『知性を集積せよ』
『情報を収集せよ』
『得られし知識に価値なかりせば、私はお前との繋がりを切る』
『されば存在を維持する事能わず、魂は虚空にて朽ちる』
『ゆめ忘れるなかれ』
『お前の役目は端末であり、端子である』
『それ以上もそれ以下も私は求めない』
▽
目が覚めると世界はいつも通りである。太陽は登るし、街は雑踏で満ちる。今日の人類予報はハレ、皆様は知的生物として存分に活動するでしょう。そんなごく普通の安寧が、実は薄氷の上に成り立っているのだと知ってしまった男が一人。
そう、俺である。
「夢じゃねえのかよ……」
嫌な汗でじっとり湿った頭を掻きむしり、そう呟いた。
普段夢オチやメタ視点オチを蛇蝎の如く嫌う俺であるが、今朝ばかりは大歓迎だ。まずハグして歓迎の意を示し、「よく来たね夢オチ」「いえいえ、今こそ私の力が必要でしょう」と笑顔で語らい、それからとびきり熱いコーヒーを淹れてやる。そしたらカフェインが徐々に効いてきて、俺は悪い夢から醒める。それがあるべき流れのはずだ。
しかし――悲しいかな、そんな俺を悪夢に繋ぎ止めるアンカーの如く、俺の右手の甲には僅かに赤らんだ五芒星が焼き付いてじんじんと熱を帯びている。
それを見つめているうちに、だんだんと記憶が蘇ってきた。
どうやらあの後、俺は気を失ったらしい。さもありなん、だ。この先地球が辿るらしい地獄絵図を4Kもかくやの高解像度で見せつけられ、酩酊した脳にとんでもない負荷がかかったに違いない。その後の右手への刻印もかなり肉体・精神ともにくるものがあった。
「そうだ、アビーは?」
みれば、パソコンの画面は真っ暗だ。電源ボタンを押し込もうとして、充電していたスマホが受信音と共に震えた。常にマナーモードにしていたはずだが……?
画面にポップアップしたバナーに目を通す。
「えーと、送信者:Abby。『昨晩はごめんなさい――
▽
昨晩はごめんなさい!
すこし昂って、はしたない姿を見せてしまったわ……。
頭痛とかしていないかしら?
もし痛むようならすぐに連絡してほしいの。頭の中を整理すれば、きっと良くなるわ。
▽
「……驚かねえぞ。たとえ教えたはずがない俺のメアドを把握されていようが、俺はもう驚かねえ。あとなんだよ頭の中を整理するって何をする気だ、物理なのか触手か洗脳か? いーや聞きたくない、何も言うな――」
ぽこん、と通知音。画面上部のバナーに一言。
『物理よ?』
俺は天を仰いだ。
「もうそろ35になるおっさんの独身生活ワンルームをリアタイしてんじゃねえよ!」
『ごめんなさい! でもそろそろお仕事の準備をしないと、間に合わなくなってしまうんじゃないかしら!』
即返信が返ってくる。なんて露骨な話の逸らし方――と、言われて初めて、俺は時計に目を向けた。そうしてざあっと血の気が引くような感覚を覚えた。
「助かるけど、もうちょい早く言ってくれ……!」
慌ててスーツに着替え、パンをコーヒーで流し込みながら思う。というより、もう思考を止められない。自然と、考えが昨晩の出来事に向いてしまう。
まず
そんな大それたことができるのに、どうして何もできない俺にそれを見せた?
それは俺じゃなきゃいけないのか?
不明点ばかりだ。そして、俺1人で答えが出せるようにも思えない。頼みの綱であるアビーへの3回質問権、もし溜まったとしてどのように使うのが正解なのだろう。
アビーの正体? それとも目的?
はたまた……あの地獄を止める方法?
「……って、俺が今知るべきなのは電車の時間だ!」
慌てて家を飛び出す。
でも結局、その日は一日中何を質問すべきかが気になって、全く仕事が手につかなかった。
「だぁぁ、疲れた……」
朝コケるとその日は大抵まるごとコケるもので。結局遅刻はするし上司との会話は噛み合わんし資料には不備があるしと、散々な1日だった。
ようやっと業務を終え、這う這うの体で会社から逃げるように帰る。むさいワンルームはしかし、俺にとっての聖域だ。冷蔵庫のビール、俺のケツの形にくたびれたクッション、全てが俺を許容してくれる。熱いシャワーを浴びてサッパリすれば、気分もいくらか上向くだろうさ。
鞄から家の鍵を取り出し、差し込んで回す。やけに冷たいドアノブを捻って扉を開けた。
玄関入ってすぐのキッチンの前に、なぜかエプロン姿のアビーが立っていた。
――曰く、『戸口に潜むもの』――
「あ、おかえりなさいおじさま!」
「?????????」
「ご飯かしら、お風呂かしら。それとも……は・く・ち?」
俺の聖域どこ……? ここ……?
▽
何故か――どこを触られたのか考えたくもないが――綺麗に片付いた部屋。中央に置かれた小さなテーブルの上には、タコぶつタコわさタコ焼きタコ揚げタコキムチなど、これでもかとばかりにタコ料理が並んでいる。
「……これは?」
俺はタコの煮物を運んできたアビーに尋ねた。
「獲れたて産地直送よ?」
「そうじゃねえ」
「SAN値直葬よ?」
「なぜ言い直した……?」
お、おい。今この刺身動かなかったか? 新鮮だからか? これ本当にタコだろうな?
「食べればわかるわ。ね、おじさま」
「おじさま、なぁ」
まだおじさん枠のつもりは無かったんだが……そんなにくたびれてるように見えるのか? 見えるんだろうな。自覚はあるんだ、改善する気力が無いだけで。
テーブルの向かいに腰を下ろしたアビーは、いつのまにか予備の箸を持ってきていた。手を合わせて「いただきます」と呟く。キリスト教徒だと思っていたが、郷に入っては郷に従うタイプなのだろうか。
「なあ、アビー。昨日と随分性格が違うじゃないか。それにその額の鍵穴はなんだ?」
「ああ、そうね。それも説明しなきゃ」
タコ(?)をもきゅもきゅ頬張ったアビーは、一息にそれを飲み込んで口を開いた。ギザギザなどしていない、至って普通の歯が見えた。
「人格は1つ。けれど姿と性格は3つあるの」
「……多重人格って訳じゃない、と言いたいのか?」
「ええ、根底は同じですもの。いつも配信している鍵穴の無いアビーは……そうね、言ってしまえば末っ子気質。1番子供っぽいわ」
「昨日のは?」
「青白い肌の私は長女かしら。ちょっと
「……で、今のアビーは次女か」
「そう! 世話焼きが好きで甘えん坊で隣人を愛するアビーよ」
「自己評価たっけえ」
くすくす、と。楽しげな笑みに毒気を抜かれる。ほぼ知らない相手が住居に侵入している明らかな異常事態であるはずなのに、すでに順応している自分がいることに気づく。
俺はたこ焼きを頬張った。訳わからんくらい美味い。特にこの、タコ? 噛むほど海の幸を煮詰めたような出汁が出て口内に津波を起こす。質量保存則を無視してるだろ、これ。
しかし――分かっちゃいたが、アビーはマジでなんでも出来る。頭良く見た目良く、その上性格も良いと来た。
だから――分からないのは、そんな多才で明らか人間じゃない少女が、どうして俺なんかに目をつけたのかってことだ。
若干の名残惜しさを覚えながらたこ焼きを飲み込み、アビーに問うた。
「なあ……なぜ俺なんだ? 俺の記憶が正しけりゃ、アビーは俺をマネージャーだと言ったな」
「そうね」
「俺以外に適任はいくらでも居るはずだ。動画編集もできないし、流行りだって周回遅れのおっさんに何を期待してる?」
アビーは少し考えるような素振りを見せて、それから言いにくそうにもごもご喋った。
「それは――えーと――交代!」
ぽふん、と気の抜けた音と共に、アビーの姿が煙に紛れる。それが晴れると、昨日ぶりに見た青白い肌のアビーのニヤついた笑顔がこちらを向いていた。不安になるくらい防御力の低いリボンの隙間から、青くなまっ白い肌が覗いている。
「――貴方の体目当てよ」
「言い方ァ!」
「正確にいうと、私と貴方の体の相性が良かったからよ」
「言い方ァ!」
もう一度、気の抜けた爆発音。元の姿に戻ったアビーは、わたわた両手を動かした。
「べ、別におじさまがダメって話では無いのよ。でも……その、おじさまの素質というか、属性が魅力的だったの……。やっぱり怒るかしら?」
「……いや。ちょっと楽になった。俺はただの一般人だからな、ここぞという時の勇気とか機転とか期待されても困る」
むしろ、肩の荷が降りたような気分だった。このままだと人類が滅亡するらしいというのは俺しか知らないだろうが、知ったところで現状止める手立ても無いのだ。俺は正義の味方にはなれない。
ただ――俺じゃなくても、もしかしたら他の誰かはどうにか出来るかもしれない。だから、他でもない俺が知る必要がある。取り敢えず、己の目的をそう定義した。
静まった空気の中、アビーが申し訳なさそうに口を開いた。
「……ごめんなさい。せめてもの労働の対価として私が用意出来るのが、その
「金? 賃金が発生するのか?」
「もちろんよ。あと労働環境も改善するわ」
アビーは俺のぼろっちいノーパソを手に取り、可愛らしい掛け声と共にいつのまにか手に持っていた小さな鍵を突き刺した。
「えい!」
「ちょっ、何を――」
「これくらいなら、私にも干渉できるわ……よし」
そうして鍵を捻ると、ベキベキっと嫌な音を立て、ノーパソが風船のように拡大と収縮を繰り返す。そしてその反復の果てに、極薄の板が生成された。中央には俺の手の甲と同じ五芒星のマークが刻印されている。
「これは」
「20年後のノートパソコンの可能性の一つね。おじさまにも扱いやすいように、現行のと形状が大差ないものを選んでみたの」
「……触っても?」
「ええ」
恐る恐る触ってみる。鉱石のようなひんやりした感触、そっと指をかけて開くと画面が明るくなった。キーボードは薄くもタイピング感がしっかりしていて、みたことのないキーもちらほら存在する。
「より感覚的に扱えるようになっているわ。搭載OSは”
「いらねー機能ばっかりじゃねぇか」
「あと私のチャンネルへ1発で飛べるキーもついてるわ」
「いらんのよ」
「もう! おじさまったら意地悪ね!」
俺は鍵穴のマークがついたキーを睨んだ。20年後にこんなパソコンが発売されたら世も末である。いやそもそも人類に20年後は存在するのだろうか。
「それがあれば動画編集も簡単よ」
「ああ……そりゃ良いが、アビーなら自分でやったほうが早くないか?」
「私にもできないことくらいあるわ」
「嘘だろ」
「あるのよ。あるの」
アビーは笑った。その笑顔が、地獄で佇む彼女のそれと重なる。何故か俺は、それが酷く弱々しいものに見えた。
「出来ないことは他人にやってもらうのが1番、でしょう?」
「……違いない」
たこわさがつーんと鼻に沁みる。最強無敵の人外美少女たるアビーが何を考えているかはわからないが……初めて、共感を覚えた気がした。
「ところでおじさま、お給料はいくら欲しい? やっぱりにんげんはお札でビンタされたいのかしら? 配信のおかげでお金は余るほどあるのよ」
「俺の共感を返せよ」