「師匠!!」
真っ暗な、何ひとつ見ることのできない闇の中で僕は叫ぶ。
声は反響することなく、ただ闇の中へと消えて行った。
「師匠!! いるんでしょう?」
不安と焦燥に駆られながら、僕はひたすら師匠を呼び続ける。
そうしないといけない気がしていた。
けれど返事はない。
本当はその姿を探し出して追いかけたいのに、この暗闇の中ではそれも許されない。
だから、僕には叫ぶことしかできない。
――本当にそうだろうか。
自分のしてきたことがまざまざと思い返される。
頭を振る。それからより一層大きな声で師匠を呼ぶ。
きっと近くに師匠はいるはずだ――だって僕は――。
「師匠!!」泣きそうになりながら叫ぶ。
どうかこの手が触れるように、祈りを込めて手を伸ばす。
「本当にバカだな」
熱を持った柔らかな手が僕の指を包んだ。
「加奈子さんっ」
縋るように伸ばした両手は、正体をつかめぬまま空を切る。
「そんなことをして、なんになるって言うんだ」
怒気を孕んだ、語気の強い言葉が向けられる。
「なんになるんでしょうね。けど、何もなかったことになんてできるわけないじゃないですか」
意図的に抑え込んでいた思い出が溢れてくる。
あの日のできごと、病院でベッドに横たわる師匠、それから――
パンッーー
手を合わせた時の清涼な音が空気を振るわせて、すぐに暗闇に消える。
「気持ちだけ受け取っとくよ。ありがとうな」
パンッーー
師匠が柏手を打つ。
不安が少しずつ消え、僕の心を清めてくれる音だった。
パンッーー
ゆったりと、一定のリズムで師匠が手を打ち鳴らす。
あれだけ暗かった世界が光に包まれて……
パンッーー
加奈子さんのなんとも言えない表情を見ながら、僕の意識は急速に浮上する。
大学1回生の夏。
ある日僕が師匠のボロアパートを訪れると、師匠がぶっ倒れていた。
「師匠!」と慌てて抱き起すと、師匠は目を覚ましたものの虚ろな表情をしていた。
「また変なもんでも食べたんじゃないでしょうね」
心配からそう尋ねると、
「逆さまだった」
師匠がポツリとつぶやいた。
「何がです?」
僕が問いかけると、幽霊でも見たような表情で、
「服も帽子も靴もホクロも傷の位置も、拍手だって……全部逆さまだったんだ」
震えながら、そう応えた。
逆さまに拍手だって?
僕は試しに手の甲同士を打ち鳴らしてみる。
ペチン、となんとも情けない音が鳴った。
「なかなか難しいですね」
「そりゃあそうだ。死んでからじゃないと、いい音はならないだろうさ」
喋っているうちに少し元気になってきたのか、師匠があぐらをかいて座りなおす。
「
死者には着物を左前に合わせたり、霊前でお箸を茶碗に刺したり、それこそ葬式では畳を並べ替えたりする。
生きている人とあえて逆さまにすることで、死者の穢れがこちらに来ないようにしているのさ」
「あれ……じゃあ僕がさっきやった拍手って……」
「縁起が悪いなんてもんじゃないな」
「うへぇ」
そういう大事なことはもっと早く言って欲しかった。
僕はげんなりして、
「じゃあ……その逆さまだったって人は、幽霊だったんですか?」
と聞いてみる。
「いや……夢の話だ」
――なんだ、夢の話か。
とたんに興味を失って、僕は会話を切り替える。
「ちゃんとしたもの食べないと、また病院送りになりますよ」
「喰ったよ。とっておきの肉を」
「そうですか? ならいいんですけど」
師匠がこの様子では、今日はオカルトスポットには連れて行ってもらえないだろう。
僕は大人しく帰ることにした。