正義の名のもとに   作:李座空

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プロローグ
1.シルクジャスティス


 シルクジャスティスと呼ばれるその少女は、太平洋に面する山間の小さな町で生まれた。資産価格高騰と経済拡大により日本がバブル景気に沸く一方で、競走界では地方から成り上がった葦毛のウマ娘が中央を席巻して新時代到来を宣言。月9枠の『東京ラブストーリー』がトレンディドラマブームを巻き起こしている頃だった。

 四季はあれども寒冷な気候が年中続き、都市圏に比べれば人も建物もまばらな、自然の多く残る僻地。都会の方からはるばる観光にやってくる乗用車と、ブラウン管に投影される映像だけが時代の変化を伝える長閑な大地で、物心がついてからしばらくの間、少女は他の世界をまったく知ることなく育った。

 町を一望できるなだらかな丘陵の中腹にある、日本の片田舎には不釣り合いな洋風建築の大きな邸宅が少女の住居だった。町の人々からは豪奢な外観と存在感を指して「お屋敷」と称されるその建造物は、敷地面積の坪数は千の位を数え、少女の家族以外に家に仕える者が何人も雇われていたので部屋数も多く、リビングやダイニングも複数存在した。家屋から門戸までの間には噴水付きの庭園もあり、中世の西洋貴族とまではいかなくとも、それなりの成功者でなくては住まうことは叶わないものだった。

 そこに暮らす者として、少女は高度な生活環境を与えられてきた。衣食住に不自由無いのは言わずもがな。幼少期から高級私立学校で一貫教育を受けてきただけでなく、日ごとに家へ招かれる各分野の一流講師から施される習い事を掛け持ちし、心身を磨かれてきた。将来、少女が世に出れば、文武両道の死角無き女史として華々しい活躍を遂げると思われた。

 堅苦しい英才教育が、少女にとって重圧であった感は否めない。だがそれは不可抗力であり、少女に拒否する権利は無かった。父親の教育方針だったからだ。

 少女の父は実業家であった。若かりし頃から多種多様な事業を並行して手がけ、その経営を軌道に乗せ多くの富を築いてきた。政財界とのコネクションも太く、しばしば客人を屋敷に招いてパーティーを開いていた。地位と名誉、そして財産をも有する生き様は成功者らしい派手さに満ち溢れていた。

 その娘である少女は、いわゆる令嬢ということになる。成功者の家に生まれ、多くのものを与えられ、何ものにも脅かされることの無い温室で育てられる。なんて恵まれた娘だろう──周囲の者達はそう羨んだ。

 しかし当の本人は一度もそう思ったことは無かった。父親から施される英才教育に窮屈さを感じていたというのもあるが、問題はそこではない。

 少女は父親から、愛情を感じていなかったのだ。

 そもそも肉親でありながら、少女は父親と直接会話する機会すら限定されていた。仕事柄、父親は家を空ける時間が多く、必要な連絡を取る時は使用人を介することが常だった。顔を合わせるのは月に二、三回程度、たまたま屋敷での夕食時間が? み合った時ぐらいで、その際も父親から一方的に就学状況や習い事の進捗を訊き質されるばかりだった。少女から振られた話題の大概は無駄話と斬り捨てられるか、不興を買えば逆に説教を食わされた。

 他にも要因は幾つもある。

 習い事の一環として屋敷でピアノのレッスンをしていた時の話だ。取り組んで日がまだ浅く、少女は弾き間違えを繰り返し悪戦苦闘していた。外来の講師も最初はこんなものだと、指導もそこそこに馴れさせるようただ見守っていたが、そこへ突然父親が割って入ってきた。彼は鍵盤に触れる少女の手を捻り上げると、驚きと困惑の入り混じった顔を平手打ち、耳障りな演奏を聴かせるな──冷然とそう云い放った。

 少女が初めて、父親から手を上げられた際の出来事である。

 彼女にとって、父親に関するこうしたエピソードは枚挙に暇が無い。傍から見ればそれは、我が娘への父親の接し方ではなく、部下を扱き下ろす高圧的な上司といった方が似つかわしかった。

 どだい、抑圧的でいびつな英才教育は父の成功者たる人生に由来しているのだろうと少女は子供心に邪推した。自分と同様に我が子を優秀な人間に育てなくてはならない、失敗者ではなく成功者に仕立て上げねばならない。ゆえに教育方針を定め、不可抗力のレールを敷いてその上を進ませようとするのだ、と。

 お前には多額の教育資金を惜しみなく注ぎ込んでいる。失敗は許されない、勝て、成功者たれ。さもなくば、お前の一生に価値はない──。日頃の父親の態度から、少女はそんな強迫観念を抱いていた。

 その裏に果たして如何ほどの父親の親心があったのか、見えない愛情がその実込められていたのかは分からない。が、そこまで推し量るには少女はまだ幼すぎた。

 少女は次第に父親の影に怯えるようになっていった。学業や習い事はそつなくこなしていたが、それは父親の機嫌を損ねないよう、逆鱗に触れないようにする為の危機回避行動だった。数少ない顔を合わす機会も必要以上に会話を交わそうとはせず、蛇に睨まれた蛙のような面持ちで時の経過を待つという有り様だった。少女の受ける重圧は、成長につれて負荷を増していった。

 だが、辛い事ばかりでも無かった。少女には心の拠り所となる存在がいた。彼女の母親である。冷徹で酷薄な父親とうって変わって、母親は少女に対して慈悲深く、愛情があった。

 資産家の妻である母親は、あまり身体が丈夫でないこともあって常に屋敷にいた。それ故、少女が生まれた時から母親はずっとその傍にいた。身体が弱くとも気丈で聡明な母は血の繋がった娘をこよなく愛し、大切に育ててきた。

 お友達は出来たの、今日のお弁当はお母さんが作ったの、体操着は持ったの、今晩はあなたの好きな料理にするわね──。母親はいつでも少女の事を細やかに気遣っていた。そんな母との他愛のない母子の会話が、少女は好きだった。父親と異なり真っ当な意思疎通がとれ、心を通わせることが出来たからだ。

 習い事の際も、母親は時折講師と一緒になって少女を見守った。お上手よ、日に日に上達しているわ、あなたはいつも一生懸命ね、よく頑張ったわね──。母親は少女の成長に目を輝かせ、しきりに手放しで称賛した。それが少女にとって至上の喜びであったことは言うまでもなかった。

 夜の就寝前になれば、母親はいつもベッドの傍に寄り添って子守話を聞かせた。終日勉学に明け暮れる少女にとってそれは、一日の最後の楽しみであった。夢うつつの中、聞こえてくる穏やかな声と仄かに漂う優しい香り。さまざまなものが渾然一体となった母がもたらす温もりは、少女の生きる世界の輪郭を形成し、父親の重圧から守ってくれるベールのように思えた。それさえあれば学校の難解な授業も、不得手な習い事でも、何だって乗り越えられるように少女は思えた。

 その母親と父との夫婦仲は、芳しくはないようだった。少女への教育方針の差異が主要因らしかった。

 エリート志向の父親に言わせれば、母親の娘への接し方は甘やかしと映っていたのだろう。逆に母親は、人情味の欠けた父親の冷徹なやり方に反対していた。二人は少女から見えない所でたびたび議論を交わしたが、互いの主張はどちらに傾くともなく膠着し、ずっと平行線を辿っていた。

 両親の間に自分を巡る確執があることは少女も薄々認識していたが、父親への忌避感情を募らせていた身からすれば、むしろそれは母親が自分の味方だという安心を得ることに繋がった。表立って態度に出すことは無かったが、父が母に言い負かされればいいとも思っていた。少女の心中で、母親の存在はそれだけ大きな比重を占めていた。

 次の習い事までの間、少し遊ぼっか。お父さんには内緒よ。ぜんぜんお外に連れていってあげられなくて、ごめんね──。母親はしきりにそういった旨の詫び言を娘に告げた。母親なりに自分へも、父親へも気を遣っているのが少女にも十分察せられた。実際、母親がいなければ少女はとっくに潰れてしまっていたかもしれない。

 悪辣な父の為に、母はここまでの施しをしてくれるのだ。だからこれ以上は苦労も心配もさせたくない。その為には父の重圧にも耐えてやる。どんな課題も、困難なことも全部やり遂げてみせる。それが人知れず抱いた少女の決意であり、屋敷で生きていくうえでの原動力だった。

 そうした悲喜こもごもを繰り返しながら、いつしか少女は将来のことを考えるようになる。

 何になるのが夢だとか、どんな仕事がしたいかなどの具体的なものではない。大きくなって、大人になったら、成功して父親を見返してやる。そして母親には、受けた愛情ぶんの親孝行を返そう。そんな目標が少女の根底に芽生えていた。具体性を欠いた稚い野望であったが、前向きな展望を見出そうとする姿勢には違いなかった。そこから来る就学意欲は少女の向上心を強く支えていた。

 

 

 だが、そんなささやかな希求が果たされる前に、不穏な気配は徐々に、一家のもとに忍び寄ってきた。

 最初の兆候は、屋敷に見知らぬ大人達が出入りするようになったことだった。今まで屋敷に招待された来客とは趣の全く異なる、派手な背広の人相の悪い大人たちだった。彼らは父親との面会が目的らしく、頻繁に来訪するうちにやがて屋敷の使用人の間でこんな噂が囁かれるようになる。

「あの連中は借金の取り立てだ。旦那様は、事業で大きな失敗をされた──」

 当時、バブル崩壊と共に訪れた『永世大不況』によって国内経済が大きく後退中にあることを少女は知識として知っていた。とはいえ自分の家が、ひいては父親が現実にその影響を受けることになるとは露にも思っていなかった。話を聞き知った最初のうちも、噂好きな使用人達が吹聴しているぐらいにしか捉えていなかった。されども少女は徐々に周囲の環境が変容していくのを、身をもって味わう。

 程無くして通っている学校で、少女はクラスメイト達からあからさまに疎外されはじめた。それまで交流のあった者もそうでなかった者も少女を仲間外れにし、除け者にして、まるで異物のように扱った。

 少女にはすぐにその理由が分かった。

「お前の父親、テレビで見た。カメラの前で頭を下げてた」「ハサン宣告、だってさ」「何千人もシツギョウするらしいぜ」「シャッキンで首が回らないんだろ」

 意地の悪い同級生たちが、少女にわざわざそう告げてきた。その口調には嘲る色があった。まだ年端もいかない彼ら彼女らが、口に乗せる言葉の意味や実情を理解しているとは思えなかった。

 吹き込んだのはその親に違いない。高級私学に通う生徒の保護者ともなればそれ相応に上流階級者がひしめき合っていて、その界隈では面子や体面に重きが置かれる。家柄や地位、名誉、資産などは彼らにとって互いを牽制する武器であり、その考えで言えば、父親の失敗によって少女の一家はいま、武器に大きな刃こぼれができた状態だった。

 失敗者を叩き貶めようとする歪んだ競争意識を植え付けられた同級生たちに、少女は格好の標的とされたのである。そして同時に思い知った。父親が事業に失敗したのも、借金を抱えたのも噂ではなく真実なのだということを。

 ではいったい、家はどうなるのだろう。父親はお金を返せるあてはあるのだろうか。母親もそのことは知っている筈だが、どうするつもりなのか。

 そして自分は、どうなってしまうのだろう──。

 しばらく少女は途方に暮れた。この件を相談できる相手が誰もいなかった。

 事業の失敗以降、父親は以前にも増して顔を合わす機会が減った。立て直しを図ろうと方々に手を尽くしていたのか、はたまた現実を逃避していたのか、少女には判断が付かなかったが、どのみち忌避感を抱く父へ直接聞くことなどできない。

 母親は今までと同様に傍にいてくれたが、どこか遠い目をしていることが多くなった。従来通りに振舞おうとしているが、今の家の状況に動揺しているのは少女の目にも明らかで、そんな母にも直に聞くのは躊躇われた。

 あることないことを広められる恐れがあるので、屋敷の使用人にも信頼できる者はいない。学校の同級生はもっての外だった。

 少女は自分を取り巻く環境──というよりは、父に与えられた環境というべきだ──の息苦しさをあらためて認識させられた。どうして自分はこんな場所にいるのだろう、という疑心が日ごとに募っていった。学校で顔を合わせるのは面子や体面ばかり気にする矮小な同級生たちばかり。屋敷でも父親の目を窺いながら、望んだわけでもない習い事に四六時中追われる。挙句の果てにその父が招いた失敗により、唯一の心の拠り所だった母もいま苦しんでいる。

 もともとは父親を見返す為、そして母親に孝行するが為に歩んできた日々は、それさえもが脅かされつつある。こんな生活がいつまで続くのだろう、自分の人生とは何なんだろう。

 否、端から分かりきったことだ。全ては依怙地な父親の動向に左右されている。

 あの人がいるからだ。父がいなければ、お母さんも、私も……。

 父親へ当初より抱いた畏怖や威儀。それらは少女が自分でも気付かぬうち、沸々とした憎悪へと徐々に変化していく。

 

 

 間を置かずして、その感情が決定的となる出来事が起きた。

 少女が学校から帰宅したその日の昼下がり、屋敷へ来訪者があった。もはや目にするのも慣れつつある、取り立ての背広の大人たちだった。例によって督促に現れたのだろう。

 彼らの来訪には父親が応対するのが常だった。予めタイミングを知っているのか、他者に対応させたくないのか、背広たちがやって来る時には必ず父親は在宅していた。

 この日、父親は家にいなかった。やむを得ず、代わりに母親が対応を迫られた。背広たちはそれを好機と捉えたのか、初めて相対する母親に高圧的な態度で臨んできた。

 近日中に納めてもらう約束の額がある。父親から聞いてはいないのか。そもそもどうしてこれだけの借金をこさえることとなったのか。幾度も警告はなされた、債務が不履行となればこの屋敷の金になりそうなものを担保にする他無い。そういった旨の発言を次々と背広たちは母親に浴びせた。

 母親はひどく困惑している様子だった。彼女は父親から、借金に関する子細までは知らされていないらしい。その実態を直接知らされたことに、狼狽を隠せない様子だった。

 一部始終の様子を少女は扉の隙間から見ていた。少女も目の前で繰り広げられるやりとりに驚愕していた。父親の招いた危機が、自分や母の喉元にまで迫っているのを否応なく実感した。

 背広たちのかけてくる圧は徐々に増していく。多額の債務回収がかかっているだけに、やがて恫喝めいた言動も見せ、複数人で母親へ詰め寄り始めた。剣呑な空気だった。

 このままだとお母さんが──。憔悴した少女が扉を開け入りそうになったその時だった。それを制止し、少女に代わり場に割って入る者が現れる。

 父親だった。息せき顔に汗浮かべ、いつになく慌ただしく、唐突に現れた彼は、手にしていた大きな鞄を背広たちに押し付けた。

「これでいいのだろう」

 ぶっきらぼうな口調で父親は背広たちに言った。渡したのは煤汚れたアタッシュケースだった。それを前にして背広たちの目の色が変わり、こわごわと開封しにかかる。その場の誰もが息を呑む。中には大量の現金──。

 プライドがどうこう言ってた割には、やれば出来るじゃないか。最初から提案通りにこうしてればよかったんだ。背広たちは額面を確認しながら、喜色を滲ませた声でそう言った。彼らにしてみれば定められた回収を果たせればよいのだ。

 父親は肩で息をしながら、背広たちを虚ろな目で見下ろしていた。灰色に濁った目だ、と少女は思った。一体どこで何をしてあれだけの金を調達してきたのか、想像がつかなかった。

 額面を数え終えた背広たちは、回収さえ済めば用は無いと言わんばかりにそそくさと撤収した。ただし去り際に、「次回はこの倍は返済してもらう。一家を離散したくなければ」と付け加えていった。

 取り立てが去った後、魂が抜けたような表情で父親はその場にへたり込んでいた。目下の難事は去ったが終わりではない、これで完済したわけではない。

「あなた、どうやってあんなお金を」

 沈黙を破りまず母親が問う。もっともな疑問だった。これまで背広たちが来訪する都度、返済を続けてきたのは知っている。だが先程の話を聞いた限り、父親が資金繰りに難儀しているのは明らかだった。現れた時の困憊した様子といい、父親は何か不穏なものに手を染めようとしているのではないか。

 父親は黙したまま、何も答えようとしない。気を揉んだ母がもう一度口を開こうとした時、ようやく父は悠然と立ち上がった。覚束ない足取りで歩き出したかと思うと、部屋の戸口で固まっていた少女の前で屈み込み、華奢な両肩を掴んだ。

 少女の肩を掴む父親の手は異様にりきみ、指先は細かく震えている。かつて頬を打たれたことを思い出し、少女は身を固くした。

 父親は手を上げてはこなかった。代わりに大きく目を見開いて、絞り出すように言葉を紡いだ。

「お前は、私のように、なるな。この世は勝者が全てを得る。負ければ何もかも失い、それで終わり、敗者は悪と為り下がる。だから勝て。お前が……勝って私の仇を取れ。勝者こそが『正義』なのだ」

 そう語る父親の瞳は、碁石のように真っ黒だった。目尻からは、涙が溢れてきている。大の大人が、それも冷徹で峻厳だった父親が目の前で泣いている。その姿に少女は深い絶望を垣間見た。

「やめて、あなた。この子にそんなものを背負わせないで」

 母親が割り入って、少女を抱きしめた。直後、父と母の言い争いが始まった。

 互いの理屈のぶつかり合いに、少女は耳を塞ぎたくなった。言い争いはその日の終わりまで続いたようで、少女は自室にこもり、一人で眠れぬ夜を明かした。

 その日父親が絞り出した言葉は、少女の心にこびり付いたように消えなかった。敗者は悪となり、勝者こそが正義となる。それは大人の世界、すなわち社会を生きていくための父なりの鉄則なのだろう。

 今まで自分に英才教育を施してきた父親の真意を完全に理解できたような気がした。負ければ、あの父親のようになる。家族の前で取り立てに追われ、あまつさえ泣き腫らす姿を晒すことになる。敗者は人としての尊厳すら奪われる。自分をあれほど苛烈に育ててきたのは、そうさせないためだった──。

 父のやり方には父なりの理由がやはりあったのだろう。勝ち残ることで『正義』たれという、自らの醜聞を反面教師として示そうとしたのかもしれない。

 ただやはりそれはどうしても少女にとっては相容れないものだった。幼い頃から拷問のように続いてきた、息つく間もない英才教育と価値観の洗脳に、嫌悪感は否めない。

 少女が父親からの英才教育による恩恵を感じたことはまだ無い。この先の人生で社会に出ればそれを実感することもあろうが、いま少女が感じているのは負の面ばかりだ。

 独り善がりな父の思想に、自分も母も苦痛を強いられ続けている。本当は……ただ、母とも、父とも、穏やかに家族らしく過ごしたいだけなのに。この抑圧された日常が続く限り、そんな望みが叶うことは無い。

 ならばやはり道は一つ。父親からの脱却。父の支配から逃れる他ない──少女の心には次第にそんな考えが醸成されていく。

 

 

 その機運は瞬く間に高まっていく。

 父に『正義』を説かれた日からさらに数か月。屋敷の中に流れる空気はより険しいものとなっていく。屋敷の使用人たちは気もそぞろに、廊下でひそひそ話に終始している。末法的な空気が、徐々に屋敷全体を覆い始めていた。

 少女はあの日以来、父と対面していなかった。正確には父親が屋敷を出たきりにすることが多くなっていた。資金集めに奔走していたのかもしれない。まれに帰宅してはいるようだが、顔を合わすことはなかった。

 母親は相変わらず、心此処に在らずといった様子で日々を送っていた。娘の前でだけは従来通りに振舞おうとすることもかえって、少女には痛々しく感じられた。母と娘の間に交わされる会話もどこかぎくしゃくしていた。

 お父さん、最近どうしたの? ある時、堪りかねた少女の方からそう訊ねた。意図的に避けていた話題だったが、それを訊かなければ何も進展せず、鬱屈した日々がずっと続くように思えたからだ。問いかけられた母親は、娘をじっと見据えたまま動かない。

 ……お母さん? 

 もう一度訊ねようとして慄いた。母親は立ち尽くしたまま目から涙を流していた。娘の言葉がきっかけで、何かが決壊したような気配があった。

 お父さんはね、もう今までの、あの人じゃないの、変わってしまったのよ。嗚咽とともに母は吐露した。苦い心境を含ませ、自らの娘へと語りだした。

 母親の言を要約するとこうだった。父は借金の返済の為、あらぬ金策に手を染めた。近頃、家にも殆ど戻らないのはそれが理由である。元来、父はそんな人ではなかった。固い信念と理想を抱き、その結果として成功を収めてきた。その革新的な姿に惹かれて生活を共にし、一緒に歩んできた。しかし、どこかで歯車が狂った。成功し続けねばならぬ立場と、敗者となることへの恐れが、あの人を捻じ曲げた。父はもうかつての父ではない。目先の利益に囚われて盲進する、盲目的な人間に変貌してしまったのだ、と。

 そして、こうも云った。

「お父さんは勝つことが正義と言ったわ。でも、それは違う。正義というのは誰かに押しつけたり、強要されるものではないの。人が人としてそれぞれ心の中に育み、信じる道理のことをいうのよ。

 あの人は……お父さんは、自分の中の正義を曲げてしまった。自分を信じる事をやめてしまった。

 どうかあなたは、信じる事を辞めないで。あなたに授けた名は、その為にあるのだから……」

 母の言葉の意味を少女は充分には理解出来なかった。

 正義という言葉の持つ多様性と重み。父も母も、互いの思想や価値観に基づいてそれを紐解き、娘に垂範しようとする。それは洗礼のようにも、呪いのようにも聞こえた。

『正義』、英訳すれば『justice(ジャスティス)』……自らに冠された名が持つ意味合いの重さに、眩暈すら感じた。

 少女──シルクジャスティスにとって選ぶべき正義とは果たして何なのか。父の言う通り、勝者こそが正義なのか。母の言う通り、個々が心に抱く信念こそが正義なのか。

 私にとって、信ずべき正義とは、一体──。

 その答えは、衝撃を伴って少女にもたらされることとなる。

 

 

 春先。年度末が迫ったうすら寒いある日。

 少女は学校の放課後、帰宅の途につこうとしていた。どんよりした雲が空を覆い、昼過ぎから薄暗く風の冷たい日だった。

 いつものように使用人が運転する送迎車に乗って屋敷に帰ってきた少女は、まず散らかった玄関を目にして硬直した。散乱する靴や傘、ジャケットや帽子、鞄。いずれも普段父親が身に着けているもので、収納もろくにされず置き散らされている光景は見たことが無い。

 悲鳴が聞こえた。甲高い、切迫した声。すぐに誰のものかは分かった。母親だ。声がしたのはダイニングルームの方からだった。玄関からは廊下を進み、十数メートル隔てた場所にある。

 肩を震わせながら少女はダイニングへと向かった。ふと廊下の壁に目線を向けると、そこかしこの壁紙に何かを擦ったような痕跡が認められる。まるで誰かが争ったかのように。

 ダイニングの扉は半開きにされていた。言い争う声が聞こえてくる。あって欲しくないと願ってきた最悪の事態が目の前に迫って来る。そして、少女は目の当たりにした。

「いい加減にやめて。あんな事をして、得るお金なんて、っ」

「お前は分かっていない、私がどんな思いで、お前たちを支えてきたか」

 ダイニングルームの中は混沌としていた。ひっくり返った椅子や机、床に転がり水を散らす花瓶、壁から剥がれ落ちた古時計。それらの只中で、惨禍の震央であろう母親と父親が取っ組み合っている。

「ここで膝を折れば、負ける。永遠に敗者の烙印を押され、後ろ指を指され生きていかねばならんのだ」

「そんなものが何だというのです。私達はただ、自分らしい生活を続けていければ、それでよかったのに」

「自分らしく? そんな我が儘が通るのは、勝者のみ。だから私は勝とうとした、他ならぬお前達を、この家を守る為にだ。それが何故分からん」

「どうしてそんな風なの、どうしてそうなってしまったの。あなたのエゴに、押し潰されるあの子の気持ちを考えたことはあるの? あの子がどんな気持ちで、怯えながら、生きているのかを」

 吐き出し合う、相容れない価値観の応酬。

 父と母はこの日、今までになく激しく衝突した。発端は少女が学校へ行っている間に起こっていた。

 父親が不在であった昼間のこと、屋敷に一つの荷物が届けられた。送り主の書かれていないそれを不審に思った母親が中身を確認したところ、中身は父親が今まさに手を染めている取引きの『商材』であった。

 薄々勘付いていたことだったが、現実にその確証を知ってしまうと母親は激しく動揺した。『商材』は、言葉にするのも憚られる代物だった。所持することは勿論、それを営利目的で売買していたことが公に知れれば、借金の返済どころでは済まなくなる可能性もあった。

 やめさせねば、こんな非合法紛いの手段は。自身の倫理観に基づきそう決心した母親は、説得すべく父親の帰宅を待った。

 夕刻、父親が帰宅してくるなり、問い詰めた。その途端に父親も口を荒げた。

 返済の為に形振り構わず動き回っていた父親も、心労が相当溜まっていた。彼は自身のしてきた工面算段が違背行為であることも、自分の本来の主義を曲げた不本意な行いであることも自覚していた。だからこそ、それをあらためて妻に突かれたことにより、内に溜め込んできたものを噴出させてしまった。

 口論から始まった夫妻の諍いは徐々にエスカレートしていった。互いに意見を譲る気は無かった。

 最初に手を上げたのは母親からで、掌で夫の横面を張った。父親もそれで完全に箍が外れた。二人は壁や家具にぶつけ合うのもお構いなしに取っ組み合いになった。使用人たちの制止の声も聞き入れることなく。

 その対峙のさなかに少女は帰宅する形となったのだ。

 やめて、やめてよ──。震える声で少女は両親へ呼び掛けていた。二人の手が一瞬止まり、少女の方をかぶり見る。ぎくりという擬音が聞こえそうな顔を二人は形作った。血の繋がる我が子に、決して見せてはならない光景を見せてしまった後悔はあったのだろう。

 しかしそれも二人をいま衝き動かしている激情に、あっという間に押し流されていく。鬼気迫る表情に戻った両親は、娘を前にしても、もはや止まらない。

 唇を戦慄かせ、少女は力無く立ち尽くして両親の醜く争う姿をただ見守る他無かった。いつかは来るかもしれないと、その一方で決してそんな筈ないと目を逸らし続けた最悪の事態が、眼前で進行していく。

 やめて。私はただ、お父さんとお母さんと、穏やかに毎日を過ごしていたかった。それだけだったのに、どうしてこんなことになるの──。

 床に押さえつける父親の手を払い除けた母親が、追撃を退けようと手近にあったサイドテーブルを掴んだ。力任せに引き倒すと、父親の顔面に接触し鈍い音を響かせた。

 もろに当たったのだろう。苦痛に歪んだ顔を上げた父親の額に、できたばかりの生々しい裂傷が刻まれた。傷口からは赤黒い液体が滴っている。自らの手で血を拭った父親はそれを目の当たりにし、何かがぷつんと切れたのだろうか。目を血走らせ拳を掲げた。

 ああ──。少女が声を挟む間も無く、拳は即座に振り下ろされて母親の頬を打った。ダイニングに不穏な音が響く。弾き飛ばされた母親はソファの角に身体を打ち付け、床に突っ伏した。

 少女の目にも決定的な一発に思えた。なにせ大の男に殴り飛ばされたのだ。母親は、意識はあったが身を起こせそうにない。父親は身を屈め、その母親に覆い被さろうとする。

(やめて)

 父親が再度手を振り上げ、母の頬を張る。呻き声が上がるが構いもしない。

(やめて、やめてよう)

 目尻に涙を湛え少女は父親の背を視界に入れた。彼はもう娘に見向きもしない。母親への排撃に完全に意識が向いてしまっていて、その姿は後に続く地獄の光景を予期させる。

 この父親が全ての原因だった。彼が強いた抑圧的教育が少女を歪め、母親も苦しめた。経済的な失敗から一家崩壊の危機をも招いている。

 そして今まさに目の前で、少女が最も信頼し親愛を寄せてきた母親の尊厳さえも踏み躙ろうとしている。

(やめろ、やめろ──)

 瞬間、少女の身体の奥底から燃え滾るものが湧き上がった。内より出でた激発的衝動は立ち竦み動けなかった少女を悠然と突き動かし、その小さな手で父親の肩を掴ませる。

 何だ、と言いたげにかぶりを振った父親の顔が大きく揺れた。とてつもない力で肩を引かれた父親の身体は床の上で何度も回転し、壁に突き当たってもんどりを打った。ぐふっ、とくぐもった声を吐いた父親の目は焦点が定まっていない。

 彼が起き上がろうとするよりも前に、その鼻先に陣取った少女は続けざまに平手を見舞った。つい先ほど父が母にそうしたように、頬を張られた彼は、今度は横っ飛びに舞った。

 壁が軋み、部屋が揺れた。叩き込まれた壁が僅かに凹み、蜘蛛の巣状に細かなヒビが入る。そこから剥がれ落ちるように父親は膝から崩折れた。

 なおも少女は息も荒く、血走った目で憎き相手を見据える。頭の中で糸が完全に切れてしまったようだった。通常の人とは異なる頭頂の大きな耳は怒りを露わに絞られ、腰部から伸びた栗色の尻尾もぞわっと総毛立ち揺らめいている。

 少女は、その名が顕すとおり『ウマ娘』だった。脚力をはじめとして、その身体には通常の人間とは比べ物にならない運動能力が備わっている。まだ少女とはいえ、その気になれば並の成人男性相手なら容易に圧倒できるだけの力が。

 身を起こした父親が、腰を引き摺りながら後退った。壁に打ち付けた顔は醜悪に歪み、口鼻からは血が零れている。

「お、お前……」

 苦しげに呻く父と目線が重なる。少女を見る父の目は、恐怖と困惑で小刻みに震えていた。

 ──どうしてそんな顔をする。もとは全部あなたの所為だ。

 あなたが、私を、お母さんを、こんなにも苦しめた。独り善がりな思想を押し付け続けた。

 分かるまい、どれだけ私達が苦しみ抜いたのか。あなたの為にこれまでどんな思いをさせられてきたのかを。

「来るな、やめろ……」

 敗者は悪、勝者こそが『正義』になる。そんな無慈悲な意識を植え付けられ、盲目的な生き方を強いられてきた。

 でもお母さんは言った。『正義』とは、誰かに押しつけたり、強要されるものじゃない。人が人としてそれぞれ心の中に育み、信じる道理のことだ、と。

 お父さん。お前が私達にしてきた『正義』の押しつけは、間違ったことだ。数々の仕打ちを受けてきた私達にとって、むしろそれは害悪そのものだ。

 だから、もうこれ以上耐えられない。

 私達の前から、いなくなれ──。

「バ、バケモノ……」

 驚愕に目を見開いた父親がぼそりと漏らす。その顔には明らかな怯えの色が浮かんでいた。

 お前だ。お前がそのバケモノを育てたんだ──。

 次の瞬間には、少女は無意識のうちに掲げた腕を振り下ろしていた。

 

 

 空気が裂けるような悲鳴が響き、少女は目を醒ました。

 床の上に寝かされていたらしい。目を開けると、取り囲むように屋敷の使用人たちが少女の顔を覗き込んでいる。

 皆が一様に、慄いた表情をその顔に張り付かせている。

 ──何をしていたんだっけ? 

 先程までの光景を思い返そうとして、頭に突き抜けるような痛みが走った。起き上がろうとする身体は鉛でも埋め込められたように重く、思うように動かない。

 部屋の外からは、慌ただしく行き交う幾人かの足音や切迫した声が聞こえてくる。

「救急車は呼んだのか」「こんな事になるなんて……」「娘さん、自分のしたこと分かっているのかしら」使用人たちの戦々恐々とした囁き声が漏れ聞こえてくる。

 やがて緊急車両のサイレンが近付いてくる。この屋敷に迫っているらしかった。

 狼狽した面持ちの使用人達に見守られる中、少女は壁に手をつきようやく身を起こした。その際に気付く。手をついた壁に、自分の手形通りの赤い染みができたことに。

 背筋がぞっと冷え、少女は眩暈に後退った。勢い余って壁の食器棚にしたたかに背を打ちつけ、落下してきた数枚の皿が陶器片と破砕音を散らした。

 ──私は、何をしたの……? 

 少女は焦点の定まらない目で、愕然と虚空を見上げた。

 ダイニングに沢山の人間が殺到してくる。青白い活動服の救急隊員や、物々しい警邏服の大人たちが現場を制していく。

 揉みくちゃにされるように取り囲まれた少女は、息苦しさに視界が揺らぎ、足元が崩れていくような感覚を覚え、為すすべなく倒れ込んだ。

 様々な感情が去来し、精神が逼迫して処理しきれない。自分の起こした現実が、容易に受け容れられない。

 しかしそれでも……たった一つだけ彼女は得心し、自らにこう言い聞かせる。

 ──私は、正しいと思ったことをした。お母さんの言った通り、信じた道理を守るために、父の悪意を退けた。

 そう、『正義』を貫いたんだ──。

 少女の意識はそこでぷつりと途切れる。生家である屋敷で過ごした、最後の夜の出来事だった。

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