『――さあ、はいしんのおじかんよ!』
たとえ戦火の最中でも、どれだけ劣勢であろうとも。
己の信念を決して曲げぬ彼女を――
美しいと感じたから。
だから──
▽
世の中には知らんほうがいいことが山ほどある。大人になっても精神が成熟するとは限らないし、推しもやがては恋人を見つけ引退するし、30過ぎると気力体力は下降の一途を辿る。もし将来そうなることが判っていたら、学生のころからもっと努力できただろうか?
お分かりの通り、その問いに対する答えはNOだ。たとえ先に悲惨で無意味な未来が待っているとしても、人間は楽な方に目を背けたがるものだ。判っていても努力しないのであれば、将来に怯えるより無知でいる方が幸福に違いない。
「ったく、人生ってのは面倒臭いねぇ」
少し手狭なワンルームで、ひとり缶ビールを煽る。アルコールが将来に対する漠然とした不安というやつを鈍らせてくれる。それ以外にビールを飲む理由なんか無いんだわ。酒臭い息を吐き出して、ふと時計に目をやる。そういや今日は珍しく、早めに帰れたんだった。慌ててぼろっちいノーパソを開き、動画配信サイトのショートカットアイコンをクリックした。
「……おし、今日は間に合った。ツイてんな」
男の一人暮らしが長くなると独り言が増える。すまんな。誰に謝っているのかもわからないまま、『Abby’§ channel』の配信画面を開いた。コメント欄には3文字を添えて、投稿ボタンにカーソルを合わせた。
遅々として進まぬ秒針を睨む。56……57……さあ、もうすぐだ。時計の針が8を指すのと同時、イヤホンから透き通るような声が流れ、心地よい周波数が俺の脳を優しく蕩した。
『わっがーなぐる・ふたぐん!』
▽コメント欄▽
・いあ!
・いあ!
・いあ!
・いあ!
・イヤーッ!
・グワーッ!
・忍殺 -SHINOBI EXECUTION-
・なにこれ
訓練されたコメント欄が一斉に『いあ!』で埋まる。彼女の言う『わっがーなぐる・ふたぐん』という挨拶に対する返事のようなものだ。
ニュアンスを理解すると色んなところで使えるので、たまに日常会話の中で口を滑らして同志を発見する、といった事例も報告されている。詳しくはマシュマロ配信を見てほしい。
『こんばんは、みなさん。きょうもはいしんのおじかんよ!』
パソコンの画面には、やや質素な子供部屋を背景に少女の姿が映っていた。クリーム色に近い金髪をセンター分けにし、紺とオレンジのリボンで飾り立て、頭には小さいシルクハットのような帽子を乗せている。
彼女こそ、このチャンネルを運営する『
『今日は前にお話しした通り、お歌を唄おうと思うの。みなさんから頂いたリクエストを聴いてみて、素敵だと思ったものを選ばせてもらったわ』
▽コメント欄▽
・おうた枠きちゃ! ガンにも効くし戦争は止まる!
・GODかな?
・言葉遣いに育ちの良さが滲み出てますね……
・見た目的に出身って海外よね? 日本語がお上手
・ペロッ! この独特な海風の塩味は……アメリカ西岸部生まれの味だぜッ!
・ブチャラティでもそこまで気持ち悪くなかったのに
混沌極まるコメント欄をよそに、じゃん! とアビーは1枚の紙を取り出した。どうやら歌う予定の曲をリストアップしてきたらしい。
『みなさんがおすすめしてくださった曲はどれも素敵で、私、選ぶのが申し訳なくて……けれどね、全部聴いて、ちゃんと全部歌えるようにしたのよ。今日歌えなくてもいつか歌うから、どうかお待ちいただけるかしら?』
「うん?」
アビーの声を聞き漏らすなどあり得ないので、俺の頭がおかしくなったに違いない。きっとそのはず、だが……今、全部聴いたって言ったか?
「……リクエストアホみたいな量あったろ?」
思わず間抜けな声が漏れる。
登録者が1人ひとつリクエストを送ったとして、10万件以上は届くことになる。重複を消したとしても、少女が扱うには膨大すぎる量だろう。いったい保護者は何を……って、このチャンネルは保護者いないんだった。本人曰く、『Abby’§ channel』は彼女ひとりきりで運営されている。そこにマネージャーなどの大人の介入は一切ない──らしい。
にしても。
信じられない気持ちの裏側で、俺はこうも考えている。
▽コメント欄▽
・ウソやろ
・全部聞いたは流石に無理がある
・ゲーム大全の神経衰弱RTA動画見たことないのか?
・ワイ、二つ前の配信のコメント引き合いに出されたことある
・????
・処理速度と記憶領域の化け物やぞ
・あ、これがAI説の所以かぁ!
・アダマシアでデッキ全部めくって順番覚えた女
・1か月で作れる伝説の量じゃないんだが??
途端に騒ぎ立てるコメント欄を見て、俺は全く同意だとくつくつ笑った。そりゃそうだ、視聴者が並べ立てる噂話のどれも人間業には思えない。思えないが、真実なのだ。
ギフテッド、というのだろうか。まだ12歳くらいだろうに、大人顔負けの頭脳と美貌を備えて、精神は純粋かつ無垢ときた。ここまでくるともはや嫉妬心も湧かない。なんつーか、出来の良い姪を見守る叔父のような気分だ。これでもし、同年代にアビーがいたら……俺はほんとにダメになってただろう。
世の中、知らないほうがマシなことはいくらでもある。どうやったって上には上がいる、とか。どれだけ努力してもどれだけ時間をかけても、追いつけない存在が世の中にはごまんといるのだ。
ならば――届かない頂上を目指すより、上位層は上位層と割り切った方が精神的に楽だ。全員が全員、夢を追い続けられる訳じゃない。絶対的な挫折を味わって、身の程を知って、それなりに生きるのが中層下層の幸福ってもんだろ。
『それじゃあ一曲目よ。リクエストがとっても多かった曲。きっとみんな好きなのね……』
アビーが曲のタイトルを読み上げた。知っている曲だ、少し前に流行った王道のアイドルソング。アップテンポな曲調と真似しやすいダンスで、世の若者たちの流行を席巻した。流行だとよ。追っかけるだけ無駄だってんだ。
酔ってんのかな。思考がまとまらん。
カラオケ音源特有の少し薄っぺらいベースが響く。アビーの幼なげな唇がふるりと震え、ソプラノボイスが流れ出す。
▽コメント欄▽
・えっ
・なんやこれ!?
・聖歌隊か何かに所属してらした?
・軽率に原曲を超えるな
・これほんとに私と同じ人類かよ
・喉にちっちゃい天使住まわせてんのかい!
羨望すら許されないほどの圧倒的才能。お前には絶対に追いつけないんだよと諭されている気がして、だから俺はアビーの配信が好きだ。
▽
『I saw Mommy kissing ■■■■■■■〜♪』
『in the ring of stones on Sentinel Hill〜♪』
なにか、酷く冒涜的なリズムの歌が聴こえる。無駄遣い極まりないような、それでいて歌詞と声がベストマッチしているような歌だ。体を起こすと、凝り固まった背中が引き攣り、思わずぐうと唸った。
「……あ゛ー、寝落ちた。今……11時か」
アビーの配信のことを思い出す。彼女はいつも配信を10時までと決めているから、今日もとっくに終わっているはずだ。そう思ってノートパソコンの画面に目をやって、「はぇ?」などとよくわからない声が漏れた。
『あら、お目覚めかしら?』
そこに映っていたのは、おそらくアビーだった。おそらく、というのは──彼女を彼女たらしめる要素の多くは失われていたからだ。
輝いていた髪はくすんだ白に、肌は血色悪く青白く、額には鍵穴のような穴が空いている。衣装はといえば、小さめのシルクハットは魔女が被るような帽子へとスケールアップしており、対照的に上半身はリボンを連ねたような紐でしか隠されていない。
「――は?」
『随分お寝坊さんね? かの魔王に見習っていただきたいくらいぐっすりだったもの!』
意地悪そうに歪むその口元には鋭い歯が光っている。鮮烈に背筋を駆けたのは恐怖か、それとも興奮か。ただの1視聴者に過ぎない俺とアビーのような何かは、今この瞬間、画面越しに会話が成立するらしい。なぜとかどうやってとか、そんなことを考える暇も無く、彼女は一方的に告げた。
『ふふ、惚けたお顔も面白いわ。けれど、アナタには呆けている時間なんてあげないの』
アビーのような『何か』。その額に空いている穴――それが本当は瞼だったのだと気づいた時にはもう遅かった。穴の中からこちらを覗く眼球と目があった瞬間、脳に洪水のような勢いで知識が流れ込む。激しい頭痛と眩暈が、目覚めたばかりの俺の意識を千切っては噛み潰した。
――夢幻の中核――■■・■■■■――割れそうなほど痛い――領域外――知識――呼んではいけない――虚数――吐きそうだ――暗澹たる玉座――『全にして一、一にして全』――
そして、見る。パッと視界が切り替わり、白濁したスクリーン越しに見せつけられる。地球上の全ての霊長、その誰も彼もが知性を失い、狂いきって呆けきった世界を。人類が理性を捨て、服を捨て、道具を捨て、倫理を捨て、獣のように振る舞う地獄の中で、1人微笑む彼女の姿を。
知らない。解らない。
でも──あのようにはなりたく無い。人をヒトたらしめるのは知性だ。だから知性を失ってしまっては、人はただの獣に零落してしまう。理性が、そのような有様に酷く怯えていた。
視界が自分の部屋に戻る。画面の『何か』がニタニタ笑う。
「アビー、お前は……なんなんだ? 今見えたのはなんだ?」
『うーん、教えてあげないのは少しアンフェアかしら……そうだ、こうしましょう』
突然、右手に焼け付くような痛みが走る。それは一瞬にして全身を巡り、新たな血管を無理やり拓いたような激痛に変貌した。思わず手首を握り、背を丸めて痛みに耐える。
「があっ……!?」
『アナタに見せたのは、この星が辿るべき未来よ。それ以上を知りたいと願うのならば――』
痛みが収まり、強く瞑っていた目を開く。右手の甲に、目とそれを取り囲む歪んだ星のような痣がうっすら浮かんでいた。
『その五芒星は私の登録者数や視聴回数、つまりは人気度が上がるにつれて色づいていくわ。真紅まで濃く染まったら、3つ質問に答えてあげる』
彼女は意地悪く微笑んだ。右手の痣がじんじんと熱を帯びて赤らむ。
ああ、クソ。知らなければどれほど良かったか。嘘と言うには、夢と呼ぶにはあまりにもリアリティがありすぎる。このままでは人類は否応なく滅ぶということを、理屈抜きに理性で理解してしまう。
『貴方はもう知らずにはいられないわ。でしょう? 中途半端に滅亡を知って、何もしないでいられるほど貴方の心は強くない。
――私の配信を手伝ってくれるわね、
こんなものは不可抗力だ。ギロチンがいつ落ちるかわからないまま処刑台に立つ罪人のようなものだ。知ってしまった以上、俺の精神に安寧はやって来ない。いつ、どこで、どうやってあの地獄ができるのかも分からないまま、怯えて暮らすのは絶対に嫌だ。
ああ、でも、やっぱり。
未来なんて碌なもんじゃない。
とりあえず20くらいお気に入りついたら続き書く
つかなかったら供養