通称9.11の奇跡。
全容は謎に包まれているが、全世界のテレビや新聞が報道したように、この奇跡により二機の旅客機とその乗客及びテロリストの犯行による被害者は、テロリストの全滅と旅客機の破損それから微少の負傷者と引き換えに、奇跡的にゼロ名であった。
誰がどうやって…肝心なことは全く分からなかった。
ただ間違いないことは、合衆国の極一部の人間が知るところによればその奇跡は決して天から突然与えられた奇跡ではなかったということ、そして国際社会の支配者層のほとんどがある一人の英雄の死に心から感謝するとともに、哀悼の涙を流すことを禁じ得なかったということである。
その奇跡は紛れもなくただ一人の人間離れした人間が自らの命と引き換えに成し遂げたものだった。その奇跡の名前をジタン・コッポラという。
ジタン・コッポラ。出身、本名、人種、年齢など全てが不明の人物である。消息不明になるまでの所属は
自身が籍を置いていたCIAにおいても彼の事を詳細に知る者は皆無であり、彼をCIAに招く契機となる出来事や、それ以前の経歴に関しても一切が不明であるか、もしくは完全に抹消されている。
彼個人の影響力は凄まじく、一介の暗殺者や工作員の扱いでは断じてなかった。
暗黙の了解として主要各国首脳陣が交替する際には、顔合わせと称した脅迫会談が開催され。この際にジタンに嫌われれば平時から命の危険は勿論のこと、依頼に対して快い返事を受け取れないことにもなりかねなかったが。
一方で、ビジネスの相手として及第点を与えられれば、どのような依頼でも完遂する核よりも安全で核よりも便利な、最強の兵器が手に入ることと同義であるとさえ、一国を動かすエリートたちに大真面目に語られる存在であった。
ありとあらゆる兵器・車両に通じ、近接戦闘に関しても他の追随を許さない技術と練度を誇り、何よりもその未知数の経験値と鋼の精神力により史上最高の軍事工作員との呼び声高く。如何なる死線からも涼しい真顔で生還することから、超越的な存在として同業の兵士や工作員たちからは熱狂的な支持を誇り、彼の死後も同等の憧憬と畏敬を向ける者たちが殆どである。
世界中の係争地、裏社会を飛び回り、自分自身を絶対的な指標として敵対者を跡形もなく始末してきたジタンはまごう事無き伝説のエージェントとして語り継がれるであろう。
ジタン・コッポラ、彼は史上最高のエージェントとして裏の歴史に名を遺した。そして、9.11の奇跡を起こしアメリカを救うのと引き換えに、歴史から姿を消したのだ。
米国防総省の最終報告書によれば、ジタンがハイジャックされた二機の旅客機の片方の乗客としてその場に居合わせたことは、事件の前後を詳細に検証すれば必然であると結論付けられた。
機密文書によれば、9月11日のほぼ同時刻にアルカイダ側のハイジャック実行犯によりコックピットが占領される20時間前に既にジタンは行動を開始していたことが報告されている。
少なくとも12名のアラビア系人が前日中に殺されており、その遺体が全て発見されるのに1週間を要している。これらの被害者は観光目的で入国したにも関わらず、銃火器や爆発物の生成に必要とされる物質などが現場から押収されており、テロリストの一員であったと考えられた。
この不審死による被害者が少なくとも12名であり、ハイジャック犯として後にコックピット内や通路で遺体として発見されたテロリストの数が7名であったことから、前述の12名を含めれば今回の実行犯は全員で19名にも及んでいたことが新しくわかって来た。もしも前日までに人数を減らしておかなければ、恐らくは当日に確実に2機以上のハイジャック事件が発生していたと考えられ、ジタンの独立行動により確実に被害が軽減されたことは疑う余地が無いことである。
そして事件当日のジタンは殺し切ることができなかったテロリストを抹殺する為に、または事件当日までに発見できなかったテロリストを確認した上で確実に抹殺する為に自ら当該機に乗客として搭乗したと推測されている。
これより以降はその場でジタンを見ていた乗客の証言に基づく。
「搭乗後、間もなくハイジャックにより操縦を奪われたことで機内は騒然となった。怯えや憤りで落ち着きのない機内で、隣に座っていた男性だけは通常のフライトと何ら変わりがないように見えた。リラックスしてさえいたかもしれない。」
「テロリストの声が何度も響いて、英語だったりそれ以外の言葉が混じっていて、兎に角怖かった。静かにしろ、殺すぞって言葉が聞こえたんだ。巡回し始めたテロリストがこっちに近づいてくる。ふと、金属がこすれ合う音が聞こえたから隣の男性を見たんだ。」
「彼は目深くハンチングを被っていた所為で目元の表情は分からなかった。けど、口元は薄く笑みを浮かべるみたいな。すごく穏やかな顔に見えたよ。赤ちゃんをあやすときみたいな、ね。」
「すぐそこまで銃を構えたテロリストが来てるのに音が止まなくて。音の正体を探すと、彼がベルトを分解してる音だったんだ。」
「僕は窓の方だったから、通路側の彼がこのままだと一番にテロリストから目を付けられるのは分かってた。だからやめろって言った。でも、彼は手を停めなかった。」
「ベルトのバックル、あれは金属製だった。それを分解して、それぞれバックルの縁を形作ってた部分、それからベルトに通す針みたいな部分に分けてた。」
「4本の金属の棒になった縁の部分をつなげて一本の細長い棒にして、その先端に針みたいな部分を付けて、それから先端の部分から精密なキャップを取り外してた。むき出しになったのは鋭くとがった金属の太い注射針みたいなやつだった。」
「あと一歩で、テロリストが僕たちの席に来る。もう目の前って時に、彼は今取り外したキャップを前方に転がしたんだ。」
「チリリリ…そんな音がか細く鳴ったんだ。テロリストはビクっと反応して、それから僕たちの席に背を向けた。銃の引き金に指を掛けたまま、ゆっくりしゃがんで、すぐ後ろ、足元に落ちてた音の発信源を拾おうとしたのさ。」
「それからはほんの、本当に一瞬だった。彼はスーツに革靴、ハンチングの姿で狭い機内をアライグマかピューマみたく飛び回ったんだ。」
「気づいたら席にいなくなってた。それから次々にテロリストが倒れて、すぐにコックピットのドアが開いて、中から彼が出て来た。」
「彼は自家用の飛行機操縦経験者を募ってた。手を挙げた人を連れてコックピットに入ると、そのまま急旋回したんだ。」
「窓側の席に居た僕はどんどん近づいてくる街並みやビル群に戦々恐々としてたからやっと命の危機が去ったと思った。でも、実際には逆だったよ。彼、何を思ったのか僕たちの機と同じように街に向かって突っ込もうとしてた旅客機に、上から伸し掛かって見せたんだ。」
「機体の頭と腹がこすれ合った衝撃で揺れに揺れて、そのまま無理やり高度を落とさせて…滅茶苦茶だったよ。いつ向こうが自爆するのかわからないのに…。」
「でも、お陰で今の僕たちの命があるわけだけどね。」
その後、ジタンは操縦を辛うじて一命をとりとめたパイロットに任せ、自らは高度1000mの湾上空で真下でぐんぐん高度を落とすもう一つの機体に単独でダイブを敢行し、高高度環境下にも関わらず恐るべき身体能力で機体のドアを破壊、ここから中へ突入した。
突入後、約5分で機内及びコックピット内を完全制圧することに成功し、操縦を取り戻したことで機体の内湾への不時着をパイロットに命じた。
テロリストは全員がこの時点で無力化されていたが、ジタン突入に際して時限式に改めてセットされた爆薬が発見されたため、ジタンは迷わずこれを抱えて高度100mを切ったあたりでこれを投擲した。
爆弾は想像以上に威力が大きく、余波に煽られて機体がヨーイングした。この衝撃でジタンは自身がこじ開けたドアから足を踏み外して落下した。
これ以降、ジタンは消息不明となった。彼の遺体は確認することが出来なかったが、無事不時着したものの大破した飛行機の残骸から彼が婚約者に送る予定だった指環が発見され、これを婚約者に遺品として返還した。
殺害された7名の実行犯は全員が寸分狂わず同質の手法により無力化されたことが検死結果から判明している。
法医学者からのレポートに依れば、死因は脳幹を強引にシェイクされたこと。眼球から細長い金属を突き込まれ、骨に掠ることもない精密な状態で頭の最奥の脳だけが液状に攪拌されていた、という。
また遺体にはもう一つの共通点があり、それは惨い手法で殺されたにもかかわらずその表情が全く苦悶を浮かべていないと言う点である。
これには様々な推測が挙げられたが、最も現実的な非現実的結論として、「凶器が眼球を貫き脳幹を破壊するまでの速度が、人間のあらゆる反射神経・感覚神経の速度を上回ったから」というものが導き出された。
この結論は素人にもプロにも納得を与える物だったが、肝心の法医学者たちは「納得できるが理解できない、これはおよそ人間に出来る芸当ではない」と言い最後まで信じたくない様子であった。だが、検死を担当した者達も結局その結論を否定する言葉を口にすることはなかった。