夜明け前は、一般的に最も闇が深まる時間帯とされる。
深蒼に沈む空では星が煌々と白く瞬き、欠けた月が静かな光を投げ掛け、地上では静寂が全てを支配する。陽の下で生きる誰もが、深い安息の眠りにつく時であると言えよう。街は勿論、自然もその掟に従い、獲物を求める夜行性の動物が時折僅かな音を立てる程度しか異音を孕まない。
が、風都の外れに広がる鬱蒼とした森の中では、この掟を破る者たちがいた。
土の地面を覆う、朽ちかけの落ち葉を不規則に踏む音。
調子は千鳥足の人間のようであるが、音を立てているのは人の姿を象った土塊であった。顔にはやはり土でできた無表情な仮面をつけ、のろのろと木々の間を移動していく。不自然に肩を揺らして泥の身体が歩くさまは、遠目から見れば生命の尽きた死体が何かに操られて動いている、と勘違いしそうな不気味さである。
三人連れ立ってゆっくりと行く泥人形たちは虚ろな目を左右に振ることもせず、ただただ前を目指して歩いていく。自分たちを造り出した主の命令を守るだけの身体には、「考える」という高等な真似が備わっていない。その代わり邪魔する者があれば、まさにその身が砕けるまで攻撃してくる恐ろしさがあるのだ。
この泥人形を知る存在は風都の市民でも襲われたことがある者しかないが、彼等の行動原理を知ってさえいれば、対処のしようもある。
まさに今それを実践した者がいるとは、彼らを造り出した存在も知らないことであろう。
泥人形たちが歩く十メートル以上は後ろの方で、慎重に起き上がる人物がいた。
「……よし、行ったかな。二人とも、こっちだよ」
墨を流したような暗闇の中で、これもまた目を凝らさなければ姿の判別がつけられない姿は、まるでロボットのようなシルエットをかすかに浮き上がらせている。パワードスーツを身につけた未来が雑木林を巡回する泥人形たちをやり過ごし、立ち上がったのだ。
彼女のヘルメットに内蔵されたスピーカーを通した密かな声に応じ、そのすぐ側で二つの影が立ち上がる。
ただし、その二つはまともな人の姿をしているとは言い難いものであった。まるで枯れた茂みか、地面を覆っている落ち葉の山がそのまま動いているとしか思えないものが突然動いたのである。
しかしそのうちの一体が漏らしたのは、翔太郎の不服そうな声であった。
「……ちょっと待った」
「何?」
先を急ごうとしたパワードスーツの未来が足を止めて振り返ると、成人男性の背丈ほどある茂みの中から更なる文句が飛び出した。
「何だよ、俺らのこのけったいな格好は!臭えし、隠れるだけで何も出来やしねえじゃんか!」
「仕方ないでしょ。今回は基本隠密行動なんだし、いくら暗いとは言っても、あんたたちの格好はこの雑木林じゃ目立っちゃってしょうがないんだから。そのギリーが一番適してるんだよ。顔に塗装してないだけ、まだましだと思いなよ」
翔太郎の不満がありありと窺える言葉に未来が正面から理屈で対抗すると、暗視ゴーグルを装着した翔太郎の顔だけが人型の茂みに浮かんだ奇妙な格好が、彼女の視点カメラに映し出された。
未来とともに行く二つの茂みは、ギリー・スーツを着せられた翔太郎と照井である。
ギリー・スーツは野外でステルス任務を遂行する場合に身につける擬態用の装備で、簡単に言えば人間を藪や草むらのように見せかける外套のことを指している。これを着て森林部に潜み身動きさえ取らなければ、例え素人であっても環境に完全に溶け込むことが可能なのだ。その化けっぷりは、訓練された職業軍人さえ遠目から正体を見破るのは困難なほどである。
今二人が纏っているのは最も一般的なもので、枯れ葉や泥を全身に移植したそれだ。
が、半分腐ったような枯れ葉や湿った泥は本物で臭うことこの上なく、森林以外の環境で着用した場合は逆に浮いてしまう格好だった。正直、巨大なミノムシにしか見えないと言えなくもない。
そのため彼らは、ギリー・スーツを初めて目にした亜樹子やフィリップには、トレーラーの中で大爆笑されたものである。
考えてみれば、枯れ葉のお化けのような格好に黒い暗視ゴーグルのレンズだけが突き出ているのだから、本人が真剣であっても滑稽に見えて仕方なかったのかもしれない。
涙を流すほど笑いこけていた亜樹子たちの様子を思い出したのか、翔太郎は低い声で愚痴をこぼし続けた。
「こんなことなら、最初から変身して行きゃあいいじゃねえか。ったく」
「あのねえ。この真っ暗闇で変身なんかしてたら、余計に目立つでしょ!それに必要以外の戦闘を避けるのは、戦術じゃ基本中の基本なわけ。むやみやたらと相手を倒せばいいってもんじゃないの!体力は、一番大切な戦いの時まで温存しておかなきゃ」
再び正論でたたみかけてくる未来は、もともと暗殺や破壊工作を主任務とする存在として作られただけあり、武装もそれに最適化されていることが、今も闇に紛れそうになっていることでよくわかる。
翔太郎にはそれが不公平に思えて余計に文句が言い足りなく感じる心地であったが、むっつりとして普段のペースを崩さない照井は違うらしい。減らず口を叩こうとしている翔太郎をじろりと横目で睨み、ぼそりと呟いただけだった。
「間の言う通りだな。異存はない」
「あっ、何だよ!照井まで……」
「じゃあ先を急ごうか」
「って……おい待てよ!こら!」
裏切られた思いで同じ照井を睨み返した翔太郎を蚊帳の外に置き、未来たちはさっさと足を進めていく。置いてけぼりを喰いたくない半熟探偵は慌てて二人の後を追いながらも、胸の内を外へ出さずにはいられなかった。
「ったく。折角、格好良く決まると思ってたのに……」
彼は軍用の暗視スコープを装着しているお陰で視界は昼と同じ明るさを確保でき、先行する未来と照井に遅れることなくついていくことはできる。が、これでは自分が期待していた特殊部隊ばりの機敏でスタイリッシュな行動とは全く違っていた。ならばぜめてスタイルだけでも格好よく決めたかったが、それもどんどん予想とかけ離れていくようである。
やれやれとため息をついて足を早めようとしたとき、亜樹子のやかましい声が翔太郎の耳を打った。
『翔太郎くん!子どもみたいなこと言ってないで、さっさと行く!』
『まあ、気持ちはわからなくもありませんけどね。訓練用とは言え、ギリーは結構臭いますし』
『しかし、見た目は本当に枯れ草が動いているみたいだ。擬態という方法は古典的だが、これなら普通の人間の目を誤魔化すのに十分だということがわかる』
続いてリュー、フィリップの声までもがイヤホンを通して聴覚に割り込んでくる。
指揮官ぶって口を挟みたがる亜樹子、実感の込められた同情を寄せるリュー、純粋な感想に小難しい言葉を混ぜてくるフィリップ。その三人が好き勝手にしゃべってくる通信は、同じチャネルに接続されている未来や照井にも届いている筈であったが、二人は特に口を開く気配がない。
彼らは、普段こそ何かと角を付き合わせるような相性の悪さであったが、もともとは軍事行動と警察任務という同じベクトルの行動下にある場合が多い二人である。こういった作戦中は、奇妙なほどにうまが合っているのかも知れなかった。
「あーもう、ゴチャゴチャうるせえ!行くってばよ!」
そしてその二人のペースに乗り遅れまいと、好き勝手に話している支援・指揮担当の三名に怒鳴り返し、翔太郎は先を行く人影を小走りに追いかけた。
「何かいる、隠れて!」
しかし彼が追いついた途端、低く緊張した声で警告を発した未来に片手で突き飛ばされた。
「おわっ!」
半ば吹っ飛ばされたように土の地面へと転がった翔太郎には目もくれず、パワードスーツ姿の未来が一気に五メートル以上はあろうかという木の梢へと跳ぶ。その姿はたちまち闇へと紛れ、もし目撃した者がいたら、彼女が瞬間的に視界から消えたかのように錯覚させていたに違いない。
既に地へ倒れ込んでいた翔太郎には、そう感じる暇はなかったが。
「いってえ……」
「しっ!左、声を立てるな」
仰向けにひっくり返されて尻餅をついた半熟探偵が呻くと、近くで伏せている照井がたしなめる。翔太郎が不本意ながらも頷いて同じように横臥すると、ギリー・スーツの彼らは完全に雑木林の藪に一体化した。
二人が息を殺していると、ほどなく未来から状況を伝える通信が入ってきた。
『前方、十一時方向に泥人形が三体。距離、約二二。片付けた方がいいかな?』
低い姿勢を保っている照井や翔太郎は視界を木々と茂みに邪魔されて全くわからないが、木の上に上がった未来は確実に敵を発見していたのだ。声が抑え気味なのは、まだこちらに気づかれていないからだろう。敵の姿は先行しているロボットのカメラが送る映像から、トレーラーにいる三人にもわかったようだった。
『あんなところにいるって、音でわかったの?やっぱすごいわ、未来さん』
『こっちも確認できました。さっきと同じ連中ですね。動く気配はないようですが、彼らは他の個体が倒されたことを独自に知るような仕組みはあるんでしょうか?』
感心している亜樹子に続いたリューの声は至極冷静で、「空気嫁」などというジョークシャツを身につけていたり、ディープなオタク趣味にどっぷり浸かっているのが信じがたいほどである。
『恐らくはないだろうと思う。親であるラストが、こいつらを進化させることができるなら別だが』
司令役をつとめるリューの問いに答えたのはフィリップだが、翔太郎が息を潜めている場所からは全く様子がわからないのがもどかしい。しかし同じ状況にある筈の照井はまるで気にしていないようで、やはり低く目立たない声で質問を返していた。
「ここを迂回できるルートはないのか?」
『残念ながら、最短で行けるのはそこだけのようですね』
『じゃあ、私が片付けるよ。さっきの連中が戻ってこないうちに、さっさと行こう』
取るべき手段が限られている場合、迷っているだけの時間は無駄だ。
一度そう判断した後の未来やリューの行動は素早いだろうと、翔太郎には感覚的に予想がつく。故に、この場は素直に譲ることにした。
「ちっ、仕方ねえな。ここは任せたぜ」
地面に這いつくばったままの通信は情けない姿だとは思うが、変身もしていない今は仕方がない。
ところが、未来はやや自信のなさそうな言葉を漏らしていた。
『でもこの銃、あんまり慣れてないから……大丈夫かな』
相変わらず木の上にいる未来の姿は地上にいる翔太郎や照井からは見えないが、確かに彼女は出撃直前にリューからデザートイーグルではない銃を手渡されていたことが、彼らにも記憶がある。
リューが今回の作戦用に準備していたのは、ロシア製のサブマシンガンであるPP90M1であった。
これは螺旋状のヘリカルマガジンがバレルの下に取りつけられているユニークな外見のモデルで、一度のマガジン交換により装填可能な弾丸数は六四発と、普通のサブマシンガンに比べるとかなり多い。そしてサブマシンガンは弾数は勿論のこと、連射速度や射程距離においてもハンドガンより圧倒的に優れた武器だと言える。
何より障害物が多い森の中では、バレルの短いサブマシンガンの方がアサルトライフルよりも小回りが利き、有利に立ち回れるという点は他の追随を許さない。
そのことも踏まえて今回の武装を提案したのであろうリューが、不安がっている未来を落ち着かせるために言葉を重ねていた。
『そこは腐ってもサブマシンガンなんですから。デザートイーグルに比べれば、射程距離も命中精度もかなり上がる筈ですよ。落ち着いて行けば大丈夫です。レーザーサイトにサイレンサーもついてますし、今の位置から狙ってやってみてください』
『了解。やってみるよ』
信頼を置いている仲間からの言質を得た未来が短く応答する。
直後、厚いクッションを殴りつけるような鈍く、長い音が連続して三度上がり、合間に枯れ葉に覆われた地面へ何かがどさりと落ちる音が混ざった。
『さっすが、未来さん!』
『この距離だし、相手がちっとも動かないからね。難しい射撃じゃないよ。それに、思ったよりもこの銃が使いやすいみたいだし』
不意打ちが成功したらしいことを亜樹子と未来の通信から判断し、照井と翔太郎が一度顔を見合わせてから立ち上がる。彼らが急いで音の上がった方向へ走ると、既に樹上から下りてきた未来が、倒れた泥人形たちを見下ろしているところであった。
敵は全て頭を砕かれているが、泥の破片は思ったよりも飛び散っていない。未来がサブマシンガンによる一度の射撃で、正確に息の根を止めたことの証であろう。
『では、気づかれないうちに先を急いでください。破片はその辺りの落ち葉でも被せておけば、少しは誤魔化せるでしょう』
リューから続けて飛んだ指示に、翔太郎たちが素早く動く。彼らは泥人形たちのぼろぼろと崩れてくる身体を足元の土に紛れさせ、枯れ葉で簡単に覆う作業に取りかかった。勿論三人が手を動かしている間は、司令室の操るキャタピラロボットが警戒を怠らない。
「でも、退路のことは考えなくて本当に大丈夫なの?翔太郎の話では、手下の人間も何人かいるってことなんでしょ」
作業を終えて慎重に立ち上がった未来が、ロボットと同じように周囲の状況に気を配りつつリューへと疑問を投げかけた。
現在地点に至るまでの間、泥人形たちや人間の見張り役とおぼしき男たちに何度も出くわしはしたが、その全てを倒したわけではない。ブリーフィングの際、やり過ごせる敵はやり過ごすよう主張したのはリューであり、未来はその逆の立場を取っていたのである。
だが、仲間からの指摘を受けてもリューの声に揺るぎはなかった。
『たった数日で主に命を捧げてもいいとまで思うのは、重度の厨二病をこじらせた人間以外にいませんよ。それにあの泥人形は、ラストとかいうドーパントが倒されればいなくなるでしょうし。敵の士気が崩壊するのも早いでしょうから、心配ないかと思います』
『チューニ病?……そんな精神疾患、僕は聞いたことないな』
『精神が未熟なお子様しかかからない、心のはしかみたいなものですよ。気にしちゃいけません』
フィリップが聞き慣れない病名を耳にして首を傾げたようだったが、リューはそのままとぼけている。
未来は彼らの他愛なさそうな会話は聞き流し、今度は自身が訝しげな物言いになった。
「うーん。敵がいなくなるかもって、イマイチ根拠が怪しくない?」
「しかし泥人形たちは、ラストの能力で作られているんだ。その能力が消えれば、恐らく奴等も存在していられなくなるだろう」
未だ懐疑的な未来には、遅れて立ち上がってきた照井が応える。
そのためか彼に同調して通信を寄せてきたフィリップも、周りに何者かの気配がないか探るような低めの声音になっていた。
『人間の手下らしい連中は、ガイアメモリの売人たちだ。奴らも脅されているだけで、忠誠心などないに等しいだろう。ラストさえ倒してしまえば、後は勝手に自滅すると思う』
「あるいは攻撃に怖じ気ついて、途中で逃げ出すかだな。連中は所詮、戦いに関しちゃ素人も同然なんだ。俺たちに楯突いてもいいことはねえと判断するのも早いだろう」
『……そう簡単に行けば、苦労はしなくて済むんだが』
翔太郎の希望的予測に、フィリップが溜め息混じりの応答を返した時である。未来が肩を僅かに揺らすと、側に立つ照井と翔太郎を片手で制して呟いた。
「……静かにして」
『新手ですか?』
すかさず、リューの声が緊張感を帯びる。
翔太郎と照井は、反射的にその場で膝を落として身体を縮こまらせた。途端にギリー・スーツを纏った彼らは茂みと一体化し、森の一部となる。二人が暗視装置越しの視線を上向かせると、太い木に身を寄せたパワードスーツの未来が慎重に暗闇の中を窺っているのがわかった。
「そうみたい。念のために、ロボットで動体反応を確認してみて。方向は、私の視点正面。距離は……三十は離れてないと思う」
『了解』
夜明けを直前に控えたこの森では虫や鳥の声以外に何も聞こえないが、未来の強化された聴力は、その中に紛れた不自然な音を拾ったのであろう。灌木の間に身を潜めていたキャタピラロボットが低く、ごく小さな駆動音を上げて、未来の示した方へ這っていく。ロボットも迷彩色で塗装されているため、そのボディはたちまち風景の中へと紛れていった。