穢れなき虜囚   作:ヤン・デ・レェ

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穢れなき虜囚その2

ヒマワリだ。ヒマワリが見える。辺り一面に咲くヒマワリだ。

 

背の高い大きなヒマワリ。僕の視界はヒマワリの黄色でいっぱいだった。

 

誰かが僕を呼ぶ。ノイズ混じりの濁った声だ。でも、懐かしい声。誰の声だろう。とっても、優しい声だ。穏やかで、無邪気で…。

 

ああ、思い出した…この声はまだ何も知らなかった頃の僕の……。

 

 

 

15歳の頃、少年兵ジタンは頭を撃ち抜かれた。側頭部に綺麗に空いた弾丸の射入口がはっきり確認できた。戦場で転がる死体の一つとして、彼は集団墓地に運ばれ、そこで目を覚ました。

 

星の綺麗な夜だった。人工物の明かりなど全て、自らで破壊しつくしてしまった所為で星の明るさが嫌と言うほど分かった。自然の齎す沈黙の夜のことも。

 

ジタンはすべて覚えていて、でも決定的に違った。頭の傷と共に、身体の傷も、それから失ったはずの色々な感覚まで、一から百まで全て揃っていた。無くなっていたのは、ジタンが頭を撃たれた時にも握りしめて離さなかったヒマワリの種だけ。

 

ジタンは種の行方が何となくわかるような、でもそんな訳がないとも思った。傷一つない全身を何度も触って確かめて、それからジタンは死体穴を抜け出した。嫌と言うほど綺麗になっていた全身を、泥や血で汚すのは躊躇われたが、その潔癖の感覚だって失っていたものを取り戻したのだと実感できて、何か嬉しかった。

 

目覚めたジタンは自分の体がすっかり違う者になっているような心地になった。今なら、これまで以上に何もかも上手くやる筈だ。何もかも。だが、何か忘れているような気がする。どうにも晴れない心地であった。まるで大事な錘でも落っことしてしまったような、どうにも身軽過ぎて怖いくらいだった。

 

ジタンは駆けだした。兵士を殴りつけ、昏倒させると、その足で夜襲を仕掛けた。拠点を一つ、二つ潰して物資を手に入れたジタンは、それを元手に商売を始めた。

 

とびきり上手くやる兵士を、自分と言う商品を売り込んだのだ。

 

初めは舐められたものだったが、それでもこれ以外に出来ることが無いジタンは必死に実績を戦場で作り見せつけた。優秀な兵士が入用な火薬庫の様な土地で、商売は直ぐに好評になり、一人じゃ使い切れないぐらいの武器と弾薬を、たったの三年で使い切るほど繁盛した。

 

そして、溜めた金で海を渡り、そこで彼は女と出逢った。

 

 

 

欧州の先進国に偽造パスポートで入国して直ぐに、ジタンは外人部隊への勧誘を受けて正規の兵士として頭角を現した。世界中を生き急ぐ魚のように転戦し続けたのち、一国に仕えることが性に合わず、数年で軍を辞した彼は次にドイツに渡り、そこでも卓越した戦闘力を評価されたが、息切れのしない体が勝手にジタンを戦場に送り込んだ。

 

苛烈過ぎる戦闘に疲れ果てた欧州の先進国に、結局ジタンは居場所を見出せなかった。

 

それから10年近くジタンは孤独に戦い続けた。北欧、中欧、東欧、中東、西アジア、北米、南米の軍隊を渡り歩き、それでも居場所を見つけられないまま、結局最後はフリーの雇われ兵士となって紛争地を転々とした。

 

 

そして80年代のある戦場で、若い女が声を掛けて来たのだ。

 

彼女の名前はチェキータと言った。

 

外見の成長が止まった見た目20歳のジタンから見ても尚若い女だったが、それでもその時から既に背丈はジタンと同じくらいあった。同じ地区の夜間作戦を共に決行する為に相棒として派遣されたのだと、彼女は言った。

 

女性の兵士を見たことは初めてではなかったが、ジタンは自分と同じくらいに大きい女性から親し気に声を掛けられどぎまぎしたのを覚えている。

 

その晩の作戦は、これまでにないくらい上手くやれた。反応速度も、CQBのキレも過去一番に良かった。ジタンはそれからしばらく彼女と会うことは無かったが、何故かまた逢える気がした。そして、そう感じていたのはチェキータも同じだった。

 

 

戦場でジタンに勝る者は居なかった。市街地での戦闘であれ、暗殺任務であれ、尋問であれ、彼は戦場を具現化したような人間だった。

 

戦争の、いや人間を殺し苦しめることに掛けては神に愛された才能を持っていた。

 

本人の望むと望むまいに関係なく、彼は戦場に求められ続け、そして戦い続けた。

 

だがジタンがどれだけ優秀でも、相棒への気配りすら忘れず、カバー力に卓越していても、それでも不思議とジタンの相棒は長続きしなかった。

 

五人目の相棒が対戦車地雷の煽りを食らって跡形もなく吹き飛んでから、ジタンはいよいよ部隊内から<死神>と呼ばれ始めた。誰も望まない、しかし最高の戦果を確実に叩き出すジタンとの任務に名乗りを挙げる者は多かったが、それでも何度も続けて死ぬとなれば別だった。皆、命が惜しいのだ。

 

一人で任務をこなすとなった時、飛び入りで手を挙げた者がいた。それがチェキータだった。

 

自分の任務を終えて直ぐに、チェキータは帰って来るなり手を高く上げて言った。

 

「誰もいないなら私でいいわね。また一緒だね、今度もよろしく。」

 

ジタンは戦っていて一度も楽しいと思ったことなど無かった。だが、この時チェキータに掛けられた言葉には、思わず力強く「ああ!」と返していた。ジタンはチェキータならきっと死なないと思った。そして、彼の予想通りチェキータは死ななかった。

 

 

二人一緒の任務が大成功したその日から、ジタンの相棒はチェキータになった。

 

チェキータはジタンと行動を共にすると、戦闘では必ず調子が良くなり、オマケに傷一つ負わなかった。アルコールと賭け事にも強くなり、生理までグンと軽くなった。

 

お互いに特別好みが同じだとか、そんなありふれた共通項こそなかったが、気持ち悪いくらいに二人の相性は良かった。どう動くのかではなく、動いた結果二人は常に互いを助ける結果を生んだ。

 

だが、この時はまだ二人とも互いに互いを戦友だとしか思っていなかった。心強い味方、一緒に居ると心地いい相手を見つけたと、ただそれだけだと思っていた。まだお互いの深い部分は何も知らない、浅くぬるま湯に手足を遊ばせているような関係性に過ぎなかった。

 

 

転機が訪れたのは二人が別々の任務に分かれて、同じ戦場で戦うことになった時だ。

 

生え抜きの精鋭だけで構成された敵部隊に対して、圧倒的少数の自軍が撤退するまで時間を稼ぐことが目的だった。ジタンは最前線で、チェキータは後方支援で分かれて戦場に向かった。

 

そして、示し合わせた様に二人は戦場で再会することになった。

 

混戦の中でチェキータは負傷し、相棒と逸れて戦場を彷徨っていた。砂嵐に呑まれて視界が無い中で彷徨った先で、足を引きずりながらも辿り着いた小屋の中に居た先客がジタンだった。訳を聴くとジタンも相棒が榴弾を至近距離で食らい、粉々に吹き飛んでしまった挙句破片で無線が破壊された所為で、完全に孤軍となり彷徨っていたら小屋を見つけたらしい。

 

日干し煉瓦とセメントで出来た壁に背中を預けて、並んで足を延ばし二人きりで砂嵐をやり過ごした。チェキータは負傷した腕と足をジタンに手当して貰っている間、ふとこんなことを言った。

 

「今日はケガしちゃった。きっと、ジタンと一緒じゃなかったからね。」

 

ジタンは一瞬手当てを中断し、直ぐに再開した。それからチェキータの顔を視ずに、患部を包帯で丁寧に巻きながら言った。

 

「そう思うか?」

 

チェキータはジタンの消え入るような声に自信満々に言った。

 

「絶対そうだよ。だから、もう離れないようにしなくちゃ。」

 

ジタンはまた手を停めそうになり、今度は思い直したように、少し強めに一番外側の包帯を巻いてしまった。

 

「……どうして、チェキはここに居る…。」

 

ジタンはチェキータの言葉に否も応とも言わなかったが、チェキータのことを知ろうとした。ジタンの言葉にチェキータはにっこりといつもの笑みを浮かべて頷いた。

 

それから、二人は嵐の中だということも忘れて、お互いのことを話した。ジタンは恐る恐る、チェキータはドキドキしながら。二人は本当に相手のことを知りたいと思った。互いの人生の中でこれまでにないほど、強く強く、目の前の他人を今よりもっと、ずっと近くに感じたいと思ったのだ。

 

ジタンは自分の変なトコロのこと。独りぼっちだと言うこと。記憶が虫食いになっていてよく覚えていないこと。死んだと思ったら生きていたこと。それからチェキータに逢うまでのこと。訥々と、内から零れる様にジタンは話した。

 

ジタンの話をチェキータは静かに最後まで聞いてから、それから今度は自分のことを話した。

 

チェキータは自分が銃を持ってここにいる理由について考えた。結論はぼんやりとしていて、言うなれば「これが一番自分に合ってる」職業だと感じているから、という答えに行きついた。

 

彼女の過去は決して不幸に充ちている訳ではなかった。だが幸福にも満ちていなかった。

 

生まれた家が軍人の家系だったこと、幼い頃から戦闘術に慣れ親しみ、誉められたからそればかり続けてきたこと。発育が良くて運動も勉強もできたから、異性からも同性からも学校では無視されていたこと。同年代と遊ばずに教練や狩りばかりしていたこと、だから色恋に触れずに来たこと。高校を卒業して士官学校に受かったこと。軍人の適性は抜群だったが自分は国家に忠誠を尽くすことに納得できなかったこと。頭も悪くなかったが学んできたことの違いから同年代とは話が合わず大学も途中で辞めたこと。軍人にもそれ以外にも成れない自分に失望した実家を勘当されたこと。楽観的思考でアメリカに渡りそこで軍産複合体に支えられるPMCに目を付けて飛び込んだこと。初めて人を殺した時も鹿やコヨーテを殺した時みたいに気の毒に思っても罪悪感を感じなかったこと。

 

チェキータは感慨深げに自分のこれまでの軌跡を話した。

 

ジタンはチェキータの話を最後まで聞くと、黙って彼女の手に自分の手を重ねた。二人とも硬い手触りの1000デニールのバリスティックナイロンで編みこまれたグローブをしていた所為で、手の柔らかさなんかわからなかった。しかし、ずっとそのままでいる内に、手が放つ熱だけは伝わった。

 

ジタンもチェキータも確かに生きていた。二人とも互いのことをじっと視ていた。そして今更になって目の前の男が女が、滅法美しく、それでいて頼もしく、オマケに間違いなく自分のことが好きだと理解して顔を二人同時に赤らめた。二人ともすぐそこに存在して、冷たい武器の先ではなく、温もりを向け合っていたのだ。

 

 

 

ここまで来てしまったことに対して、ジタンもチェキータも後悔はしていなかった。なぜなら、後悔のしようが、二人ともなかったのだから。穢れを知るよりもはやく、二人は自分自身の生きる道を決められてしまっていたのだから。選ぶことを知るより前から、二人は戦場の虜囚だった。

 

二人はその晩、遅くまでこれからの話をした。そうして決め事をした。どれだけ離れ離れになっても、必ず再会すること。どんなことがあっても必ず生き残ること。それから、死ぬときは一緒に死のうと。

 

「絶対絶対、同じ弾丸で同時に死ぬの、や・く・そ・く、だよ?」

 

言い出したのはチェキータだった。

 

「危なくなったり、独りぼっちになると一緒に逢えるんだよ。どこでだって。今日みたいに。」

 

嵐が過ぎて、真っ暗になった外。澄み切った漆黒の下、心地良い静寂(しじま)の中で目蓋を閉じていた。完全に体を横にしないまま、うつらうつらとしていたジタンは寝耳に水だった。

 

向きなおると、そこにはジタンの膝枕に頭を預けるチェキータの、彼女の円らな黒い満月の様な瞳がジタンを真直ぐ見つめていた。幼ささえ感じる程に純粋な瞳だ。自分の瞳も、こんな色をしているのだろうか。ジタンは思った。

 

「私達二人ぼっちだもん。だから、その時は傍にいて手を握って。私に触れて。」

 

いつの間にか彼女はグローブを外しており、ジタンも素手で彼女の手を握っていた。胼胝の跡があるごつごつした手だ。でも、それはジタンもおんなじだった。温かい。自分の手より少し小さくてずっと柔らかい手だった。触っていて心地よかった。ジタンは泣きそうになった。

 

ジタンは黙ってチェキータを見つめていた。頷いてくれない。チェキータの頬が膨らみ、「頷いてよ」と言われると、ジタンは今度こそ頷いてしまった。

 

「約束だから。」

 

そう言ってチェキータは眠った。ほんのかすり傷だと言うのに死にはしないかと心配で仕方ない。頭の中でチェキータの<約束>が延々と木霊し続けた。ジタンはその晩ずっとチェキータの生暖かい寝息が自身の腹にじんわりと広がる感触を毎分のように確かめながら、まんじりともせずに過ごした。翌朝、瞼を上げたチェキータを視て「ああ!」と声を上げたほどだ。

 

 

 

あの嵐の夜から半日、二人は無事に仲間に合流した。道中で屠った敵の数13名。部隊は無事に撤退したようで二人にはボーナスが出た。一晩中温められ摩られたチェキータの傷は一晩で驚くほど綺麗に塞がっており、後遺症は皆無だった。

 

 

部隊に復帰して間もなく、チェキータとジタンは公に交際を始めた。何もかもがお互いに初めてのことだったが、二人は互いから片時も離れようとしなかった。それこそトイレの中から風呂の中まで。お互いに全てを預け任せる様に、心から互いを心と体の拠り所として受け入れ、また認めていた。

 

ジタンの順風満帆の生活は突然途切れる。それも彼自身の手によって。それは由々しき事態だったが、同時に至極当然の予定調和であった。

 

ノイズが彼を惑わし苦しめたのだ。少年兵としての過酷過ぎる記憶は、不思議なヒマワリの幻影と共にジタンを、その人格の根本を根こそぎ書き換える荒治療によって封印されてきた。だが、温かい、平穏と拠り所を見つけたジタンには、最早正常な生き方、普通に生きる為に必要な何もかもが失われていた。もう一つの、記憶も何もかもが完全に正反対の人格でも新たに作り出さない限り…。

 

温もりは劇薬となりジタンを苛んだ。

 

育ての親を撃ち殺し、凌辱を受けた初恋の女性までもを自分の手に掛けねばならなかった記憶は、<普通に生きること>こそ外ならぬ初恋の女性の最期の願いであったにもかかわらず、終ぞジタンに安穏と救いを与えることを許さなかった。

 

ジタンは初めてチェキータと肌を重ねた瞬間、自らの猛りが濡れそぼった温かい肉に包まれた瞬間、無力な少年兵時代に味わった兵士による集団性暴力の記憶をフラッシュバックさせ、ベッドシーツの上で激しく嘔吐してしまい、そのままパンツすら履かずに逃げ出そうとしたのである。

 

チェキータはこの時ジタンを、母親以上に強く抱きしめ、姉以上にその存在を強く強く肯定し続けた。

 

「もう怖いものはないの。もう大丈夫なの。だからジタンを私に返して。貴方は私の傍にいて好いの。私は貴方を愛してる。貴方だって私を愛してる。それで好いじゃない。辛かったことは、美味しいものを食べて女を抱いてスッキリして、すっかり忘れていいの。」

 

「どうしても忘れられないならその怒りだけ、悲しみだけ持って行きましょう。私も一緒。一緒に背負うから。何時でも胸を貸すから。もう、奪られる(とられる)ことも、汚されることもないの。だって、私もジタンも誰よりも強いから。」

 

「誰も私を犯せない。誰も私を穢せない。誰も貴方から奪えない。奪わせないと誓うわ。ジタンだけ、ジタンにだけ許してあげる。だから帰ってきて。いなくなっちゃ嫌だよ。」

 

ジタンを締め落とし、彼が吐いた汚物を掃除し、自分とジタンの身体に付着した汚物を丁寧に洗い流してから、チェキータは雪山で震える者の凍えたカラダを解す様に、彼より少し小柄な体で少し大きなジタンのことを目一杯包み込んだ。

 

裸のまま肌を密着させる。震える彼の肩を腕を頭を抱いて、チェキータは根気強く、何度も何度も何度も何度も…泣きじゃくるジタンの背を撫で摩り、涙を拭き、鼻にちり紙を当て、耳元で蕩けるように甘く、しかし強く囁き続けた。

 

労苦を厭わず、いっそ快く。チェキータは一晩中、ジタンを抱いてあやし続けた。ジタンは夜更けに泣きつかれて眠り。眠った後も再び目覚めるまで、彼女は彼を抱いて決して離さなかった。

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