その日、後藤ひとりは上機嫌だった。
どれくらい上機嫌かと言うと、ライブハウスであるスターリーでのバイト中にいきなりサンバのリズムを踊り出し、『トルティーヤ!』と叫ぶくらいには上機嫌だった。
「……なあ虹夏、ぼっちちゃんにあれ止めるよう言ってきてくれないか?」
「あれは手に負えないよ、お姉ちゃん。ぼっちちゃんがちょっとヤバいのは今に始まったことじゃないけど、今日は群を抜いてヤバいんだから」
伊知地星歌、伊知地虹夏。ライブハウス『スターリー』の店長と、『ぼっちちゃん』こと後藤ひとりと結束バンドというスリーピースバンドを組んでいる少女。
姉妹でもある二人は後藤ひとりの惨状を見て、ひそひそと内緒話をしていた。
確かに、彼女がこうした奇行をするのは初めてでは無い。そもそもコミュ障を発揮しているせいでまともに会話もできない事が多いのに、自分の世界に入り込んでは暫しの間帰ってこなくなるという、誰がどこから見ても変人である。
長い期間とは言えないが、そんな彼女と付き合っていく中で次第と彼女の奇行にも慣れてきた……と虹夏は思っていたのだが、どうやら甘かったらしい。
「ぼっち、今日も絶好調だね」
「あ、リョウ」
二人に近づいたのは、モップを手にした山田リョウ。結束バンドメンバーの最後の一人である。
彼女も負けず劣らず変人ではあるが、その評価を嬉々として受け入れているのがひとりとの大きな違いだ。「ぼっちであるもの」と「ぼっちになってしまったもの」の間には深い隔たりがあるのだ。
「ぼっちちゃん、今日バイトに来てからずっとこの感じなんだよねー。学校でなんかあったのかな?」
「こういうのは直接聞くのが一番。私が聞いてくる」
「ホント? じゃあ任せたよ、リョウ!」
「ん」
虹夏の言葉にコクリと頷きながらも、手に持ったモップをおもむろに差し出すリョウ。
「……これは?」
「インタビュー代。掃除変わって」
「目当てはそっちだったか……」
どう考えても等価交換ではないが、虹夏は渋い顔をしながらもモップを受けとる。なんだかんだで、彼女はリョウに甘かった。
若干ウキウキとした雰囲気で(無表情ではあるが)ひとりの元へと向かうリョウ。サンバのリズムはすでに鳴りを潜めていたが、今度はぐへへへへと側から見ても気味の悪い笑みを浮かべていた。
「こ、これはもう間違いなくリア充といっても過言では……」
「ぼっち、今日は元気そうだね」
「ひゃい!? りょ、りょりょりょリョウさん!?」
全身を勢いよく跳ねさせ、著しく距離を取るひとり。それもそのはず、彼女のようなコミュ障にとって、他人からいきなり話しかけられるというのはあり得ざる話であり、その上それが己の妄想中ともなれば、すわ己の恥ずかしいうわ言を耳にされたかと縮み上がるものである。
「昨日より随分元気そうだけど、何か良い事あった?」
「あ、いえその別に大した事じゃ……」
「あ! もしかしてもうボーカルの子見つけてきてくれたとか!?」
ひょっこりと顔を出す虹夏。満面の笑みでひとりの眼前に踊り出るが、ひとりは顔を青ざめさせながらそっと目を逸らした。
「ぼ、ボーカル一人も見つけられないゴミ人間ですいません……かくなる上は腹を切ってお詫びを……」
「わーっ!! ぼっちちゃんギターで腹を切ろうとしないで! ほら、私もリョウも全然見つけられてないんだから、ぼっちちゃんが気にすること無いって!」
どこから取り出したのやら、己のギターを片手に切腹しようとするひとり。当然ギターで切腹など出来やしないのだが、虹夏はそれに気づく事もなく慌てて止めに入る。
彼女達が出会い、バンドを組んだのはわずか数週間前の出来事。それも直前に逃げ出したギターの穴を埋めようとしたことが出会いのきっかけだったため、虹夏とリョウはいまだひとりとの付き合い方を計りかねている節があった。
虹夏がひとりの扱い方を覚え、気軽に接することが出来るようになるのはもう少し先の話である。
「ボーカルの件じゃないとしたら、何があったの?」
「あ、ええと……実は今日、初めてクラスメイトに挨拶できて……え、えへへ」
クラスメイトに挨拶。なぜそんなことで喜んでいるのだろうかと虹夏とリョウは首を傾げていたが、ふと二人の頭に電流が走った。
(あー……そういえばぼっちちゃん、初ライブの後に『次までにはクラスメイトに挨拶できるようになっておきます!』って言ってたなー……)
完熟マンゴーの空き箱をかぶってライブをしたその日、後藤ひとりは少しでも変わりたいという意思を込めて挨拶ができるようになっておくという宣言をしていた。
急な出来事であったため虹夏もリョウもその事を長らく忘れていたのだが、なんとひとりは目標を達成するために勇気を出して行動に移したというのだ。なんとも涙ぐましい努力である。
「ん。ぼっち偉い。褒めて遣わす」
「えへへへへへ……こ、これはもうパリピの仲間入りしたといっても過言じゃないですよね。ここから友達100人できますかね、へへへ」
「ぼっちちゃんって意外と俗な夢持ってるよね……」
くねくねと軟体動物のように動きながら笑みを浮かべるひとり。光景こそ気持ち悪かったが、まさか勇気を出して挨拶をしたという彼女に冷たい言葉をかけるわけにはいかない。
普通の人にとって挨拶は一般的な行為でも、コミュ障と陰キャにとっては恐ろしくハードルの高い行為なのだ。
「でも、やろうって決めたことをしっかりとやるのはカッコいいよぼっちちゃん! また一歩前進だね!」
「うへへへへへ」
普段のひとりであれば『一歩前進』というワードにもショックを受けていただろうが、今日のひとりには怖いものはない。というか妄想の海に浸っている為気付いていない。
(挨拶が出来た! しかも男の子! ちょっと目が怖かったけど、それでも勇気出して挨拶できたんだから、これはもう実質青春だよね! ここから『あれ? 後藤さんって実はかっこいい美少女なんだ』ってクラスで噂されて、ギターの腕前も認知されて! ああ、バンド入ってるからサインも求められちゃったりするのかな? みんなが列をなして私の前に並んで……)
「……仕事してよ」
遠くから頬杖をついて見ていた星歌は、ぽつりと愚痴をこぼした。
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昼休み。それは腹を満たす至福の時間であると同時に、孤高なるぼっちが教室から追い出される時間でもある。いや、追い出されているかどうかはかなり主観が混じっているが。
友人同士の話し声で一気にわいわいと教室中が騒がしくなるが、ぼっちたる俺には関わりのない話。比企谷八幡はクールに去るぜ、と内心カッコつけたは良いものの、大体帰ってきた時には俺の椅子が勝手にパクられて泣きを見る羽目になるのである。
『その椅子返せよ』と言い放てれば大人しく返してくれると思うが、実際に文句を言おうとすると十中八九こうなる。
『あ、あの……すっ、その椅子ってあのー、俺のー、っと……あ、何でもないっす。すいません』
いや取り返せない上に謝っちゃうのかよ。
そういうわけで、最近俺はこの長い昼休みを過ごすためのベストプレイス探しに腐心しているのである。
ここ、秀華高校の校舎は比較的新しく、広めの綺麗な中庭がある。今日は天気もいい為、一見ここがベストのように思えるだろうが、ここには大きなトラップが存在している。
『はいユリコ、あ〜〜ん』
『ん〜〜! たっくんの作ってくれた卵焼き、今日も美味しい〜!』
『じゃあ次はユリコに食べさせて貰おうかな!』
『あ〜! も〜、たっくんの甘えんぼさん♡』
「……チッ」
そう、カップルの大量発生である。今なら憎しみで人を殺せるかもしれない。
こんな環境で腐り目の男が一人、モソモソと惣菜パンを食べている所を想像してみろ。居た堪れないどころか最悪通報までされるわ。
そんな訳で中庭はナシ。圧倒的にナシ。ここで食べるくらいなら便所飯を選ぶが、衛生的に良くないのと人が入ってきたら困るのでそれは最終手段中の最終手段である。
何も思いつきはしていないが、とりあえず席を立ち、五百円で買った惣菜パンとMAXコーヒーを掴む。おおよそ高校生男子の食べる量ではないが、別にこれはダイエットをしている訳でもなく、ただ親から与えられている食事代が500円というだけである。いや少なくない?
そういえば、と教室を出る前に振り返り、なんとなくご……ピンクジャージマンの席を見る。あいつも随分筋金入りのぼっちの様だが、昼はどうしているのだろうか?
(って、もういねぇ……)
さてはあいつも使い手なのだろうか。俺の2000の技の一つ、『ステルスヒッキー』の……!
彷徨う事10分。何となく人のいない方へいない方へと歩みを進めていたら、とうとう校舎の端に辿り着いてしまった。
ここまで来ると階段下の僅かなスペースくらいしか昼飯を食べるところは無いのだが、さしもの俺とて暗くてジメッとしたスペースで昼飯を食べる趣味はない。仕方がないので踵を返し、妥協して教室で食べることにする。
「あ、喜多ちゃーん!」
先を歩いていた女子二人が、こちらに向かって手を振っている。オイオイ、俺の名前は比企谷だぜ?人の名前を間違えるなんて最低だな。
「やほー!」
……まあ、俺が名前を呼ばれることなんてないんですけどね。
俺の横を喜多と呼ばれた赤髪の少女がパタパタと駆けていく。クラスメイトの顔もろくに覚えていない俺だが、陽キャ代表の権化のような彼女のことは流石に知っている。確か喜多……喜多……喜多喜多?
なにやら精力的に友達活動に勤しんでいるらしく、よく部活動の助っ人としてクラスの連中から頼み込まれている様を目にすることが多い。まさに万年帰宅部でありぼっちである俺とは正反対の存在である。
走る少女のスカートからぽろっと何かが落ちる。可愛らしい刺繡の施された、いかにも女の子らしいハンカチだ。
笑顔で友人に駆け寄る少女は気づいていないらしく、そのまま合流した少女たちと談笑している。正直放っておいてもいつか気付くだろうが、このまま放置しておくのもあまり気分は良くない。
仕方がないのでハンカチを拾って……いや、何か視線を感じるぞ。
「……」
「……」
ふと横を見たら、階段の柵のわずかなスペースから昨日のピンクジャージが覗いていた。何で?
どうやら注目しているのは件の喜多喜多さんのようだ。なぜこんなところにいるのかは見当もつかないが、どうにも恨めしそうな表情をしている。いやまあ、あの陰気な表情は先日と全く同じなのだが。
向こうは俺に気づいていない様なので、こちらもあえて反応してやる必要はないだろう。面倒くさいし。見なかったことにするとしよう。
「えっと、あの……」
「へ? 私?」
恐る恐る少女の後ろから声をかける。大体俺の顔を見た相手はちょっと引いたような反応をすることが多いのだが、珍しく彼女は動じない人間だった。
とはいえ、彼女が大丈夫でも後ろ二人の友人が大丈夫とは限らない。明らかにちょっと引いたような表情をされていたため、しっかりと俺の心は傷ついた。
これ以上不要に傷つきたくもないので、さっさとハンカチを返して退散するとしよう。
「あ、こ、これハンカチです……」
「あ! 本当だ! いつの間に落としたんだろ?」
そう言って両手で受け取る少女。もちろん受け取る際に、さり気なく指同士が触れ合うことも忘れない。間違いなくこいつは男子を勘違いさせるタイプの女子である。
「ありがとう! えっと……確か貴方、二組の……ヒキ、ヒキ……あ! ヒキガヤ君よね!」
名前を覚えられている。幼稚園の頃から間違った名前を呼ばれ続けているこの俺が。
「あっ……ス。じゃあこれで……」
「あ、うん! ありがとねー!」
ふう……危ない危ない。もうちょっとで惚れた勢いで告白してフラれるところだった。いやフラれちゃうのかよ。
そしてそこのピンクジャージ。『仲間を見つけた……!』みたいな目で見てくるんじゃあない。ぼっち同士は決して、群れることはないんだから。