トレーナー×ウマ娘ものですので、苦手な方はご注意ください。
懐かしい、光景を見ていた。
彼女は独りだった。
多くのトレーナーに囲まれていても、仲の良い友人たちに囲まれていても、独りだった。
彼女が抱える理想は、苦悩は、焦燥は、全てが彼女独りの物で、誰にも立ち入らせない。
故に、彼女はきっと孤高であった。
その姿が美しいと思った。
彼女の瞳の奥に揺れる信念に魅せられた。
彼女のその想いを共有する存在になりたいと思った。
だから、誰をも拒絶する彼女の背中に声を掛けた。
拒絶されて尚、踏み込んでいきたい。
そこまでの動機を彼女の中に見たのだ。
それは、生まれて初めての一目惚れに近い衝動で。
思えば、あの時から僕は……
ふと、眠りから意識が呼び戻されてはっと、目が覚める。
瞬間ぼうっとしながらも、アラームで覚めたわけでない事実に思い至り、慌てて枕元のスマホを開く。
パッとついた画面の日付にホッとする。
今日は、土曜日だった。
アラームがなくてもこんな時間に目が覚めてしまう事実にうんざりするが、僕はこの瞬間がとても幸福に感じる。
ここから少し早く起きて活動を開始しても気分が良くスタートを切れるだろう。
これからの行動を逡巡していると、布団から出した手と首元をひんやりとした朝の空気が包み込む。
頭上、カーテンの隙間から差す薄らとした光はまだ夜のそれである。
だが、いつもなら冷たいフローリングに顔を顰めながら、のろのろと風呂場へと向かっていい頃だ。
そんなことを考えて、普段の自分に無駄な優越感を覚えて布団の中に手を引っ込める。
布団の中はやたらと温かく、外気に強張った僕の手を優しく解きほぐしてくれるようだ。
「ん……」
布団を少し引き上げた隙間から入った冷たい空気に、右隣で丸まっている塊が抗議の声を上げる。
絹のように滑らかそうで、実際撫で心地の良い栗毛の頭が、外から洩れる明かりに照らされて艶やかに輝いていた。
その頭から生えた二つの尖った耳をへたらせこちら向きに丸まっている姿は、普段の彼女からは誰も想像出来まい。
寝始めは仰向けで、行儀よく枕を頭にして寝ているのだが、大体朝起きると僕の腕の内に潜り込んで丸まっている姿を見ることになる。
元々気温の変化に弱い子だったが、日本の冬の寒さは堪えるようだ。
枕代わりにされた二の腕に掛かる重みがとても心地よい。
確かに自分の幸福がここにあるという事を僕に実感させてくれる。
布団が彼女の鼻辺りまで下がっているのが、僕の首元が疎かになっていた理由でもあり、そんな不自由さですらつい頬が緩んでしまう。
枕となった右腕が痺れてしまっているのを自覚する。
自覚したが最後、僅かに動かしたことを契機に段々と感覚が戻ってくる。
段々と腕の痺れが解けていくにつれて、なんとも言えないムズムズとした掻痒感が僕の腕を襲う。
彼女の眠りを妨げたくなくて耐えようとするけれど、ついピクリと動かしてしまう。
その揺れに揺り起こされるように、彼女の口から僅かに抗議の声が漏れ、うっすらと目が開く。
「……あ、おはようございます」
遂に彼女が目を覚ましてしまい、まだ若干開ききらない淡い群青色の瞳がこちらを見上げる。
きっとこの寝ぼけ眼でふやけた彼女の顔を見られるのは僕だけだろう。
彼女は、きっと親にすら起き抜けの顔は見せたことはあるまい、そういう子だ。
「おはよう、グラス」
僕が彼女の名前を呟くと、もぞもぞと僕の腕を下敷きにして顔のあたりまで這い上がってくる。
まだ痺れの残る腕のむずむず感に耐えて、彼女の小柄な体を迎え入れる。
ふわっと、花のような少し甘ったるくも柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。
それが、彼女自身の匂いなのか、シャンプーの香りなのかは判別できないが、僕の脳裏に彼女の香りであると沁みついている。
顔横まで移動してきたその小さな頭を、下敷きにされた腕を曲げて撫でると、なんとも気持ちよさそうに目を細める。
彼女も僕の頬に、柔らかくまた頭同様に小さな手を当ててくる。
寝てる間に少々油でべたついてやないかと思ったりもするが、気にしたようでもなく穏やかで慈愛に満ちた表情で僕の顔を温めてくれる手に懸念はぬぐわれた。
その温もりが何とも言えず僕の表情を緩めていく。
「チクチクする……」
寝起きで伸びた髭の感覚に何を思ったか、柔らかく微笑む彼女の顔につい魅入ってしまう。
夢の中の彼女より幾分と大人びて、しかしその頃の面影をしっかりと残すその姿に少しだけドキリとした。
いつものことなのに、あんな夢を見るから……
「どうしたんですか……?」
ジッと自分の目を見つめたまま反応を返さない僕に、その瞳を丸くして、小首をかしげるような動作をする。
枕の布に長い髪が擦れて、さらさらと乾いた音がする。
「ううん。なんでも。目、覚めた?」
徐々に昇り始めた朝日が差し込んで、僕は目を細める。
こういう関係になってそこそこ経つのに、こういったふとしたきっかけで新鮮な幸福感を覚える。
「はい。そろそろ起きなきゃですね」
僕の問いかけに微笑んで応えて彼女が身を起こそうとする。
腕に感じていた重さがふとなくなって、いつでも味わえるはずのそれが惜しく思えた。
「別にいいんじゃないか? 今日は」
彼女が起きあがろうとするのを、肩を抱いて留める。
なんだか今日はもう少し、まどろみの様なこの温もりを堪能したかった。
「ダメですよ。朝寝坊の宵っ張りさんになっちゃいます。ほら、起きて?」
そんな僕に、しょうがない人、と言う様に苦笑する。
「グラスがお風呂出たら起きる」
僕側の布団をめくろうとするのを、空いている方の手で止めて抵抗する。
「またそんなことを言って。そのまま二度寝して起きないでしょう?」
彼女は困ったように眉をハの字にして僕をゆする。
こうやって好きな子を困らせたくなるのは、小学生の頃から変わらない男の習性なんだろうか。
「グラスが起こしてよ」
我ながら子供のようなわがままを言っていると思う。
「悪い子には朝ご飯、ありませんよ? 」
グラスはムッとして、僕の頬に指を突き刺してくる。
しばし、じっとにらみ合って、どちらともなく相貌を崩して不毛なやり取りに笑い合う。
「わかったよ。起きようか」
僕が根負けしてそう言うと、グラスも頷いて身を起こした。
少し寝乱れた若草色のパジャマを直して、彼女はにこりと微笑んで言った。
「はい、今度こそ、おはようございます」
その長い髪が散らばらない様に一房に束ねたシュシュを抜き取って振りほどく。
パサリと広がった髪の毛をやおら眺めて、僕も遅れて身を起こす。
それを認めると、グラスは、よろしい、と言うように頷くと、洗面所の方へと歩いていった。
僕らのなんでもない休日はこうやって始まるのだった。
◆ ◆ ◆
リビングのカーテンと窓を開けて朝一番の空気を取り込む。
個人的には冬はこれをやりたくはないのだが、それをしないとグラスが怒るのだ。
とはいえそんな僕も、文句を言われながら渋々やっているうちに、今では朝一に窓を開けないとなんとなく居心地が悪くなるようになった。
まばらに見える雲と、丁度東に面したベランダから見える朝日はそこそこに気持ちの良い眺めで。
高層でないうちのマンションも、坂に面した立地故、あたりの建物に遮られることなく、日の光を取り込める。
ひとしきり満足すると、そのままキッチンへ行ってやかんに火をかけてお湯を沸かす。
キッチン裏の少し開いたドアからは、シャワーの流れる音とグラスの小気味良い鼻歌が漏れ聞こえてくる。
僕の知っている日本の歌だったり、多分知らない彼女の故郷の記憶だったり。
声質が高めな彼女の鼻歌は耳に心地よく。
コンロの火がちゃんとついたことを確認すると、ソファにボケっと座って、テレビを眺める。
土曜朝は特と言って面白いテレビをやっているわけもなく、ワイドショーが出走ウマ娘の事を好き勝手言っているのを半目で見るしかない。
しばらくすると微かに漏れ聞こえていたシャワー音が止まった。
風呂の引き戸が開く音が聞こえるのを見計らって、窓と薄手の方のカーテンを閉める。
そのままホカホカと湯気を立てるグラスと入れ替わるようにして僕もシャワーを浴びる。
僕が使うのとは違うシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
独身の頃はシャンプーと石鹸しかなかったボトル置き場も、用途の良くわからないボトルやわざわざ石鹸も増えていた。
温泉旅館より多いそのラインナップから僕が使うのは相変わらず二つだけで、他は全てグラスの物だ。
今でさえ日常であるが、初めの頃はそう言った五感を刺激するあれこれにいちいちどぎまぎしたものだ。
この朝のシャワーも、思えばグラスに臭い、と思われたくなくて始めた習慣だったように思う。
目も覚めるし、意外といいということに気がついてからは、今では入らない方が不快感を覚えるようになった。
雑にシャワーを浴びて部屋に戻ると、朝ご飯が食卓に並び始めている。
髪をポニーテールに結び、ダボついたシャツにカーディガンを羽織って、その上からエプロンをしている。
何が良いのかわからないが、グラスは僕のTシャツを部屋着に流用している。
別に彼女の物を買うお金がないわけではないのだが……
こっそり嘆息しながら、朝食の準備に参戦すべくキッチンカウンターの方へ向かう。
グラスがパタパタとスリッパの音を立てながらせわしなくキッチンとテーブルを行き来する度、尻尾と髪の房がひょこひょこと動いている。
それを目で追いながら食器棚から茶碗を二つ取り出して、キッチンカウンターに設置してある炊飯器からご飯をよそう。
料理は僕も作れるのだが、頑なに台所に立たせてくれないので、こういう隙間産業で貢献するようにしていた。
やがて、卵焼きと煮物を中心とした朝ご飯が並ぶ。
律儀にエプロンを畳む姿を横目に席に着いた。
「では、いただきましょうか~」
やや遅れてグラスも席に着くと、二人合わせて両手を合わせる。
独りだとこういった所作は省略しがちだが、一つ一つ丁寧に暮らすグラスに合わせているうちに、思い出す日本人の心がある。
「いただきます」
しっかりと目を閉じて頭をやや下げるグラスを見ながら、自分も手を合わせる。
小柄な彼女が頭を下げると後ろでまとめたポニーテールの根元がひょっこりと顔を出し、可愛らしい。
もう見慣れていいはずのこんな光景も、未だ褪せずに僕の心に新鮮な色を添えてくれてる。
共に在る、と言うことは独りで生きていた頃には想像だにしなかった喜びがあって、その相手がグラスで良かったと、再確認できるのだ。
ある意味お腹いっぱいだ、と心の中で苦笑しながら、わざわざ小鉢に盛られた煮物をつつく。
冬は根菜が旬であることが多いからか、やたらと煮物が多い。
今時一部の果物野菜以外は年がら年中食べれるというけれど、グラスは旬と言うものに拘っているようだ。
そんな彼女が今日作ったのは里芋と鶏肉が入った煮物だった。
「煮物、味が染みてておいしいね」
鶏肉は柔らかく仕上がって、里芋にも鶏だしが染みていてホッとする味だ。
「煮っころがしです~。今回の味付けは好みに合ってますか? 」
律儀に箸を置いて、そのまま口に手を当てながら、グラスが味の確認をしてくる。
「ばっちり。単品で食べてもご飯と食べてもいい絶妙な味化減だよ」
グラスの料理はずっとおいしいが、最近はなんだか好みと言うか、本当に絶妙に口当たりの良い味になっているように思う。
恐らく、こうやって感想を聞くたびに少しずつ味を変えてくれいるんだろうが、そういった表には出ない隠れた手間と工夫が心に染みる。
隠し味は愛情と言うのは、恐らくこういうことを言うのかもしれない。
グラスから教わることは本当に多くて頭の下がる思いだ。
「よかったです。お味噌汁はいかがです? 」
言われて、まだ湯気の立つ浅利の味噌汁を口に含む。
僕が貝の味噌汁が好きだと知ってから、それなりの頻度で出してくれるようになった。
砂出しとかもめんどくさかろうに。
「おいしいよ。いつもありがとね」
上目遣いでジッと反応を窺う彼女に感謝の言葉で返す。
こういったことはハッキリ相手に伝えた方がいい、言わなくても伝わる思いがあるっていうのは傲慢だと、僕らはかつて学んだ。
「いえいえ。好きでやってることですから~」
嬉しそうに笑いながら、自らも食事に戻る彼女を見ながら、これだけは忘れない様にしようといつも思うのだ。
「そうかもだけど、ね」
明確な反応はなかったけど、笑みを深くする彼女の様子に、こちらも釣られて頬が緩む。
「今日はいかがされますか? お出かけになられる用事とかは?」
グラスが小首をかしげて尋ねてくる。
「いや、なんにもないよ。おうちでゆっくりしようかな」
黄色くふんわりと仕上がった卵焼きをつつきながら、そう答えた。
「そうですか~」
特に諾意でも否定でもない声に顔を上げる。
「どこか出かける? 」
もしかして、と思って聞いてみる。
僕の方が出不精ゆえ、出来る限りグラスの希望に合わせるようにしている。
というより、グラスがいないと僕の世界が拡がらないと言ったほうが適切かもしれないが。
「いえ、私も。今日はおうちでゆっくりします」
グラスは少し思案気にお箸を持って手を顎辺りに当てたものの、そう言って頷いた。
「そか」
そう短く返すと、卵焼きを頬張ってご飯を掻きこむ。
そうそう、このぐらいのしょっぱさがいい。
卵焼きは、個人的にはちゃんとご飯のお伴であって欲しいのだ。
「どした?」
ふと、前に視線を戻すと、箸を置いてこちらをぼおっと見る瞳と視線がぶつかる。
「いえ、こうやって当たり前に一日を一緒に過ごしているのもなんだか不思議だなと、思いまして」
グラスが、苦笑して口元に手を当てる。
揺れる身体に合わせて前髪の白い星屑がはらりと左右に動くのを見て、確かにと頷く。
「そうだねぇ」
初めは割と頑なと言うか、本心を中々見せない子だったし、"そういうこと"にも興味がない子だと思っていた。
無論、僕の方もかなり念入りなセクハラ研修を通ってきた身としても、適切な距離感の関係はありがたかった。
なんとなく、なんとなくだけれど、卒業して大学に通ったりし出したグラスが時たまトレーナー室を訪れて、その時担当しているウマ娘が彼女に懐いて……
くらいの間柄で続いていくような関係だと思っていた。
トレーナー契約最後の日、最後に手料理でお礼がしたいと言われてあげたこの家で、彼女から胸の内に秘めていた想いを告げられた。
その時なんて思ったかは忘れたけれど、これからも支え合っていけるんだと思うとその先まで浮かんでしまって、僕も程なくして頷いた。
その日の終わりに、そろそろ帰ったら、という段階になって、ここから大学に通っていいかと言われたのには面食らったけれど、彼女が寮を出てそのまますぐに、独身のくせに見栄を張って借りた2LDKの一部屋はグラスの物となった。
奥手に見えて意外と終盤の攻めが強いなと思ったものだったが、そう言えばグラスは差しウマ娘だったなと改めて思わされたのだった。
「今は幸せ? 」
答えがわかり切ったうえに、なんだか臭い問いかけだったけど、つい確認してしまう。
「はいもちろん」
頬に当てた左手には僕と同じ位置に銀色の指輪が輝いている。
そのあと1年のうちにケンタッキー州の実家へ連れていかれてフィアンセとして紹介されると、あれよあれよという間に籍を入れて夫婦になった。
結婚式は大学を出てから盛大に、となったが、まさか私生活でもここまで加速力のあるウマ娘だと思わなかった。
「ならいいね」
そんな生活ももう4年目。
僕らは互いの存在を日常の物としながらも、その日々の中で時たまこうやって確かめあうのだ。
「はい」
そう言って頷く彼女も同じ思いなのだと確信できる。
そう感慨に浸っていると、冷めちゃいますよ、とグラスに言われて慌てて朝食を掻きこむ。
彼女もそれに苦笑すると、箸を進め始めた。
◆ ◆ ◆
皿洗いは僕の仕事で、一通り洗い終わると、でもすぐに手持無沙汰になる。
手を拭きながらテーブルの方を振り返ると、グラスはお茶を啜りながら何やら読書モードの様だ。
眼鏡を掛けて静かに本に目を落とす横顔を眺めながら、さて僕はどうしようかと思案する。
グラスに相手にしてもらえないとなると、本格的に暇になってしまう。
家にいる、と言ってもあまりやることはない。
結局、テレビモニターに繋いだPCで、過去のレース動画を読書の邪魔にならない様に音を消して何となしに眺めていた。
職業病だなぁ、と思いながらも、やはり改めて見直すと発見もあったりして、PCのメモ帳につらつら書きながらあれこれとみて夢中になってしまう。
すると、いつの間にかグラスがやってきて、そのままパフっと音を立ててソファに座った。
「読書は終わり?……ってどうしたの?」
そのままお尻をずらしてにじり寄ってくると僕の左腕を取って、頭を預けてくる。
フワッと、花のような香りが鼻腔をくすぐって、その柔らかな重さと共に僕の五感をやんわりと支配する。
「休みの日くらい……その」
ポツリと漏らすグラスの頭頂部を見るとやや耳が垂れている。
「ん?」
このたれ方は不機嫌? どうしたんだ?
何かしてしまったかと、脳裏の記憶を巡らせるが思い当たる節がなく。
「休みの日くらい別の子のこと考えなくても……あの」
腕にまとわりついた彼女の腕の感触が強くなる。
表情は見えないけれど、むくれていそうだなとと言うのがわかった。
「あ、ああ。ごめん」
原因に思い至って、僕は動画を止めた。
仕事柄麻痺しがちだが、アスリートである一方でアイドル的な人気もあるウマ娘の動画を、妻をほっぽってじっくり見ているというのもよくなかったかもしれない。
「折角ゆっくりできるんですから。ふふっ」
グラスが顔を上げて、その透き通った青の瞳をこちらに向けながらはにかんだ。
「そうだな……やめとくよ」
そう言って腰を浮かすと、僕はリモコンを操作してモニターを落とし、ノートPCを閉じた。
「そうしてください」
途端に上機嫌になった気配を感じて、ホッと胸を撫で下ろす。
まぁでも、休みの日位、目の前の担当ウマ娘とだけ向き合うのも悪くない。
そう思いながらソファに腰を鎮めると、グラスが膝の上に倒れ込んできた。
「おっと、いつもと逆だな」
いつもは割と僕が彼女の膝に頭を預けることが多いけれど、今日は先を越されてしまった。
「たまにはいいじゃないですか~、これ、お願いします」
差し出されたその手には耳かき棒が握られていた。
いつの間にかポニーテールを解いてた長髪が、外からの柔らかな日差しに照らされて、キラキラと光っている。
僕が耳かき棒を受け取るのを確認すると、耳をこちらの方へ向けて委ねてくる。
「ああ、いいよ。やろうか」
ウマ娘の耳は我々とは異なっているけれど、そのお手入れの仕方はトレーナーとして一応心得ていた。
彼女たちの耳はその形状や砂や芝を走る環境の中で汚れやすいため、自分で手入れをしない子はケアしてあげる必要がある。
こちらへ向けられた耳の下にティッシュを敷いて、耳かき棒でデリケートな部分に触れない様に塵や垢を掻きだしていく。
「耳かき、本当にうまいですよね」
その緩む表情筋を何とか律しようとしている絶妙な表情を見る限り、うまくやれているようだ。
グラスは元々が耳かきや尻尾の手入れなど諸々は自分で完結させられるウマ娘だったが、こういう関係になってからはちょくちょく僕がやっている。
一つの大事なスキンシップの時間と言うわけだ。
「まぁ、トレーナーやってますから?」
耳かきのふさふさとした部分で外耳を掃きながらそう答えた。
ウマ娘の耳は人間の耳と違って、ふさふさと柔らかな毛に包まれていて、その奥から掻き出してくる塵や垢で外耳辺りが汚れてしまうので欠かせない。
ティッシュの方へと履き落として、最後に湿らせたティッシュで一拭きすれば完了だ。
「もしかして、他の子にもやってるんですか?」
グラスが僅かに首をこちらに向けると、やや細められた鋭い目線が突き刺さった。
ややグラスの雰囲気が鋭くなる。
「あ、いや。一応知識として知ってるしってことね」
そう言ってこちらに向いた首を横に戻すと、耳の中をもう一度確かめて取り残しがないかを入念にチェックする。
「ホントですか?」
されるがままにされながらも、グラスが、疑わしげな声をこちらに向けてくる。
「ホントだよ。グラス、君のトレーナーは誰だったっけ?」
自分の担当ウマ娘と結婚した僕ではあるが、今も昔も担当ウマ娘に触れたことも一線を越えた発言をしたこともない。
関係性によりスキンシップはまちまちだが、僕は割と潔癖な方だったと思う。
「まぁ、はい。そうですね。ぜ~んぜん、触れようとすらしてもらえませんでした」
剣呑な空気を孕んでいたグラスだったが、そう言うと大きくため息をついて、その雰囲気も弛緩させた。
「今日日セクハラも厳しいから」
グラスの頭を撫でながらそう言い訳する。
他に触る頭と言えば若干癖の入った自分の髪だけなので、滑らかに滑る様な感触はとても気持ちがいい。
縫い目のあるシルクの織物よりも引っかからない、極上のさわり心地だ。
「気づいてもよかったと、今でも思ってますよ? 」
憮然とした声でそう言う彼女の横顔は、裏腹に緩んでいた。
怒った顔を保ちたいのだろうが、多分頭を撫でられるのが心地よいのだろう。
付き合い始めて暫く経ってから言われたことによると、随分前から意識してくれていたらしい。
僕はそんな彼女の好意にハッキリと言われるまで気づかなかったのだった。
「悪い悪い」
撫でていた手でポンポンと頭を叩くと、もう、と言いながらグラスは眉根を下げた。
「ほい。反対側」
そう言うとグラスは大人しく、反対側、僕の方に寝返ってもう一方の耳を差し出した。
同じようにティッシュを耳の下に敷いて掃除をしていると、お腹の肉が引っ張られる感覚を得た。
「あれ? あなた、もしかしてちょっと太りました?」
一旦耳かき棒をグラスの耳から離して見下ろすと、グラスがTシャツ越しに僕のぜい肉を摘まんでいた。
「つまむなって。手元が狂ったら危ないだろうが」
僕はしかめっ面して抗議するが、グラスは聞いちゃいないようだ。
「これは、由々しきことですね……献立を考え直さなくては」
僕の腹回りを端から端まで摘まんでは難しい顔してぶつぶつ呟いている。
「え? いいよ。普通に楽しませてくれよ」
グラスの作る夕飯を励みに頑張っているのに、粗食にでもされたら何を楽しみに一日を過ごせばいいのやら。
「そうはいきません。私が夫の栄養管理者ですから」
僕の抗議の声も虚しく、どうやら今後は脂質と炭水化物少なめの料理になりそうだ。
ただ、グラスならおいしくダイエットさせてくれるかな? と言う期待もあった。
「はいはい。ほいっ終わったよ」
諦め半分期待半分の気持ちで残りを取り切ると、塵を払って両方の掃除を終えた。
「う~ん。すっきりしました~」
グラスは起きあがると耳をパタパタとさせて、背伸びした。
その満足げな様子を見れただけでやった甲斐があったというものだ。
「そりゃよかった……おっと」
と、背伸びした勢いのままグラスが再びもたれ掛かってきた。
「最近お忙しかったですから、補給させてくださいね? 」
そんな風に上目遣いで見つめら、体越しにせわしなく揺れる尻尾見せつけられればもう何も言えない。
「今日はやたら甘えん坊だなぁ」
僕はグラスの腰に手を回して強く抱き寄せた。
ふんわりと柔らかく、服の上から想像する以上に華奢な体をしっかり抱きとめる。
グラスも、僕の背中とソファの間を掘り進む様に腕を回すと、しっかりと抱き着いて頬を寄せてくる。
頭一つ分くらいの身長差があるので、丁度胸のあたりにぐりぐりとグラスの顔が押し付けられて、耳がゆらゆらと目線辺りを漂っている。
お互いにくっついてる部分のぬくもりが溶け合って、穏やかに互いを想い合う気持ちまで一つになっていくように感じる。
「好き、です」
僕の胸元に顔を埋めながらグラスがポツリと呟いた。
「僕もだよ」
そう言って、グラスの頭を空いている手で撫でつける。
少しだけグラスの体温が上がっていくような気がして、それはもしかしたら僕の方かもしれないけれど。
「こうしてるだけで幸せなんて、知りませんでした」
埋めたままの少しくぐもった声、熱い息がシャツ越しに感じられる。
「そうだね。ずっとこうしていられそうだ」
グラスが現役の頃は思いもしなかった。
こんな関係になることも、グラスが結構甘えたがりなことも。
不意にグラスが顔を上げてこちらを見つめてきた。
「どうした? 」
潤んで水面の様に煌めく瞳を覗き込む。
「……」
僕が問いかけると言葉は返さず、目を閉じてそのまま微動だにしようとしない。
さすがに察するけれど、長いまつげに、きめ細やかな白い肌が上気してほんのり色づき、そして少しだけ突き出された桜色の唇。
とても綺麗で、こんな表情は中々見れないものだから、ちょっと眺めたくなる。
やがてグラスが、薄目を空けると、少しだけムッとした顔になって口を開いた。
「いじわる」
そう言うと僕の頬に両手を這わせて、いつまで経っても近づいてこない僕の顔との距離を一瞬にして縮める。
付き合い始めの頃とはまた違った、確かめ合うような口づけは長く、離れがたい引力がそこにあるように二人を結び続ける。
何も邪魔することのない二人だけの空間で、僕らは愛と呼ばれるものが確かに存在することを探り合うのであった。
◆ ◆ ◆
暫く二人でじゃれ付いたり、映画を見ながら軽くお昼ご飯を食べたりと、何でもない時間を過ごした。
当たり前のようでいて、特別な時間と感じられた。
15時ごろになってグラスがあ、と声を漏らす。
「どうした? 」
僕は隣で声を上げた彼女の方を見る。
「お夕飯の買い物に行かないと~」
壁掛け時計を見上げながら、口に手を当てて目を丸くしている。
時計は15時を指していた。
僕らは休みの日は大体18時ごろに夕飯を共にするので、そろそろ動き出さなければ、といったところだ。
「ああ、そんな時間か。いくか!」
僕は膝を打って立ち上がる。
「はい~。あ、ちょっとだけお化粧するので待っててくださいね」
グラスは乱れて跳ねた髪を手櫛で直しつつ、自室の方へ小走りに駆けて行く。
「化粧しなくたってそこら辺の人より随分と可愛いんだから……」
僕は振動で揺れる尻尾を目で追いかけながら、そう言った。
事実、ひいき目を差し引いて2で割ったとしても、グラスには化粧が必要に思えない。
「調子のいいことを言っても駄目です。身だしなみですから~」
僕の方を振り返りもせず、そう言い残すと自室へと消えていった。
「へいへい、そうかい」
トレセン学園ではある程度の化粧やアクセサリでの着飾りは生徒の自主性に任せており、それぞれ思い思いのおしゃれを楽しんでいる。
しかし、グラスは学生時代から化粧もせず、そこまで華美に着飾る様な事もしていなかった。
こうやって化粧をするようになったのも大学に通うようになってからで、大学の友人の教わったようだ。
正味な話、グラスに化粧は不要だと思うのだけれど、化粧と言っても紫外線対策も兼ねて軽くやっているだけのようなので、いいかなと思うのだった。
待つ間再びソファに腰を沈めてそんなことを考えていると、スリッパの音をさせてグラスが戻ってきた。
化粧と着替えを終えて戻ってきた彼女はすっかりよそ行きな格好で、家でのラフな格好とはまた違ってとてもいい。
濃い目のクリーム色のフレアスカートをひらめかせて、上はリボンのついた可愛らしい白のブラウスに、瞳と同じ色のカーディガンを羽織っている。
現役の時からつけている耳飾りだけは変わらずそこにあった。
「あれ? もしかしてそのパーカー姿でお出かけされるつもりですか? まさか、とは思うのですが……」
グラスは大の字にソファに沈み込んでいる僕を見下ろして、やや眉間にしわを寄せる。
「え? ダメ? あ~ダメですよね。はい」
僕は自分の格好を見て、抵抗を試みるが、眉間の皴が影を濃くするのを見て、素直に立ち上がった。
「もうっ。この前選んであげたジャケットと今のチノパンでいいですから。あと髪の毛、あとでこっち来てください整えます」
こういう時は、具体的な指示が出たことを喜ぶべきだ。
言われた通り、この前ショッピングモールに行ったときに着せ替え人形にされた思い出のある紺のカジュアルなジャケットを羽織る。
でも、この上にオーバーを羽織るので意味ないのでは? という僕なりの理屈があったのだけれど、通じないようだ。
グラスの前に戻って少し屈んで、なされるがままに髪を整えられる。
彼女は少しだけ水で湿らせた指先で簡単に整えると、やがて独り頷いて僕を解放する。
こうしてグラスの納得を得て、今日初めての外へと足を踏みだした。
目指す場所は学園近くの商店街だ。
ここでは、温泉旅行券を福引で当てたり、タイムセールに突っ込んでいったり、そのほかでもよく買い物やお出かけに出かけることが多い場所だった。
外に出ると今まで甘えん坊をしていたグラスはすまし顔になって、この寒さの中でも背筋を伸ばして歩いている。
外では恥ずかしいのかはわからないが、手を繋ぐのも躊躇うような恥じらいっぷりで、腕を組んで歩くなど、遠いまた夢の状態だ。
僕自身も特と言って外でいちゃつきたい、べたべたしたい、という欲求があるわけではないので構わないのだけれど、先ほどからの変わり身と温度差に風邪をひきそうである。
「寒いですか? 大丈夫?」
僕が首を竦めると横目で見ていたグラスが、こちらを見上げて小首をかしげてそう言った。
彼女の吐く息が白く漏れて、やがて消えてゆく。
先ほどの服装にトレンチコートとマフラー、手袋を完備しているグラスはとても暖かそうだ。
「大丈夫だよ。でも寒いは寒いね。ちゃっちゃと買い物して帰ろうか」
僕は苦笑気味にそう言うと、手に提げていた女性もののバックを肩にかけてズボンに手を突っ込んだ。
「そうですねぇ。もう少し手加減してもらえれば過ごしやすいんですけれど」
グラスは困り顔でそう言うと、は~っと息を吐き出す。
僕も対抗して息を吐き出すけど、肺活量の差かグラスより小規模な白煙にしかならず、少しだけ納得がいかない。
小学生の様に二人で何度もチャレンジするけれど結局勝てなくて、子供みたいないことをしていた事実に互いに顔を見合わせて笑った。
「あなたといると、少しだけはしゃいでしまいますね。いけませんいけません」
この寒さからか、恥じらい故か、横から見たグラスの頬と鼻頭はやや赤く染まっている。
元々の白い肌故に僕の目には映えて映り、それが美しいと思った。
「まぁ、誰の前でも気を張ってちゃね。いいでしょ二人の時ぐらい」
この子はやろうと思えば四六時中、誰と一緒であっても誰もがイメージするグラスワンダーを貫けるだろう。
それも彼女の良さであり、質実剛健とした心と、可憐な容姿を両立させた姿に惚れ込んだところはある。
だが、僕だけはそんな彼女が心から安らげる場所でありたいと思うのだ。
「あなたは、いかがですか?」
何となしにグラスの横顔を眺めていると、こちらを向いて瞳で見上げてくる。
「僕? 僕は~、いや僕もそうかな」
そう問われて、僕は視線を彷徨わせるけれど、彼女の前でこそ一番自然体でいられるのは、また僕も同じなのかもしれない。
「なら、おあいこですね」
そう言って半歩詰めてくる。
左手の甲にグラスの手袋が触れる感触がする。
自分から手を捕まえに行くのは少し躊躇われるのか、時たまこうやって手を繋ごうとノックしてくる。
その度、僕から彼女の手を摑まえに行くのだが、今日は手袋をしていて。
グラスは、あ、と呟くと手袋を外してポケットに入れる。
そして所在なさげに垂れた彼女の小さな手をいつもの様に捕まえた。
「こうした方が温かいかもな」
「はい」
しっかりと手を握ると、それに応じる様に彼女も握り返す。
感じられる温度が確かに互いの感情を伝えてくれる。
信頼、愛情、好意、思いやり……色んな感情がふんわりと纏まってじんわりと行き来する温かさとなって伝わる。
彼女の方を見るとやはり少しだけ恥じらいがあるのか、やや俯いて先ほどより顔を赤くしているように見える。
先ほど、さほど興味がないとはいった物の、結局こうやっていざ繋ぐといいもんだなと思ってしまう。
商店街に向かう道すがら他愛ないことを話しながらも、僕が少し手を握る力を強めると、反応するようにグラスも返してくる。
そうやってやり取りをする様が二人の間での秘密の会話のように思えて、頬が緩む。
「どうしたんですか?」
そんな僕の表情の変化を見逃さず、グラスが問いかけてくる。
「いーや。何でもないよ。それより、なんだっけサークルの?」
「ああ、はい。それでですね……」
僕は咄嗟にごまかすと、話の続きを促す。
特に気にした様子もなく、また前を向いて話しだした彼女の横顔を盗み見て、ふと思い出す。
付き合い始めた頃に手を握った時の衝撃たるや凄まじものであった、ということを。
電流が走る様な、と表現されることがあるが、まさに握った小さな手のぬくもりと、その小ささが伝える事実が、掌から震えるような衝撃と共に駆け巡ってきた。
その時の感覚を今でも鮮明に覚えている。
好きな人に触れるということがここまで自身を揺さぶる物なのかと、驚いたし、まさに喜びに打ち震えると言った感覚だったと今になっては思う。
今では、そういうこともなくなったが、それでも、肌と肌が触れ合う事の幸福感は変わらずここにある。
家からの坂を下り切ると、段々と駅に近づいて活気づいてくる。
商店街は家の方角から見ると駅の手間にある、アーケード下に建ち並んでいる。
ちょうど僕らと似たような時間感覚の家族連れや、休日を楽しむ学生たちでにぎわいを見せていた。
商店街に着くと知り合いも多くなるのもあって、グラスは手を放して手袋をつけ直してしまう。
名残惜しいが、まぁ僕としても、もし担当のチームメンバーとかに見られでもしたら恥ずかしいので仕方ない。
グラスは、恐らくはこの後数日の献立を頭に浮かべながら店店を回っていく。
どこでもグラスは顔を覚えられており、また可愛がられている。
極力荷物持ちとして同伴するようにはしているのだが、やはりトレーナー業もあるのでグラスが一人で来ることの方が圧倒的に多い。
故に、グラスの方が何十倍も商店街の人たちから認知されているし、人気者らしい。
お店に行けば、今日は一緒なのね~仲いいのね~とからかわれるし、今日は旦那さんいるから持てるだろうと、あれこれおまけで持って行けと言われる。
彼女の人当たりの良さと丁寧さがなせる業か。
商店街のおじさんおばさんと慣れた様子でやり取りをする姿は頼もしいし、若奥様と言った感じだ。
実際、若奥様ではあるのだが。
今は八百屋の前で両手に複数のビニール袋を提げて、世間話をするグラスの背中を見守っていた。
お金を払うためにグラスが僕の肩に掛かっているバックから財布を取り出して、店主の元へ戻っていく。
あの財布は、確か僕が初めてのクリスマス……か1周年の時に贈ったものだったと記憶している。
当時は何を贈ったらいいかとかも思いつかなくて悪戦苦闘したことを思い出す。
まだ使ってくれているんだな……
彼女が、何やら会話しながらも財布の中のお金を出そうとして、左手の手袋を取る。
すると現れる銀色の指輪がキラリと光って見えた。
いつも家の中で見ている見慣れた光景のはずだけど、こうやって外で見ると少しだけ特別な感情が浮かんでくる。
誇らしさと言うか、なんというか。
誰でもない僕の配偶者なのだと、こうやって第三者がいることによって改めて実感できるというか。
まぁありていに言うと自慢の妻だから、ちょっと鼻が高くなってしまうのだ。
「あの~。終わりましたよ。いきましょう? 」
いつの間にか目の前に戻ってきたグラスは、目線で僕の事を見上げて不思議そうに言った。
「あ、ああ。ごめん考え事してたわ」
そう言って彼女が手にしている袋を受け取る。
「もう、しっかりしてくださいね」
眉根を下げて苦笑するグラスは、八百屋さんに軽くお辞儀をすると、次のお店に向けて歩き出す。
僕も軽く会釈して、彼女の後ろに続く。
そう言えば、初めの頃は荷物一つで揉めていた。
グラスは気遣い屋で人に任せることも得意でない子だったから、こうやって荷物持ちをやろうとすると頑なに任せてもらえなかった。
まぁ、そりゃ彼女の方が力持ちだし……その合理的ではあるかもしれないけれど、男の意地と言うものがあって譲らなかった。
そんな些細なことでも、歴史と言うか二人の思い出が詰まっているものだ。
きっと今日の日のことだって、いつかまた思い出して同じように心を温かくするのだろう。
商店街のゲート越しに見える夕日を眺めながら、僕はそう思ったのであった。
◆ ◆ ◆
家に戻ると、グラスは早速料理に取り掛かり始める。
僕と言えばお米研ぎが終わると、早々にやることが無くなって、ちょっとした掃除などしていた。
冬の時期は、特に冷たさを嫌うグラスの代わりにお米を研ぐのが料理の仕事で与えられた唯一の担当であった。
それが終わって、風呂やトイレの掃除のあと、今はリビングにおいてあるガラスケースを拭き掃除していた。
何が入っているかと言えば、グラスと一緒に取った優勝品トロフィー/盾やグラスの勝負服などを飾っていた。
僕のわがままでスペースを取って、まるで博物館の様に飾っているのだ。
基本的に無精な僕であったが、ここだけは汚れてくすまない様にしっかりと手入れをしていた。
トレーナー室に飾ってもいいのだが、まぁスペースも取るので、グラスのぬいぐるみと一緒に一部だけ置いてきている。
嫁バカだと担当ウマ娘達に半目で言われるが、それくらいは置いといてもいいだろうと思っている。
「そろそろどうですか? ご飯食べられますか? 」
カウンター越しにグラスから声が掛かる。
見ると既に料理の準備が整っていて、グラスがエプロンを外すところであった。
「ああ、手洗ってくるね」
僕は早々に掃除を切り上げて洗面所に手を洗いに行った。
「今日は魚屋さんでおまけして貰っちゃったので、お刺身にしてみました~」
僕が戻ってくると、グラスが大皿を冷蔵庫から出すところであった。
魚屋に寄った時にそう言えばあれこれまとめて、安くして頂いてしまっていたのを思い出す。
お刺身だったなそういや。
恐らくお刺身についてきた大根のツマの上に綺麗に盛り付けられたお刺身が、食欲、と言うより酒欲をそそる。
「おお~豪華だね! 日本酒かなぁ~」
冷蔵庫の戸袋を探って、少し前に買っていた日本酒を取り出す。
「そう言うと思いまして、きんぴらを少しだけ濃い目に作りましたし、冷ややっこもあります」
そんな僕の背中にグラスの声が掛かる。
どうやら僕の単純な思考回路は掌握済みの様だ。
いつもながら至れる尽せりと言った感じである。
「グラスには敵わないなぁ」
苦笑しながら、日本酒を徳利に移し替える。
「ふふっ、お刺身を含めて今日はヘルシーに作れたと、思います」
そんな僕にお見通しですから、と言う様に微笑む。
「あ、な、なるほどねぇ~」
どうやら僕のダイエット計画は既にスタートしているようだ。
明日以降どうなることやら。
「お酒も、明日からは頻度を落としてくださいね? 」
グラスは、大事なことだと言わんばかりに人差し指を立てた。
「わかりました……」
僕は観念して徳利とお猪口を持って席に着くと、しばらくお預け気味になりそうな晩酌の名残を惜しんだ。
「いいですか? 七年の病に三年の艾を求む、とも言います。平生からこうやって健康に気を付けておく事が大事なんですよ? 私のためにも、お願いしますね?」
グラスは席につきながら、大真面目な顔でそう言う。
最後の一言は更に僕を抗えなくする。
「そう言われちゃな。気を付けるよ」
グラスを一生幸せにすると誓ったのだから、その為にも身体は健康に、そう言われてしまえば受け入れるしかなかった。
「はい。お注ぎしましょうか?」
グラスは満足げに頷くと、徳利へと手を伸ばそうとする。
「いやいや、まだお酒飲めない子に注がせられないよ」
僕はそれを手で遮った。
流石に夫婦の間だから甘えてお酒を飲んでしまっているが、基本学生の前では飲酒をしない、というのはは大事なことだ。
故にお酌などはさせない様に気を付けていた。
「あの~、えっと。私22歳ですけれど……」
グラスが、怒ったような困ったような引きつった笑顔でそう言う。
「あ」
自分の思い違いに思わず声が出る。
もうトレーナーと呼ばれないのに、担当していたあの頃のままでいてしまう感覚がずっとどこかにあって。
でも、彼女は着実に成長して大人になっていっているのだ。
「もう、いつまでも子ども扱いしないでくださいね」
グラスはそんな僕の様子に眉根を下げて、頬に手を当てる。
成人式の写真を撮りに行ったし、ここで同期と集まってお祝いしたのも見ていたのに。
今さらになって大人の女性になってゆくことに、喜びと共に一抹の寂しさのような物も感じてしまう。
「つい……。いや別に子供だと思ってるわけじゃないんだけど、やっぱほら、長かったからさ」
僕は頬を掻きながら、そんな感情を隠して苦笑して見せた。
「ですねぇ。まだお付き合いを初めて4年ほどですけれど、1対1の関係にすると……10年近くになるんですね」
最初は、大人びた子だと思っていた。
でも、その実は負けず嫌いの等身大の少女であった。
ひた隠しにするその裏では年相応に傷つき、怒り、泣いていることを知った。
厳しすぎる己の理想に打ちのめされることもあって、でも最後にはきっと理想を超えて。
そんな、濃密な10年間を共に過ごしてきたのだった。
「そうか……来春でちょうど10年目だな。お祝いしようね」
そんな区切りのような年だったから、出会った頃を夢に見てしまったのかもしれない。
記憶の中の少女と今の目の前の彼女を重ねて見る。
当時のようなあどけなさや無理をした緊張感は抜けて、たおやかな女性へと。
もう、いつまでも庇護するような感覚ではいけない。
横に立って支え合う様に。
改めてそう思った。
「はい! ぜひぜひ。では、お注ぎしますね~」
手を合わせてにっこりと微笑むと、徳利を手に取って僕の手元にあるお猪口にお酒を注ぐ。
「ありがと……贅沢だなぁ」
どこでか学んだか、袖口を抑えて徳利を傾ける仕草は堂に入っていて、見惚れてしまう。
「はい?」
グラスは何のこと察しかねる様に小首をかしげる。
「グラスにお酌してもらえる人なんてこの世に何人いることか」
僕はそう言って杯を口元で傾ける。
晩酌用に選んだ日本酒は、サラッと口溶けるような淡泊さで、しかし確かに酒であることを主張するようなキレも残している。
「あらあら。そうおっしゃられると、お酌し甲斐がありますね」
口元に手を当てて、はにかむグラスは、なんだかいつもより嬉しそうであった。
「飲み過ぎないようにしないと」
僕もそれに苦笑して返す。
「大丈夫ですよ。コントロール権は私にありますので~」
グラスはそう言って、きっぱりと僕の冗談を切って捨てるのだった。
「そりゃ頼もしいや」
それも僕の事を思っての事と思うと、そんな不自由さもうれしく感じてしまう。
いつの日か、自然とグラスがお酒を嗜む様になったら、一緒に分かち合えればいいなとしみじみと思った。
そんなことを考えながら、グラスと共にゆったりとした時間の中で夕食を頂くのであった。
◆ ◆ ◆
なんでもない幸せな一日であり、また色々と思い返すような日であった。
布団に入りながら、今日も良き一日であったと満足感を得る。
もう灯りも消して、真っ暗になった部屋で天井を眺めていた。
隣のグラスは、まだ起きているだろうか。
そう思って首を巡らせて、隣を見ると、それに応じる様にグラスもこちらに目を向ける様子が窺えた。
「そういや、今日の朝はグラスと初めてであった頃を夢に見たよ」
特に用事があって見たわけでもなかったので、話題に窮して夢の話をする。
「そうなんですか? あれからどうですか? 変わりましたか?」
表情は暗くてわからなかったが、抑え気味なグラスの柔らかな声が耳をくすぐる。
「う~ん。変わったところもあれば。変わらないところもあるよ」
僕は目線を外して上を向くとそう答えいた。
「そうですか。それはいい意味で、ですか?」
少しだけ心配そうな声音でグラスが訪ねる。
「勿論」
僕は一も二もなく肯定した。
そうであるに決まっている。
「ならよかったです。夢の中の私には負けませんね」
どこまでもストイックと言うか。
でも、そうであるだろうな、と言う確信はあって。
きっと彼女はこれからもその時々で最高の姿を僕に見せてくれるだろう。
それは常に魅力的で、僕を夢中にさせてくれるに違いない。
でもその裏には常に弛まぬ努力があって。
走りで、日々の生活で、今後はどんな場面で魅せてくれるだろうか。
とても楽しみで、僕もそれにふさわしくあらねばと思わされる。
「しかし自分とも競うのか~」
意気込みを新たにするように語気をやや強めた様子に表情が緩んでしまう。
「当然です。妥協せず、常にあなたの一番でありたいですから」
もしかすると、今彼女の方を向いたら、ゆらりと燃えている炎が瞳の奥にちらついているのかもしれない。
でも、改まってストレートにそんなことを言われると、恥ずかしくて首を動かして確認はできなかった。
「ま、ゆっくりな。ゆっくり一緒に前に進んでいこう」
変わっていく姿は楽しみだけれど、今しか見れない彼女をずっと見ていたいという気持ちもあった。
それが、夕食の時に感じた寂しさの正体なのだろう。
そう僕は納得を得た。
「はい」
グラスが頷く気配がする。
「そろそろ寝ようか」
瞼も重くなってきた。
「はい。あの……」
僕がそう提案すると、遠慮がちにグラスが何かを口にしようとする。
「おいで」
僕はそれを言わせずに、彼女の方へ体を向けると、ぼんやりと見える彼女の顔に近づいた。
「おやすみなさい」
彼女も僕の方へと体を寄せて、ゆっくりと目を閉じる。
「お休み、グラス」
その唇に軽く触れると、姿勢を仰向けに戻して瞼を閉じた。
そして、また朝になったら引っ付き虫になっているんだろうなと口元を緩めながら、まどろみに身を任せて意識を手放ししたのだった。
-Fin-