翌日は薄く雲がかかりながらも、暖かな陽気が街全体を包み込む穏やかな天候だった。
この時期ならではの眠たげな空模様は、人々にも眠気をゆっくりともたらしてくるが、未来のいる軍事・化学総合研究施設たるC-SOLは、冬が終わる頃から慌ただしい空気のさ中にある。海辺の埋め立て地で巨大な敷地を持つ複数の研究棟に吸い込まれていくトラックやトレーラーも、外から潮風とともにせわしさを運んでくるような気がしていた。
「はぁ……」
未来はC-SOLに建つ研究棟の一つ、AWP棟と呼ばれる全面がガラス張りのビルの3階で、アイスコーヒーを飲みながら憂鬱そうな溜め息をこぼしていた。昨日は事務所に帰り着くのが遅くなってしまい、深夜まで大破した営業車の処理に追われることになったのだ。お陰で睡眠不足になった上に保険会社の担当とも折り合いがつかず、彼女にとって頭の痛い事態に陥っているのだ。
未来が座すのはまだ新しく小綺麗な研究室で、黒い革ジャケットを着た小さな背中が向かうテーブルの後ろでは、白衣の研究員たちが測定器や分析機の間で動き回っている。そこから聞こえてくる化学式を含んだ会話と機械音にはもう慣れて、ごく日常的な雑音の一部となっていた。
「どうした未来?メディカルチェックの結果は異常なしだったのに、元気ねえじゃんか」
施設内のカフェテリアで買ったアイスコーヒーのストローを弄んでいる未来に、やはり白衣姿の男が声をかけた。
男がのっそりと近寄って来ると、彼女の細めの身体が殊更強調されるように見え、男が一八〇センチを優に越える大柄な体格をしていることがわかる。が、白衣の下は着古したジーンズとポロシャツで、他の研究員が皆きちんとしたワイシャツを身につけているのと比べると、随分みすぼらしい。
彼の無精髭とぼさぼさの黒髪に包まれた顔は中年のそれであったが、どちらかと言えば小造りで暖かい印象がある目鼻立ちと、細かいことを気にしなさそうな雰囲気には、人柄の良さが表れているようでもあった。
自分が座っている席のすぐ横までサンダル履きの足をぺたぺた鳴らして歩いて来た男に、未来は顔を上げた。
「うん、仕事のことでちょっとね」
「何だ。てっきり杉田がいない間に、気になる野郎でも新しくできたのかと思ったんだがな」
男がにやりと笑って発した言葉にはそれとわかるからかいの調子があったが、未来の反応は顕著だった。
「ちょっ……おいオッサン!何でそうなるのさ!」
とげとげしい一声を上げた未来が、椅子を蹴飛ばさんばかりの剣幕で立ち上がる。
「いきなりおっさんとは、お前も結構な言い種じゃねえか」
「生沢先生は私よりも一回り以上歳上じゃない。立派におじさんだよ」
垂れ気味の目に軽い負けん気を込めて言い返してきた男に、未来は非情なる事実を叩きつけた。
この熊のような男の名は、生沢慎吾という。ふざけた言動を常とする中年が実は世界的に有名な外科医であるなど、一体初対面の人間の誰が信じられるというのだろうか。
と、子供っぽい喧嘩言葉の応酬を繰り返す度に、未来は真剣に思う。
「杉田先生がいないと調子が出ないんですね、わかります」
その彼女の背後から、いきなり別の人物の声が割り込んできた。
未来は少しもその気配を感じ取れなかったが別段驚いた様子もなく、ただし仏頂面で振り返る。
「もう。リューってば、あんたまで……」
未来が上目遣いになったのは、リューなる男の顔が生沢と同じくらい高い位置にあるせいだ。
しかしこの青年は派手なTシャツに色落ちしたジーンズと言う冴えない格好なのに、それがちっとも浮いた感じに見えない。彼がアメリカ人とのハーフで、欧米系の顔立ちと引き締まった体格をしているために、何を着ても様になってしまうのだ。
が、明るい茶色の巻き毛と、彫りが深く美しいとさえ言える顔を持つ彼の本名は田原隆三で、至って普通の日本人のそれである。アメリカ人で軍属の身だった彼は日本に帰化して数年経っているという話だったが、外見に似合わない名前の件では散々な目に遭っているらしく、今もまだ通常時はニックネームで呼ばせる癖から抜け出せないでいるのだ。
「まあそれは置いておくとして、生沢先生はその時計のことが気になってるだけですよ」
「え?ああ、これのことか……」
その彼に握りしめている懐中時計を指された未来は、ようやく自分が考えに耽り過ぎていたことを意識した。
「お前にしちゃ、レトロな小道具を持ってるなと思っただけだ。若い女が持つようなもんじゃねえだろ」
まだ未来をいじって遊ぼうとする生沢には、リューが無遠慮な突っ込みで待ち構えていた。
「だからと言って、すぐ下衆な勘繰りに動くのはどうかと思いますが」
「頭ん中が常に萌えエロのお前に言われる筋合いはねえよ」
生沢にそう切り返されても、リューは平然としたものだった。
「失敬な、私は現実と妄想の区別はしっかりつけてますよ。それに、ただの三次元には興味ありません」
そして惜しむらくは、黙っていればどこから見てもイケメンなリューがかなり濃い「オタク」であり、空気を読まない発言が常態化しているということだろう。
いつもの空間に、いつもの仲間。未来がここ数年で馴染んだ場所は、相も変わらずそこに存在した。昨日出掛けた街でたまたま非日常的な事態に遭遇したために、もうここは戻れない場所になってしまうのかとおかしな錯覚にも襲われたが、幸いそれは本当の杞憂に終わってくれたようだった。
もっともここC-SOLも、本来であれば未来に縁があるような場所ではない。
国内最高にして最新技術の粋を集めた研究施設は、産業スパイたちから様々なものを守るため、一般の人間に対しては固く扉を閉ざしている。それどころか、四つあるゲートには拳銃で武装した警備員までもが配置されているのだ。そんなところに自分が関係者として三年も通っているなど、普通ならありえない話ではないか。
もしここで行われている極秘プロジェクトにかかわるきっかけがなければ、今この世に自分自身が存在すらしていなかった可能性もあるのだから。
そう考えると、未来の胸中は複雑だった。
「おい、ちょっとは突っ込んで来いよ。お前が静かだと調子が狂うだろ」
軽口の叩き合いに今一つ乗ってこない未来に、生沢が茶々を入れてくる。確かに普段なら情け容赦のない毒舌を喜んで吐いているところだが、今はあまり気乗りしなかった。
「うっさいなあ。私だって、仕事のことで色々考える時くらいあるんだから」
普段の未来がここに来るときは、本業である便利屋の仕事をあまり持ち込まないようにしている。この研究所における彼女の立ち位置が素顔でいるときのそれと全く異質であり、決して相容れるものではないと心得ているからだ。
が、今度ばかりはそうも言っていられないかも知れない。
今現在抱えているーー彼女が持つ懐中時計の持ち主を探すという、ごくありふれている筈だった依頼には、既に人間の叡智を越えかねない場所にあるものが影を落とし始めているのだ。この研究所にある科学技術にすがりつきたいのが、未来の正直な気持ちである。
しかしリューや生沢に助けてくれと泣きついたところで、ドーパントという怪人に変貌した人間やそのための鍵となるガイアメモリ、そして彼らと戦う仮面ライダーたちのことを、果たして信じてもらえるのかどうか。未来には全く自信がない。もし自分がそんな相談を受けたなら、きっと妄想と現実をごっちゃにした変人が現れたのだと思うに決まっている。
やはり、自分の力で何とかするしかない。
改めて腹を括った未来であったが、そんな彼女の覚悟など知る由もなく、生沢が世間話を振ってくる。
「そういや、今日は杉田の見舞いに行ってないのか」
「杉田先生も、もう自宅療養が終わるしね。最後はちゃんと休んでもらわなきゃ」
ここにいないもう一人のスタッフの話は必要最小限にとどめ、未来が再び座って懐中時計の蓋を開いた時である。生沢が驚いて声を上げた。
「ん……?おい未来。ちょっとそれ、俺にも見せてみろ」
言うが早いか、彼女の小さな手から銀色の時計を引ったくろうとする。白衣に包まれた太い腕をするりとかわし、未来は眉根を寄せた。
「ええ?これは他人からの預かり物だから、関係者以外には……」
「そこに貼ってある写真の男、俺の知り合いによく似てるんだよ」
「うそっ?」
これにはさしもの未来も仰天して、開きっぱなしにした懐中時計を慌てて差し出した。風都タワーがレリーフされた蓋の裏側に貼られた家族の写真をまじまじと見つめ、生沢が懐かしそうに目を細めている。
「……ああ、やっぱり山波じゃねえか。写真はちょっと昔のみたいだが」
生沢は、そこに写っている家族の姓まで正確に思い出しているようだった。彼の視線が写真の中の男性に向いているのを確認してから、未来は高くなった声のトーンを落として質問した。
「この人、本当に生沢先生の知り合いなの?」
未来がまだかすかな微笑みを浮かべている生沢と小さな写真を見比べると、生沢は頷いて見せた。
「こいつはAWP立ち上げの頃のメンバーで、このCーSOLでも結構長い間一緒だったんだ。まあ、奴が辞めてから五年くらいにはなるけどな」
天才外科医が穏やかに語る内容に、未来が目を丸くする。健太の父である山波が生沢の同僚だったとは、何と言う偶然だろう。突然降って湧いた手がかりに、彼女は食いつかんばかりにして身を乗り出した。
「この人は、AWPで何を担当してたの?今はどこにいるかわかる?」
「ええと、主にDNA関連だったと思うが……確か五年前に子どもが生まれた時、その子に先天性の病気があったらしくてな。それで自分が何とかして治療法を見つけたいからって、別の仕事に移ったんだったと思ったが」
この口振りからすると、生沢も山波が今どこにいるかは知らないようだった。未来が小さな溜め息とともに肩を落としたが、新たな情報が含まれていたことにすぐ気がついて顔を上げた。
「そっかぁ……って、子どもが病気?生まれつきの?」
これもまた初めて未来は聞く情報だったが、特に不審なことではないと思い直した。
健太はまだ五歳なのだ。自分の身体のことなど正確に知らないだろうし、恐らく堀内にも知らされていないことなのだろう。施設で健太の担当らしい永峰ですら、知ってるかどうか怪しいものだ。
鸚鵡返しにした未来に、生沢は再び頷いた。
「初めての子どもがそんなことになって、気の毒だからな。俺もできることがあれば協力すると言った覚えがある。同じ男の子の父親だからって……そう、確か息子だった筈だ。その時の子がまだ生きてれば、五歳くらいにはなってるな。健やかに育って欲しいという願いを込めて、健太って名前の子だったと思う」
「そんな……」
未来が絶句する。
彼女が堀内から聞いた話では、健太はおぼろげながらに母親のことを覚えており、父親が姿を消したのは母親が亡くなった後であるという。山波は文字通り、健太をひとりぼっちにしたのだ。
今まで未来は家族を置き去りにする父親など言語道断、山波が問題ある親の典型で、何が何でも捜し出して健太に土下座でもさせねばなるまいと思い込んでいた。
しかし実際の山波は、同僚である生沢の前でも息子思いで心優しい父親の姿を見せていた。病を背負った息子には願いを託した名を授け、将来のために仕事まで変えたのだ。逆に、そこまでする親はなかなかいるものではない。
そこまで息子のことを愛していたのなら、何故全てを捨てて姿を消したのだろうか。
これまで自分を突き動かしてきた無責任な親に対する怒りの感情が、困惑にすり替わろうとする。
「お取り込み中のところ申し訳ないですが、未来。貴女にお客さんですよ」
生沢との話の途中で動揺した様子を見せ始めた未来に、リューが申し訳なさそうに告げた。
はっとした未来が反射的に返事を返そうとして思いとどまり、一瞬だけ考え込んでから応える。
「私に?人違いじゃないの?今私がここにいることなんて、関係者以外は誰も知らない筈なのに」
C-SOLは内部で行われている研究や実験の機密性が高く、ここの存在を知るのはごく限られた者だけだ。少なくとも未来は、生沢やリューと共通の知り合い以外の誰かにC-SOLのことを話したことがなかった。
たった一人、大きなトラブルの元凶となった存在であった彼女の母親以外には。
「ですが、永峰智之という男性がロビーで待っているらしいんですよ。関連企業の者を名乗って、正式な入館証も持っているそうです。心当たりはないんですか?」
リューも正規の手続きを経てきたらしい来訪者に戸惑っているようだが、彼が口にした人物の名前には未来も咄嗟に覚えがなかった。
「永峰智之?」
彼女はポニーテールの髪を揺らして名前を反芻しする。ナガミネ、という姓の漢字を思い描いたところでようやく、健太がいる施設の担当者の顔を思い出した。フルネームの音を殆ど聞いたことがなく、どうもぴんと来なかったのだ。
「わかった、すぐ行くよ」
軽く頭を掻いて、未来は懐中時計を革ジャケットのポケットに滑り込ませた。
未来がいるAWP棟は地下三階、地上五階という研究施設にしては大きな建物で、数百人の研究者とスタッフが働いている。一階部分は大きな窓に囲まれた開放的な共同スペースで、カフェテリアなどの飲食店や応接間など、対人空間がまとめられていた。
その中の一部である午後の陽光が満ちた明るいロビーに、未来は永峰の姿を見つけていた。
「永峰さん?」
二階の共同研究室からエレベーターで降りてきた未来は、見覚えがある中年の男へ躊躇いがちに声をかけた。これといった特徴もなく、冴えない身なりをした男が顔を上げて会釈を返してくる。
「こんにちは。こんなところにまで押しかけてすみません」
「いえ。どんなご用件ですか?」
ぎこちなさが拭えない笑顔で未来が問うと、永峰がロビーの一角に並べられているソファーから立ち上がった。
「あまり大きな声でできる話ではないので……外へ出ませんか?」
永峰の声がほんの僅かに潜められ、未来の表情に一瞬だけ影が過ぎった。
未来と彼とは、幼い依頼人の保護者と事務所で依頼を担当する社員の上司というだけの関係だ。永峰が人払いをしたいのは、ただ単に見も知らぬ他人の耳には入れたくないというだけの話だけなのかも知れない。
未来は頷いてから、中庭に出る通用口へ永峰を案内した。白衣や会社指定の作業服を纏ったスタッフの間をすり抜けて、彼らは建物の隅にある小さなドアをくぐって春の外気の中へと出ていく。
AWP棟と銃器開発研究所、爆発物研究所、組織工学研究所に囲まれた中庭は、電子機器と終日睨めっこをする職員のために、普通よりも緑が多く作られた公園とも言える場所である。各種研究棟の間を渡る海風で新緑に彩られた木の枝が時折ざわめき、自然の雑音でちょっとした会話は紛れてくれそうだった。
「それにしても、よく私がここにいるってわかりましたね」
手入れされた芝生をスニーカーの爪先で確かめながら、未来が先に立って中庭の奥へと歩いていく。
「元協力企業ですからね。随分と前のことになりますが、私もここに来たことがあるんですよ」
その小さな黒い背中をゆっくりと追ってくる永峰はしかし、返答をはぐらかしていた。僅かに視線を後ろに向けた未来の胸に、警戒心が湧き上がってくる。
彼女が気にしていたのは、今日ここに自分がいることを永峰がどうやって知ったかということであり、訪問の目的は二の次だ。特に聞くに憚るようなことを質問したわけではないのに、どうして素直に答えないのだろう。
そして気になることはもう一つある。彼が協力企業の者を名乗っているのはリューからも聞いていたが、一体何のプロジェクトの協力企業だというのだろうか。
「その頃から親しくしてる職員がいましてね、すんなり申請を通してくれましたよ。それに、C-SOLがここで本当は何をやっているかということも、色々と聞いていますから」
続けられた言葉にも、永峰はまともに答えようとする姿勢を見せていない。加えて、C-SOLのことを色々と知っているというのも引っかかる。
未来は自分から突っ込むことで望む回答を得ようと、会話の立ち位置を変えることにした。
「あれ、職場は児童養護施設の筈じゃないですか?健太くんの担当なんですよね」
「元、だと言ったでしょう。私は少し前まで、ディガル・コーポレーションの社員だったんです」
少しだけだったが、永峰が不快そうな響きを語調に混ぜてきている。
ディガル・コーポレーションと言えば、健太の父親である山波勇雄も在籍していた会社である。そこに現在健太の保護者代わりとなっている永峰がいたなど、偶然とは重なるものだと未来は素直に驚いていた。
それにしても、裏でガイアメモリを作っているディガル・コーポレーションがC-SOLで展開されているプロジェクトの協力企業だとは、露ほども思わなかった。ただ、ディガル・コーポレーションは表向きは風都で大手のIT関連会社として有名な企業であるし、他社との大きなプロジェクトに協力していても特に不審なことはない。
そうは理屈で納得できても、実際に何のプロジェクトにかかわっていたのかと言う点は気になる。永峰がこの研究施設が何をやっているか色々知っている、と話していたことから大体の予想はついていたが、彼女は直球をぶつけてみる
ことにした。
「そうですか、失礼しました。で、何のプロジェクトの協力企業だったんです?」
「AWPですよ。もっとも、私はそちらに関連した業務をさほどやっていたわけではありませんでしたがね」
永峰の口から具体的にAWPというプロジェクト名が出たことは、嫌な予感が的中したときの奇妙な安堵感を未来にもたらしていた。
未来はAWPの中核メンバーだが、今の今まで彼のことは全く知らなかった。ということは彼がAWPのコアメンバーではなく、持っている情報にも限りがあるということを指している。
それならばさほど核心に迫ってくるような、重すぎる話も出てはこない筈だ。多少注意して耳を傾ける程度で済むだろう。
一瞬でもそう考えた未来は、目の前の男が次に唇に上らせた言葉で、心臓に強い衝撃を喰らって鼓動が止まるかと思うほどのショックを受けることになった。
「そう。この研究所でどんな実験をやっているかということと一緒に、貴女の噂もよく耳にしてましたよ。間未来さん……いえ。Prototype3、P3。もしくは正式に、AWP実験第参号体と呼んだ方がいいでしょうか」
永峰の言い方は淡々としており、決して大きな声ではない。なのにその響きは、この緑に包まれた空間に毒の霧の如くたゆたっているかのような気さえした。風に木の葉がざわりと音を立てるとともに、未来の心にも鳥肌が立ったような心地になる。
彼の発した言葉はまるで沼地に黒く淀んだ泥のように、未来の精神にじわじわと忍び込んできていた。胸がぎりぎりと締めつけられ、世界中から空気が半分になったかと思うほどの息苦しさが襲ってくる。彼女の呼吸はたちまち浅く速くなり、顔からみるみる色が失われていった。ドーパントに襲われた時でさえ冷静さを保っていられた女が肩を震わせ、上半身をぐらりと傾かせたことが、精神に受けた衝撃の強さを物語っている。
「……あんた、どうしてそのことを……」
やっとのことで未来は喉の奥から一言を絞り出したが、声は哀れなほどに掠れ、震えている。
心の置き場所を崩された娘が動けなくなっているのも構わずに、永峰はゆっくりと語る口調で先を続けた。
「貴女を慕っている堀内さんや健太がこのことを知れば、一体どうなるんでしょうね?一番近くにいて親切な筈の女性が人間ではなく、実は人殺しのために作られた道具だったのだと」
「やめろ!」
低い怒号が飛び、永峰の言葉が中断される。
未来は己が心を侵してくる衝撃を怒りに換え、今にも飛び掛らんばかりの敵意を込めた視線で永峰を睨みつけていた。その激しさは、大の男を怯ませるくらいの圧力を孕んでいる。
「あんた、一体どういうつもりなんだよ。何でそのこと知ってる?そんなことをしたって、あんたには何のメリットもないだろ!」
無意識の所作なのだろう。彼女は踵を軽く上げて膝を緩め、全身に満遍なく力を行き渡らせた戦闘態勢で身構えている。自分が肉体的には圧倒的に有利であることを熟知しているからこその行動だ。
が、危機的状況を嗅ぎ取る能力が鈍いのか、永峰にうろたえた様子はない。それどころか、平然と彼は言い放った。
「ありますよ。貴女にこう言えば、ガイアメモリを大人しく渡してもらえると言うメリットがね」
「……何?」
意外な人物から想定外の要求を突きつけられ、未来は眉根を寄せた。
「貴女が堀内さんから何か重要なものを預かったことは、私も知っています。まだ彼が何か隠しているのかと思いましたが、昨日見たところではその様子はなかった。ということは、貴女が持っている以外に考えられない」
そこまでヒントを与えられて、ようやく未来は「可能性がある事実」を心の中で掴み取っていた。
ガイアメモリ。
堀内から預かった重要なもの。
その二つのキーワードから導き出されたのが何であるのかに思い至り、彼女の手は自然に革ジャケットのポケットに差し入れられていた。
「まさか……」
細い指先に硬く冷たい金属が触れるとともに、緊張した呟きがふっくらとした唇からこぼれる。
つい三日ほど前、堀内がドーパントに襲われる直前に風都近くのカフェのオープンスペースで打ち合わせをした時のことである。
彼はこの懐中時計を、健太の父に繋がる重要な手掛かりとして未来に手渡していた。ただし渡されたのはケースである箱ごとだったため、その中身が何なのかは外見から判断することは不可能だ。
そして開放空間で打ち合わせをしていたのだから、その現場にいた人間は大勢いるはずだ。その中の一人に永峰がおり、そのやりとりを目撃されていたとしても、気づけるわけがない。
何と言うことだろう。
永峰は、あの箱の中身がガイアメモリであると思い込んでいるのだ。
「違う!あの箱の中身はこの時計で、ガイアメモリなんかじゃない!確かにこれは、健太くんの父親に繋がる唯一の手がかりだけど……」
未来は慌ててポケットから風都タワーがレリーフされた銀時計を引っ張り出したが、肝心の永峰はいつの間にか身体ごとそっぽを向いていた。
「ちょっと!人が大事なことを話してるんだから、ちゃんと聞けよ!」
永峰がこちらに注意を払っていないことに語調を荒げた未来が、彼の方に一歩踏み出した。
が、彼女はそれ以上近寄ることができなかった。
冴えない中年男の様子が明らか異常であることに気づいたのだ。彼はぼんやりと宙を睨みつけ、ぶつぶつと何事かを呟き続けている。
「健太の父は……山波勇雄は、私の同僚だった」
「え?」
そこにはっきりと聞き取れる言葉を見つけたため、未来が思わず声を上げる。それでもやはり足を前に進ませようとしなかったのは、本能が危険を察知して身体の動きを抑えたためだ。
未来は便利屋という職業柄、様々な人間とかかわってきた。
小さな子どもから老人、公務員や水商売の男女、天涯孤独の若者や甘やかし過ぎた大きな子どもを持つ母親。
その中でもとりわけ扱い辛く厄介だったのが、精神に何らかの異常をきたしている者たちだった。彼らの中には人の話を全く聞こうとせず、自分の望む結末が得られなければ感情に任せて暴れたりする者もいた。
未来がそこにいないかのように振る舞っている今の永峰は、そういった者たちと同じ雰囲気を纏っている。迂闊に刺激してはどんな大騒動に発展するか読めないことを知っているがために、近寄るのを躊躇せざるを得なかったのだ。
「山波は、私よりも後からメモリ開発に加わったのに。サブリーダー止まりでもおよそ権力に対して無欲だったから、奴はあそこまでの……そう、実力は私よりも遥かに上を行く男になった。息子の病を治す糸口をガイアメモリに見つけていたせいもあるが」
心なしか、永峰の握り締めた拳が震えているように見えた。
彼から漏れ出す怨嗟に満ちた呟きは小さな声ながら、耳にした者の心臓に直接手を伸ばして恐怖を植えつける毒に満ちている。
永峰を取り巻く空気が変質し、刃を思わせる鋭さと硬さを持ち始めたことに警戒した未来が、反射的に声を上げた。最早二の足を踏んでいる状況ではなくなってきている気がしたのだ。
「ちょっと、永峰さん?」
「私はそんな奴が、ずっと許せなかった。奴め、私にガイアメモリを渡さずに消えやがった。あれは私が奴に引き継ぐまで、どれだけ苦労して研究していたかなんて知る由もないはずだ!」
彼の口調はますます激しくなるばかりで、一向に治まる気配がない。
しかしそれでも、彼は単なる一般人であることに変わりはない。未来も今までこんな窮地に陥ったことは何度もあったが、いざとなれば力づくで抑え込んでしまえば良いのだ。
自分が普通でない身体を持っていることを、彼女が改めて意識したその時である。
「私は研究者の誇りにかけて、メモリを取り戻す。他人の成果を奪った卑怯者から、必ずな!」
怒りに満ちた叫びを永峰が上げ、ズボンのポケットから取り出したもの。
「それは……!」
未来の大きな瞳が見開かれ、彼が目の高さに掲げた物体が映り込む。
それは昨日、翔太郎が見せてくれたガイアメモリとそっくりだった。
が、目の前の男が指先に挟んだそれは鈍く光るグレーで、骨と牙のような装飾が施された似て非なるものであり、禍々しい印象しか見る者に与えない。
「Pride(プライド)」
永峰が指先でメモリのスイッチを弾くと、聞き覚えがある機械音声が響いた。
未来が襲われる直前に聞いた声に間違いない。
彼女が止める暇もなく、永峰は首筋にメモリの端子を押し当てた。
「……!」
薄い黒の光がメモリから溢れ出し、永峰の身体を球状に包み込む。
次の瞬間にはその中で人間の形をした影が膨れ上がり、ごつごつした岩肌がそのまま五体を持った身体に変化した。
未来が息を呑んでいる数秒の間に、永峰はプライド・ドーパントとなったのだ。