キヴォトスの皆様!お待たせいたしました! 作:全身鱗マン
人間の意識の中において、必ずしも時間は定方向に進まない。少し場面を巻き戻そう。
私の後ろ姿が朝の光に照らされる廊下を行くシーンだ。その背後では、夜を徹して行われた予算会議から解放された室長と次長たちの群れが、疲弊とまどろみの中で帰路についている。
それはどこか官僚制に虐待される霞が関のおっさんじみているのと同時に、学校の部活帰りのようでもあった。キヴォトスの未来を背負っているとはいえ全員がまだ学生なのだ、と思い出させるような光景である。
「お腹すいた!」と騒ぐひと際大きい影は、体育室長のハイネさんだろう。財調室の次長たちにお疲れ様と挨拶をして、多少の交通費を押し付けた上で玄関へ呼んだタクシーへ放り込んだ後、私はいそいそと自室へと向かう。
誰かが上階へ行くエレベーターを止めておいてくれたらしい。扉が開いたままのエレベーターに乗り込み、軽く会釈をした。
「どうも」
「何階へ行くのかしら?」
「あ、三十」
「財務調整室? それとも、室長がいなくなった防衛室へ?」
聞き覚えのある声で遮られ、私は顔を上げた。
蒼い髪をボブに切りそろえ、細いシルエットに仕立てられた連邦生徒会の制服が良く似合っているクールビュティ―が、立ちふさがるようにしてボタンの前に立っている。
「アオイ先輩、いやあ先程の予算会議ではお世話になりました。相変わらず手厳しくて、身が引き締まるような……」
「御託はいいわ。カヤ派の重鎮さん……いや、いまやカクエ派と言った方が良いかもしれないわね」
私はつい黙ってしまった。私自身としては率先して連邦生徒会内で派閥闘争をするつもりはなく、むしろ両派に上手く便乗して事を成してきたつもりだった。前世の記憶の援護射撃もあり、リン代行に対しては一方的に好意を持っている。一方、まだ連邦生徒会内での立場が不安定だった頃に(今思えばそこには多少の下心があったのだろうが)親しくしてくれたカヤ先輩を無下にする事もしたくない。それがどうだ?
「やめてください、まるで私がカヤ先輩を失脚させて、派閥全体を乗っ取ったかのような言い様は」
リン派とカヤ派、そして日和見層の緩い分断。それが連邦生徒会の力関係だ。さらに言うと、連邦生徒会員は建前としてキヴォトス全体に奉仕することを求められるが、各構成員が出身自治区との関係を断ち切れているとも言い難い。特に生徒会の上の方になってくると、どうしても支持基盤というものが必要なのだから。
まだ一年も経っていないはずなのに、ずいぶん昔のことのように思える。まだ生徒会長の居た頃は、彼女が圧倒的なカリスマで全てを一丸にして運営していた。二週間前までは、アユム調停室長、モモカ交通室長等が属し、生徒会長代行としてふるまうリン派、ハイネ体育室長、人材資源室長等が属し、カイザーコーポレーションが陰で支援するカヤ派の二つが支配的であった。
「カヤ防衛室長が体調不良で休職する前日、深夜の防衛室へ出入りする人影を見たとの報告があったわ」
「報告? それは誰からですか?」
「否定しないのね」
「……」
つい黙ってしまった。カヤ先輩の休職は私のせいではないにしても、その時間に防衛室に居たことは事実だったからだ。
傍目から見れば、私がなんらかの陰謀を張り巡らしているように見えるのは無理もないだろう。
「つまり、アオイ先輩は私が、カヤ先輩を脅すなり襲うなりして休職に追い込んだと?」
ここまでの会話で、私はさすがに傷ついていた。アオイ先輩をじっと見つめて問い質す。アオイ先輩は、相変わらず氷山のように凍りついた顔でこちらを見ていた。
「あなたに先輩と呼ばれる筋合いはないわ」
数瞬の後に投げかけられたそれが答えだった。
「なるほど」
私は彼女がそうしたように、目を逸らした。
「アオイ……財務室長は、私と同じで、派閥闘争とかに興味がないと思ってました。連邦生徒会の金庫番として、どんな人にも平等に、冷静に、時に冷酷に接するのが美点といった感じで」
僅かな振動と共にエレベーターが上昇を始める。空調が効いたエレベーターのゴンドラは、現在高度のデジタル表示を目まぐるしく変化させながら天へと昇っていく。
「それなのに、どうして私を執拗に追求するんですか? 自分で言うのもなんですが、皆なかなか私みたいにちゃんと書式と期日を守っちゃくれないでしょう」
「……逆よ」
アオイ先輩は、その細い身体をゴンドラの外へ向けた。どこまでも晴れ渡った空の下に、D.U.の白光りする市街が広がっている。
今日はいつもより一層大気が澄んでいるようで、天を突くようなビル群の切れ間、湾岸部の方角の水平線に、円錐状に研ぎ澄まされた塔が見えた。空を左右に割るようにして伸びた建築物は、建設途中にも関わらず、もう頂上が雲の高度まで達そうとしていた。
「地上施設まで含めたらサンクトゥムタワーに匹敵するような建造物を作るのに、財務への負担が
それとも、大金が入ったバッグでも拾ったのかしら?
財調室のある階でエレベーターを降りる私の背に、アオイ先輩の冷たい声が突き刺さった。
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財調室の椅子に座りながら、ふと、先日の事を思い出していた。ここ数日はなにかと外回りが増えて、座面をすり減らす事も無くなっていたな、と。
妙に気が抜けてしまうのは、室内が妙にがらんとしているからだと気付いた。というのも、いつもたむろしているモモカが居ないのだ。
モモカは身体こそ小さいが、本来は交通室長として部下を持ち、自分の執務室を持つ身である。だからどうしてここにずっと居るのか、あまり理解できない。訊ねても曖昧な答えしか帰って来なかった気がする。
「派閥……」
アオイ先輩との───先輩と呼ぶなと言われてしまったが、やっぱり私の尊敬すべき先輩だから、こう呼ばせてもらう──会話を思い出しながら、舌の先で言葉を転がす。
派閥、派閥。私はどうやら、カヤ先輩の築き上げた派閥の座を乗っ取ってしまったらしい。
実際にあの後、カイザーコーポレーションの責任者と顔合わせする機会があった。カヤ先輩が個人的に行っていた取引を引き継ぐに当たって、向こうから会談の打診があったのだ。
学生が来るのにはいささか背伸びしている感のあるレストランの奥まった場所、誰にも姿を見せずに着席できるVIPルームで前菜を食べていた所、ジェネラルは現れた。ご丁寧に護衛のオートマタを引き連れて入室したジェネラルは、わざとらしい口調でマナーを注意し、兵士たちへ室外待機を命じる。
彼が開口一番に発したのは次のような台詞だった。「君が、超人を超える者か?」
私はちょうど酢漬けのキャベツを食べていた所だった。藪から棒にとんでもない事を言われたため、酢で咽せそうになりながらキャベツを飲み込み、私は毅然として「違います」と否定した。
「ほう、つまり不知火カヤは超人ではなかった、私が真の超人である、と言うのかな」
だから違うって。私は勘違い物創作物の主人公のような気分で否定した。
「そもそも超人ではありません。私は超人ではないので、申し訳ないのですが、カイザーコーポレーションとの今後の取引は段階的に縮小させていただきたく存じます」
「なるほど、不知火カヤを失脚に追いやった上、手にしたあらゆる利権の一切合切を捨て去り、我々との信頼関係を破壊しようと言うのだね」
破壊、とゆっくり強調して、ジェネラルはグラスのシェリー酒を口にした。
「ククク、なるほど、人間関係に拘泥しない超人にしかできない大胆さじゃないか」
「だから!」 私はさすがに顔を盛大にしかめた「超人ではありません」
言いながら、私の脳裏に生徒会長の姿がよぎった。彼女ならこのような時、どう判断したのだろう? 聞いても答えちゃくれないので、私は口を動かさなきゃいけない。
「ですが、代わりに私の私企業との取引きをご提案します。これは子ウサギタウンよりも大規模で、法的にも比較的クリーンです」
運ばれてきたメインディッシュを横へどけ、私は上品な仕立てのテーブルへ紙の地図を広げた。D.U.湾岸を拡大した地図だ。
その上へ、鉛筆と定規でまっすぐに線を引く。定規の片方はゲヘナの中心部、片方はトリニティ総合学園の中心に当てて引かれた直線の真ん中、D.U.沿岸の洋上に、フリーハンドで正円を描いて見せる。
「なにせ
代わりに子ウサギタウンと治安維持の利権からは手を引け、というのは言外のメッセージだ。ジェネラルは席に深く座り、その白髭に見える顔のパーツをさすりながら黙考していたが、「プレジデントへ報告し、検討する」と告げて去っていった。感触は悪くなさそうだ。
思い返してみると、私は傍目にも完全にカヤ先輩の座を奪い取ってしまったようだった。降りますと宣言しても降ろしてもらえる物ではないだろう、都合が悪い事に。
「失敗したら、責任を取ることになっちゃうだろうなあ……」
責任に怖じる気持ちは不思議となかったが、人に恨まれるのは、単純に後味が悪い。私は憂鬱になりながらコートのポケットをまさぐり、あの事件以来新品になったスマートフォンを取り出した。画面にはひび割れの一つもなく、起動すると百鬼夜行に残してきた家族の写真が現在時刻の下に表示される。
重要なデータはクラウドに保存しておくように設定していたのだが、バックアップすべき重要なデータの中にこの写真を入れてくれていた過去の自分を思いっきり褒めてやりたい。このなんでもない画像データが、田中カクエにとって一種の良心のアンカーなのかもしれないから。
長大な電話帳を開き、目当ての名前を探し出して発信する。電話に出たのはティーパーティーのフィリウス派の事務局だった。すぐに取次ぎをお願いする。
キリエ・エレイソンの旋律で、保留音が三周する。四周目の最初の三音でぷつりと途切れた。
『もしもし、ナギサです』
「突然のお電話失礼します、田中カクエでございます。申し訳ないのですが……もし周囲に誰かいましたら、人払いの方をよろしくお願いします」
『人払いですか? 本題を急かすのは優雅でないかもしれませんが……エデン条約関係で何か動きが?』
「そうとも言えるかもしれません。端的に言いますと、ナギサさんが探している方の見当がつきました」
『私が探している……?』
「トリニティ内の裏切り者ですよ」
電話口の向こうで、ガチャンという音が聞こえる。いつものように持っているティーカップを取り落したか、それともあの瀟洒な椅子を蹴っ飛ばして立ち上がったか。
わからないが、あまり大惨事になっていないことを祈ろう。
『なぜそれを』
「まあ、私にも独自の情報網がありましてね。私と言うよりは、連邦生徒会と言った方が良いかもしれませんが」
これに関しては詐欺じみた言い回しだ。実際の私の捜査力は公園や防衛室でしぶとく生き残っているSRTの皆さんに頼り切りであり、その性質からコントロール下にあるとも言い難い。
だがそれを差し引いてもRabbit小隊は優秀だった。私のミヤコちゃんとのモモトーク画面には、アリウスの生徒とおぼわしきガスマスクの生徒とトリニティ内某所の洞窟で接触するミカさんの写真が共有されていた。しかも数枚、別アングルでだ。今度なにか高級なご飯でも奢ってあげたいところだが、きっと高潔な彼女らには拒否されるだろう。
『……内政問題への干渉です、と抗議したい所ですが、外ならぬエデン条約に関わる事……足並みを同じくするカクエさんがおっしゃるなら……』
ナギサさんは極端な疑心暗鬼に陥っていたが、同時に本当に未来のことを考えられる人だった。仮初めでもいいから、みんなが笑える楽園が欲しいのだ。
「少しショッキングかもしれません。裏切り者は、貴方が疑った四人でも、正義実現委員会の誰かでもなく……」
だから彼女はこの言葉を無視できない。真実を告げる言葉を。
「パテル分派の長で、あなたのご親友の……聖園ミカさんです」
大きな音がして、今度こそ電話が切れた。
耳からスマートフォンを離すと、画面が復帰する。そのまま腕をだらりと下げる。まるで自分の腕じゃないみたいだ。
これでよかったんだろうか、と思った。アビドスやミレニアムの事件のように、シャーレの先生と生徒たちによる解決を待たずにトリニティへ干渉したのは、ひとえに放置するリスクが高すぎたせいだ。補習授業部はきっと困難を切り抜けるだろう。しかし、セイアさんが、ミカさんが、先生が何かの手違いで死んでしまったら? あるいは誰かが引き帰せないところまでその手を汚してしまったら? 原作でも、聖園ミカは陰湿で正当でない制裁を受けていたのだから……。
しかし、これで補習授業部は連帯せずともよくなった。浦和ハナコはただの露出狂のままで、シスターフッドも統治の表側に浮上してくることはないだろう。それは少し、寂しいかもしれない。
「電話は終わった?」
振り向くと、小柄な影があった。パリッ、パリッと音を立てながら明太子味のお菓子をつまむ、連邦生徒会の制服を大胆に着崩した少女が、いつのまにか入り口に立っている。
「なんだかいつもよりやつれてない? これ食べる?」
「モ、モ」
「お」
私はスマートフォンをポケットに突っ込むと、素早くにじり寄る。
「モモカ~~ッ!!」
「うわぁあぁあ!!」
モモカの両脇に手を突っ込み、元気な園児の要領で素早く捕獲し、腰の高さまで持ち上げる。あっ、なんか良い匂いする。
「ちょっとカクエーっ!降ろしてよーっ!」
「ううぅうう……スウーっ」
私は涙ぐみながら思いっきり周囲の空気を吸い込んだ。
「吸うなーっ! 胸で泣くな~!!」
破裂した私の奇行は、騒ぎを聞きつけたアユム先輩が様子を見に来るまで続いたのであった。
モモカから引き剥がされた私はしばらく怒られる事となった。こんなしょうもない私が一方では派閥だ陰謀だなんて疑われているのは笑ってしまう。
いや、まったく、そうは思いませんか?
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この時の私は愚かだった。本当の裏切り者は、白洲アズサでも聖園ミカでもなかった。なぜそのことを忘れていたんだろう?
冷たいものが頬を伝う。それは私が浴びた雨だった。天から無限に降り注ぐ水は、遥か高空で結露した水滴だ。
人間の意識の中において、必ずしも時間は定方向に進まない。場面を
私はまるで映画の一番いいシーンのように、雨の中で、馬鹿みたいに突っ立っている。落書きとネオンサインの明かりに汚された、誰からも忘れられたコンクリートの路地で。
「……今の私は落伍者だ。トリニティにも、ゲヘナにも、同じアリウスにだって助けを求めることなどできない」
彼女は姿勢を崩して跪いて、前へ投げ出すように手なんかついちゃっている。汚いからやめたほうがいいのにって、なんで誰も言わないんだろう?
「……だから」
雨は止まないどころか、こうしている間にもどんどん強くなっている。
キヴォトスの人たちは善人ばかりなのに、何で天国から溢れちゃわないんだろう?
思えば答えは簡単だ。最初からみんな溢れ出していたのだ。飽和して、地上へ向かって零れ落ちていたのだ。
「頼れるのはもう、田中カクエ先生しか……」
全ての歯車は、最初から狂っていた。
いつかスマホの画面を通して見た