ノーマ。「教官」の異名で呼ばれた元黒笛探窟家。人間離れした巨漢であり、当時の記録によれば身長は2m強である。奈落へのダイブ回数と生還率が当時から今日まで抜きんでて高かった。強靭な精神力と生命力で原生生物を正面から撃破した経験もあり、ゆくゆくは白笛と成ることを嘱望されていた。
ⅩⅩ年前に第二層での遭遇戦に参加、弟子一名を護衛しつつの戦闘で劣勢が続く中、未確認の原生生物に単独で突貫、激しい格闘の末に原生生物と共に奈落の底に滑落した。弟子一名以外に生還者は確認されていない。黒笛ノーマの遺体や残留遺物は、彼が失踪の直前に弟子に託した一つを除き、数十年経過した今日においても未だ発見されていない。
特別な用が無ければ決して立ち入ることの無かった深界第五層に、その日オーゼンはいた。
彼女の目の前にはこれまで見て来たどの原生生物とも異なる、異形の生物が居た。
毛むくじゃらで四つん這いの巨大なクマの様にも、オオカミの様にも見えた。
耳は小さく、目は左右対称に六つあった。長い尻尾と長い五本の爪は鋭く分厚い。
体は大きく五メートルはあろうかと言う巨体。全体的に茶色っぽい。ずんぐりむっくりとしていて、口元には太い歯が生えそろっていた。
そして…そして首元には年季の入った黒い笛がぶら下がっていた。
「やぁ…ノーマ、久しぶりだねぇ。私を覚えてるかい。」
白笛オーゼンにとって、ノーマは自分の師匠の名前だった。温厚で慎ましく、少なくともオーゼンには優しい人だった。一流の探窟家で何時かは白笛と成ることを期待されていた。そして、オーゼンの目の前で原生生物ごとアビスの底に消えてしまった人でもあった。
そんな人の名前を、どうして口走ったのかオーゼンにもわからなかった。
「・・・」
「覚えていなくたっていいさ…でも、そうやって私の方をじっと見つめるってことは、何か思いだしてくれたのかねぇ?」
当然の様に向こうは不思議そうに顔を向けるばかり。人間の言葉での返答は、当然ながら期待できそうになかった。
「・・・」
「…あ~あ、こんなになっちまって。全く、酷い有様だねぇ。手も足も毛むくじゃら、オマケに四つん這いで…まるっきりケダモノじゃないか。」
オーゼンは目の前の存在が何であれ良いと思った。思えばノーマが死んでから、今日で60年も経っていた。死んでいてもおかしくない。生きていたって…目の前のケダモノに成れ果てていたっておかしくなかった。
「・・・」
「でも、案外変わらないモンもあるってことさね。そうやって…」
目の前のケダモノに…ではないのだろう。自覚はある。でも、目の前のケダモノを通して、自分が過去を振り切るために、その為に少し清算する機会が欲しかった。
「・・・」
「立ち上がると、あの時とおんなじ景色、変わってないよ。」
「…あの時から、私も随分大きくなったんだけどねぇ…やっぱり、師匠の方が大きいままなんだね。」
鼻を鳴らし、円らな瞳をパチクリさせて仁王立ちしたクマの様な存在を見て、オーゼンは幼い頃を思い出した。
今の自分よりも頭一つ分は大きかったノーマの姿が瞼の裏に浮かんだ。姿勢を正して見上げた。それから、一歩二歩と近づいた。
「・・・」
「ねぇ、ノーマ…あんた、実は気がついてるんだろ?私だって、あんたが置いてった弟子のオーゼンだって。」
「あんたの遺した弟子は、見ての通り白笛になったんだ…今はね、弟子もいて立派な御師匠様さ。」
「ねぇ…なんで、あの時私の事を置いてったんだい?なんでさ、なんて聞かれても困るだろうけど。」
クマは黙って聞いていた。正面で自分のことを見上げるオーゼンのことを、傲慢さなど欠片もない、心底不思議そうな面持ちで見守っていた。
至近距離にもかかわらず、クマは何もしない。黙ってオーゼンの言葉を受け止めた。
「・・・」
「あんたも、私も運が無かったのさ。きっと。だから、本当なら一緒に死んでたって何にも問題じゃなかった。」
「でも、あんたは私に遺物を押し付けると、勝手に一人奈落の底に堕ちてっちまった…その所為で、私はあんたを憎んだよ…。」
オーゼンは視線を地面に堕とした。今、腕が降ってくればオーゼンだって傷を負うことは免れないだろうに。
だが、クマは動かない。ぶぉ…ぶぉ…と小さく息を漏らすばかりだ。その息遣いもどこか気遣わし気なのは気のせいだろうか?
オーゼンは肩を抱いて、ずっと心の奥にしまい込んでいたことを独白した。決して白笛にまで上り詰めた者の振る舞いではなかった。だが、このクマの前に居ると感じる、得も言われぬ安心感の方が勝ったのだ。
「折角命を救われたってのに、あんたが居なくなったお陰でアビスに夢を抱けなくなったよ。」
「ここに甘さは必要ない。子供騙しじゃ犬死するだけ。はっきりわかったからね。」
「まぁ、その御蔭で白笛にまで成れたのかもしれないねぇ…でもそれとこれとは別物さ。」
堰を切った彼女の言葉は重かった。心底苦々し気に、オーゼンは目の前の不思議なクマに自分が抱えて来た師匠への想いを吐露した。
「・・・」
「あんたが…目の前で死んだ、その所為で私は二度と男を愛せなくなった…。あんた、最期まで勝手だったよ。」
「・・・」
「私よりも大きな、上昇負荷で歪んだ体も。小綺麗な顔も、穏やかな声も…全部全部、最初、何一つ私にはなかったものさ。無いならそのままで済んだものを…。」
「あんたにいきなり弟子にされて、勝手に世話焼かれて、勝手に家族ごっこを楽しんじゃってさ…全く滑稽だった。」
「・・・」
「でもね、ごっこを楽しむだけなら、いっそあの時に捨てて行って欲しかったよ。あんたが居なくなって、か弱い私はわんわん泣いたっけ。」
オーゼンはまた一歩前に出た。もう、手を伸ばせばクマに触れられる距離だった。
オーゼンは続けた。
「でも、どうせあんたのことだ、あの時そんなことちっとも考えたことなかっただろう?でも、私は考えてたよ…おさらばするんだってね。でも、結果はご覧の有様さ。あんたが死んで、私は一人で地上に帰った。あんたが律儀に寄こした遺物のお陰でケガ一つ負わずにね。」
「・・・」
「あんたは知らないだろうけど、あんたが死んで何十年と経っても相変わらずあの時の原生生物は未登録のままだよ。謎の新種から子供を守り抜いて死んだんだ。お陰であんたは英雄扱いだ。死人に名誉なんて、なんの役にも立たないのにねぇ?」
「あんたの弟子だったお陰で、そこまで苦労はなかったよ。英雄の弟子だって皆気にかけてくれたからね…でも、私は心底嫌だったよ。あんたの弟子だと持て囃されるのも、あんたが英雄だってよばれることも…反吐が出た。」
またオーゼンが一歩前に出た。オーゼンの腕がクマの首元に伸びた。
「・・・」
「あんた、あたしみたいなのを集めて、家族ごっこを続けるつもりだったんだろう?私が巣立って、そうしたら新しい
「・・・」
「残念だったねぇ?何せあんたは、あの日私を守っておっ死んじまったんだから。」
「全く…度し難いバカだね。情が移った
オーゼンはクマの首から黒い笛を取り上げると、これにグーッと顔を寄せて見つめた。
そして、高ぶった感情を隠すこともなく暗黒微笑を浮かべるや、クマの体を全力で締め上げた。
痛痒を禁じ得ない様子のクマを見上げる。爪を立てて、締め上げて。
しかし、何も起きなかった。クマは抵抗しなかった。
オーゼンは面白くなさそうに顔を元の真顔に戻し、情けなく泣きそうに見えるクマの顔を見上げた。
解放されたクマはオーゼンのすぐ近くの岩場にのそのそと上がると、そこで仰向けに寝転んでしまった。
「・・・」
「ねぇ…ノーマ、あんたどうして私を襲わないんだい?」
「人間だったときから私より強かったんだ…バケモンになった今なら簡単なことだろうに。」
「なんでだろうね、不思議なもんさ。自分がこんなになっちまう原因が目の前に現れたんだ、一思いに襲って食べたらいいだろうに。」
「だってのに、なんで、なんであんたはそうやって、じぃっと私を見つめているんだい?」
「無防備に岩場の上に寝転んで、仰向けで腹を晒して…あんた、そんなんで本当に野生で生き残ってこれたのかい?」
オーゼンの言葉はごもっともだった。アビスは決して優しくない。残酷な生態系がそこには存在しており、人間ではどうすることもできない。だが、目の前のクマに腹を立てた様子はない。
だがそのことがそのままオーゼンの言葉を理解していないと断じることには繋がらない。なぜなら、クマは実に心地よさそうにオーゼンを見つめているからだ。
「・・・」
「私を視るなり動かなくなって、こっちをジーっと見つめて。鼻を鳴らして、呑気にあくびして…それだけかい?」
猫背になって下を向いたオーゼン。彼女は必死に笑いを堪えている様だった。
「・・・?」
「ふふふふふ……やっぱり、あんた大馬鹿だ。全く、心底あんたが憎らしいよ…。」
涙すら浮かべているオーゼン。彼女の涙でクマが動いた。
「・・・・・ォ・・・・・・ェ・・・ゥ・・・ォ・・・ェ・・・ゥ・・・オーエ・・・ゥ・・・」
「嬉しそうに笑ってさ、それとも威嚇のつもりかい?…だったら尻尾を振るのをやめな。喉を鳴らすんじゃないよ…毛むくじゃらのケダモノのクセに…一丁前に私の名前を呼ぶんじゃない、よ…。」
クマは、必死に喉を使って音を立てた。それは鳴き声と言うよりも掠れ切った人間の声の様に聞こえて、オーゼンにはそれだけでもう十分だった。
手の中で納まった笛を見つめる。それは、間違いなくノーマのものだった。
目の前のクマが何であれ、そんなことはどうでもよかった。
目の前に、ノーマが居る。そのことを確信したオーゼンは笑った。
「・・・」
「ありゃあマグレだったのかい?それとも幻聴かねぇ?」
「さあ、言ってごらんよ。オーゼン、オーゼンだよ?」
寝転がるノーマの腹の上から抱き着く態勢で、オーゼンがノーマに話しかけていた。
ブモブモと時折イビキをかいたり、オーゼンを潰さぬように優しく抱き返す姿からはやはり敵意など感じられなかった。
薄い笑みを浮かべてノーマの鼻先を突くオーゼンは楽しそうだった。
促されるように耳元で囁かると、ノーマは喉を鳴らした。
「・・・ォ・・・ェ・・・ゥ・・・」
「良い子、良い子だ…ふっふっふ…近くで見れば可愛い毛むくじゃらじゃないか。案外、ケダモノになって正解だったかもねぇ?それに…」
ノーマの反応にオーゼンは心底満足げに頷いた。
光を吸い込むような瞳が湿った視線をノーマに注ぐ。
ノーマはオーゼンに弄ばれるままを許してしまっていた。くすぐったくて鼻を鳴らすことはあっても、頬肉の余った皮で遊ばれても怒る様子はない。
「・・・?」
「ふふふ…それに、あんたが世話した
「…お陰で、私はアンタを独占できる。」
オーゼンはノーマの分厚い胸に顔を埋めて、深く深ぁ~く深呼吸を繰り返した。
それを十回も繰り返した彼女は、それから名残惜し気に立ち上がり、ボキボキと背骨を鳴らした。
去り際、オーゼンは立ち止まり振り返った。ノーマは初めて来たときと変わらない、のんびりとした雰囲気でオーゼンを見送るが、その表情は少し寂しそうだった。ふかふかで長い筋肉質な尻尾も、名残惜し気にオーゼンの足に巻き付いていた。
「・・・」
「安心しなよ。また、ここに来るからね。」
「折角また逢えたんだ…今度は二度と見失わないよ。」
「アンタは、やっと見つけた、私だけの
オーゼンはそう言うと、優しくノーマのふかふかの毛並みの頭を撫でた。
足が尻尾の拘束から解放されたのを確認してから、彼女は深界第五層を後にした。