「ゲンドウ、ロックやって」
美少女が、その高校生男子へと、告げた。
否、命じたのだ。
男子高生、六分儀ゲンドウはそう直感した。その一言がさながら、姉が弟へとお使いを言いつけるかのように優しく、だが絶対のものであるというのを、彼は敏感に感じ取っていた。それは従わなければ容赦なく無慈悲にして不条理な制裁が下される、そういう類のものであるともわかっていた。
しかしながら、彼は拒絶した。
「無理だ、山田。ロック──音楽なんて私にできるわけがない。だいいちロック……ギターか? それともドラムか、ましてや、ベースなんて。……やったこともない」
六分儀はその彫りの深い……険しいと言ったほうがいいだろう顔つきを、ことさら神経質そうにさせた。みるからに厭そうだった。
高校生らしからぬ苦悩の宿った、たとえば求道者のような顔(人によっては“生意気そう”と表現するかもしれない顔)へと、困惑あるいは忌避の表情をうかべてみせた。
彼の目の前の、六分儀の教室へとわざわざ放課後にすぐやってきて、開口一番にこう口を開いた美少女──山田リョウ……六分儀の腐れ縁でもある彼女を、六分儀は机に座ったまま白眼視してにらみつけてみせた。山田は六分儀の目の前に歩いてやってきて、そのまま見下ろしてきてさっきの一言を言ったから、六分儀はこれを迎え撃つようにして見上げる風になった。
教室の女子や男子たちが、ざわめいてこの二人に注目していた。──六分儀……あのガリベン、あんな美人な
……、こういった邪な会話とともに送られてくる有象無象のその目線を感じ取りながら、あえてそれらすべてを無視しながら、六分儀は眼前の少女のことだけを相手にするようにして、ただ沈黙してこの話が終わりであるように仕向けようとした。
だがどうしたことか、いつもならばこの程度で済むはずの山田が、この時ばかりはしつこかった。
「ピアノできるでしょ。私の家にシンセあるから」
「おまえはキーボードが付いてさえいれば、すべからくピアノだというのか。」
六分儀は老成しきった、バリトンどころかバスでも歌っていそうな低い声で、そういった。
あくまでもピアノはピアノであって、それ以上それ以下それ以外の何でもない。キーボード、つまり鍵盤が付いていれば即座にピアノとして認めるあたり、山田というこの少女の大雑把さが出ていた。変なところはオタクにありがちな細かさだというのに、自分に興味がなければすぐこれだ──六分儀、六分儀ゲンドウはため息せざるを得なかった。
鍵盤があるのならばすなわちピアノであると、そういうのならば、だったら鍵盤ハーモニカ、はたまたパイルオルガンだってピアノになってしまう。シンセサイザーにいたっては、まるでタコをイカだと言っているようなものだ。似ていることは似ているが、決定的に違うのだ。
「山田。そもそもなぜ私の高校に来た? まだ中学生だろう、お前は。こんなに早く来るなんて学校はどうしたんだ──まさか、うちの学校にも許可も得ずに入ったわけでは「なんでもいい。やってくれるの、やってくれないの」……いいわけがないだろう。おま「私の質問に答えて。はやく」……やらないと、ムリだと、先ほども言ったはずだが。」
とたん、山田が目に涙を溜め始めた。あからさまに演技じみていて、六分儀は彼の心がもはや冷え冷えとさえしてきたのを感じた。問題ない。そう言わんばかりに彼は顔をうつ向かせて、その黒縁のメガネの鼻を手で押して掛けなおす、そんなそぶりをした。背筋に冷や汗をかいているのを誤魔化すためでもなければ、山田からの──自分よりも年下の幼馴染の女子の、それっぽちの視線にさえ、自分の目を合わせるのが耐え切れなくなったわけでもない。断じてちがう。
彼は再三再四、内心で誰に向かってでもなく否定した。
「どうして?」──山田が訴えるように問うた。
どうしてもこうしてもない、いきなり事情も話さず教室へと、放課後すぐに押しかけてきて、口を開くや否やロックをやれと命令じみて言ってくるなんて。断られて当然だろう。六分儀はそんなことを言おうとしたが、彼が口をひらいて息を吸ったそのタイミングで、山田はその目の片方からポロリと涙をながした。
──あっ、泣かした!
それを今まで六分儀が一度も話したことのない、六分儀と同じクラスの女子がそれをしっかりと、めざとく見ていた。この女子が六分儀の席をから五列は離れている、そんな場所から怒りながらズカズカ大股でやってくるのが分かった。
六分儀は腹をくくった。
彼は座っていた席から、立ち上がった。そのおせっかいなクラスの女子──今まで関わらないようにしながら、それでも聞き耳はちゃんとそばだてていたにちがいない、そんな六分儀がいちばん忌み嫌うタイプの女が来る寸前にだった。
六分儀は、彼のその手を(やや震わせてだが)一見すればするりと山田のその頬へとやって、彼女の流れた涙のあとを彼の無骨な指のさきで、こっそりと撫でるようにぬぐった。
「泣くな。話を聞く。」
足音うるさく接近していたはずの、その女子の怒れる波動が、今や完全に消え失せていた。教室全体さえ、異様な戸惑ったような雰囲気に覆われてしまっていた。
六分儀はもはや躊躇いなど、この自暴自棄の心境に至っては、彼自身さえ素知らぬどこぞへと投げ捨ててしまっていた。彼は自分の指先に感じ取れた、山田の、十五にもならないその齢通りの赤子じみた柔肌を、このさい遠慮なしに思い知ってしまおうとさえ、割り切ってしまった。
山田のつり目じみているその
「……。ゲンドウ、なにニヤついてんの」
もういつもの無表情を取り戻した山田が、やや顔をしかめてムッスリとさえして、日ごろのあの淡々とした声色で言った。それに気づかされたように、近くまで来ていた、例のクラスの女子が再起動した。彼女はまたもズカズカと、六分儀と山田のあいだに割って入ろうとした。
「てめえ、触ってんじゃねーよ、キショいんだよ」
彼女はそういって、六分儀が山田にのばしていた片腕をはじこうとした。
「邪魔をするな。」六分儀は断じた。
その女子のことをにらみつけるでもなく、さめざめと見据えて、そう言ったのだった。
同時に彼は、山田の耳元にのばしていた彼の手を、その肩へと素早くうつして、その華奢で肉がほっそりとついた関節をがっしりと掴んで、おもむろに山田の体を自分の方へと引き寄せた。そうして山田が身じろぎしたとき、彼女の肩甲骨の、蝶のようでさえある骨格が、六分儀の手の中でも血肉とともに動くのが、最早くすぐったくて面白いほどに感じて取れた。
そのまま片手間ながら、山田のほほを
六分儀がそうしている間にも、その山田に伸びる手をもう一度はじこうとしたあの女子を、六分儀はけだるげに手で追いやって退けた。そうしていながら、彼は山田ばかりを見やっていた。
そうして順に毛先まで、彼女のミディアムボブを弄び、あるいは山田らしいおしゃれなのだろう、前髪を斜めにカットしたうちで
「山田。ここにいていい。すぐに荷物をまとめる──だからそれまで、待っているように。訳を聞かせてくれ」
割高といえるであろう、そんな喫茶店を好む理由としては第一に同年代の学生たちがあまりいないというのがあげられる。六分儀にしてみればサイゼなんぞで勉強と建前づけて、延々とだべっている輩の、その近くにいなければならないというだけで嫌で仕方ないのはもちろんだった。
だがそれ以前に、ファミレスで三百円ほどしか払わないで、それで何時間も居座ることというのは全く六分儀には耐えがたきことなのである。できても、だんだんと周りの空気が彼にとって酸か何かのようにピリピリしてくるのだ。それがたとえ彼自身の思い込みであっても、それからまた同じ店に来た時には、入店して人数を一人ですと告げて店員に席に案内されるまでで、もう店の人たちに目をつけられてる気がしていたたまれなくなり、三度目に来ることさえできなくなる。
あとついでに、夜暗くなってからのサイゼの治安の悪さも、六分儀の喫茶店通いに拍車をかけている。サイゼに午後七時ぐらいからたむろする、そんな金欠なヤンキー、半グレども──社会の使い捨て歯車予備軍か、あるいは、社会脱落者でしかない老いたのちには老害になって、しまいにはその頃のぐれた若者から虐げられる立場になってそうな連中(と、六分儀が勝手に怨嗟を渦巻かせているようなやつら)──のせいである。サイゼは悪くない。
それにサイゼが好きではないのは、山田とて同じことだろう。と、六分儀はなかば勝手に決めつける。どうしてか、六分儀の中では山田がサイゼに行くというイメージがわかないのだ。それとも夢を見すぎているだけか。だが、この女は五百円で鶏のディアボラ風ステーキだの三百円のミラノドリアだのを食べるというのなら、その代わりにコンビニかそこらで草を食べるための調味料を百円で買って、チミチミ草を食うのに使い続けてそうだ、というのが六分儀の見解であった。
六分儀と山田はいわゆる腐れ縁だった。彼が、彼女の病院で世話になった時からの仲である。高校生となってからは一人暮らしをしている天涯孤独の六分儀、その家に山田がやってきては、飯をたかるだの、勉強を見てもらうだのといった間柄だった。しかし今となってはそれも、懐かしい話になりつつある。
もちろん年頃の一人暮らしの男子のもとに、年頃の女子が一人で(ときには山田の友人もつれて、二人で)くるというのは、六分儀にしても世間体が悪かったというのがある。そうして彼の心臓にも悪かった。
くわえて近頃は、山田さえもますます花の盛りとなってきた。こういった具合だから、六分儀は山田と二人で会う時でさえ、いまではわざわざ近所のコメダ珈琲店に行く羽目になっていた。奨学金を得ている六分儀であったが、それでもこれは出費としてイタイものがある。だが、それでも自身のプライバシーの尊厳は守りたかった。
「ゲンドウ、またコーヒーに塩たくさん入れてる。高血圧になるよ」
「……。私の勝手だ。」
六分儀は机に備え付けの塩の、その小瓶の蓋をねじ開けて、そうして中身の塩をどっさりと、コメダブレンドのたっぷりサイズへと入れてしまったのだった。彼はそうしてしょっぱくなった、そうして同時に塩の効果で苦くなくなった、そんなコーヒーが美味しいと感じるのだ。いや、旨味さえ、こんな塩水で入れたようなコーヒーに感じているのだった。
ゲンドウはこうすることで満腹感を得て、ほかに料理を注文しないようにしているのだ。私だって今日ぐらい、頼みを──無理を承知で頼むのだから、お金ぐらいならもってきたのに。リョウは自分のためにその金を使うことにした。彼女はカツパンを頼むことにした。
彼女がゲンドウにつれられて、彼の高校から出てこの比較的大きなコメダ喫茶店へとやってきたのが、ついさっきのことになる。いままで何度か来たことのある店だった。リョウは勝手知ったる様子で、店の席のうちでも四人掛けの席で、壁際であり角っこともいえるそんな位置にある席を選んだ。その横は通路になっているから、誰かが座ってくることもない。座り心地の良い、柔らかくて腰が深々とうずまるソファに落ち着いて、それからUSBの充電口から自分のケーブルを出してスマホにつないで充電し、そのあとにゲンドウと一緒にまずはドリンクだけを注文した。
ゲンドウはコメダブレンドをブラックで、リョウは和紅茶をポットで頼んで、そうしてからふたりのあいだにへと沈黙を横たえてみせた。
ジュリアス・カッチェンか、だれかが演奏しているブラームスのバラードが意気揚々と流れてゆく店内の中で、ようやくやってきた春──ゲンドウは高校三年生を終えることとなる、そうしてリョウは中学二年生を終えることになる、そんな始まりの春だった──それのぬくもりの余波が、
……それをうざったらしく思えるのが果たして幸せのあかしなのか、などとクサいことを考えていたけれど、案外じぶんの前の少年は私と同じことを考えているのかもしれないなどとも思えるのだった。
そんな、お互いに一人きりの世界に没入する、二人ぼっちで共犯者のようになりながら入り浸っている、このコーヒーと紅茶の運ばれてくる時間が、じつは一番に心地の良い、わずかなひと時だった。
そうしてコーヒーと紅茶が運ばれてきた今となってみれば、ゲンドウがその塩を入れてしまってしょっぱくした、飲みにくそうなそのたっぷりサイズの一杯を飲み終わるまでに、リョウは自分のわがままを押し付けなくてはならない。ゲンドウはただ、待っていた。ちびちびと塩味のコーヒーの渋みを、あるいは旨味を味わって見せていた。
「ゲンドウ、母さんが言ってたよ、あの子の食生活、ムチャクチャに違いないって。そうだって、言ってもいい?」
「なぜだ。」
「その塩コーヒーも、やめろって言われてたやつ」
「……。今日でやめておこう。それでいいはずだ。」
「そういうことじゃない」
ゲンドウはまた一口、ゴクリとコーヒーをおもむろに飲み込んだ。そうして打ち切るように告げた。
「山田。私のことは私で、お前のことはお前がつかさどるべきだ。我々は別人だからだ。」
「なにそれ。口出しするなっていうの」
「もう私は、お前のご母堂の面倒になる気はない。」
「だからこの喫茶店で会ってるのも、母さんに伝えてなかったの? このごろ、
そのまま会うことさえ、しないようにしはじめた。
どうして、私を悪者みたいにするの。それに── ……
リョウの喉もとに、いきなりたくさんのもの──イガイガしてどろりとした、エグいなにかが押し寄せて、いつもは気分屋で無口な彼女だから、こんなたくさんには上手く話してみせることができなくなって、リョウはどうしようもなくなって、黙りこくってしまった。
ゲンドウは話す。
「お前を此処に連れてくるようにしたのは、私の独断だ。たしかに、それくらいならお前のご母堂に伝えなくていいとした。それもまた、私の判断だ。その結果の金銭の問題については、私の問題だ。それともなにか、お前に問題があるというのか。」
「……なんで」やっとのことで、リョウはこの一言をひねり出したのだった。
「どうして。どうして、昔みたいに家に入れてくれないの。なにか、かくしているのかな、それとも、私を、私を、」──悪者だと、おもってるの? 邪魔なの?
「山田。そもそも、なんの用で呼び出したのだ。いま話している
こういいながら、六分儀はいま山田が話そうとしているのは、彼の問題──彼がこうして喫茶店まで出張って聞き出すべき本題ではないと、判断していた。
彼のこれまでの選択がどう山田に受け取られていたとしても、いずれにせよ、自分は責任をはたしており、落ち度はない。だから六分儀のこれまでの山田に対する接し方については、山田のなかでの
そうして六分儀は彼の処理するべき、いまの最も優先して取り組むべき現実が、山田からの
「違う、けど」山田が言った。
「先ずは私を呼び出したその案件を片付ける。お前の話はそれからだ。」
「──ずるい。ゲンドウはそう言うとき、いっつもあとから私を言い負かす。いまだって、あとで私をどう言い負かすか、考えてる」
だから今こそ、今しかない。そうなんだ。ゲンドウは逃げるから──立ち向かうために逃げるんじゃなくて、自分を私から見失わせるために、見失わせてから私を奇襲するために、逃げるから。だから「あとで」じゃ私は勝てない。いまじゃないと、嫌だ。
「……ロックをやれと言っていたな。どういう成り行きだ。」
「ゲンドウ。私は、母さんも、父さんも、ゲンドウを家族なんてみていない」
「山田、私の話を──「
家族ではないといったそばからこれだ。何のつもりなのだ。久々に顔を合わせたというのに、やはり、そういう理由があって会いに来たのか。六分儀はそう苛立ってみせた。(あくまでも冷静に、ポレミックとして、そうしてみせているのだった。)
「私はゲンドウを友達なんて思ってない。血は繋がってないけど、一緒に、おんなじお母さんに育てられて、面倒みられて、いっしょに面倒を見合って大きくなった。兄妹みたいに。仲間でしょ、私たち」
いま彼女は六分儀のことを仲間として、認めているといった──仲間、
六分儀──目がさながら、皮膚よりも内側のしゃれこうべ、それの眼窩までも透けて見えてしまいそうなほどに落ちくぼんだ、そんな金壺眼の少年である。
かれは、彼がかつて赤ん坊──捨て子としてほうり出された病院、その医者の家庭の、その一人娘の、彼女からのこうした話を、今や身じろぎ一つさえしなくなり、ただただ静かに聞き及んでいた。嘆息さえ、していない。おとなしいのだ、人形のように。
「仲間だから、だから気安く、ロックの助太刀*2をしろ、とでも言うのか?」
だが内心では、六分儀はこうして山田が呼び出してきた理由、そうして、それを断る口実を考えてさえいた。「ロック」なんてくれば、考えられるのはもう、どうせバンド*3ぐらいなものだ。そのことなのだろう。
こんな話をしなければならないのは──それも今から放課後、学校からとっとと足抜けできるというときに、呼び出され──延々と言ってきかされているのは、やはりそのせいに他ならないだろう。だが、いったい何だっていうのだろうか。
六分儀は山田の、その謎めいた振る舞いに訝しんでいた。彼の考慮し、選択したうえでの発言の何が悪かったのか、わからない。六分儀はこの会話において、下手をうった覚えはなく、ふざけたりした覚えさえなかった。いつも通りに話していた。なのに何故、彼はいまこうなっているのだろうか。
ともかく──と、六分儀は口火を切った。
「──私は断じてロックには興味はない。それどころか私は大嫌いだ。」
「嘘。 ゲンドウは昔から音楽が好きだった。ピアノだって別荘でよく聞かせてくれた」
「あれはただの趣味だった。」
六分儀の答えに、今度は山田がむっつりと黙りこくる。納得がいっていないようだった。そういえば、と思い出すように言った。
「私、
「なんだと? ──わずかだけだ。」
ゲンドウが、動揺した?──
────リョウは自分でも訝しむようにしながら、このゲンドウの楽譜についての話がなにか、彼女にとって意外な突破口になる予感──少女ながらにして彼女もまた有し始めた、そんな女のカンを得た。
────六分儀はおもわず苦虫を噛み潰したような顔になりそうになったのを、すんでのところでどうにか抑えていた。だがすぐさま顔色を青くした。
リョウは無表情ながら憂鬱そうだった……というよりかは気まずそうでさえあった、今までとはうってかわって、嬉しそうに……というか、微笑ましくて仕方ないと言わんばかりになって、パッと明るくはにかんでみせた。
……すぐに気が付いて、どうにか笑みを抑え込もうとしたけれども──歳不相応なかわいらしささえある、そんな笑顔だった。
六分儀の何についても小うるさい細かい性分が、山田のこの笑顔をもまたしっかりととらえてみせていた。
何を笑ってるというのか。それは、まだ六分儀が山田の家に、兄といつわりの身分で居候していた時期によくみたものだった。そんな
「兄さんの書いたラップ、うまかったよ。母さんに見せたら、聞きたいって。今度いっしょに別荘いって、ピアノでひいてほしいな」
そうしてリョウは、自分のカバンから話題のソレを取り出そうとする素振りをし始めた。
「ラップ」? 六分儀には、過去三年間そんなものに覚えなどない。
いや、しかし、しかし、それ以前に書いた覚えならば、ある。
そうだ、あれは中学の課題の五線譜が余ったからだった。つい、やってしまったのは、認めよう。だが……。あれを放置するはずもない。たしかに捨てるのは惜しいと、その時は思ってしまって、捨てなかったはずでもあるがしかし……。
まさか。しかし、そんな、そんなはずがあってはならない。
その時、リョウが取り出したクリアファイルに、その中に、あってはならないその一枚の楽譜、六分儀の直筆にたがわないそんな、その一枚が、中学生の彼が深夜テンションそのままに書き散らしたそれが、確かにあった。
「リョウ……、何故だ。」
六分儀は慟哭した。あくまでも静かに、陰気に。
「ゲンドウ、陰キャだったんだね。学校に友達いたってあの頃は言ってたけど、本当かいま、聞いていい? 今のゲンドウでもいいよ、友達、いる? それか答えるかわりに、ロック、やる?」
答えてくれるまで、わたし、ゲンドウのこのラップ読んでるから。──そう言ってから、リョウは本当に、小声でだったけれども、その楽譜どおりに歌い出した。ゲンドウの慟哭が、通奏低音のようにそれに追従していた。……
『俺だけ不幸 おれだけ非行 俺だけ非交流時代 セクスタントマン
どれかを! 吐き出してやりたい俺の心情。
誰かに‼ 吐き捨ててみせたい俺の心臓。
毒々して憂鬱、いやな輪廻。
ドクドクと脈打つ、左の胸。
ああそう! 巡りめくアイツとの日常。
愛情! まいります相次ぐああ無情。
今じゃもー! 喘ぎアゴ出すハア疲労。
ではじゃあ縁切れさエンターエンダー。
幸せすぎるのは悪い悪寒。
幸せなのはキモイ感じさえする、俺は生まれながらの不幸世代。
だけど俺だけ不幸な不幸世代。
非行したいけど周りみんなマトモ。俺だけがミジメ。
シアワセ美味しくかみしめてる皆さんのさ中。
俺が不幸だから、みんなは幸せなんだろな。
みんな不幸になればいいのさなんて、有り得ないトクしない話はよして。
俺が復興すればいいのさなんて、らしくない俺じゃない話はおいやって。
俺だけでも幸せにならなきゃな。
だから俺だけ非行時代。
「分かった!」ゲンドウが啼かんばかりに呻いた。
いつの間にか、いや歌いながらに違いない、じわじわ六分儀のほうへと近づき、ついには同じ席に、肩が接するほどに近づいて腰を下ろしていたリョウがいた。
ゲンドウの降参を聞き、彼女はここぞとばかりに肩ごと全身をゲンドウへと押し付けてきた。まるで猫のようにグリグリと頭を、擦り付けてくる。そのたびに甘く芳しい香りのする髪が擦れ、ゲンドウを座席のさらに奥へと引っ込ませた。
ついにゲンドウがたこせんべいのように、リョウと壁のあいだに挟み込まれるほどになった、その時だった。
「で、この歌……題はどうするの、ゲンドウ。ペンネームは、セクスタントマンでいいと、私はおもうよ。セクスタント*4とスタントマン。わたし、好きだよ、ゲンドウ。そのセンス」
山田は顔を、相も変わらず、六分儀の肩に埋めるようにうつむかせていた。六分儀はいつの間にかリョウがその胸の内側に抱きしめていた、そんな彼の片腕さえも、もはや取り戻すのも諦めた。
そうして空いているほうの手でメガネを直した。そうして言った。
「そうか。」