夜中。
最後に走った日からだいぶ時間が経った。割と一月位空いてしまった。
一応家の中でルームランナーを使ったり、深めのレインコートを着てバレないように道路を走ったりとかしていたけど、芝生を走るのはやっぱりいい。
「てか、未練たらたらだよなぁ。僕」
体の中で湧き上がる衝動を抑えるのはよくない。学生時代無理矢理に押し込めたりすると、すぐ体調が悪くなった。だから今は、理解ある上司こと秋川理事長のおかげで、夜間のターフで走らせてもらっている。
そういえば、夜中に走らなくなって色んな人から僕に関する噂話を聞いた。
1.イナナキ先生の「イナナキ」は偽名。
これに関しては事実だ。前世の競走馬時代に呼ばれていた名前じゃないと違和感がすごくて、大学生時代から知り合う人々にはずっとイナナキで通しているし、それで大丈夫なように大学や秋川理事長たちに掛け合った。
2.イナナキ先生は実はスポーツをやっていた。
これは僕の脚を見た生徒たちが言い始めた。まあ、わからないことはない。幼少期から走ってたし、一時期筋トレにハマってたのもあったし。今も筋力が落ちないように色々しているわけだし。まあ、タバコ吸ってる時点で全盛期に比べれば落ちてるはず。
あれ? 僕って普通の人間になりたかったはずなのに、やってることウマ娘たちと変わらない?
3.実はトレーナーの資格を持っている。
これは100%この前の監督のせいだ。あの後、僕のクラスの3人が立て続けにトレーナーと契約したこともあり教官よりも良いかもしれない。なんて声が上がり始めたのだ。そしてそれに助長する3人。東条トレーナーから話を聞いた沖野トレーナーにあれやこれや聞かれたのも原因だ。
まあそんな噂話は置いておいて、今日はありがたいことに雨だ。
雨は良い。レインコートで顔が隠れるから、誰かに見られてもバレにくくなる。珍しく蹄鉄を着けたシューズを履き、準備運動を行う。
「うしっ」
特にトレーニングをするわけじゃない。
軽く2、3周して体を温め、全力で一周する。体を伸ばして整えてから、元気があればもう一周。もちろん、誰かが来た時点で速攻逃げるわけだけど。
「思ってたより酷くなさそうだな。これなら」
周回してみて問題がないと判断した僕は、いつも通りスタートとゴールの目印にするための缶コーヒーをラチの横に置く。
一周約2400。形も割とダービーをする東京競馬場に似ているらしいこのターフ。今にも駆け出そうとしたところで、足音が聞こえてきた。
「あなた、こんな時間に何をしてるんですか?」
現れたのは一人の生徒。
「こんな天気で走っても、オーバーワークだし、風邪を引くだけだよ?」
まあ言ってることはごもっともだ。僕だって反対の立場なら止めてるしね。
けど、ここで喋ると正体がバレる気もするし、どうしようかな。
青鹿毛に白い流星。どこかでみたことがあるような気がするウマ娘だが、今まで担当で持ったことは無いはず。少なくとも教室で見かけた記憶がない。
「キミ、何か言ったらどうなの? それとも喋れない事情、ある?」
とりあえずコクリとうなづいた僕は、この場を乗り切るために思考を巡らす。
ウマホに文字を書き起こすか、ジェスチャーで会話を試みるか。
「キミにお口はないんだね。名無しの権兵衛さん。それで? まだ練習を続ける? 一応、見つけちゃった以上無視するのはよくないと思うし……。どうしようかな、僕と一回並走して、今日のところは練習をやめる? 一人よりも二人の方がいいと思うし多分、私がこのまま帰ったところで走ると思うんだけど」
まあ、それはそう。この子が帰ったところで走るんだけど。いや、念のため帰るかな?
「体格から見るに、多分先輩だよね。生意気とか思ってても、ちゃんと名前をいってくれないからキミが悪いんだよ? それで、どう? 僕と走る?」
ただ、ちょうど良いだなんてあまりにも舐めてる。
この子がどのクラスに居るのかは知らないが、まあ良い。
僕はウマホに文字を打ち込み、見せつける。
準備運動、2400、レース。その3単語だけ見せて。
すると彼女はニヤリと笑う。私が負けるはずないと言った表情。問題など全くないと言った表情。しばらく彼女がウォーミングアップをする中、僕も体が冷えないように動いていれば、彼女が言う。
「んじゃ決まりだね。後悔しても知らないから」
2分30秒後、彼女の2秒先でゴールした僕は、追いかける彼女を見ることなく不良馬場のターフから離れた。なんとなく、懐かしい記憶を刺激されながら。
◆◇◆◇◆◇◆◇
僕は、コントレイルは日常に飽きていた。
かつて偉大なる英雄が成し遂げた、無敗によるクラシック三冠の達成を目の当たりにし、その軌跡を継ぐと心に決めていた。
学生時代、母のことを担当していたトレーナーの父から英才教育を受け、幼い頃から自身の前には誰も居なかった。
なのに、絶対に追いつけない先に、水色のレインコートがいた。
遊びのような感覚で走ったターフ。雨が降っていたせいで不良馬場。でも、そんなものは関係ないとばかりにスタートからゴールまで前を走られた。声を出さないあの背中を、ただ追いかけるだけの苦しい2分半だった。
僕がゴールした頃には、振り返ることなく消えていったあいつ。なぜかタバコの匂いがする彼女に、私の存在を無視したアイツに、腹が立った。
「あれが、越えるべき壁ってやつなの……父さん」
同期だろうが、先輩だろうが関係ない。アイツの後ろのままなんて許せない。
アイツを必ず、僕の後ろに置いてやる。
そこからすぐに父と相談し、トレーニングメニューの改案と実行に取り掛かった。フォームの見直しから始め、筋トレやスタミナトレーニングを中心に。スピードはもともといい。だから加速し続けるスタミナと、加速力を上げるパワーを鍛えるために。
そしてデビューの直前、父に言われて出た調整目的の選抜レース。
もちろん結果は一番。油断することなく走り抜け、メイクデビューで走る1800メートルのレースのゴール板を駆け抜けた時、ふとあのバニラフレーバーの匂いに気づいた。
視線の先には、体操服を着た生徒たちと話すツーブロック姿のスーツの男。
確か、中3の学年の国語教師の男のはず。
「本当に? アイツが、あの人?」
あのタバコの匂いは独特だった。だから彼で合っているはずだが、まだ100%じゃない。あれ以来、あのタバコの匂いを探したが、生徒の中で見つけていない以上、彼の可能性がかなり高い。
「よくやったコントレイル。仕上げは上々。メイクデビューまでこの調子で整えていこう」
「うん」
返事しながらも、私は彼の方を見つめた。
どこか、懐かしくも悔しく感じる衝動を確かめるために。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「さっきの生徒、すごい走りだったね」
先行な抜け出しを決め、後続に3バ身の圧勝を決めた青鹿毛の生徒を見て、僕はなぜか懐いた3人の生徒たちに問いかける。
「ああ、確か下の学年のコントレイルさんでしょ?」
お父さんがトレーナーなんだって。英才教育ってやつ?
生徒の言葉を聞いて、僕は思う。
コントレイルって、あんなに弱かったっけ……。
いくらジュニア期とはいえ、あんな走りをしていたか?
「まあ、別に関係ないか」
「何が関係ないの?」
「ん? こっちの話だよ」