叩きつけるようにして開いたドアから事務所内へと走り出てきたのは、意外な人物であった。伏し目がちになった顔の両側にポニーテールの長い髪が被さり、濃い陰となって表情を隠している。
「あれ、未来さんだけ?みんなは?」
健太にメモリガジェットを見せて遊んでやっていた亜樹子がソファーから声をかけると、ドアに背中を預けていた未来が頷いた。
「……ああ、ちょっとね。今日は先に帰ろうかと思って。ここはみんながいてくれれば大丈夫だろうし」
力なく答えた彼女は、無理やり笑顔を作って見せているとしか見えない。声に全く張りがなく、瞳からも活力が失せているのだ。恐らく、リボルギャリーの中での作戦会議で場が荒れたのだろう。
つい今しがたまで続いていたらしい作戦会議は、主に照井の主張により戦える者だけで行われていた。鳴海探偵事務所を預かる身である亜樹子は当然の権利として参加の意思を示したが、健太と堀内を二人だけで事務所内にいさせることに不安があったことと、照井からはっきりと却下されたことがあり、不参加とならざるを得なかった。
以前の亜樹子なら無理にでも自分の意見を通していただろう。しかし照井と婚約してからは、彼の意思を尊重し時には身を引くことの必要性も心得ていた。今回の作戦会議のことも、何か思うところがあってのことなのだろうと判断して出しゃばるのを止めたのだ。
それにしても、今まで威勢の良かった未来が沈み込むとは、一体何があったというのか?
「きょうはもう、あそんでくれないの?」
健太も手元のフロッグポッドから顔を上げて、元気がない未来へ視線を向けた。彼女はもう一度笑って見せると、健太の座る古いソファーの前まで来て床に膝をつき、幼い少年と目の高さを合わせる。
「うん……お姉ちゃんね、急なお仕事が入っちゃったの。だから、ごめんね」
その低く優しげな声が急に震え、白い頬を一粒の涙が伝い落ちた。
「どうしたんです、所長」
慌てて指先で涙を拭った上司に堀内が心底から驚いて立ち上がり、亜樹子も目を丸くする。が、同性である亜樹子は過剰に相手を心配させてしまっているという印象を避けるため、一呼吸置いてから普段よりも落ち着いた口調を心がけて言った。
「……未来さん、何があったの?」
未来は軽く鼻をすすったが、亜樹子の質問には答えない。カメラも内蔵されているであろう、サイボーグの女性の瞳は一瞬だけ戸惑いの色を浮かべた。
「おねえちゃん、泣いてる?」
「うん……ちょっと、皆と喧嘩しちゃったの。みっともないよね。お姉ちゃん、大人なのに」
が、未来が健太の声を再び耳にしたときには、それはすぐに引っ込んでいた。代わりに正面にいる一同から視線を外て自嘲気味に笑い、長い睫毛に宿る滴を乱暴に拭い取る。
そこへ、小さな手が伸ばされてきた。
健太の子どもらしくぷっくりとした指が未来の頭のてっぺんに乗せられ、ぎこちない動きで明るい茶色の髪を撫でていく。小動物が仲間をいたわる時を思わせる健太の行動に驚いた未来が、正面に向き直った。
「ぼくが『よしよし』してあげるから、泣かないで。おねえちゃんが泣いてると、ぼくも泣きたくなっちゃうよ」
健太は、心から未来のことを心配してくれていた。
ここに自分が連れて来られた理由もはっきりとはわかっておらず、まだ五歳の幼児である健太の心は不安でいっぱいの筈だ。なのに他人を、それも大人を気遣う芯の強さがある。何とも見上げた男の子ではないか。
「健太くん……」
「おとうさんが、ぼくにもよくやってくれてたんだ。ぼく、すごくうれしかったんだよ。だからおねえちゃんにも、やってあげるね!」
瞳を見開いた未来に名前を呼ばれた健太が無邪気に笑い、自分よりも大きな頭をゆっくり撫でる。
ソファーから下りて背伸びをし、懸命に相手を慰めようと頑張る健太の姿に、未来は目を細めて口許をほころばせた。先とは異なる、皮肉の色がない優しい笑顔だった。
「そっか……ありがと、健太くん。おかげで元気が出たよ。お姉ちゃんはお仕事に行ってくるから、みんなの言うことをよく聞いて、いい子にして待ってるんだよ」
「うん!」
大好きな女性が活力を取り戻したことを口調から察したのだろう、健太が元気よく頷く。未来は健太の頭を髪がくしゃくしゃになるほどぐりぐりと撫で返し、勢いをつけて立ち上がった。
「じゃあ、私はこれで失礼するから。亜樹ちゃんには、また改めて連絡するよ。ごめんね」
「あ、うん……」
未来が背負う空気に硬い緊張感があることが感じられ、口を挟むのが憚られた亜樹子が気圧されたように返事を返す。
「待ってください、所長。仕事なら、俺も一緒に行きます」
「ごめん、他の人にやらせるわけにはいかないの。あんたはここで、健太くんと一緒にいてあげて」
堀内は早くも出口のドアに向かいかけた上司の背を追おうとしたが、こちらにはもう感情を隠した応えが返されるのみであった。異を唱えようとした彼から視線を外して古ぼけたスチールのドアを開け、彼女は足早に去っていく。
「所長!」
堀内がまだ怪我の完治していない片足を庇いながら駆け出し、慌てて黒いジャケットの小柄な背中が消えたドアを開けて外に飛び出す。
亜樹子も反射的に腰を浮かせたが、ガレージへ通じる扉と二人の男女が出ていった玄関、そして健太の顔で視線を一巡させて思い止まった。あの様子では自分が行ったところで状況は変わらないだろうし、それ以前に未来が涙を見せていきなり去った理由もわからないのだ。
そして何より、健太をここに一人でいさせるわけにはいかない。
亜樹子は溜め息をついて、ソファーに再び腰を落とした。
せめてガレージの中で何があったのかだけでもわかれば、思い詰めた様子の未来にも声のかけようはあっただろうと思わざるを得ない。一体何の意図があって、照井は自分を作戦会議から外したのだろうか。仮に同席していたとしても役に立たないのだから、健太の面倒を見させる方がましというネガティブな理由だとでも言うのだろうか?
亜樹子が不満で無意識に口を尖らせ、膝の上で頬杖をつく。
彼女の刺々しさに、健太も口をつぐんでしまった。
それから健太が眠気を訴えてくるまで気まずい沈黙の中で過ごすこととなったのは言うまでもなかったが、幼い子どもである健太がすぐに寝入ってしまったのは、不幸中の幸いだったと言えなくもない。
彼もあの異常な体験で疲れていたのだろう。事務所内に一つしかないベッドが占領されたことに、翔太郎やフィリップも文句は言えない筈だ。
そして翔太郎が先の未来と同じように何か思い詰めた様子でガレージから出てきたのは、それから優に数十分程度経った後である。
健太をベッドで寝かしつけていた亜樹子が、ドアが立てる無機質な音に振り返った。
「あ、翔太郎くん」
「未来は?」
深い眠りに落ちた健太に毛布をかけてから立ち上がった亜樹子に、翔太郎は開口一番に訊いた。
「仕事があるからって、帰ったわよ。堀内さんは彼女のことを追いかけて行ったけど……未来さん、泣いてるみたいだった」
事務所であった小さな騒動についてしらっと説明しながらも、亜樹子はやはり何かあったのだろうと言いたげな顔である。
翔太郎も、あの気の強い未来がまさか泣いていたなどと思ってもみなかったらしい。僅かに動揺した素振りを見せた彼の眼前に、亜樹子がずんずんと詰め寄ってくる。
「ねえ、作戦会議で一体何があったの?私にも説明してよ」
翔太郎に迫り切った亜樹子は、いつものように納得が行くまで決して引き下がらない押しの強さを伺わせる。相手の顔を下から上目遣いで見上げてくるが、媚びるのではなく、明瞭な意思を持って睨んでくる潔さがある目だ。翔太郎が未来を気にかけているらしいこともあり、自分も何とかしたいという気持ちが強いのだろう。
が、翔太郎は迫力を湛えた亜樹子の大きな瞳から視線を逸らした。
「いや……別に何でもねえよ。ちょっと意見が合わなかっただけだ」
「何でもなくて、未来さんみたいな人が人前で涙見せたりするの?どうして、私にだけ教えてくれないのよ!それとも何か、私に聞かれると都合が悪い話なわけ?」
不自然にはぐらかすなど、嘘をつけない翔太郎らしくない。何か隠しごとをしていることを瞬時に見抜いた亜樹子の声が甲高さを増し、数十センチも離れてない彼の上半身へ更に身を乗り出させる。
「そ、そんなんじゃねえよ。ただ……」
翔太郎は近すぎる距離を少しでも離すため後ろへ仰け反りながら、歯切れの悪い口調で言葉を途切れさせた。まともに顔を合わせてこない半熟探偵の様子に、亜樹子は真っ先に思い当たったことを口にする。
「竜くんから、私に話すなって言われてるんだ」
図星を突かれたのであろう。真正面を向くまいとしている翔太郎の視線が、たちまち落ち着かなげに泳ぎ始める。
やはりそういうことだったのか。
どんな理由があるにせよ、仲間の一人である自分だけを除け者にするなど、到底了承できるわけがない。そもそも、この鳴海探偵事務所の所長たる者が何も知らないでいいわけがないのだ。
それとも、夫となる竜は妻たる存在を信用できない、力のない存在だとでも思っているのか?
ますます納得がいかない。
「いいわよ。そういうことなら、本人から直接聞くから」
亜樹子は憮然とした表情を隠しもせず翔太郎に言い放ち、間髪入れずに市松模様の床を大股で踏み鳴らしながらガレージへのドアへ向かった。
「だぁー!ちょ、ちょっと待て!話すから、今そっちに行くなって……」
小柄な所長の細腕で強引に押しのけられた翔太郎がしどろもどろに叫び、細い肩に手をかけようとする。
追い抜きざまに大声を上げられたことに、今度は亜樹子が慌てた。急いで翔太郎の口を片手で押さえ、口の前で人差し指を立てて見せる。静かにしろ、と目力のみで命令した。
「しーっ!」
亜樹子に強く顔を押さえられ、鼻まで塞がれた翔太郎は息苦しさにじたばたともがいていたが、彼女の行動の意図を悟り幾度も頷いて見せた。二人がおそるおそる、事務所の隅に置かれたベッドへ視線を向ける。
幸い健太が目を覚ました様子はなく、規則正しい穏やかな寝息が聞こえてくるだけだった。
ほっと肩から力を抜いた亜樹子が、再び翔太郎の顔を睨む。
「もう、最初からそうしてよね!所長のこの私が、何も知らないわけにいかないんだから」
彼女はそこで初めて、翔太郎の肺活量が限界に近づいていたらしいことに気がついた。
酸欠直前の真っ赤な顔から小さな手が外れた途端に静かな事務所内でぜいぜいと荒い呼吸音が響き、それが暫し続くこととなった。
かもめビリヤード場のドアの横に立つ翔太郎と亜樹子が話の終わりに持ったのは、やはり沈黙であった。
翔太郎がガレージであった出来事を一通り話す間、亜樹子は殆ど口を挟んでこなかった。いつものうるささに反して口数が極端に少なくなると、却って不気味な感触を煽られる気がする。
彼は時折吹きつけてくる春の夜風が前髪を乱そうとするのを気にしつつ説明していたが、ずっと頭から離れてくれなかったのは「亜……所長にここであったことは話すなよ。他人のことで、彼女に余計な気遣いをさせたくはないからな」という、照井の真面目くさった言葉だった。
そのことまで伝えておくべきかと翔太郎が迷った時である。
亜樹子が鳴海探偵事務所の看板がかかる壁に背を預け、視線を遠くしながら呟いた。
「そっか、家族のことで……竜くんもフィリップくんも、身寄りを失くしてるものね」
ぽつりとこぼした亜樹子の反応は、翔太郎にとって意外なものであった。今までの彼女であればまず自分の存在が無視されたことに怒り、照井の余計な気遣いに怒り、人に気を使わせてしまう自分自身に対して怒っていたであろうことが用意に予測できたからだ。
しかし今の亜樹子は照井の判断を受け入れ、仲間一人一人のことをきちんと理解して感情をコントロールしている。それだけ照井の存在が彼女の中で大きいということなのだろう。たいした化けっぷり、もとい成長ぶりということか。
一人の男によってここまで変わるのだから、まこと女とは恐ろしいものである。
という感想をうっかり口にしそうになってしまった翔太郎だったが、何食わぬ顔で発する言葉を今まで持っていた疑問にすり替えた。
「……しかしわからないのは、どうして未来があんな態度を取るかだ。あいつ、健太の父親が……山波博士がドーパントだってわかってから、人が変わったみたいになりやがって」
未来が翔太郎に見せてきた姿は、誰かの上に立つ者として合理性と論理性を重んじ、非常時にも冷静さを保つことができる芯の強い人間というものである。そんな女性が泣くほど感情的になるなど、あまり想像できないのだ。
が、同性のこととなるとよくわかるらしい亜樹子が、翔太郎の腑に落ちていなさそうな顔を見やって言った。
「多分、未来さんも、家族のことで何かあったんじゃないかな。話を聞いてみる必要があると思うけど」
「だが、あいつは誰かとまともに話ができるような状態に見えなかったんだ。こっちの言うことに聞く耳を持つかどうか……」
亜樹子の視線が宙を泳いで見えるのは、未来が涙を堪える姿を思い出しているからなのだろう。
そして大人の女性の仮面が外れた彼女の姿を目にして、何とかしてやりたいと思ったに違いない。社会的な立場も同じということも手伝ってか、亜樹子の口調には単なる同情ではない思いやりが込められているようだった。
「未来さんは、今誰も回りに味方がいない状態よ。私、放っておいていいとはとても思えないの」
そこで亜樹子の視線がちらりと翔太郎へと向けられて、すぐまた宙へと戻る。彼女の瞳が向いた先では、白くライトアップされた風都タワーが夜風を受けて闇の中から浮かび上がっていた。
「私たちの中で家族の問題を何も抱えてないのは、翔太郎くんだけじゃない?だから、一番未来さんと話をしやすいのも翔太郎くんだって言う気がするけどな」
「俺が?」
回り続ける巨大な風車にぼんやりと目線を向けていた翔太郎が、思いもよらない言葉に驚きを見せて隣にある横顔の方を向く。
「うん。翔太郎くんなら、未来さんが家族絡みのことで何を言っても、個人的な感情を挟まなくて済むでしょ。一番公平に考えることができるもの」
そこで一旦息をついてから、うら若き乙女たる所長は半熟探偵の目を正面からとらえた。
「それに、未来さんは仕事に行くって言ってたのよ。この状況で今から仕事って言ったら、ドーパントを倒しに行く他はないよ」
「……迷ってる時間はないってわけか」
亜樹子に真面目な顔で鋭く指摘され、ガレージから出る直前に交わした言葉が翔太郎の脳裏によみがえってくる。
「未来が本当に山波を殺すしかないと判断しているなら、躊躇なく殺害するだろう」
作業机の真後ろに当たる壁際に佇んで考え込んでいる相棒へ、フィリップがキーボードを叩く手を休めずに言葉を投げ掛けた。作業用端末のディスプレイに浮かんだアルファベットと数字の羅列を忙しげに目で追いながら、天才少年は更に続けていく。
「彼女は軍事用として開発されたサイボーグだ。戦闘用の訓練を日常的にこなし、実戦も経験している。誰かの命を奪うことに対して、心理的なブレーキはかからないと見ていいと思う」
「しかし、未来はあれほど情に厚い女だ。そんな奴が簡単に誰かを殺すなんて、俺にはどうしても思えねえよ」
正確だがひどく無機質なフィリップの分析に、翔太郎は荒い語気を隠さず反論した。
確かに未来は戦うために作られた存在かも知れない。だが、根は温かな血の通った人間であることに間違いなかった。仕事を覚えたての部下や幼い子どものような弱者を見過ごせない優しさを持つ彼女は、自身で蔑んでいたような「人殺しのための道具」などでは決してないはずだ。
が、未来の強さに隠れた本当の姿を翔太郎ほど深く知らないフィリップにとって、彼女はただの意見が合わない他人でしかない。そして翔太郎は、いつものように好ましくない習慣に巻き取られているだけに見えるのが当たり前である。
「翔太郎、彼女に個人的に肩入れするのはやめたまえ。女と見れば甘い顔をするのは、君の忌むべき悪癖の一つだ。一体何度騙されれば学習するんだ?」
情にほだされない場所から醒めた瞳で全体を見渡す方が客観性に優れ、正しく事実を判断するのにうってつけだ。君はいつも相手の感情に飲まれて同調するから、似たような失敗ばかりを繰り返す。
ふと作業の手を止めて振り返ったフィリップが淡々と述べた後にそうつけ加えているような気がして、翔太郎は必要以上の大声を出すことになった。
「うるせえ!俺は、ただ……」
「お前が彼女を何とかしたいなら、別に止めはしない。しかし、どうやって言い聞かせるつもりだ」
そこで、フィリップの横についていた照井が徐に口を開いた。
赤い革ジャケットを室内でも脱がずにいる若き警視は既に落ち着きを取り戻しており、先に未来との口論で見せた激情はどこにも見えない。諭すような態度を取ってくる彼と比較すると、感情的になっているのは翔太郎の方であることが明らかであった。
照井から市民の安全を守る者として自らを律している姿を見せられ、翔太郎が口ごもる。
「そ、そりゃあ……」
「あいつは俺たちと相容れない、全く別の信念に従って動いている。そんな奴をどうにかするのは、至難の業だ。迂闊なことをすれば、余計に焚きつける羽目になるぞ」
照井なりに未来の性分を分析した結果なのだろう。確かに彼の言う通り、未来の言動からは彼女が世間一般の通念とは異なる思いを胸に抱いていることがわかる。それが皆に等しく受け入れられるものではないということや、彼女自身が誰にも理解されないことを覚悟しているらしいことも。
しかしだからと言って、未来を周囲にただ一人の味方もいない状況に突き落とすなど、翔太郎には我慢ならなかった。それに彼女はやり方にこそ問題があるものの、健太を救いたいと言う願いをいだいているのは同じなのだ。
そして彼女の選んだ道が致命的に間違っており、悲劇しか招かないというのであれば、誰かが止めねばならないのではないか?
彼女を止めるために走ることこそが皆の思いをひとつにまとめ、より良い方向へ結末へと収束させる鍵となるのではないか?
ただし、そんな不確定要素の多い手段には皆を納得させるだけの確実性はゼロである。
何とかして未来を助けてやりたい。
一人孤独な戦いを挑もうとしている女戦士の味方でいてやりたい。
今の翔太郎には敢えてそれを実行に移すメリットを説明する言葉はなく、あるのはそんな漠然とした感情だけであった。
「それでも……そんなことは、これから考えりゃいい。ここでじっとしてられるかよ!」
だから、翔太郎は想いに従って走り出した。
ガレージから事務所へ通ずるドアを開けると、ベッドの前にしゃがみ込んでいる亜樹子の小さな背中が見えた。
ついさっきまで交わしていた男たちの会話を頭の隅で聞き返していた翔太郎に、緑色の物体が迫った。
「あたっ!」
小気味良い音を立てて額に衝突したそれは軽く、何度も経験した覚えがある衝撃を伴っている。彼はつい、いつものように声を上げた。
「人を助けるのに迷うことあらへん。男らしゅうないっちゅうねん!早よ行き」
翔太郎が反射的に閉じてしまった目を開くと、ドーパントに対してさえ使われることもある専用武器のスリッパを構えた亜樹子がいた。歳上の翔太郎を丸出しの関西弁で叱り飛ばすような態度は相変わらずの図太さだが、今はその姿勢が頼もしく見える。
「未来さんを助けられるのは、翔太郎くんだけなんだよ。しっかりしい!」
つけ加えて、それだけでは終わらないのが亜樹子の長所だ。半熟探偵の背中を歯切れのいい言葉と明るい笑顔で押し、自分は他の仲間と共に戦うつもりでいるのだろう。
亜樹子には、未来のことを翔太郎に任せれば事態をより良い方向に導けるという確かな信頼があるのだ。それに応えるため、もう何も迷う必要はない。
「ああ。ありがとな、亜樹子」
翔太郎は力強く頷き、亜樹子が笑顔で応えてくるのを確認してからビルの中へと取って返した。
愛用の中折れ帽と、メモリガジェットたちを共にするためであった。