一同の棘を孕んだ空気は、そのまま鳴海探偵事務所まで持ち込まれていた。
照井と未来は互いに一言も言葉を交わさず、隣に立とうとすらしない。二人の間を隔てている胃が痛くなるほどに張り詰めた緊張感は、翔太郎やフィリップの口まで重くさせていた。
新たなドーパント、しかも先日見たラストとは別にかなり手強い個体が現れたことや、その正体が健太の父親の山波であること、そしてその目的が息子であることなど、精神的にずしりと来る事実が今日だけで数多く判明した。その上、未来と照井の仲が一気に険悪になったのである。まだ元気を辛うじて保っていられるのは、子どもである健太ぐらいのものだった。
機械用のオイルと金属臭が漂うガレージに時折彼の笑い声と、相手をしてやっている亜樹子や堀内の声が響いてくる。時刻はそろそろ夕方五時を回ろうとしていたが、健太はドーパントの再来襲に備えて鳴海探偵事務所で預かることにしたのだ。
「ずっとこのまま黙ってても、何の解決にもなんねえ。これからどうするかを決めねえとな」
ガレージでコンクリートの冷たい壁にもたれていた翔太郎が、力を抜いていた背筋を伸ばす。
彼は未来と照井の様子がおかしいことに今まで口をつぐんでいたが、いつまでも黙っているのは性に合わなかった。
「賛成。全く以て、建設的じゃないしね」
リボルギャリーの内部に降りる階段付近に佇んでいた未来も、翔太郎の意見に同意を示して見せる。彼女はついさっき、戦える者だけで今後を話し合うために秘密の場所に初めて案内されていた。最初の数分程度は物珍しそうに周囲を見回していたが、これが初めて発した一言である。
徐々に発言できる空気を取り戻している場に従って、壁際の作業デスクに座っていたフィリップも立ち上がった。
「あのドーパントは、怒りという言葉を何度か口走っていた。恐らく『ラース』メモリを使用して変身したんだろう」
天才少年はいつものようにマーカーを手にしてホワイトボードまで歩み寄ると、癖のある字でメモリの名前や特徴を書き込んでいった。
「確かそれも『七つの大罪』の一つだったよな」
マーカーがボードの表面を滑る音に首を傾げた翔太郎の声が重なり、フィリップが説明を続けていく。
「憤怒を表すのがラースだ。そしてメモリの使用者は、健太の父親である山波勇雄に間違いない」
フィリップは更にメモリの特徴の横へ使用者の名前と目的を書き込み、ぐるりと円で囲って見せた。
「ラースの狙いは、息子の健太だ。奴の言葉からも、息子を不死の肉体の持ち主に作り替えるという目的が明らかになっている。そのためにはガイアメモリが必要だったこともはっきりした」
そして彼は、事件の鍵となるドーパントの目的とその実現手段の関係を線と矢印で結びつけ、わかりやすい図解にした。
相棒がホワイトボードに描いた図を確かめながら、翔太郎が指を顎に当てて状況の整理にかかる。
「不死の肉体に作り替えるって、一体どういうことなんだ?」
「ガイアメモリは、使用者の細胞レベルで作用する効力を持つ。その特性を応用して、肉体の構造をそっくり変えるんだろう。ただし本当にそんなことが可能かどうかは、誰にもわからないはずだ……よしんば成功したとしても、人間とは全く異質な生命体になる危険性が高い」
黒のインクで描いた図を示しながらも、フィリップが説明する声には張りがない。
翔太郎にミュージアムから助け出される以前、自分はガイアメモリを何も感じることなく作り続けていた。今口にしたことも全て、その頃に得た知識から導き出した結論である。当時は人間を使った実験も当たり前であり、失敗例もその過程で多々目にすることがあった。
まともな感情を持つ人間ならばとても直視できないことをやってのけていた、意思を持たず決断もしない、ただ生きていたというだけの存在。
それこそが鳴海荘吉から償うよう諭された園咲来人の、つまりフィリップの罪である。
自分と向き合うためにも、事件を真正面から冷静に見つめて分析し、害をなすドーパントと戦わねばならない。
しかしいくら恩師からの言葉とは言え、彼にとってのアキレス腱となる家族の問題について触れるのは、いささか過酷な要求だと言えよう。ガレージの薄暗さのせいか、普段より一層優れないフィリップの顔色を見るにつけ、翔太郎はそう感じざるを得ない。
心配そうに相棒を見やる翔太郎の側まで歩み寄ってきた照井が、平坦な調子で質問を投げた。
「そんなことが可能なのか」
「確実なことは僕にもわからない。ミュージアムでも、そんな類いの実験がされた記録はないんだ。ただ一つ言えるのは、極めて危険ということだ」
額に指先を当てながら溜め息をついたフィリップが、軽く頭を振ってから再びホワイトボードに向かう。低く抑えた声に、マーカーが継続して文字と簡素な図柄を描き続ける摩擦音が被さった。
「ガイアメモリは遺伝子に干渉して、肉体を作り替える。しかしその力の大きさに人間が長く耐えられないことは、君たちも知っての通りだ。それをあんな幼い子どもに、しかも不完全なメモリを使うとなれば、何が起きるか予測がつかない」
「最悪の場合はどうなる?」
「肉体が耐えきれずに死ぬか、一度の変身でメモリに全てを食い尽くされたドーパントになる。その場合、恐らく二度と人間に戻れない。心も身体も」
仲間のうちでガイアメモリに一番詳しい少年が出した残酷な推測に、残る三人の男女が息を飲む音が閉鎖空間で大きく上がる。
続いた照井の短い質問にフィリップが答えた頃には、ホワイトボードを細かい字がびっしりと隙間なく埋めていた。もう書き込める場所がなくなったため、彼はマーカーに蓋をしてポケットに収めてから自らが描いた複雑な図を指でなぞっていく。
「ガイアメモリの技術を転用した場合は、人間を使った実験が不可欠だ。恐らく山波は、最初に自分の身体で実験したんじゃないだろうか。奴は、自分と同じ遺伝子を持つ存在にこだわっている。息子を求めているのも、多分自分だけでは飽き足らなくなったせいだろう……」
フィリップの説明は、やはり最後の方がひどく苦しげである。小さな声で言葉を終えた彼は、ホワイトボードから下ろした指先を追って視線も床に落とし、俯きがちになっている。
「奴の汚染の度合いはそこまで高いのか?」
もっとも若い仲間の身を気遣う視線を見せてはいたが、照井の問いは続いた。
「あそこまで手強いドーパントだ。汚染というより、ガイアメモリと融合する手前だと言っていいと思う。人間としての正気なんて、もうとっくに失われているだろう」
疲れた様子で、フィリップが作業用の椅子にどすんと腰を落とす。丈の長いパーカーに半身を隠すようにして椅子の背へ身を預けた少年は、目を閉じて再び深く息をついた。
「しかし、山波は健太を助けるのが目的だったはずじゃねえのか」
翔太郎が怪訝そうな表情を見せると、今度は未来が口を挟んでくる。
「あの様子じゃ、とてもそうとは思えないよ。死の危険がある実験に自分の子どもを使おうなんて、正気の沙汰じゃないもの。人体実験を思いつくだけでも、かなり気が狂ってるけどさ」
嫌悪感も露に吐き捨てた未来は、語気も荒い。本気でラース・ドーパントに腹を立てているらしく、大きな黒い瞳に強い感情が宿っているのは、この場にいる皆が嫌でも感じさせられた。
厳しい表情を崩さない未来に一瞬だけ視線を向け、憔悴した印象のフィリップが翔太郎に応えておく。
「最初の頃は、息子のため必死にやっていたんだと思う。が、今は違うと考えたほうがいい。本来の願いが自分の感情や欲望と混ざり合って、『死なない身体の人間を作る』ことに執着しているんだ」
「本来の願いと感情か……そこに『ラース』のメモリが関係しそうだな」
宙を睨み、翔太郎がきつく腕を組んだ。
七つの大罪の一つ、「ラース」は激しい怒りを表す。
今はドーパントになり果てた山波を突き動かしていた原動力の根底にあるのが、自身に対する強い怒りだったのではないか。息子に先天性の病という重い枷を与えてしまい、助ける手段をなかなか見つけられず、ミュージアムに都合よく使われるだけの不甲斐なさを、心底から恨んだのではないのだろうか。
その上、ミュージアム残党の追手である永峰がドーパントとなって襲ってくるのであれば、頼りにできるのが手元のガイアメモリしかなかったに違いない。メモリが司る力である強い怒りを常に感じていたなら、メモリの能力を引き出すのは容易かったと同時に精神の汚染も早く進む筈だ。
基は子を想う親の愛情故の感情だったのかも知れないが、それがメモリの毒によって歪められてしまったのだ。今は見る影もなくなった山波の根底に潜む問題は、善悪の二元論で語れる単純なものではない。
翔太郎が姿勢を変えずに考えを巡らせていると、未来が再度口を開いた。
「つまり……山波は、ただ単に実験動物として健太くんを欲しがってるってことになる?」
彼女の口調は疑うというよりも、確認のそれである。答えたのは、フィリップのはっきりしない声であった。
「可能性は高い……ガイアメモリを開発していた者なら、あれがどれほど恐ろしいものなのかを知らないわけがない。まして、自分の子どもにあれを使おうなんて、思うはずがない」
フィリップが小さく発する言葉は、殆ど独り言のように聞こえる。内容は未来の確認に対するものであったが、発言自体は誰に向けたものでもないらしい。
肉親にもガイアメモリを使わせていた父、琉兵衛が今の山波と重なるのだろう。
フィリップには二人の姉がおりガイアメモリの使用者であったが、二人ともがそのために人生を大きく狂わされ、若くしてこの世を去るという悲しい結末に終わっている。そしてその渦中に叩き込まれていたフィリップが死ぬほど苦しんでいた姿は、恐らく翔太郎も一生記憶から消すことができない。
相棒の少年が殆ど無意識下で呟いたのは、きっとそうあって欲しかったという願望だったのであろう。
見るからに辛そうな彼の様子に、翔太郎の胸は鈍く疼いていた。
「そんなこと、許すわけにはいかないよ。やっぱり、何とかしてあのドーパントを倒さなきゃ」
フィリップの言質を取って気持ちを固めたらしい未来が、翔太郎の同意を求めて視線を送ってくる。事情を知る者としてはごく当然とも言える行動を取ろうとする彼女に、さしあたって反対する理由はない。半熟探偵は頷いて見せると、事務所に出るドアの方を向いた。
「ああ。何があっても止めるべきだ」
「待て!」
足を進めようとした翔太郎の前に、不意に赤い影が鋭い声と共に割り込んできた。普段であれば真っ先に動こうとしてもおかしくない人物の行動に、翔太郎の返す声が裏返りかける。
「何だよ、照井?」
至近距離で向き合うことになった男の名を口にした翔太郎は、そこにまた意外なものを見つける羽目となった。
若き警視たる照井の顔はフィリップと同じく疲れ果て、色を失いかけていたのだ。
「……永峰が死んだ。ここに来る途中で連絡を受けた」
彼が重い口を開いて告げた事実は、「七つの大罪」ガイアメモリをメモリブレイクで砕かれた人間の末路であり、これから進もうとしている道が蕀のそれであることを示すものだった。
勢い込んでガレージから出ようとしていた翔太郎と未来の動きが止まり、双方の顔に驚愕の色が広がっていく。
「永峰って、あの『プライド』だった奴か?」
照井が無言で首を縦に振り、翔太郎の言葉を肯定する。
二人の仮面ライダーはこれまでの戦いほぼ全てでメモリブレイクを使い、ドーパントを倒してきた。
ドーパントの体内からメモリを強制排出させて粉砕し、基になっている人間の命を危険に晒さないこの技があるからこそ、彼らは安心して戦うことができていたと言っていい。誰かの命を奪うことなく、ある意味安全に街の平和を守ることができるのだから、実にうまくできた仕組みである。
しかしそれが覆されたのだ。
何本ものメモリを取り込んでいたウェザー・ドーパントや、メモリブレイクの後に自ら炎に身を投じたテラー・ドーパントを除き、Wもアクセルも人を死に追いやったことはない。
それだけに、永峰が死亡した事実は重く青年たちの胸にのしかかった。
「それ……メモリブレイクされたから?」
一瞬で沈黙に支配されたガレージで未来だけが冷静に問い返したが、照井は答えない。
「これまでに俺たちが倒してきた相手で、心身に後遺症があっても死んだ奴は誰もいねえ。純粋な戦闘で負ったダメージが……」
「永峰も、未完成の『七つの大罪』メモリを使った人間だ。何らかの因果関係がある確率を捨て切れはしない」
翔太郎が未来の言葉を否定しようとするよりも早く、フィリップが可能性を肯定する。
ガイアエネルギーもそれに属するガイアメモリの性能も、まだまだ未知のテクノロジーなのだ。その第一人者である天才少年が言う通り、全てをあり得ないこととして切り捨てるわけにはいかなかった。
未来が息をつき、一同の動揺を隠せない顔をぐるりと見渡す。
「メモリブレイクされたら、使用者は死ぬかも知れないってわけ?」
彼女が独り言のような呟きに、照井がきつく腕を組み、ホワイトボードの方に足を進めながら言った。
「だから、今回は迂闊に動くべきではない。何か別の方法を見つけてから行くべきだ」
「おい……お前、それを本気で言ってるのか?」
有事の際には体を張って街を守らねばならない使命を帯びた照井らしからぬ発言に、翔太郎がぎょっとして駆け寄る。いくら決定打となる手段が見つかっていなくとも、まずはドーパントの居場所を突き止めて何とか追い散らしておくべきだと、翔太郎は考えていた。そして当然、照井もそれに同調すると思っていたのだ。
「けど、このまま健太くんがさらわれて実験台にされるのを、黙って見てられないじゃない!あいつ、また今夜のうちに襲ってくるかも知れないのに」
翔太郎と同じことを考えていたらしい未来が、照井に棘のある表情を向ける。
「そうは言っていない!ただ、不確定要素があるメモリブレイクを使うべきではないと……」
「メモリブレイクできないんじゃ、また同じことの繰り返しだよ。もしその間に、健太くんが本当のことを知ったらどうするの?」
具体的な代案を出せず、しかし感情的な態度で返してくる照井の曖昧な物言いに、未来は苛立ちを覚えているようだった。的確に追及してくる若い女の声が決してヒステリックな印象でないだけに、照井も何とかはっきりした答えを返そうとして、じっとガレージの床を睨んでいる。
「しかし……」
「だがそれでも、山波は健太の父親だ。僕たち他人が、そこへ立ち入ることは許されない」
が、言いかけた照井の言葉を繋いだのはフィリップであった。
どんな姿になろうと、子どもにとっての父親は父親なのだ。
フィリップつまり園咲来人の父である琉兵衛は、秘密結社ミュージアムの支配者であり、恐怖を司るメモリ「テラー」の使用者だった。父が変身したテラー・ドーパントがどれだけ風都の人々を苦しめ、悪魔の毒素で街を染めたかわからない。
だがそれでも琉兵衛は来人にとってたった一人の父親であり、自分をこの世に生んでくれた人物であることに変わりはなかった。
幼き日の記憶の中、姉や母と穏やかで優しい日々を過ごした父。
強敵としてWの前に立ち塞がり、血を分けた息子や娘をも野望に利用しようとした父。
そのどちらも否定できなかったからこそ、フィリップは心が引き裂かれるほどの苦しみを味わったのだ。
彼は家族が他人を悲しませる苦しみと、家族そのものを失う悲しみを両方とも知っている。心に感じている痛みは、照井以上かも知れない。
まだまだ未完成な心に抱えられた傷の大きさを、翔太郎が相棒の悲痛な面持ちに見つけた時である。
未来の、冷徹とも言える声が鋭く空気を打った。
「……あんなの、人の親でも何でもないよ。まだ被害が大きくないうちに何とかしなきゃ」
低い声が、一気に場の温度を急降下させたと錯覚するほどであった。
照井が顔を上げ、フィリップが息を詰まらせ、翔太郎が眉の端を跳ね上げる。三人の男たちの集中する視線を受けても、彼女は落ち着いた態度を崩さなかった。
「健太くんに勘づかれる前に、事を収める必要があるんだよ。自分勝手な親を持つことは不幸だけど、その欲の犠牲になるのはもっと不幸なんだから。親は子どものことを第一に考えるのが自然なはずなのに」
未来の言葉の一つ一つが、フィリップの心を鋭く抉っていく。
親が子どものことを第一に考える。
世間ではそれが一般的であり、生き物の本能だ。
なのに、琉兵衛はまさに自分の欲のために家族を犠牲にした。
いや、ガイアエネルギーに取りつかれることさえなければ、父は優しい父のままでいたはずだったのだ。
フィリップが子どもだった頃の思い出の中にいる、穏やかな微笑みをくれた父。
父を狂わせ、家族を引き裂いたガイアエネルギー。
父の望みを叶えるために、ガイアメモリを作っていた自分。
それを、フィリップは何も疑うことはなかった。
自分がミュージアムから脱出したのがそもそもの間違いで、ずっとあのままなら自分が不幸だなどと思わなかった?
父をガイアエネルギーの外に弾き出したことが、父にとって本当に幸せなことだったのか?
一体、どこから何が悪くなったというのだろう?
今までに刻まれた記憶が心の奥底からとめどなく湧き上がり、様々な光景の渦が押し流そうとしてくる。その濁流に呑まれてわけがわからなくなり、まともに考えられない。
頭の芯に鈍く重い痛みを感じたフィリップは、額に手を当てて小さく呻いた。
「……俺はフィリップに賛成だ。家族の絆を、他人である俺たちに壊す権利はない」
照井の掠れた声が、痛みに顔を歪めるフィリップの耳に辛うじて入ってくる。
それに対する未来の姿勢はしかし、更に攻撃的になっていた。
「照井警視、あんた警察でしょ?犯罪者も人の親なんだからって、黙って見過ごすっての?とても警察の台詞だとは思えないね」
「何だと?」
社会的な立場のことにまで口を出され、さしもの照井も聞き捨てならなかったのだろう。努めて冷静に振る舞おうとしていたらしい声に、明らかな感情が戻り始めているのがわかる。
ここでまた二人が意見を対立させ、まとまりを欠くことは避けねばならない。
頭痛に襲われていても今だ醒めた頭脳を留めていたフィリップが、浅く早い呼吸のもとで言った。
「……メモリブレイクを使えば、死の可能性が……」
「そんなの関係ない。殺すしかないなら、そうするまでだよ」
苦痛を堪えて絞り出した少年の意見を、未来が冷酷な言霊の刃でばっさりと斬り捨てる。
再び照井とフィリップ、そして翔太郎の表情が凍りついた。
が、未来は男たちの様子などまるで気に留めずに先を続けていく。
「むしろ健太くんは、父親がそんな状態になってることなんか知らない方がいい。そうすればあの子の中には、父親が大好きだった頃の優しい思い出だけが残るもの。何も知らないあの子が傷つけられる前に、どうしようもない親をさっさと……」
そこまで平坦な調子で口を動かしていた未来の声が、唐突に途切れた。ひゅっと息が漏れる高い音が上がり、赤い影がガレージの床を大きく踏み鳴らして小柄な女に迫る。
「貴様ぁ!もう一度言ってみろ!家族を無理やり引き裂くような真似は、俺が--」
目に燃え立つ怒りをたぎらせて未来の胸倉を掴んだ照井が、今まで必死に抑えていたであろう感情を露にして叫んだ。
手の甲に筋が浮き、指が白く見えるほどにきつく握りしめられた拳を振り上げ、未来の横っ面に叩き込まんとする。
「やめろ照井!お前、女の顔を殴るつもりか!」
そこで驚きのため思考が一時的に停止していた翔太郎が我に返り、慌てて仲間の手首を後ろから掴む。
照井は家族全員を惨殺された十字架を背負わされている故、肉親を蔑ろにするような発言に特に過敏であることは否めない。とは言え、女に手を上げるのは流石に度が過ぎている。翔太郎も、ここまで怒りを爆発させた照井の姿は久しく目にしていなかった。
「私を殴って気が済むんなら、好きなだけ殴んなよ!家族は大事かも知れない。だけど、親の言うことに子どもが黙って従わなきゃならない理由なんて、どこにもないんだから!」
だが、今だ照井にジャケットの襟を掴まれている未来は微塵も臆することなく、きっと照井を睨み返していた。彼女の大きな瞳は、今にも殴りかかろうとしている男の苛烈な視線と怒声を正面から受け止めるだけの強さを湛えている。それは、先の発言が決して浅はかな感情から導かれたものではないことを裏付けていた。
あんなのは親じゃない。
最低の親が殺されようが、何の罪もない子どもには関係ない。
以前から度々見受けられた家族の絆を否定する未来の言葉は、恐らく彼女の心の底にまで根を下ろした生き方の一部なのだろう。多分彼女自身、親をかけがえのない存在だとは感じていないに違いない。でなければ、自分を産み育ててくれた者に対して、そこまでマイナスの思考を持つとは思えないのだ。
この女の考えることを自分は分かることができないだろうし、恐らく一生歩み寄ることもあるまい。
未来は対極の存在であり、理解の外側にいる人物なのだ。
それを悟った瞬間に照井の腕から力が抜け、乱暴に彼女の襟元から手を離す形になったが、本音は意識せずに零れ出ていた。
「……家族の絆が、偽りだとでも言うのか。親が子どもを愛し、子どもが親を慕う純粋な気持ちのことを」
自分の想いが正しいことを未来に認めさせたいという気持ちがどこかに残っており、それが表面に出てしまったのだろう。
気勢を削がれた形となった照井の気落ちした様子に、未来の応え方も温度を下げたそれとなる。
「一途に家族を信じていられる自分は、幸せ者だってことを自覚しなよ。家族だって絶対じゃない。子どもには何の罪もないのに……子どもの存在そのものが、親のものってわけじゃないのに。子どものことを一人の人間だと思わなかった親のせいで、私は……」
「もうやめろ、二人とも!」
唐突に、フィリップの悲痛な叫びが未来の話を遮る。
今まで戦闘においてすら冷静さを保ち続けていたフィリップから突然迸った絶叫に、思わず未来がびくりと身体を硬直させる。反射的に振り返った彼女が見たのは、切れ切れの息を苦しげに漏らし、肩を震わせる少年の痛々しい立ち姿だった。
「僕の前でもう、家族の話はやめてくれ……」
俯いたフィリップの表情は長めの黒髪に覆われて窺い知ることはできないが、押し殺した揺れる声はやり場のない悲しみに彩られている。
未来の言ったこと全てが、フィリップの心と身体に突き立つようだった。胸の内側が鈍く激しい波のような痛みに襲われ、呼吸すらままならない。涙はいくら堪えようとしても喉の奥からせり上がってくるような気がして、耐えられなくなっていた。
「フィリップくん……」
「……済まなかった……」
未来が嗚咽を堪えられないフィリップを気遣わしげに見やり、照井がうなだれる。
三人が三人とも、家族に対する考え方と感じ方が異なっているのだ。これ以上大声を上げて感情をぶつけ合っても、互いを傷つけて溝を深くするだけだ。
真っ先にそれを理解したのがフィリップだった。
彼は弱く首を横に振ると、ふらふらとした足取りでリボルギャリーの内部へ下る階段に足を引きずっていく。
「僕は、メモリブレイクせずとも何とかする方法を探す。きっとどこかに、突破口は残されているはずだ」
彼の不安定な声は、まだ涙が完全に乾いていないことを感じさせた。しかしそれでも「地球の本棚」に入り、自分でやれる最大限の努力をしなければならないという強い意思があることを同時に印象づけてくる。
家族を失う悲しみと家族から奪われるやりきれなさ、両方を知っているフィリップだからこそ、何とかしなければならないという焦燥感に襲われるのかも知れない。今まで生きてきた短い人生の罪を償うためとは言っても、精神的にまだ未成熟なところを多々残している少年には酷く辛いだろう。
この場にいる人間で唯一、具体的な発言をしていない翔太郎はぼんやりとそう考えた。
自分は家族の暖かさは知っていても、失う悲しみや理不尽さへの怒りは感じたことがない。恐らく自分が何か言っても、中身の伴わない空っぽな言葉は、皆の心に届いてはくれなかったに違いない。
自分が役に立てないことがわかっているだけに、この上なくもどかしかったが、今の翔太郎は沈黙を守る以外に取る術を見つけられなかった。
胸に重い空気を抱いたまま口を閉ざす自分に誰かが視線を送った気がして、彼は目にかかる前髪をどけながら顔を上げた。
「私は一人ででも、あのドーパントと戦うよ。あの子の未来を、きっと守って見せる」
すると誰とも目を合わせずに呟いた未来が、翔太郎にも背を向けたところであった。大股でドアに向かい踏み出した彼女の小さな背を、翔太郎が追いかけようとする。
「あっ、おい!」
彼が伸ばした指先が細い肩に触れる寸前、ドアが荒っぽく閉められて呼びかけた声をも寸断した。
「放っておけ!あの女も、ドーパントがどこにいるかわかりはしない。俺たちは、他の方法を探さなければ」
やはり照井は、あくまでメモリブレイクを使わずに戦う姿勢を貫くつもりでいるらしい。赤い革ジャケットを纏った若き警視が仲間を叱り飛ばすように制し、冷静さを取り戻した目を階下のフィリップへと向ける。
しかし翔太郎は、勇ましく言い放って去った未来の表情を横切った寂しげな影を見逃していなかった。