遅く、重い春の霞は、街に幾つも散らばる風都タワーの羽根でも吹き飛ばすことは叶わない。時刻は午前六時前だったが、いつもであれば全身を温めてくれる筈の陽光も十分には届いてきていない気さえする。それに比例して、未来の心の中もすっきりしているとは言い難かった。
彼女は風都の外れにある廃工場に、一人佇んでいた。人目を避けるためには、オフィス近くよりも郊外の街である風都の方が好都合だったのだ。
グレーのデニムに薄手の黒いアウター、シンプルなカットソーとバイク用ブーツといういでたちの未来は、足下の砂埃を蹴りながら左手首のダイバースウオッチを頻繁に確認している。もうすぐ呼び出した人物との待ち合わせの時刻だが、準備が思ったよりも早く終わってしまい、三十分程度こうして待つ羽目になってしまったのだ。その間はこれから持たれる話し合いから発展するであろう、ややこしい事態のことを考えねばならず、正直頭痛を感じるほどだった。
事の前の緊張をあまり長い時間持て余すのも精神衛生上好ましくない。できることなら、話し合い開始から五分で片をつけたいところである。
しかしそのためには問答無用の実力行使が最も有効であったことは自明の理で、自分が選択した方法がとんでもない間違いであったのでは、という疑問も今更頭をもたげてくる。決めた後に後悔するのは自分らしくなかったが、今回は誰にも相談できなかっただけに、他の方法にあった可能性のことを考えるとそれだけで苛立ちを覚えてしまっていた。
未来がもやもやした胸中を鎮めるために深呼吸した時である。
彼女の強化された鼓膜に、靴底が地面を擦る音が届いた。音はガラス片や草を踏む雑音を含みながら、次第に大きくなってきている。誰かが正面から近寄ってくることを察した途端に未来は厳しい表情になり、携帯している武器を無意識のうちに服の上から確認していた。
彼女が戦士として訓練が行き届いた身であることの証である仕種を終えた時、足音の主がくたびれたスーツ姿で倉庫の入口に姿を現していた。
背は高くない筈であるのにひょろ長い体格という印象があり、男性の割には長い前髪の間から覗く黒い瞳が、無駄に輝いているように見える。便利屋稼業に向いていると言えいない、貧相な身体を左右に揺らしながら歩いてくる若い男は、薄い笑いを浮かべて挨拶の言葉を冴えない色の唇に上らせた。
「所長、お待たせしました」
第一声に妙な高揚感があるように聞こえたのは、未来の気のせいであろうか。
彼女の部下である堀内は、約束の時間ぴったりに姿を現していた。
「いきなりどうしたんです?いきなりこんな朝早くに呼び出して、二人きりで話がしたいなんて」
「ちょっとね。悪いけど、そこで止まってくれない?」
数メートルもないところまで迫ってもまだ近寄ってくる堀内へ、未来は後退りしながら警戒の色を含めた声で言った。
「俺と所長の仲じゃありませんか。もっと近くに行きますよ」
しかし堀内は明らかに硬い上司の言葉を耳にしても、まるで聞く気を持っていないようだった。まるで心の中にずかずかと踏み込まれているような嫌悪感を覚えた未来が、更に低く強い口調でぴしゃりと拒絶する。
「止まれって言ってるんだよ。命令だ、同じことを何度も言わせるな」
警告とも取れる威圧感をやっと受け取ったのか、ずんずん進んできていた堀内の足が止まる。二人の男女の間は縮まっておらず、不可視の壁が彼等を隔てていると言っていいだろう。少しでも側に寄ろうとする男と、距離を保ちたい女とでは、決定的な温度差があった。
ほぼ臨戦態勢を取っている未来を一瞥した堀内が、大袈裟に溜め息をつく。
「やれやれ。折角、あんたのこんな急な呼び出しに応えてやったってのに……何なんです、その言い種は?謝れば、許してあげないこともないですよ」
唇を歪めて笑いながら続けた堀内は、更に舐めるような目を女上司へと向けてきた。
身体を這い回る視線と傲慢とも取れる言い方に、未来の表情が険しさを増す。細く整った眉を吊り上げて、彼女は言葉を叩き返していた。
「今、何て言った?」
「だから、あんたが俺に謝れば……」
「上司をあんた呼ばわりするつもり?いい加減にしなよ」
言いかけた部下を遮って、未来が再び強く言い放つ。
堀内の上司を小馬鹿にする言い種は、いつも仕事中に見せていたおどおどした様子からは想像もつかない。昨日電話で話をしたときはよそよそしい感じしかなかったのに、たった一晩で彼の何が変わったと言うのだろうか。今の彼の態度は、これまでと真逆の傲岸不遜そのものだ。
未来の驚きをよそに、堀内は鼻を鳴らして皮肉を口にした。
「へえ。謝らせてやる機会も、棒に振るつもりなのか」
「ふざけないでよ。どうして私が、あんたに頭を下げなきゃなんないわけ」
内心の不快感を熾火の如く燻った怒りに替え、未来は詰問調の話し方になっていた。
自分が堀内に謝らねばならないなど、全く意味がわからない。
どうやら彼の頭の中では未来が何かしでかしたことになっているようだったが、勿論心当たりがないことに対して謝罪するわけにはいかない。それ以前に、自分の中だけで物事を勝手に進められるのは厄介な上、迷惑千万極まりなかった。
「何で、そんなに怖い顔してるんです?まあいいや。言い訳なら、聞いてあげますよ。どうしてこんなところに、何をするわけでもなく俺を呼び出したのか」
堀内は返事の途中からそっぽを向き、視線だけを未来の方へ投げやっていた。完全に相手を見下した接し方からは、まともに話をする気がないことが嫌でも伝わってくる。
未来は、もともと神経質なところがあった堀内であれば、話し合いで何とか説得ができるのではないかという淡い期待を抱いていた。これまで上司を重んじてくれていた彼は、自分の言葉を聞き届けてくれる可能性が高いとさえ思っていたのだ。
そこへ、再度のこの言いようである。
堀内が最も重きを置いていた人物のことさえ蔑んでいる今、もう彼の心にはどんな言葉も響かせることができなくなっていると見ていいだろう。これ以上回りくどいことをしていては、却って面倒なことになりかねない。
未来は諦めと覚悟の入り乱れた胸中を抑え、威圧感がある声を保ったまま言った。
「なら、単刀直入に言うよ。あんたなんでしょ、私の前に何度も現れたドーパント……ラスト・ドーパントは」
「……は?」
言葉を切ってからまっすぐに睨みつけてくる未来へ、堀内は素っ頓狂な一言を発した。
意外なことを聞いたために面喰らったのではない。表情だけの薄笑いから肩を揺らした笑いになっているのが、何よりの証拠である。相手を茶化す目的で、わざとハイテンションに振る舞っているのだ。
しかしその笑いには快活さの一片も見当たらず、どこか暗さを感じさせる病んだ響きがある。まるで悪意をメイクの裏に隠したピエロが、無理やり周囲を巻き込もうとしているかのような怖気をもたらしてきていた。
廃材や錆びた鉄骨が転がる荒れた屋内に、堀内の高い声が虚ろに響く。
「ははは!何です?ドーパント?それって、俺やあんたを襲ったあの怪物ですよね?そんなものに、どうして俺が……」
「とぼけるな!」
未来の怒声が飛び、自分のペースを保ち続けようとしていた青年の不気味な笑声を打ち消した。
敵を黙らせるための迫力に満ちた声で一括され、堀内がぴたりと高笑いを治める。同時に、あれだけ激しく感情を出していた顔が能面のように動きを凍りつかせた。
一瞬で表情を削ぎ落とした堀内が、ゆっくりと未来の方を振り返る。長い前髪の間から覗く淀んだ瞳が、不自然にぎらついているように見えた。
「……どうして、そこまで強気でいられるかがわからないな。単なる思い込みだけでものを言ってると、痛い目に遭いますよ?それも近いうち」
「事務所の床から、ガイアメモリの欠片を見つけた。それに、監視カメラにガイアメモリを持ったあんたが映ってたのも確認したよ」
普段の行動からは想像できないほど異質な態度を取り続けている堀内に、未来は事を運ばせるのを許さない。
しかし明白な事実を突きつけられても堀内は何も答えず、表情にも全く変化をきたさなかった。ただ、こぼれてきた長い前髪を首を振って避けただけだ。
すかさず、未来が鋭い言葉で今一度射抜いた。
「それから、その癖。髪の毛なんかないラストも、何回も同じことをやってたの。あんた最近、何かあるとポケットに右手を突っ込んでたよね。もしかして、メモリをお守りみたいに握ってたんじゃないの?」
堀内が危険な状況に陥ったり、思い詰めた様子を見せた際の行動で思い当たったところを指摘し、未来は更に踏み込んでいこうとする。
堀内はやはり答えず、ただじっとこちらの顔を睨んでくるだけだ。
脅しのつもりで、未来は決定的になるであろう一言を口にした。
「まだ言い逃れをするつもりなら、今ここに仮面ライダーたちを呼んだっていいんだよ」
そう。
翔太郎にフィリップ、照井や亜樹子らは、今ここで起きていることを知らない筈だった。
未来は堀内が一番の屈辱を覚えるであろう、仮面ライダーたちとの連携を宣言したのだ。
彼女は部下である堀内がラスト・ドーパントであることを、これまでに積み重ねられてきた小さなヒント全てから判断したが、それを仮面ライダーたちに明かすことはなかった。
確証がない憶測で皆を振り回すわけにはいかないということもあったが、何より余所者の介入を嫌う堀内の自尊心を、むやみに傷つけたくなかったのだ。彼は未来自身が判断して採用した人材であるし、何より自分を慕ってくれていた部下であることに変わりはない。だからこそ、自分だけの手で何とか事態を解決に導きたかったのだ。
しかし、そんな意図が堀内に伝わっているとはとても思えない。
未来は軽く息をつき、力が入りがちだった声を若干緩めた。
「堀内……あんた、ちょっと前に言ってたよね?誰かのためになれてることが嬉しいし、ようやく人生が充実し出してきたって。私だってさ、そう言ってくれて嬉しかったんだよ。最初の頃はろくに電話も取れなかったあんたが、どんどん自信をつけて明るくなってきてるのがわかったから……あんたの人生を変えることができたかも知れないって、そう思えたから」
時々詰まりながらも話したことは、未来の本心である。
未来にとって、堀内は大切な部下の一人だ。入社当初は殆ど何もできなかった彼を、ここまで何とか育てたのは自分だという自負もある。
それは、彼がガイアメモリを使ったからと言って変わることはない。
そのことを伝えるだけでも、自分という存在を壊しかねないガイアメモリを手放すきっかけになるはずだった。が、堀内の瞳に僅かながら現れた変化と言えば、明らかにこちらを蔑むような色が増してきたことのみだ。
それでも、未来は諦めていなかった。部下を放り出して責任を全うしないなど、上司として失格もいいところである。彼女は努めて平静を装い、説得を続ける。
「それに、健太くんのことだって……あんたはラースが襲ってきた時も、必死であの子を守ってたよね?あんたにとって最初の依頼人ってこともあったろうけど、誰かを守る強さだって身についてきてたじゃない。ほんと、成長したよね……なのに」
そこで、未来はぐっと声を詰まらせた。
彼女は漏れ出そうになる怒りと悲しみを堪えて軽く息を吐き、両の拳が白くなるほどきつく握りしめる。しかしそうまでしても抑え切れない激情が声を震わせ、口調までをも不安定に揺らした。
「それなのに、どうしてガイアメモリなんかに手を出した?あんなもの、それこそヤクと一緒なんだよ。頼むから、取り返しがつかなくなる前にメモリを捨てて。今なら、まだ遅くはないんだから……」
女上司の苦しみに彩られた声を耳にした堀内が、目を逸らして顔を俯かせる。長い前髪が神経質そうな横顔を覆い、表情を隠した。
ガイアメモリに呑まれた者の末路を知る未来の脳裏に、廃人となり果てた堀内のイメージが横切る。できることなら今すぐ彼に飛びかかり、力づくでメモリを奪って破壊してしまいたかった。
しかしそれでは、堀内の自尊心を傷つけてしまう。彼が自分の想いを受け入れてくれることを願い、未来は沈黙を守る青年の言葉を待った。
たっぷり数十秒は空白が空いただろうか。
堀内が顎を上げ、未来の正面に向き直る。顔はやつれているが、まっすぐに見つめ返してくる瞳にもう迷いは見えなかった--
ただし未来がいだいていた期待とは逆の方向に、である。
「ふん……」
ズボンのポケットに両手を突っ込んだ堀内が、息を漏らして笑う。その顔は、悪事が暴露されて開き直った罪人そのものであった。
「流石に俺が見込んだだけのことはある女だな、所長は。ちゃんと、見るところは見てたってわけですね。どうも薄々気づいてはいたみたいだけど、俺のどこにそういう不自然さが出てたんです?」
堀内の薄い唇の端を吊り上げている様に、陰湿さが滲み出ているようであった。
上っ面の丁寧語が混ざる言葉を耳にして、今度は未来が短く息をつく。感情を覗かせていた先とは異なる毅然とした態度で、彼女は皮肉を受け止めた。
「商売柄、人のことをよく見る癖があるから。どうとはうまく言えないけど、あんたの様子がどんどん変わってきてたから、おかしいと思ってたんだよ」
堀内にメモリを捨てるつもりはない。
直感的に、未来は悟っていた。
厳しく言い放つ一方、心に残されていた希望が崩れていく音を感じると、彼女は頭が急速に冷えてきていることを自覚した。取るべき手段の幅が極端に狭くなったことを、本能が警告として告げているのだ。
本当にもう、自分が堀内を救うことは叶わないのだろうか?
一縷の望みにすがる祈りと、諦めの気持ちとが女所長の中で激しくせめぎ合う。だが、彼女の口から出たのは淡々とした質問のみであった。
「そんなことより、どこであんなメモリを手に入れたの?」
「入院中ですよ。健太の親父さん、風都セントラル病院で配膳係のバイトをやってたんだ」
ぺらぺらと喋り出した堀内に言われて、初めて未来もはっと気がついた。
彼を翔太郎と見舞った際に配膳係の男性にぶつかりそうになったが、今思い出してみるとあれは確かに山波だったのだ。
「あの探偵とあんたが最初に見舞いに来た後、親父さんはガイアメモリを渡してくれた。誰よりも強くなれる道具だと言ってね」
堀内は未来から意識は逸らさず目線だけを遠くして、ガイアメモリを手にした日のことを思い出しているようだった。確かに本人が言う通り、未来に詰め寄ったり、もっと自分を頼れと懇願してきたり、普段と違う様子が目につき始めたのはその頃と前後する。
それにしても、山波が堀内にガイアメモリを渡していたのは予想外だった。追っ手である永峰の手がごく身近に及び、息子の身まで押さえられいるとわかって、余程焦っていたのだろう。とにかく手駒を増やそうとして、手近にいた堀内を引き入れたに違いない。
未来が思案を巡らせてこれまでの状況を整理する間も、堀内の語りは続く。
「親父さんは、俺の話を親身になって聞いてくれたんだ。俺に力を貸す代わりに永峰を牽制して、健太に近づく手助けをするっていう約束で……流石に、親父さんまでがドーパントだとは思ってなかったけど」
堀内がそこで言葉を切ったが、今度は未来が沈黙を守る番である。
目の前で不快そうに眉根を寄せている女から視線を外し、わざわざ横目で見る堀内の口調には、暗い自嘲の響きが感じられた。
「人間なんて、所詮自分のためにしか生きていない。そのためには平気で人も利用するし、裏切ったりもする。俺はやっと、そのことに気づいたんだ。それからは、あのメモリを使うことを躊躇しなかった」
「何が言いたいの?あんたが誰かに裏切られたから、その復讐のためにドーパントになったとでも言うわけ!」
部下に当たる青年の勝手な言い種に、未来が思わず語気を荒げる。
誰かに裏切られた時に受ける精神的ダメージは理解できるが、だからと言ってガイアメモリを使っていい理由にはならない。まして、復讐を遂げるためにドーパントとなり暴虐の限りを尽くすなど、断じて許されるわけがない。
プライドやラースが仮面ライダーたちと戦い、戦い敗れて倒れ伏した姿を、今までの未来は自業自得だと思っていた。が、それがごく親しい者のこととなれば話は違う。
堀内がこれ以上ガイアメモリの毒に染まることを、断じて許してはならない。必要であれば、どんな手を使ってでもメモリを奪って破壊せねばならないのだ。
そう判断した未来が、じりっと片足を動かそうとしたその時である。
「俺は力が欲しかったんだ。あんたを守るための」
「……え?」
部下が発した言葉を聞き咎め、彼女は思いがけず行動を中断される羽目になった。