「……ん……」
鳴海探偵事務所に据え置かれたベッドに突っ伏していた亜樹子が、小さく息を漏らして上半身をよじる。同じ姿勢で長時間眠ってしまったせいか、首と肩がみしみしと軋みを上げそうだった。
あまり大きく動くとベッドで寝ている健太を起こしてしまうため、毛布の上で伸びた腕を慎重に動かしていく。彼女はそっと顔を上げ、健太の様子を見つつ体勢を変えようと試みた。
しかし亜樹子の寝ぼけ眼に映ったのは、もぬけの空となったベッドであった。
「あれ?健太くん……」
眠気の残る顔で呟いてからベッドを囲うカーテンを開け、静まり返った事務所内を見回す。
翔太郎のデスクやコーヒーメーカーが置いてあるオフィススペースに、全く人の気配はなかった。
「いない……?」
驚きを混ぜた一言を発すると、自分の声で徐々に目が覚めていくようだった。ここにいるはずのもう一人の人物を求めた亜樹子が、立ち上がって応接スペースの方へ移動する。
「堀内さん?」
呼び掛けてみても、暗い室内から反応はない。仕方なく壁伝いに進み、手探りで電灯のスイッチを入れてみる。すると、深夜に眩しく照らし出された事務所には自分以外に誰の姿もないことが改めて判明した。
「堀内さんまで……二人とも、こんな時間にどこに行っちゃったの」
目的の人物を見つけられなかった亜樹子の頭の隅で、昼間に襲ってきたラース・ドーパントの不気味な影がちらつく。不安に駆られ、全身からたちまち眠気が吹き飛んだ。
慌てて事務所内をもう一度見回し、外廊下やトイレ、ビルの屋上にも確認に走ってみたが、やはり二人とも見つからない。
健太と堀内は、忽然と姿を消してしまったのだ。
わざわざ自分がついていながら、何たる失態か!
自身に渾身の突っ込みを入れたい気持ちを抑えて事務所まで戻った亜樹子は、ガレージへと飛び込んだ。
「大変よ、二人とも!」
勢いに任せて開け放たれたドアが立てた派手な音に、未だモニターを睨み続けて調査を続行していたらしい照井とフィリップが振り返る。
「どうしたんだい、あきちゃん」
「健太くんと堀内さんがどこにもいないの。消えちゃったのよ!」
「何?」
フィリップが不審そうな色を浮かべ、照井は亜樹子の慌てた様子に眉を跳ね上げた。
「一応、このビルの中は一通り確認してみたんだけど……やっぱり、二人とも姿が見えないのよ」
亜樹子が作壁際の業机から立ち上がってきた二人の男の顔を交互に見やり、情報を足していく。
フィリップも照井も疲労の濃さを隠せない表情だったが、すぐに状況を悟ってくれたようだった。照井が先に口を開き、現時点で最も疑いたくなる事態を言葉にする。
「山波の仕業か?」
「その可能性は否定できない。しかし何故、健太だけでなく堀内までいなくなったんだろう?どうもそこが引っ掛かる」
「最初に健太が姿を消して、堀内が探しに行ったのかも知れんな」
フィリップの指摘にも冷静に頷いた照井とは逆に、亜樹子は合点がいかないと態度と言葉で示してくる。
「もしそうなら、どうして私に言ってくれなかったのかな……」
不満そうな婚約者に、照井が視線を移す。
「堀内は、未来以上に俺たちのことを敵視していた。自分一人でなんとかしようとしてもおかしくはない」
「って、のんびりしてる場合じゃないわよ!早く何とかしないと--」
そこではっとしたように大きな瞳を見開いた亜樹子が、再び出口のドアへと取って返そうとする。しかし、いてもたってもいられないと見える彼女の肩が、照井の大きな手に押さえられた。
「落ち着け。まず、俺たちでこの近所を探してみよう。二人で買い物にでも行っただけなのかも知れん」
真夜中に幼児と二人、しかも土地勘がない場所でうろつくなど無理のある話だが、どんな小さなことでもあり得ないとは言い切れない。亜樹子に続いてフィリップも照井の提案に同意すると、女所長はすぐさまガレージの外へ足を向けていた。
「わかったわ。私は公園の方を探すから、残りは二人でお願い。十分後に、またここに集合ね!」
彼女の寝起きを感じさせない行動力を見せられ、残る二人の男たちも後へと続く。
彼らは三人でかもめビリヤード場がある古びたビルから飛び出すと、各自が散り散りになってコンビニエンスストアやファミリーレストランなど、比較的風都の街事情に明るくない者が行きやすい場所を確認していく。
が、人の姿もまばらとなっている静かな街に、求める二人の姿を認めることはできなかった。
「いた?」
十分後、事務所に戻ってきた亜樹子が息切れしつつフィリップに問うが、天才少年は首を横に振るばかりだ。そこへ丁度戻ってきた照井も、聞かれなくとも同じ仕草をして見せてくる。
まだ荒い息を落ち着かせようとしながら、フィリップは革ジャケットを脱ぐ照井に視線を向けた。
「健太が施設に帰りたがって、堀内が連れ出した可能性は?」
「念のためにさっき確認してみたが、施設側には何も連絡はないし、誰かが戻ってきたこともないそうだ」
額の汗を軽く手の甲で押さえた照井は、他の二人に比べるとあまり呼吸数が上がっていないように見える。鍛え方が違うのだろう。
「せめて、健太がどこにいるかさえわかれば……」
事務所に引きこもり気味のフィリップが、額を流れ落ちる汗の滴を同じように拭ったときである。中腰になって腿に手をついていた亜樹子が、弾かれたように姿勢を直して声を上げた。
「あーっ!」
「どうした?」
「私、迷子札代わりにって、健太くんに発信器を持ってもらってたんや!すっかり忘れとったわ」
思わず出た関西弁は、彼女が本気で失念していたことを物語っている。しかし仲間の二人は、それを咎めることなく頷いた。
「すぐ確認してみよう」
今度はフィリップが一同の先頭となってガレージに戻り、調査用端末がある作業机へ向かった。
電源を入れっぱなしになっていた端末の画面にフィリップがパスワードを打ち込んでロックを解除し、すぐに発信器の電波追跡用アプリケーションを起動させる。すると、ほどなく広域の地図が画面一杯に表示された。徐々に縮尺が狭められながら精密な位置が自動的にスクロールして調整され、最終的に半径三百メートル程度のある一点を中心とした場所で止まる。その地図は、風都からさほど遠くないが徒歩で移動するには無理のある海辺を示していた。
「随分離れた場所にいるようだが……ここはつい何日か前に僕たちが戦った、あの研究施設じゃないか?」
地図の真ん中で赤く点滅する点を見つめたフィリップが、改めて住所の詳細を確認してから驚きの声を上げた。が、ガイアメモリの研究には大がかりな設備が必要なことは、誰よりも知っている彼である。もし健太が山波に連れ去られたのだとすれば、さほど奇妙なことでもない。勝手知ったる嘗ての勤務地に身を潜めるのも、十分に可能性があると言えよう。
フィリップが意外そうに目を丸くしていたのは一瞬だけで、すぐ落ち着いた表情に戻っていた。
「彼の近くにもう一つ反応がある。これは何だ?」
フィリップの肩越しにモニターを眺めていた照井が、中心から外れた別の位置で点滅している赤い点を指す。
「……それ、翔太郎くんよ。あいつにもこっそりつけといたの」
彼の隣にいた立つ亜樹子が、僅かな躊躇いの後にはっきりと言った。
「どういうことだ?」
「翔太郎くんは、未来さんを助けに行ってる。彼女に、山波博士を殺させないために」
別段隠すこともないと判断したらしい亜樹子が、今度は更に具体的な言葉を口にする。照井からやや強く問い返されても、気圧された様子は見えない。
そして、反射的に椅子ごと振り返ってきたフィリップの顔と婚約者の顔を交互に見ながら、ゆっくりと続けた。
「未来さんが戦いに行ったことは、翔太郎くんに白状させたのよ。竜くんから口止めされてたことも聞いた」
「左から?」
「私だって鳴海探偵事務所の一員、じゃなくて所長なんだもの。一通りのことを知っておく必要があるんだから。翔太郎くんに行ってもらったのは、私の判断よ」
彼女の口調には開き直った図々しさも、逆切れを起こしたした理不尽さもない。あくまで、目の前の仲間たちに自分が取った行動を説明し、理解を求める説得の姿勢であることを感じさせる。
「未来さんは、健太くんを助けたい気持ちが多分誰よりも強い人だと思う。だからこそドーパントと一人で戦うとまで言い切ったんでしょ?それだけは確かじゃない。みんな考えてることは同じなんだから、全員が同じ方向を向くべきよ」
亜樹子が二人から視線を逸らすことなく、偽りのないまっすぐな気持ちを向ける。
その若い娘に特有のひたむきさは、照井とフィリップの心にずきりとする痛みをもたらしていた。
そうだ。
自分たちも、健太を助けたいという気持ちは同じなのだ。未来は先の見えないこの状況を自分の力のみで打破せんとして、ただ勇み足を踏んでしまっただけに過ぎない。そしてそれは、誰よりもか弱き命を守りたいと願う彼女だからこその行動である。
戦う力を持つ者としての気持ちは、照井やフィリップにも痛いほどわかるのだ。そして、ある一面において根本の考え方が異なるから相手を認めない、見捨てても構わないと思っているのでは決してない。そのことを、亜樹子は二人の男に思い出させていた。
「僕たちも、山波のところへ向かうべきだと……」
「しかし、まだメモリブレイクに代わる手段は見つかっていないんだ。俺たちは、その方法を見つけてから行かなければ」
先に亜樹子の視線から目を逸らしたフィリップが呟く一方で、照井は僅かな苛立ちを声に込めている。一旦頭に血が上ると人一倍熱い彼は、まだわだかまりを捨て切れたわけではないようだった。
しかし、亜樹子が今度こそ怒りに近い強い感情を放った。
「今はそんなこと言ってる場合じゃないわよ!あのドーパントが翔太郎くん一人の手に負えなくなったら、未来さんは博士を殺す覚悟を決めてるのよ。それにもし、健太くんの身に何かあったら……」
「……深刻なダメージを受けるだろう。健太を助けられなかった未来も、彼女を止められなかった翔太郎も」
亜樹子の言葉の先をフィリップが継いでも、彼女の激しさはおさまらない。
「それに、今動かなかったら絶対に私たち三人とも後悔する。竜くんも、フィリップくんも、それでいいの?できることをやらないで、犠牲が出るかも知れない戦いを見過ごして、それでいいって言うの!」
フィリップと照井、二人が同じタイミングで鋭く息を飲んだ。
照井もフィリップも大切な人たちを失い、どんなに願っても取り戻せない苦しみを味わっている。後悔など、死んだ方がましだと思えるほどの激しい痛みに襲われる後悔など、もう二度とごめんだった。
そしてその悲しみを誰かに味わわせることも、考えたくもなかった。
自分たちが悲劇を未然に防ぐことができるのなら、それに越したことはない。
敢えて手を下さずにいることで過ちを繰り返すほど、愚かな話があると言うのか?
短い沈黙の後にフィリップが顔を上げ、照井がそれに気づいて視線を下げた。どちらからともなく目配せし合うこととなった二人の男が、互いの意思を瞳に見いだして頷き合う。
「俺たちは、仮面ライダーだ。苦しんでいる人間がいるのなら、例えそれが誰であっても助けて然るべきなのかも知れないな」
「メモリブレイクが完全に安全だとは言えない。しかし、まだ賭けるだけの可能性は残されている筈だ。皆を救うために取る道は、恐らくもうそれしかない」
照井が低い声でこれまでと違う結論を口に出すと、フィリップがもう一度頷きながらもっともらしい理屈を続けた。彼らの背負っている空気が変わっていることに気づいた亜樹子の顔にも、ぱっと明るさが戻る。
照井も微笑みを彼女に返して応えると、まだ椅子に座っているフィリップに棘が取れた普段の調子で言った。
「博打に出ると言うわけか。お前らしくもない」
「僕は、この状況において最も適した方法を示したまでだ。いつも勘頼みの相棒と、一緒にしないでくれたまえ」
軽く茶化してきた照井に、天才少年もにやりと笑って軽口を返す。ようやく余計な緊張感が抜けたことに安心感が芽生えたのか、若き警視は更に続けた。
「お前も成長したな、フィリップ」
「どういう意味だい?」
含みのある台詞にフィリップが反応したところで、亜樹子が二人の間へ勢いよく割り込んだ。
「そうと決まれば、二人とも早よしぃ!戦いの場までの案内は、この鳴海亜樹子にお任せよ!」
これから戦闘へと突入するというのに、甲高い女所長の声には重苦しさが全くなかった。が、その陽気さと前向きな考えこそが、頑なな男たちの心を解きほぐし、結束へと導く鍵となったことも間違いない。
真っ先にリボルギャリーへと走っていく小さな背中を追う二人の男たちは、改めて亜樹子という人物の人柄を教えられた気がしていた。
埃と黴の臭いが微かにする空気の中、翔太郎は不意に鼻の奥がむず痒さに襲われた。
「へっくし!」
耐えきれずにくしゃみを漏らし、慌てて鼻から下を片手で押さえる。
「やべえ。風邪でもひいたかな、畜生……」
彼は口許を覆った手を無意識のまま帽子まで上げ、もう片方の手でデンデンセンサーを目元へと運んだ。幸いなことに、十メートル程先をふらふらと飛んでいるハチドリガジェットが勘づいた様子はない。軽く鼻をすすって息をついてから、小さな影へと再び注意を戻す。
「くそ、どこまで行くつもりなんだ」
地下一階部分の天井が崩落し未来とはぐれてから、実に三十分近く過ぎているだろうか。翔太郎が追跡しているハチドリガジェットの足が遅いせいもあるが、この旧AWP棟というビルの地下階部分の構造が複雑に入り組んでいることが、移動時間が長くなる最大の原因のようであった。
これまでに幾つ実験室らしい設備が残っている部屋を抜け、階段を降り、廊下を通ったかわからない。ただ、伏兵が潜んでいる場所は回避されているらしく、最初の戦闘を除いて足止めされなかったことは幸運だと言えよう。それにしても深夜の廃墟、それも地下施設は全く光源がないだけに、移動に関しては不便極まりない。
ハチドリガジェットの道案内で、墨を流したような闇の中で階段を降りていた翔太郎が、何度か目にそう実感した時である。
彼は、階段の先に続いている廊下がぼんやりした薄明かりに照らされていることに気づかされた。見ると、廊下の両端に点々と小さな明かりが灯っているのが確認できる。それらは以前からあるもののようで、表面には埃が薄く積もっていることもわかった。闇夜の地平すれすれに浮かぶ月のようなそれらは、荒れた廊下に放置された調度品や瓦礫の上に据えられている。
この先に、間違いなく誰かが身を潜めている証拠であった。
「近いな……」
低く呟いた翔太郎の全身に、ざわりと緊張が走る。
彼はいつでも素早く動けるように膝を意識して緩め、リノリウムが剥がれた廊下の先へと飛んでいくガジェットを中心とした周囲に意識を巡らせた。
奥へに進むにつれて明かりの間隔は狭くなっていき、やがてデンデンセンサーがなくても数メートル先にある障害物が見分けられる程度の明るさにまでなってくる。闇から徐々に淡い光の通路に変わっていった先は、一際強い灯りがこぼれる部屋へと繋がっているようで、ハチドリガジェットはゆっくりとその中へと吸い込まれていく。
ごく小さな機械の後ろ姿を見送ってから、翔太郎は錆び付いたドアの脇に身を寄せて慎重に部屋の中の様子を窺った。
ハチドリガジェットが入っていったのは、旧AWP棟の中でも一番大きいと見られる円形の部屋だった。地上近くまで吹き抜けになっていると見える天井は、見上げたままでいると首が疲れるほどの高さがある印象的な場所である。
廃墟の最深部にあっても、この巨大な空間だけは部屋中の電灯やLEDが煌々と光を放ち、様々な機械類が低く唸る雑音に満ちていた。壁は無数のパイプやケーブル、計器類で埋め尽くされ、大型の装置やそれを制御するパネルも要所に設置されており、素人目には化学工場そのものに見える。
しかしその中でも異様なのは、一段下がった部屋の中央に据えられたタンク状のカプセルであった。丸みを帯びた直方体のそれは夥しい数のコードやパイプが繋がれており、カプセル自体の大きさも大人が二、三人は入れるくらい巨大なものに見える。
翔太郎が暗さに慣れた目を眩しさに細めつつ懸命に凝らすと、カプセルの上半分を覆う透明な蓋の下に、人間の形をしたものがあるらしいことが判別できた。
嫌な予感に、胸騒ぎに襲われる。
彼が険しい表情で更にカプセルの中を舐めるように確認すると、見覚えがある男の子が意識を失ってぐったりと横たわっていることがわかった。
「野郎、やっぱり……!」
翔太郎が歯噛みした後に、苦々しげな声を漏らす。
白い実験着を着せられてカプセルの中に眠っているのは、他でもない健太であった。
「……おお、お前だけなのか。兄弟はどうした?やけに上が騒がしかったようだが、侵入者だったのか」
と、やや離れた場所から上がった男性の声が翔太郎の耳を打った。
出入口の陰に身を隠したまま視線を向けると、彼が立っているのと同じフロアの隅にデスクを繋ぎ合わせたブースがあり、その中に立つ男性が宙を漂うガジェットに手を差し出している様子が確認できる。
「どこの誰だか知らんが、騒ぎを起こしてどうしようと言うんだ……まあいい、私は自分のやるべきことをやっているんだからな。私のやらなければならないことはただ一つだけなんだ……」
丈の長い白衣を着ている痩せぎすの男性は、こちらに全く気づいていない。視線を落ち着きなくあちこちに飛ばしては、ぶつぶつと口の中で繰り返し、手元の機械に指先を走らせるばかりである。
どうやら、雑然と機械類が積まれたデスク以外は完全に自分の世界から外れているらしい。ブースに幾つも置かれているコンソールの画面や計器のランプ類の照り返しを受け、顔色がやけに不健康そうに見える。
残念なことに、この手の人間に話が通じる可能性は低いと見て間違いなさそうだった。下手な小細工を弄するよりストレートに話をぶつけるべきだろう。
これまでの経験から直感的に判断した翔太郎は、錆びて動きの悪くなったドアの隙間に素早く身体を滑り込ませた。そこから先は、堂々とブースまで歩み寄っていく。
「あんたが山波博士か」
白衣の男が初めて反応らしい動きを見せたのは、翔太郎がブースのすぐ手前で立ち止まって一声を発した時であった。それまで忙しない所作を繰り返していた手をふと止めて、ブースの中にいる人物がゆっくりと顔を上げる。横から声をかけられた形となった男は、身体ごと向きを変えて応えた。
「私は嘗て一度もそのように呼ばれたことはない。従って、君は私と初対面だと言うことになるようだね。誰だ、君は?」
尊大とも言える口調で返してきた白衣の男は、近寄るとその異様さがよりはっきりと目についた。
頬骨が浮き出るほど痩せこけた顔は無精髭に覆われており、すっかり白くなった艶のない長髪と合わさって、不健康そのものと言った印象である。しかし目だけは異常にぎらついていて、まるで何かに取り憑かれているかのようだ。
常人からでは一見して何をやっているのかわからないのに、鬼気迫る圧力のような空気を纏っているのは、まさにマッド・サイエンティストの二つ名がしっくりくる風貌であろう。
翔太郎が先日見た懐中時計にあった写真の面影は、ほんの僅かばかりしか見て取れない。初めて見る生身の山波勇雄が本当にこの人物なのか、と疑いたくなるほどだ。が、恐らくそれもガイアメモリの汚染が進んでいる証拠だと言えるだろう。
それでも翔太郎は、どこを見ているのか読めない白衣の男の目を正面から見据え、何とか話を続けようと試みた。
「いや。生憎だが、俺とあんたは初対面じゃねえ。あんたは『七つの大罪』ガイアメモリの開発者であり、ラース・ドーパントでもあるんだ。つい最近あんたと戦った者だと言えば、俺が誰かはわかるだろう?」
「……ほう?そうなると、君があの仮面ライダーの片割れということだな。警官が何の準備もなしに単身で乗り込んでくるとは思えない。成程、Wの方か」
あっさりと状況を掴んだ山波に、翔太郎は警戒を解かないまま頷いて見せた。全く話が通じずに戦闘に突入する顛末もやむなしという覚悟もあったが、これは良い兆候と言える。
「君たちが戦っていたのは、たった今これで確認したところだ。あの実験体崩れの女は、一緒ではないのかね?」
「未来は俺の大切な仲間だ。ふざけた言い方はやめてもらおうか」
山波がハチドリガジェットから姿を変えたモニターの映像を確認して触れたのは、先の戦闘のことである。未来を実験体呼ばわりされたことで、楽観的に構えようとした翔太郎は出鼻を挫かれた格好となり、むっと声を荒げた。
「これは失敬。いや、肉体の実に半分以上が機械と人工パーツで構成されている彼女は、面白い実験材料になると思っているのでね。死体だけでも君がここに持ってきてくれるとありがたかったのだが」
「未来を勝手に殺してんじゃねえ!それに、誰がそんなことするか!」
失敬と口先で言いながらも、山波の言葉は仲間を侮辱すること甚だしい。未来が最も気にしているであろう身体のことを指摘してきた男の態度が、翔太郎の神経を逆撫でしたのは言うまでもなかった。
「おや、これはまた失敬。しかしあの爆発でも破壊できなかったとは、流石に軍用サイボーグというところか……やはり、非常に興味深い結果と言えるな……無機物と有機物が人工的に結びついている身体だ。そこに生体コネクタを打ち込んだ場合に、どんな神経パルスの経路が生成されるのかが……」
相手から怒声を返されたにもかかわらず、山波はぶつぶつと続ける一方で全く話を変えようとしない。それどころかデスクの上に散らばる書類にメモを取り続け、また自らの世界の中へ深々と沈み行こうとしているようだった。
つい先ほど翔太郎がいだいた明るい予測が、早くも覆されたことは明白である。やはり単刀直入に切り出さねば、埒が飽かないだろう。
「くだらねえお喋りはここまでだ。今すぐ健太を解放して、『ラース』のメモリを渡せ!そうすれば、俺も手荒な真似はしないと約束する」
突然現れた若い男から一切の前置きを抜いた要求を突きつけられ、山波はその中の一単語にぴくりと片方の眉を動かした。
「健太を、だと?」
そしてその声には、今までの会話と異なる不快そうな響きが混ざっていた。初めて感情を動かされたらしい山波に入り込む余地を見出し、翔太郎が一歩前に足を踏み出す。
「そうだ。あんた、自分が何をやってるのかわかってるのか?自分の血を分けた息子を、人体実験の材料にしようなんて……」
「これは健太に不死の肉体を与えるために必要なことだ。そしてそれが、私から息子にできる唯一の償いだ」
翔太郎の言葉に割り込んできた山波の口調には、微塵の躊躇いも感じさせない。心の底から自信を溢れさせた声音には揺るぎない意思がこもっていることが窺え、それだけに質の悪い姿勢だと言えた。
「償い?」
罪の結晶体であるドーパントである人間から出た意外な言葉を翔太郎が繰り返すと、山波が視線を逸らす。
「私は愛する息子に満足に生きられる体を与えてやることができず、妻は既にその罰を受けて死んだ。私がどれほど苦しんで、自分自身を呪ったか……君にはわかるまい」
山波の濁った光をちらつかせている瞳が、自然とカプセルで眠る健太へと向けられていた。その細められた目に一体何が映っているのか、最早他人である翔太郎が知るところではないようだった。
「だから私は、健太を救う方法を必死で探した。それがガイアメモリを使い、細胞レベルの変異を起こさせることしかないとわかった……それにそれは私の夢だった、不死の身体を作り出すことでもあった。私は誓ったんだ。健太を、名誉ある不死の人間の第一号にしてやろうと」
「そんなことが許されるとでも思ってるのか!子どもは、親の願望実現機じゃねえんだぞ!」
怒りを込め、翔太郎は怒声を放った。
山波は自身の夢を息子の健太と同一視して混同しているに過ぎず、健太は被害者だと言い替えることもできる。そしてそれは皮肉にも、未来が鳴海探偵事務所のガレージで皆に訴えたことの再現でもあった。