リハビリです。
「あれは……なんだ?」
真っ暗な夜。申し訳程度のライトがついているだけのトレセン学園。
トレーニングメニューの考案に行き詰まってしまったチーム・スピカのトレーナー沖野は、息抜きがてら夜の学園を散歩していた。
「こんな時間に自主練か? 流石に止めねぇとなぁ」
トレーナー寮の近くにある練習用ターフ。本来なら誰も足を踏み入れることはない時間。
ウマ娘であれば寮の自室にいなければならない時間だし、トレーナー陣も流石にトレーナー寮にいることだろう。芝の手入れが入るとも連絡を受けていない以上、こんな夜に……。と思う。
おーい! と叫ぼうとした時、ウマ娘と思われるその影が動き出した。さながら、ゲートが開いた時のスタートのように。
無意識とはいえ、体内でカチリとタイマーを押してしまったのは、俺の職業病だろう。だが、今走っている場所は一周2400のトラック。腕時計を見ればもう夜中の1時。流石にいいタイムは出ないだろう。
ホームストレッチ側からスタートして1コーナーを曲がる影。
「キレーに曲がるな。疲れてないのか?」
踏み込みの様子はいい。時間にしては脚もしっかり前に出ている。体の軸もブレてない。
2コーナーも抜けて、俺がいるバックストレッチ側へとやってきたものの、ライトの加減でギリギリ顔は見えない。だが、服装だけは見えた。
「なんだぁ!? スーツ?」
足元はおそらく革靴? それにスーツパンツは紺色のように見える。
「おいおいあのトモ……」
瞬く間に目の前を通過していった脚は、G1ウマ娘と比較してもなんら違和感のないそれ。むしろ、ゴールドシップみたいなゴリゴリのスタミナ・パワー系よりも筋肉のつき方が良かった。
3コーナーに入っていく白いワイシャツの背中が、シャンと伸びた姿が見えた。まさかスパートか? と思えば、少し前に行く程度に速度を上げる。
「好位についた。実戦想定? 差しか……。あの動きなら先頭は大体……」
差しの脚質を想定するなら、先頭は大体5バ身ほど前だろう。少し外側にいるから、先行集団の大外についた形と見て間違いはない。外を回るしかなかったことを想定した練習ならタイムもかなり良い。
ポトリと、口に入れていたキャンディーを落とした。
頭を悩まし、あの影が動くレースを想定しているうちに、影は4コーナーを抜けようとしていたから。
「っはぁ!? んだよあれ! えっ!?」
一言で言うなら、速すぎる。
あまりにも長いストライドが、あまりにも速い回転で繰り返される。
スパートなんてものじゃない。速さの格も質も、今まで見て来たどのウマ娘よりも良い。
トウカイテイオーの柔らかさよりも良いバネが反発力を逃がさない。
マックイーンよりも多いスタミナ量が足の回転を維持する。
ゴールドシップよりも強い筋肉が向こう側でも見えるほど芝を巻き上げる。
勝つことが当然の走り。
ウマ娘が、一生に一度できるかわからないほどの質の走りが、向こうのゴール板を越えた。
体内時計では2分20秒ジャストあたり。
速い。あまりにも速すぎるタイム。流石に参考記録になるが、それでも前の記録は2分22秒手前とかだったはず。それを、参考とはいえ迫るスピードを? しかも革靴で?
スタートからゴールまで胸を張り、首を下げず前だけ見るフォーム。たった一度の走りが、俺の目に焼きついた。
「お、おいおま」
「アァーーッ!!」
「んでよ? 聞こえて来た声が、男だったんだよ……」
「と、トレーナーさん? 流石にそれは疲れすぎではないでしょうか?」
「そうだよそうだよ! 私たちとおんなじ速さで走れる人間とかいないし」
「でもテイオーさん。トレーナーさんの言い方だと、人なのかウマ娘なのかも」
昨日の夜に見た光景を、選抜レースの会場となるターフに向かう最中に話すものの、みんなは懐疑的。まあ、逆の立場だったら俺もそう思ってたと思う。だが、この目で見てしまった以上放置しておくわけにはいかない。
もしあの影が学園の生徒であるならば、必ずやチーム・スピカに引き入れて見せる。そう心に決めている。
だからこそ、チーム・スピカの顔であるマックイーン、テイオー、スペの3人を連れて来た。こいつらと一緒に走れると知って喜ばないウマ娘は少数だろう。最強のステイヤー。無敗の二冠ウマ娘。そして日本総大将。
「あ! イナナキ先生!!」
そんなスペシャルウィークが、前方のベンチに座ってグラウンドを見ていたスーツの男性に気がつき声をかけた。彼はふっと手だけあげて挨拶をすると、そのままグランドに再び視線を向ける。
「先生ってことは担任か?」
「はい!」
「あれ? スペシャルウィークさんの担任の方は女性ではありませんでした?」
「先生、産休で入れ替わったんです! ちょっと行ってきますね!」
おう! と返事したまま、俺たち3人はそのイナナキと呼ばれた教師の方へと向かう。
遠くから見ただけではあまり気が付かなかったが、近くで見ればその脚の筋肉はかなり発達していて、スーツをパンパンに張らせている。ふくらはぎもそうだ。
まるでG1直前で仕上げたウマ娘の足の様な筋肉のつき方に、少し驚く。
「あ! トレーナーさん! こちら担任のイナナキ先生です! イナナキ先生、この人が、私の所属するチームスピカのトレーナーです!」
「初めまして。彼女のクラスの担任をしてます。イナナキです」
「ご丁寧にどうも。沖野です」
軽く挨拶をするために立ち上がったイナナキを見て、俺はやはり素晴らしい足だと感じた。正直、ウマ娘でこの足だったら触ってるし、スカウトしてる。
「先生は何かスポーツとかしてた」
「スポーツ? いや、特に何も」
「トレーナーさん? 急にどうしたんですの?」
「いや、すげぇいい脚してるから」
「ちょっとトレーナー? いい脚してるからって男の人の足まで触り始めたら変態どころじゃないってぇ。やだよー? ボク」
んなこたしねえよ。だが、それにしても、本当にいい脚だ。
「そういえば、ウマ娘が母親の場合割と身体能力が高い子供が産まれるとか噂で聞いたことあるけど、先生もか?」
「まあ。一応母はウマ娘ですけど、オープンに一回勝っただけなので、スペシャルウィーク君やそちらのお二人ほどすごいウマ娘じゃないですよ」
あははと力なく笑う彼は、どう見ても普通の人間。そうか。気のせいか。
「ところで、なんでグラウンドなんか見てたんだ?」
「え? いや、あんまり僕はレースに興味がないので、みんな頑張ってるなぁと。普段は職員室とかから見るんですけど、たまにはと思いまして」
「そうですよ! イナナキ先生はトレセンの先生なのにレースに興味がなさすぎです!」
そうしてスペの口から出てくるのはイナナキの無知エピソード。
シンボリルドルフの七冠を知らずトウカイテイオーに怒られて、メジロラモーヌのことを知らずマックイーンに叱られる状態である。
「マジで知らないんだな……」
「興味なかったですから。なので、最近勉強中です」
そう言って目線を向けたのはグラウンドで走るウマ娘たち。
「まあそんなわけでそろそろ僕は仕事に戻らないといけないので。皆さんもトレーニングだったりあるんでしょう?」
「おう。それじゃあまた会えば」
軽い挨拶だけして校舎へ戻るイナナキ。
それにしてもやはり、あの体つきには違和感が残る。
「まさか……」
夜の走りは彼? いや、そんなことあり得ない。
「気にしてても仕方ないし、チームハウスに戻るか」
「そうですわね」
◆◇◆◇◆◇◆◇
「あれ、もしかして夜にいた男か? 結構怪しんでたし……。めんどくせぇ。如何にかして誤魔化さねぇと……。当分走るのやめるか」