音響に連絡する時、携帯の着信履歴から電話をかけたんだけど、
リンフォンをいじってる時にあれだけけたたましく鳴っていたのに、着信履歴は一つも残ってなかったな。