記憶の断片が次第に薄まり剥離していく。それ自体は当然のことだ。どこかより深いところに隠されてしまうのだろう。沈んでいくのだろう。しかし、一方でジタン・コッポラは思う。記憶のない自分。自分を知らない自分に対して、自分のことを知っているという他人。私の記憶は失われたものなのか、あるいは失っておくべきものなのか。彼らとともにいるために、過去の自分は不要なのか。もしも不要ならば、過去の自分を清算する方法などあるのだろうか。
思うに、そのように自分にばかり都合のいい方法は存在しないに違いない。むしろ、過去の自分が遺した見知らぬ痕跡をたどることになるだろう。その中で何を思うのか?知らないな、だが好いことばかりではないだろう。
手始めに、このじめじめとしていて寝苦しい場所から出てしまおう。そうしよう。
がばり。そんな擬音を思い浮かべながら体を目いっぱい勢いをつけて動かそうとして、ピクリとも動かなかった。どうしたことだ、これは。
重い瞼を開くと、痛いくらいの潔白が眼を突いた。
ここはどこだ?
俺の疑問に答えたのは、視界の端で真っ白い旋毛を見せていた女の声だった。
「目が覚めた?君にしては珍しい。お寝坊さんだ。」
聞きなれた声に安心するとともに、なんとも不格好な状態で彼女からことの顛末を聞くこととなった。
◇
彼女…ココ・ヘクマティアルは俺の雇い主だが、同時に家族のようなものであり、時には娘になったり、妹になったり、はたまた年の離れた許嫁になったりする不思議な関係性だ。一概に言い切ってしまえるほど、単純な関係ではないのだ。お互いに、そう考えているに違いない。
かくして、そんな比較的親しい彼女から、何故自分がここにいるのか、具体的には自分が何故今も生きていてこうして君と話しているのか、そのことについて詳しく聞きたかった。
「一応聞いておくけど、どこまで覚えてる?」
どこまで…何の、とは聞くまい。不祥事に巻き込まれた辺りからだな、きっと。だが、すでに疑問が渋滞している。どうしてキャスパーじゃないんだ?暫くは彼のもとで働くという計画だったはずだが。
「あぁ、そういえば…あの子供は無事なのか?」
ふと思いつきに近かった。だが言ってしまったものを呑み込むことはできない。結果がどんなに予想とは異なるものであっても。
「……子供のことなんか、今はどうでもいいでしょ?」
…ココは不機嫌になってしまった。まだ話のスタート地点にすら辿り着いていないのに、彼女の機嫌を損ねてしまったことは大きな誤算だった。しかし、何故だろう?全く心当たりがない。…それよりも、うぅ…頭が痛い。心なしか顔もあちこち痛む。
俺が痛みに苛まれてココの機嫌を取れないでいると、彼女は我が意を得たりといった様子で蛇のように顔をグイっと近づけて、真正面から覗き込んできた。
「ふふ…痛むんだ。」
あぁ、痛いよ。痛みには強い方なんだが…頭が、ガンガン、するんだ。
「フフーフ…教えてあげる。」
するりと彼女の手が優しく俺の頬に触れた。愛おしげに撫でながら、彼女は一瞬瞳の奥に、その青い深淵に赫怒の色を灯したて言った。
「君が心配してあげたその子供に、君は頭を撃たれたんだよ。」
72時間前にね、と彼女は付け足した。
◇
俺は驚き、珍しく疑問の声を上げた。
「そんな、嘘だろう?あの、マルカと名乗った女の子がそんなことを?」
すると、今度は驚いたのはココの方だった。
「え?子供って、そっちのこと?」
どっちだよ。俺は片っぽしか知らないぞ。
俺の疑問が膨らむにつれて、逆にココの不満は小さくなっていったようだ。幸いなことに機嫌が戻ってきた。
「なぁ~んだ、もう!驚かさないでよね、流石に私も頭に来ちゃうとこだったよ!」
完全に激おこだった、とは言わないのが美女と付き合うマナーだ。
完全に激おこだったけどな…。
「そこは言わない約束だよ?」
ごめん。なんか、心配かけたみたいだな。
「そりゃーもうね、今の今まで寝ずに飛行機乗り継いできたんだから。駆けつけるのだって金がかかるのだよぉ、君ぃ?」
うぅ…すまん。金の話には弱いんだ。
「うむ反省したならよろしい!…フフーフッ…君が生きてるってだけで、私はもう十分だよ。お金なんて惜しくないよ…だから、今のは冗談。本気にしないでッ…。」
そんなの理解してる。でも、こっちは本当に言わない。俺はただ頷くだけだ。
「…ありがとう。それで、前置きが長くなっちゃったけどまずはどうして私がキャスパーの代わりにここにいるのか、について説明するね。」
あぁ、そこが一番気になるところだった。
「言っちゃえばキャスパーに任せると子供でも容赦なさそうだったから、それだと君の本意に沿わないんじゃないかって…私が気を遣ったってだけの話だね。ふふ…でもあいつには感謝されたよ?あとチェキにもね。珍しく、あそこの二人が揃って荒れてたから怖かったんだよねぇ…。」
想像に難くない…愛されてる実感はうれしいものだが、何も返せそうにないことが悔しいな。
「フフーフフ…みんな好きでやってるんだから、気にしなくていいんだよ。それに、ちょっと臭い言葉だけど、あいつもジタンを家族だと思ってる証拠じゃない?気前が良くなるってことは、つまりそういうことだよ。」
…照れくさいな。さ、続けてくれ。
「ふふ、照れてるね~。と、ここまでにして。次にさっきの子供の話についてだけど…話を聞いてる限りだと…ジタンは自分が誰にどこで撃たれたのか覚えてないってことでいいんだよね?」
あぁ、その通りだ。撃たれる前から死にかけだったのは覚えてる。
「ふふッ…笑えないからね?今も五体満足になるまで回復してる時点で超人だって理解してる?もうっ!ほんっとーに心配かけすぎ!ジタンは何時も何時も…昔っから、ギリギリを攻めすぎなんだよッ!」
うぅ…耳が痛い。面目ない。
「はぁ…言って治るなら今ここで寝てないよね…。うん、切り替えた。」
ココは頬をぴしゃりとたたくと、今度は仕事人の顔になった。白いスーツとシャツに、結んでいた暗色のタイを緩めている。恰好を見れば何か商談の途中だったのかもしれない。ほっぽり出させてしまったな…と申し訳なくなった。
彼女は資料をわきに倒れていた仕事用のバッグから取り出した。病室に窓はない。快適だから息が詰まることはない。恐らくはキャスパーかココが気を利かせてこの部屋にしてくれたんだろう。俺は窓がない方が落ち着くから。
◇
「跳躍地雷を直下で回避って…噓でしょ、馬鹿なのかな君は?」
真面目にやった。そしたら成功しただけだ。
「…まぁ、普通にこの時もケガしてるし。自分が人間だってこと忘れてない?」
ヒマワリがそうさせる。
「…?なんか言った?」
…いいや、失言だった。忘れてくれ。
「…それで、君と子供二人…例のマルカと…」
モーリスだ。覚えてる。
「そう、そのモーリスと一緒に三人で基地に向かって歩いてたんだよね?」
あぁ、記憶に新しい。とはいっても三日も前のことらしいが…。
「それから君は子供たちを基地に送り届ける過程で、山岳部隊から移籍してきた少年兵と接敵…。」
…待て、なんだって?少年兵?そんなの記憶にないぞ?
「…記憶が無いのは何故なのか原因はさておき、覚えてないのはこの子なのね?」
あぁ、そして君のさっきの口ぶりからすると…。
「えぇ、この子が…ジョナサン・マルという子供が貴方を撃った少年兵だよ。」