穢れなき虜囚   作:ヤン・デ・レェ

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プロローグ
DEATH:ジタン・コッポラ


その日、一人の男が死んだ。

 

男の名を知るものは誰一人居ない。ただその日、彼を知る多くの者が世界で最も畏れられたエージェントの死を悼んだ。

 

そこには憧憬があり、安堵があり、そして渇望があった。

 

史上最高にして最強のエージェントと呼ばれた男…又の名を、ジタン・コッポラは死んだ。

 

遺体は最後まで見つからず、葬送にあたって用意された空の棺には、彼が遺した最愛のフィアンセが憤怒と悲壮に満ちた慟哭を上げて縋りつき、棺に土が被される時になっても決して離れようとしなかった。

 

参列者の屈強な男たちが数人がかりで羽交い締めにして彼女を引き離した。その場に居合わせた者達は、皆泥まみれになりながらも何とか埋葬を終えた。

 

つい数時間前まで、美しい指先だった。艶のある良く手入れされた爪。その五指に至るまでを尽く傷つけて、剥がれ落ちるまで彼女は止まらなかった。

 

誰もいなくなった墓地で、ただ一人、固く均された地面と闘った。

 

葬儀の途中から降り始めた雨はその勢いを強め、血と泥に塗れた彼女を責め立てる様に濡らした。

 

何時間と、彼女は土を抉り。そして棺に辿り着いた。震える手で、その蓋を開ける。中には何も入っていない。

 

空っぽの棺を見下ろす。そして気がついた。

 

何かがあって欲しいと手を伸ばし、目を凝らすと、底で何かが光っていた。

 

 

エージェントとして、彼は何も遺さなかった。何も。

 

ただ、婚約指環だけを除いて。燃え盛る残骸の中から、奇跡的に無傷のリングケースが発見された。

 

一回り大きな空白の隣に、少し小さなシルバーリングが納まっていた。小ぶりの指輪の内側に刻まれた名を検めた結果、この指環が贈られる予定だった彼女に行き着いた。ご丁寧に姓まで結婚した後のものに改めて刻まれていた。彼は気が早い人だったのかも知れない。

 

空っぽの棺の中に、女は赤子の様に身を横たえた。

 

そして、震えながら彼の形見を掬い取り、そのボロボロの薬指に差し込んだ。

 

爪が剥がれ落ち、止めどなく血が流れる指。泥と血で赤黒い手の中にあって、傷一つないシンプルなシルバーリングの無垢な輝きは異様を極めた。

 

 

ほんの数日前に婚約したばかりだった。

 

あと数日も経てば、何方からともなくお互いを思って選んだ指環を差し出していたかもしれない。

 

彼女の方から一目惚れして、一年間猛アタックを続けてやっと結ばれたのだ。仕事柄彼は決して立派な恋人では無かったかもしれない。一緒にいた時間も他のカップルと比べれば長くは無いだろう。

 

思い出が錯綜して、息も絶え絶えに、それでも涙を嗚咽を止められずに、吐きながら雨に打たれながらも彼女は吠えた。

 

「決してッ!!決して許さない!!私は貴様らテロリストを絶対に赦しはしない!!皆殺しだッ!!皆殺しにしてやるッ!!この私の手で直接ッ!根絶やしにしてやるッ!!!」

 

一緒に過ごした時間は長くなかっただろう。だが、それでも彼女は幸せだった。決して二度とあるような恋では無かった。決して二人と出逢える人じゃなかった。

 

彼女にとっては何よりも濃密で刺激的な、掛け替えのない日々だったのだ。他の誰にも、絶対に埋め合わせることは出来ない唯一無二の人だった。

 

一人の男の死とともに、一人の女が愛に狂った。狂った愛は迷わず、恐るべき復讐者を産んだ。

 

某年の9月11日の出来事だった。

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