夢の中で誰かに名前を呼ばれて、健太は目を覚ましていた。
小さな身体を包んでいる暖かい毛布は、いつもと違う匂いがする。
今まで眠っていたベッドは児童養護施設ではなく、別の街にある小さな事務所にあるのである。そのことを思い出すまで、夢うつつの健太は数分を要していた。
一度寝返りを打ってからぼんやりと目を開け、重い瞼をこする。
すると、髪をポニーテールにまとめた女性がベッドに突っ伏してかすかな寝息を立てているのがわかった。電気はついておらず部屋の中はしんと静まり返っているが、窓から射し込む街の明かりが辛うじて家具の輪郭が分かる程度にしてくれていた。
健太は傍らで眠り込んでいる亜樹子を起こさないよう、そっと起き上がった。時間ははっきりとわからないが、多分まだ夜中なのだろう。一体誰が名前を呼んだのだろうと、幼子は不思議に思いながら辺りを見回した。
しかし、出入口近くの壁際にあるソファーでスーツ姿の堀内が横になっているのがわかっただけで、他には誰もいない。
『健太』
すると今度は耳元で小さく、だがはっきりと自分の名が聞こえた。低い、大人の男性の声である。
健太は細い身体をびくっと震わせ、慌てて声がした方を振り返った。
実は健太は夜中のトイレも一人で行けない怖がりな男の子であったが、彼が悲鳴の一つも上げなかったのは、名を呼ぶ声が聞き覚えのあるそれだったからに他ならない。
だが、彼が暗がりの中で捉えたのは、空中を小さな羽音を立ててホバリングするごく小さな機械仕掛けの鳥であった。
「……おとうさん?」
『そうだよ、健太。待たせたね。静かにこっちにおいで』
ハチドリをかたどった銀色の機械が、父親の声で健太に囁いてきた。聞き間違える筈のない、昼間にも耳にした声である。健太は毛布とシーツの間から這うようにして抜け出し、ベッドから下りて古い運動靴に足を突っ込んだ。
まるでいつもの施設で、見回りの職員の目を盗んで脱出する時のような気分だった。
勿論、臆病な健太に脱走の経験などなかったが、多分今と同じように心臓がどきどきして、見つかりはしないかという緊張感に溢れているのだろう。
普段はそんなことはとてもできないが、今は父が側にいてくれるのだ。何でもできる、という希望が幼い彼に大胆な行動力を与えてくれていた。
ハチドリ型のメモリガジェットは健太の周りを絶えず飛び回り、出入口のドアへと先導していく。健太はその後に忍び足で続き、ソファーで眠っている堀内の側を慎重にすり抜けてドアの鍵を外した。
開けたドアの隙間から吹き込んでくる夜気の冷たさに一瞬だけ怯んだが、健太は狭い空間に身体を素早く滑り込ませるとすぐに後ろ手でドアを閉めた。
関門を突破した安心感から、小さな口からふうっ、と大きな溜め息が出る。
しかし、ハチドリ型ガジェットは急かすように先へと飛んでいった。街の明かりで暗闇に浮かぶ小さな鳥のシルエットを、健太は慌てて目で追いかけた。事務所の外に伸びる廊下から屋外へ出るドアは既に開け放たれており、宙を飛ぶガジェットは薄い街明かりの中へとゆっくり滑っていく。
その後について健太が外へ出ると、かもめビリヤード場のすぐ脇にベージュの古めかしい車が停まっており、後部座席のドアががちゃりと音を立てて勝手に開いたのがわかった。
『さあ、この車に一緒に乗るんだ』
ハチドリガジェットがすかさずその中へと飛び込み、布張りのシートの上から父の声で呼びかけてくる。言われるままに薄暗い室内灯が照らす埃っぽい車へ首を突っ込もうとして、健太はふと思い止まった。
「ぼく、おにいちゃんと一緒に行きたい」
『一人で来ないと駄目だ。健太、お父さんに会いたくないのか?』
しかし渋る健太を咎めるように、父の声に棘が混ざった。いつも暖かだった父の言葉が幼い胸を鋭く刺し、嫌な痛みを覚えさせる。
「……いうことを聞けば、おとうさんにあえるんだよね?」
『お前は何も心配するな。お父さんのことを信じていればいい』
今度はまだ不安そうな息子を静かに諭す姿を垣間見せる口調で、ハチドリガジェットの父は促した。低く落ち着いた声を聞くと、目を細めて優しく微笑む父の顔が浮かんでくるようだった。
「うん」
すっかり安心した健太は笑顔でこっくりと頷き、角ばった車の中へと潜り込んでいく。
運転席に誰も乗っていない古い車が走り去っていったのに、風都の住民の誰一人として、未だ懸命に取るべき道を探るフィリップと照井さえ気づくことはなかった。
未来と翔太郎は、ひっそりと静まり返った真夜中の巨大実験施設敷地内を音も立てずに進んでいた。
土地勘がある未来が先に行き、暗視スコープをつけた警備員や防犯センサーをかわしてから翔太郎を呼び寄せていたが、翔太郎は闇に溶ける彼女の鎧姿を見失わないようにするだけでやっとだ。
考えてみれば未来は隠密行動と破壊工作を主任務とするために作られているのだから、闇夜で行動するのはまさにうってつけだ。彼女の纏うパワードスーツは基本的に光を反射せず、暗所になじむように設計されている。翔太郎はいちいちデンデンセンサーを覗いて、未来の動きを確認してから移動しなければならなかった。
幸いなことに足元は芝生なので、暗さのせいで時折木の根につまづくことはあっても、足音は殆どしない。また、敷地内の実験施設では終日空調や換気扇が稼働しているところも多く、大型室外機のやかましさで多少の物音はかき消されてしまうのも有難かった。
故に未来と翔太郎は小声で話をしながら目的地を目指すことができていた。
「やっぱりあんたも俺と大体同じ手で、山波博士の居場所を突き止めたのか」
「そう。あのドーパントが逃げる直前に、小型の発信器をくっつけといたの。場所を確認して驚いたけど、考えてみれば博士はもともとここの関係者だったんだからね。使われなくなった施設にだって、簡単に忍び込める筈だもん」
翔太郎の問いへ、先に立っている未来が頷く。彼女は二人で身を潜めている壁の向こう側にヘルメットの頭を覗かせ、周囲を警戒していた。
完全武装した未来と共にC-SOL敷地内で移動し始めて、そろそろ一五分程度だろうか。山波の潜伏先を知っている未来の案内で街灯の影の中を突っ切り、警備員の鋭い視線を避け、特に警備が厳重な武器開発研棟裏の赤外線センサーを誤魔化して進むうちに、いつしか彼女の足も動かなくなっていた。
今いる場所がどこなのかを察した翔太郎が、低い姿勢を保った黒っぽい鎧姿の肩越しに先を見やる。
「で、目的地がここってわけか?」
再びデンデンセンサーを覗いて闇の向こうを確かめている翔太郎に、未来は低い声で説明していく。
「旧AWP棟。何年か前に火事になって、耐火性の問題がはっきりしてからは使用禁止になったんだって。ただ、設備なんかはそっくり残ってるから、電気さえ何とかできれば使えるってことなんだけど。ここは警備員もそんなに奥深くまでは見回らないし、隠れるにはうってつけの場所なんだよ。私だって、仲間に聞くまでこんな場所があったなんて知らなかったんだから」
彼女はやや長い言葉でも淀みなく繋ぎながら、両手は忙しなく動いていた。今まで抱えていた大型のアサルトライフルは、背中のジュラルミン製バックパックの側面に取りつけられており、代わりに拳銃が片手に握られている。
彼女が普段ジャケットに忍ばせているグロックに比べると、一・五倍の大きさはあるのではないかと思えるほど異様に巨大な拳銃だ。
「そいつは?」
「デザートイーグル、別名ハンド・キャノン。自動拳銃の中では世界でもトップクラスの威力がある、私の相棒なの。建物の狭い場所では、こっちをメインにするから」
普段と全く違う銃に興味を覚えた翔太郎に、未来はサイレンサーを取りつけた黒光りするデザートイーグルを示して見せた。硬質な金属に包まれた指先が滑らかな動きで外したマガジンを装填し、弾丸を一発分多く込めた銃身を軽く握る。
華奢な女には決して似合わない武器から視線を外すと、翔太郎はもう一度目的の旧AWP棟なる建物を見上げた。
自分たちが背にしている打ちっぱなしの壁は、その巨大とも言える角ばった建物をぐるりと取り囲んでいるようだった。二人して覗き込んでいたのはその壁の内側に当たり、錆の浮いた有刺鉄線の雑な門の隙間に顔を突っ込んでいたことになる。翔太郎は暗さに目を慣らす目的で、デンデンセンサーを外して門の奥を見通そうとした。
敷地内を照らす街灯から仲間外れにされている旧AWP棟は、地上三階程度でかなり広さがある建物であることがわかった。更に、ベージュのタイル張りになっている外壁のあちこちが黒く汚れているのも見える。未来が言う通り、以前あったという火災の名残なのであろう。窓ガラスも大半が割れており、見るからに荒れ果てたいわくつきの廃墟となっているようであった。
恐らく夏場はここに勤める職員にも、格好の肝試しスポットとなっているに違いない。
翔太郎がそう感じるほど薄汚れた旧AWP棟は暗い中で不気味にそびえ、壊れた自動ドアが不心得者を引き込むように口を開けていたのだ。
「で、その火事で誰かが死んで、夜な夜な姿の見えない何者かがさ迷い歩いてるとか……」
「ないない。火事が起きたのは休日の夜中で、死傷者はなかったらしいよ。原因も電気系のショートだったみたいだしね。熱で色んなところが脆くなってるから、中に入る時は注意しなきゃならないけど」
思わず口を突いて出た翔太郎の軽口を、未来が正面から否定する。しかし休みなく装備の点検を続けている未来に、彼も負けてはいなかった。
「じゃあ、実験で死んだ奴がいたりとか……」
「ないよ」
先よりも鋭い語感で、未来は傍らにいる青年の茶化した話を短く遮った。その一言は低く、心なしか凄みを増していたような印象さえある。
「そう言い切れるのか?」
「私以外の実験体は、この手で戦った相手なの。言い切れるよ」
科学の鎧を纏った女の話は、やはり必要以上の情報を含んでいない。それだけに事実のみを口にしているという重みと、裏側に隠されている感情を聞く者に想像させる。
未来とAWPの過去を一通り調べたフィリップによると、確か彼女は抹殺命令が下された旧型サイボーグ二人と戦ったはずだ。その本人が今生きてここにいるのだから、必然的に旧型サイボーグたちは未来の手で殺されたということになる。
命令だったとは言え、立場が同じ者を死に追いやったのは、彼女にとって思い出したくもない記憶であることは間違いないだろう。聞いてはならないことを無神経にも聞いてしまったことを、翔太郎も認めざるをえなかった。
が、これから待ち受けている戦闘に重苦しい空気で臨めば、必要以上に精神力の消耗を招きかねない。嫌な空気を異なる色にするつもりで、彼は深刻な話し方を敢えて避けてやや残念そうに言った。
「特にびびるような種はねえってことか」
「あのねえ。肝試しに来てるんじゃないんだっつの。ほら、とっとと行くよ」
悪戯をした子供をたしなめるように未来の声が高くなり、ヘルメットに覆われた顔が翔太郎へ向けられる。だが、自然な仕種で有刺鉄線に手をかけて進もうとした彼女を、翔太郎は今一度呼び止めた。
「ちょっと待て」
「何さ?もしかして、怖いの?」
「そりゃ、ちょっとは……って、そうじゃねえよ。ここへ入る前に、あんたに聞いときたいことがある」
背後に立つ翔太郎の目が真剣味を帯びていることに気づき、動きを止めた未来が怪訝そうな色を声に滲ませる。
「……何?」
「あんたは親子の問題に対して、過剰反応してるように見える。特に子どもがかかわることに対しては必死だ。今までに、何かあったのか」
にわかコンビの青年が投げ掛けてきた疑問に、女戦士のチタン合金に包まれた肩が僅かに揺れた。
フルフェイスのヘルメットの下にある未来の表情は翔太郎に窺い知ることはできないが、彼女がすぐに言葉による反応を返してこないことが、既に答えになっているように思える。
たっぷり五秒は間を置いてから、未来はスピーカーを通した声とともに顔を上げた。
「そういうことまで聞く?」
その言い方には、特に怒りや不快感のような強い感情は感じられない。むしろ、何かを諦めたような口振りだった。
翔太郎は決して、浅はかな好奇心や興味からこの疑問をぶつけたわけではない。互いに命懸けの戦いに挑む前に、仲間の本心がどこにあるのかを知っておきたかったのだ。
常に理性的であろうとする未来が何故、自分とは無関係であっても親子の問題が絡むと激昂するのか。
彼女の心にあるアキレス腱が、一体何なのか。
それをドーパントに利用されることを防ぐためにも理解しておきたかったが、一方でこのことは相手の内面に土足で踏みにじりかねない行為だ。特に彼女が事務所で泣いていたことを聞いていた翔太郎は、済まないという気持ちが素直に顔に出てしまう。
「気に障ったんなら謝る。無理に話してくれなくても……」
「助けられなかったの」
翔太郎が見た目の通りに話を結ぶのを待たず、未来が声を被せてくる。
驚く半熟探偵の方は向かずに、彼女は答え続けた。
「便利屋なんてやってるとさ、色んな家の色んな家族を見ることになるわけ。その中には、男と遊ぶ金欲しさに四歳の娘を売る母親とか、再婚した女の連れ子を邪魔者扱いして、食事すら与えようとしない父親とか、人間の屑みたいな親がごろごろいた」
そこで一旦息をついて僅かに下を向いた未来のバイザーが、右手に握ったデザートイーグルに向けられる。
「もうちょっと私が気づくのが早ければ、死なずに済んだかも知れなかった子だっていた。私さえ、あの子たちの悲鳴に気づけていれば……だから自分たちのことしか考えない糞親には容赦しないし、そんな子がいれば私が全力で助けたい。それだけだよ」
未来は淡々と無感情に語ったが、金属に包まれた右の踵が芝生をいらいらと叩いている。顔が見えないことが、却って細かい仕種に内面の感情の揺らぎを映し出していているようだった。
彼女は一見するとしっかりしたキャリアウーマンだが、本当は情に厚く、弱い者を労る優しい心を持つ人間だ。力を持つ大人の自分がいたのに、助けを求めていた子どもたちを救ってやれなかったという自責の念や無力感に、今も苛まれることがあるに違いない。
翔太郎は、自分に対しても怒りをいだいているだろう未来へ静かに問うた。
「だから、健太のことも?」
「そう。それに、昔の私自身もね」
最後の一言は、翔太郎が考えてすらいなかった答えであった。
自身でも予期していなかったらしい言葉が零れ出て、慌てたのはその張本人だったようだ。翔太郎がその真意を問い質す前に、未来が反射的に行動を起こす。
「あ、ううん。何でもない。それより、ここから先は何がいるかわからないから、翔太郎は私の後についてきて」
明らかに上ずっている女戦士の声であったが、翔太郎はそれ以上追及することなく頷いて見せた。
あまり深入りせず、未来の方から話してくれる時を待つべきだろう。今はこちらを信じて背中を預けてくれれば、それで十分だ。
この戦いを無事に終えたなら、彼女が教えてくれたバーで照井も交えてグラスを傾け、長い夜を存分に語り尽くしたい。
危険の渦へ飛び込もうとしている翔太郎が望んだのは、そんな平凡なことであった。
旧AWP棟の入り口に当たるガラスの自動ドアはめちゃくちゃに割れており、侵入は容易かった。昔の火事で割れた切りそのままなのだろうが、管理がおざなりになっているとしか思えない印象が拭えない。C-SOLという施設全体が厳しいセキュリティの中にあるため、廃墟となっている建物も一定以上は荒れ果てないという安心感もあるのだろう。
しかし電気の供給がないため中に入ると真っ暗だし、万一のことがあっても人が呼べないというのは頂けない。こんなところに、本当に山波博士が潜伏しているのだろうか?
と、翔太郎が疑問を表情にも浮かべたとき、彼の右手に何か固くて冷たい棒のようなものが握らされた。
「これ、使ってよ。私は何もいらないけど、あんたは足元が暗いと危ないでしょ」
すぐ側で未来の声がし、直後に足元が強く丸い光に照らし出される。彼女が翔太郎に持たせた強力マグライトのスイッチを入れたのだ。
「ああ。ありがたく、使わせてもらうぜ」
翔太郎が暗闇に慣れつつあった目を眩しそうに細めながらも、傍らの未来に礼を言う。マグライトは軍用のものらしく、造りもがっしりした重いものだった。
「ただし常に下を向けて、遠くは照らさないで。足元以外は照らしちゃダメだよ。明かりに勘づかれるかも知れないからね」
ヘルメットの下では委員長面をしているだろう未来に、翔太郎はやや間を置いて頷いた。当然のように指示してくるのは正直カチンとくるが、ここは破壊工作任務に特化している者に従うのが正解なのだ。
言われた通りにライトを下に向けると、砂埃が積もった床は表面が剥がれ、円形の光が動く中全てに瓦礫が散っているのがわかった。火災の時に消火剤に流されたらしい真っ黒な汚れも、荒れた床の至るところに歪な模様を描いている。更に横へ光を向けると、壁際にはこれも埃まみれの長椅子が倒れており、液晶式掲示板の一部が焼け焦げて変色しているのが見えた。
「気をつけて、そこらじゅうにガラスとか廃材が散ってるよ」
一歩前を歩いている未来が呟き、警戒しながら壁の方へと進んでいる。暗視装置を通した視界の中でガラスの破片を踏み砕き、安全を確保してくれている彼女の側へと翔太郎も足を進めた。
二人は入口を入ってすぐの玄関ホールを通り抜け、煤にまみれた受付けカウンターを尻目に奥へと分け行っていく。大人数人が並べる広さがある廊下では、ところどころが崩れた壁から中の配管や断熱材が剥き出しになって朽ちているところもあり、外気が容赦なく吹き込む建物は劣化が急速に進んでしまうことを物語っていた。
これでは自分たちが暴れたら、ビル全体が崩れてしまう危険すらあるのではないか。
今までの戦いで建物の崩壊に幾度となく巻き込まれた翔太郎も、人様の土地でそんな騒ぎを起こすのは流石に気が引ける。彼は剥がれかけて変色した壁紙や割れた非常口の案内ランプを眺め回しながら、そんな懸念を口にした。
「随分と傷みが激しいな。戦う時は注意しねえと、この建物自体がやばそうな気がするぜ」
「もっと予算がついたプロジェクトだったら、こんな廃墟も速攻で取り壊せたんだけどね。私たちサイボーグを産み出したAWPは事実上凍結されたから、資金の関係でここも放置せざるを得ないみたい」
サイレンサーつきのデザートイーグルを片手にした未来は、翔太郎の方ちらりと振り返ってからつけ足した。
「最悪の場合でも、私たちが無事ならそれでいいよ。どうせここはもう使わない建物なんだし、死人さえ出なけりゃ遠慮することはないから」
含みのある女戦士の言っているのは、ここが倒壊しようが人的被害さえ出なければ構わないということである。一見すると高そうなビルも、放置するより手っ取り早く壊したほうがいいという考えなのだろう。これも自分たちが普通の人間ではなく、万一のことがあったとしても生き残れる自信があるからこそ言えることなのだ。
「お、おう」
彼女の女性らしからぬ豪快な物言いに自分を何とか納得させると、翔太郎は様子が変わってきた廊下の様子に注意を向けた。
廊下の左右にずらりと並ぶのが各種の実験室であったことは、スチールのドアの上に掲げられている英語の案内板から見て取れた。ガラス窓のついた自動ドアは殆どが半分開いた状態になっており、隙間から奥へ射し込むマグライトの光が、広い実験机やオートクレーブ、遠心分離器といった機材の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
中にはストレッチャーや点滴スタンドのような医療機材もあり、翔太郎はまるで朽ち果てた病院に迷い込んだような気がした。
「このAWP棟では、どんなことをやってたんだ?」
ふと興味を覚えた半熟探偵が素朴な疑問を投げ掛けると、前を行く未来が埃っぽい闇の中を見据えながら答えた。
「今私がいるところと変わらないんだとすれば、主にサイボーグ手術とメンテナンスかな。だからここのにある機械の大半は、主に医療と生理科学の研究設備だと思うよ。地下に射撃場や訓練施設もあるかも知れないけどね」
「だから病院っぽい内装なんだな」
「病院の廃墟と違うのは、ここで死んだ人間は恐らくいないってこと。もっとも、私が知ってる以外の実験体がいた場合はわからないけどね。私が言えるのは、人体実験は最低限にしかやってなかったみたいだってことだけだから」
チタン製ヘルメット越しに発せられた最後の一言がやけに無機質に聞こえ、翔太郎は反射的にいもしない誰かの気配を一瞬探っていた。
二人分のぼそぼそとした話し声と足音がしんと静まり返った廃ビルに響いていくが、墨を流したように黒く塗りつぶされた闇には生き物の気配はない。が、逆にすぐ近くの闇が蠢いているような錯覚を覚えさせ、廊下の影から血塗れのゾンビやエイリアンが飛び出してもおかしくない不気味さが煽られている気がする。
しかし未来は自分の目で直接確かめたものしか信じない性格である上に、パワードスーツに守られている安心感があるのだろう。必要以上に慎重に歩む翔太郎をよそに、ずんずん奥へと進んでいった。
彼らは数分をかけて建物の中ほどに位置すると思われる階段を見つけ出したが、その手前で一旦立ち止まり、未来は辺りをゆっくりと見回した。
「この階には、私たち以外に誰もいないね」
「どうしてわかるんだ?」
下方に続く闇へと口を開けている階段へと注意を向けた未来に、翔太郎が問い返す。
「心臓の鼓動の数と種類をざっと調べたの。私の聴覚は普通の人の五百倍くらいなんだけど、このスーツはそれをもっと引き上げてくれる機能があるから。人間は、私たち以外にいないと思って間違いないよ」
そう断定した未来の言葉に倣い、マグライトを手にした翔太郎も耳をそばだてたが、勿論何も聞こえてはこない。首を傾げている半熟探偵を尻目に、彼女は続けていく。
「とりあえず、地上階は無視することにする。問題なのは地下だからね」
「上のフロアは調べもしねえのか?」
翔太郎が闇が淀む階段の上方に目をやると、未来は頷いた。
「もし明かりが漏れていれば警備員も気がつくはずだし、上は殆どガラスが割れてたでしょ。精密な実験ができる環境にあるとは、とても思えないから」
「……なるほどな」
筋の通った説明に、翔太郎が納得する。
「ついでに火事の火元は、この奥にある配電盤付近の天井だったんだって。炎は高いところに回っていくし、それなら地下の設備は無事な可能性が高いじゃない?だとすれば山波が潜伏してるのは、破損が軽い地下の確率が高いってことだから……それじゃ、足元に気をつけてね」
更に続けられた言葉は、説明というよりも事実に基づいた根拠から来る推測であったが、これに関しても翔太郎に異存はなかった。その論理的思考に従い、彼は真っ暗な地下へ躊躇いなく下りる未来に従うこととなる。
このような判断が必要な状況で勘や感覚に頼らないのが、翔太郎が未来の能力を高く評価する要因のひとつであった。理屈を重んじるのは男っぽい思考なのだが、相手が女性であることを気にしなくていい分、遠慮なくものが言えるのもありがたい。
信頼感を持って金属の背中を見つめてくる翔太郎には気づかず、未来は真っ暗な中を下っていく。壁材が散らばる階段はほどなく終わる直前で足を止めた彼女は、先と同じように無言で佇んだ。やはり、音を探っているのだろう。
「小さいけど、何種類か機械が動いてる音がする。やっぱり山波がいるのは地下に間違いないみたい」
数秒間動きを止めていた未来が呟いて、階段の先の空間を慎重に覗いた。
外からの光が遮断された空間には色も音もなく、翔太郎には足元を照らすマグライトの光源しか頼れるものがないため、この先がどうなっているのかが全くわからない。
「この階段から先は、左右に廊下が伸びてるの。研究室はまだたくさんあるみたいだし、それぞれの部屋をちゃんと調べる必要があるね。音はどっちかって言うと左の方から聞こえるみたいだから、そっちしか行くつもりはないけど」
未来が視界のきかない翔太郎に説明してくれるが、多分彼女もこの建物の構造自体は知らないのだろう。もう少し根拠が欲しいところだった。
「心臓の音はどうなんだ?」
「それが、機械の音に紛れてよくわからないんだ。山波はこの階にいるんじゃないのかも知れないし。根気良く、一つ一つの部屋を見ていくしかなさそうだよ」
翔太郎の問いに、未来が肩をすくめて見せる。とりあえずは、唯一の手掛かりである音を頼る他はないようだった。
即席のパートナーから異論が返ってこなかったことを同意とみなした未来が地下一階の廊下に下り立って、手招きをする。
「ここから先は翔太郎も注意して。罠が仕掛けられてる確率が高いから」
「じゃあ、こいつも先に行かせよう」
不気味に静まり返った廊下の先を睨む翔太郎の手元から、何かが飛んだ。サイレンサーつきデザートイーグルを構えた未来の頭の横をすり抜け、黒い羽根を広げた小さな影が音もなく廊下の闇を滑っていく。
蝙蝠の形をしたそれは、探偵道具を兼ねたメモリガジェットの一つであるバットショットだ。デジタルカメラの機能を持つバットショットは、撮影した動画や画像をスタッグフォンに送ることができるため、偵察道具として最適なのだ。
「へえ、なんか可愛いね」
「だろ?なかなか役に立ってくれるんだぜ」
十数メートルは先を飛んでいくバットショットを見送った未来が素直な感想を漏らすと、翔太郎が得意げに頷いて見せた。二人は足音を立てないように注意しながら、バットショットの後を追う形で進んでいく。廊下は先の方で鋭く折れているらしく、未来の視界から既に姿を消していた。
翔太郎が先行するガジェットの映像を確認しようとスタッグフォンを取り出し、画面を切り替えたその時である。
廊下を映し出していた画面が唐突に振動し、大きく乱れて動きを止めた。バットショットが強い衝撃を受け、床に落下したのだ。
「っておい、いきなりかよ!」
翔太郎が慌てると同時に、他の異音をも捉えたらしい未来が鋭く反応する。
「翔太郎は下がってて。このすぐ先に、何かいる!」
低く緊張した警告を発するや否や、科学の鎧を纏った女戦士が走り出した。