ブリッツハーケンは海外生まれの海外育ちだった。紅茶の国と渾名される欧州の港町が故郷である。
裕福でもなければ貧困でもないごく普通の家庭に育った彼女は、ウマ娘として生を受けた所以か、物心つく頃から徒競走が好きだった。人の往来が多い湾岸の街並みを友人と駆け回っては、しばしば大人たちに叱られる腕白な幼年期を過ごした。その走りは幼くして鋭く、地元では同年代に負け知らずで、時には大人の競走相手も打ち負かすほどであった。
走りへの興味は年々高まり野良レースや競走コンテストに傾倒するうち、ブリッツはクラブチームへ勧誘される。競走界へ数多くの選手を輩出する名の通ったクラブだった。走ることが好きだった彼女には願ったり叶ったりの話で、断る道理などなかった。
クラブに属してからブリッツはより一層頭角を現した。競走に集中できる環境を得たことでその才能はより高みへと飛躍を始めた。体の成長と共に走力をぐんぐん伸ばした彼女はクラブ内の実力序列を瞬く間に塗り変え、気付けばクラブの看板選手として知られるようになる。各地で催されるアマチュア大会では結果を残し、メダルやトロフィーを総なめにもした。ブリッツにとってそれは、最も純粋に競走を楽しんでいた時期であった。
やがて更なる転機が訪れる。定例トレーニングのためいつものようにクラブに来たある日、ブリッツはスーツ姿の見知らぬ男と出会う。聞けばそれは、欧州競走界のスカウトであるという。優秀な人材を発掘するためクラブへ訪れていたのだ。
スカウトは直截に事を告げた。ブリッツハーケンを欧州のトレセン学園に推薦したい、そのためのトライアルを受けて貰いたいと。
トレセン学園、それは競走を志す全ての者にとっての憧れだ。そこへ入学することは競走界への入門であり必須要件でもある。ましてや欧州競走界は世界最高峰と云われる凱旋門賞の主催であり、それに附随する欧州トレセンウマ娘のレベルも世界一と名高い。誰もが安易に足を踏み入れられるものではなく、類稀な走りの素質を有する選ばれし者のみが集う天上の舞台だ。
そこに入学する為のトライアル出場権を得たブリッツは、これまで以上に研鑽した。試験までの期間、トレーニングは勿論の事、座学や面接対策に至るまで抜かりなくこなした。
夢への扉が目の前にある。手を伸ばせば届く距離にまで近付いた。両親や友人、クラブの指導者や同僚達も皆、トレセン入りを共に願い支援した。トライアル対策に身を粉にしながらも、ブリッツはそれに応えようと、そして何より自分の夢を叶えようと、精一杯に日々を過ごした。
甲斐あって、トライアル項目をブリッツは順調に消化していった。筆記、面接、適性試験等、多段階選抜を潜り抜け、残すは最終試験のみというところまで漕ぎつけた。
最後の試験は模擬レースであった。各自の距離適性に応じた出走枠を組んでの、受験者同士による最後の椅子の奪い合い。やり直しの効かない一発勝負。実力だけでなく不確定要素である時の運をも味方につけたものが生き残れる、競走界の縮図の如き試験。
ブリッツに怖れは無かった。合格への最終関門を前に武者震いすら感じていた。それだけ彼女の競走意欲は最高潮に達していた。
群雄割拠の模擬レースであろうとこれなら勝てるかもしれない、今のブリッツならば――。周囲の者達も彼女自身も、そう信じてやまなかった。準備出来うるベストコンディションを以てブリッツは最終試験へと臨んだ。
だがそこで、思いも寄らぬ事態が彼女を襲った。
順調に推移していた筈の模擬レース、その最終コーナーでブリッツは他走者と接触し巻き込まれて転倒。結果は順位付かずの競走中止となった。
彼女に過失は無かった。不幸にも他者の転倒事故に巻き込まれたのだ。それでも、トライアル審査団の言い渡した評決は冷酷だった。
ブリッツハーケン、トライアル不合格。チャンスは一度きりと事前周知した通り、理不尽な事故であったとはいえ例外は認めず――合否通知に記されたその一文が全てだった。
夢から醒めたような気分だった。不合格となる覚悟もしてきた筈だった。だがあまりにも不条理な結末の前に、ブリッツは茫然自失となった。目指してきた夢への扉は慮外の事態により、永遠に閉ざされた。
どうしてあんなことになった。転倒に巻き込まれさえしなければ、今頃自分は夢の舞台へ踏み出せた筈。それが何故こんなことに――。トライアルが終わってもしばらくの間、遺恨が彼女の心に渦巻いた。容易に割り切れるものでは到底なかった。
クラブチームからも足は遠退き、自宅で自室に籠るようになった。不合格となり目標を失った彼女からは何をする意欲も失せていた。必要最低限の衣食住をこなす、無気力な日々が続いた。
心の整理がようやくつきだした頃、クラブチームを辞めることとなった。競走に未練はあったが、いつまでもこうしておらず心機一転すべきと周囲に宥められた末にブリッツ自身が決めた事だった。
久々に顔を出したクラブで、指導者や同僚達に別れの挨拶に回った。皆一様に、気まずそうに惜別の言葉を並べてくるのがブリッツにはかえって辛かった。クラブの者達も最終試験での出来事を知っていて、どう接すべきか困惑しているのが見て取れたからだ。居た堪れなさもあり、一通り別辞を告げると足早にクラブから立ち去ろうとした。
その帰路に就こうとした時だった。ブリッツはばったりと、あのスカウトと出くわした。欧州トレセン入りを推薦し、トライアル参加権を与えてくれたスーツ姿の男だ。
ブリッツは彼を見て言葉を失った。本来ならば自身を推薦しチャンスを与えてくれた相手に謝辞を述べるべきだが、その姿を目の当たりにして絶句した。スカウトの男は顔中に包帯を巻き、片腕にギプスを嵌めるという痛々しい姿だったのだ。
一体どうしたのかと問い掛ける間もなく、スカウトは彼女の前に跪き、「君があの事故に巻き込まれたのは、私に力が無かったのだ」と噎び泣いた。大の大人が人目も憚らず泣きはらす姿に、ブリッツは吸い込まれるような虚脱を感じた。
それからスカウトが語ったどす黒い真相は、歳相応だった彼女の精神を捻じ曲げるには十分な内容だった。
最終試験の裏で圧力がはたらいていた。ある試験参加者の親族が、障害になり得る競合相手を排除するため手回ししたという。その標的の中にブリッツも含まれていた。事前に買収された他走者がレース中にわざと転倒し、標的を巻き込み諸共リタイヤさせるという手段だったという。
世界トップともいわれる欧州トレセン学園には、実力だけでなく家柄や財力に覚えのある者が集う。そうした者の中には如何なる手を使ってでも学園入りを果たそうとする者もいる。ブリッツはその魔手で爪弾きにされた。
通常、そうした裏工作が明るみに出ることは絶無である。だがスカウトは試験後に偶然この事を知った。試験の関係者が口を滑らせるのを聞いたのだ。
居ても立っても居られなくなり、義憤に駆られ彼は単身調査に乗り出した。事実関係を認めて口を割る者はいなかったが、かき集めた断片的な情報を組み立てていけば、おおよその真相にあたりはついた。
ブリッツのトレセン入りにかけた熱意をスカウトは十分承知している。競走界にいざなったのは他ならぬ彼なのだ。だからこそ最終試験の権謀にまみれた結果は看過できない。必要な情報が揃った頃合いでスカウトは審査団に情報を持ち寄り、ブリッツの再審査を請願しようとした。
まさに審査団へ出頭しようとしたその日だった。スカウトは行き道の只中で突如意識を失った。次に目覚めたとき、彼は薄暗い建物の中で見知らぬ者達に拘束されていた。その連中はスカウトに「最終試験では何もなかった、いいな」と同意を求めてきた。今度は、真相を嗅ぎ回る自分に圧を掛けにきたのだとスカウトはすぐさま理解した。
彼は真実を白日の下に晒すべく抗おうとしたが、それに対する排撃は壮絶だった。その結果が顔面を覆う包帯や腕のギプスだった。それだけにとどまらず、解放された後にも彼の周囲には異変が続いた。業界で急に干され仕事が激減したり、家族が不審な事故に巻き込まれたりしたという。華やかな競走界の裏にある暗部に触れてしまった彼は、スカウトとしての立場だけでなく、社会性をも剥奪されようとしていた。
そうした一連の経緯を、彼はなるべくショックを与えぬようかいつまんでブリッツへ伝えた。それでもなお十二分に戦慄する内容に、ブリッツは慄然とする他ない。悲愴な面持ちのスカウトの語り口を聞かされるうち、彼女は次第に馬鹿馬鹿しく思えてきた。自分のこれまでの努力など、強権や圧力の前には所詮取るに足らないものだったのか。この世の万物はそんなもので動いているのか。既に強い力を有する者には、どうあがいても格下は抗えない運命なのか。今、目の前で苦悶する男のように……。
やがてブリッツは話を途中で切り上げ、その場を覚束ない足取りで去った。それ以上、彼の暗い話を聞きたくなかった。家に帰った彼女はベッドで泣いた。そうして元の生活に戻っていくのかと思われた。
が、その数週間後。
ブリッツのもとに一通の手紙が届いた。差出人の名はなく、その文面は体裁も拙く、震え手で書いたように乱れた字で読み辛かったが、最後まで目を通した彼女は息を呑んだ。
『ブリッツハーケン様へ
この前は取り乱してしまい申し訳ありませんでした。
まだ小さいあなたの心に悪い影響を残すような、嫌な話だったかと思います。あんなことを本当は、話すべきではなかったとも思います。試験の後で、きっと辛かったであろうに、嫌な思いを上塗りするようなことをしてしまい、心からお詫びします。
あれから、いかがお過ごしでしょうか。クラブを辞めたこと、後から聞きました。無理もないと思います。もしかすると、走ること自体も嫌いになってしまったかもしれませんね。
でも、あなたが気に病むことは何もありません。あなたはトライアルに向けて、最高といえる努力を重ねました。この上ない走りを見せてくれました。苦しくも充実していたに違いない研鑽の日々は、紛れもなくあなただけが得た「経験」として、必ず残ります。
あなたは何も悪くない。悪いのは、その裏で汚い真似をする私達大人です。今回は、私の力が及ばなかったばかりにあなたに悲痛な思いをさせてしまいました。ですがどうか、あなたには走ることを辞めて欲しくない。光り輝くあなたの未来を、どうか閉ざして欲しくないのです。
もしもまだ、どうか、少しでもまた走りたいという思いがあれば、同封してあるもう一枚の封筒を開けてみて下さい。
身勝手な事ばかりをつらつらと、とりとめのない文章で、申し訳ありません。
どうか未熟な私を、許して欲しい』
同封されていた封筒の中身は、一枚の書類だった。その表題には『日本トレセン学園入学推薦状』と大きく書かれていた。
あのスカウトなりの罪滅ぼしであろう推薦状により、ブリッツは海を渡った。欧州から遥か東に位置する島国、日本。その首都東京にある日本ウマ娘トレセン学園が彼女の新天地だった。
日本の競走界では他国生まれのウマ娘の新規参入を制限する措置がとられていたが、近年になって徐々に緩和されつつある。そうしてタイミングよく出来た空席を、あのスカウトが首尾よくもぎ取って来た格好だった。
日本行きを決めたのは、周囲から水を向けられたのが大きい。一度は駄目かと思われた競走界に入れるならばと両親は喜んでいたし、かつてのクラブの仲間からも走りは続けるべきだとはっぱを掛けられた。最終的に意思決定をしたのはブリッツ本人だったが、彼女の心境は複雑だった。最終試験の真相を知ってしまった彼女は、走りの世界へ足を踏み入れられることを手放しには喜べなかった。
それでも――否、それ故にというべきか――、ただ一つ決意を固めて彼女は日本のトレセン学園に臨んだ。
力が欲しい。何者にも侵される事のない、純粋な強い力を手にしたい。
力無き者は無知だ。あの最終試験のように、何も知らぬまま力ある者に裏で利用され、爪弾きにされる。スカウトが知らせなければ、そのまま気付く事すらなかっただろう。もうそんな目に遭うのは御免だ。だからこの日本競走界でのし上がり、喰われる側から喰う側になってみせる。
不条理を飲み下した心中に、新たな野心を燃やしたブリッツは入学直後から意欲的に走りに取り組んだ。
自信もあった。それまでクラブチームで競走に取り組んできた自負もあるが、それだけではない。というのも、日本の競走界の歴史は浅く、競技水準や環境整備は本場である欧州のそれと比べて遅れていると言われていた。格が落ちる感は否めず、下に見るような風潮さえもあった。
身も蓋もない言い方だが、ブリッツは日本でなら上位層に食い込める自信があったのだ。現に、日本トレセン学園の推薦入試でも、欧州のトライアルで最終選考まで残った点が有利に働いてあっさり合格していた。そういう背景もあって、入学当初の彼女は何事に対しても傲岸不遜に構えるほどだった。
しかし、そんな根拠に乏しい自信が打ち砕かれるのは早かった。彼女が食い込もうと狙っていたG1クラスにも出走する上位層の壁は予想より遥かに厚く、付け入る隙が無かった。授業やトレーニングの合間にトップ層の実状を見知ったブリッツは、格の違いをまざまざと体感する。それは欧州で聞き知っていた下馬評とは大きく剥離していた。日本のウマ娘は弱い、などとんでもない。少なくとも今の自分では到底敵わないと思い知らされた。
加えて、「マル外」という立場にもブリッツは苦しむこととなる。参入制限を緩和され、この頃から徐々に日本競走界に増え始めた他邦出身ウマ娘。だが「マル外」の通り名で呼ばれた彼女らは参入当初、日本人特有の排他意識により、決して歓迎されているとは言い難かった。
事実、学園内でも差別意識を感じる場面は多々あった。肌や瞳、言語や文化、価値観の違いから、マル外の者達は学園の各所で孤立していた。学園でのあらゆる活動においても、マル外だからという理由で特別扱いを受け、疎外される事も少なくなかった。その根底には競走界の実力至上主義があり、自身を脅かす敵対者を出し抜くという意識も作用していた。海の向こうから旗挙げにやってきたマル外にとって、日本競走界には不利な条件が揃っていると言えた。
それだけならまだ良かった。欧州で辛酸を舐めたブリッツにとっては、日本の苦しい環境も反骨心を育てるほどよいスパイスに思えた。既に一度、心に誓っている。何者にも負けない力を得る、そのためにここに来たのだと。日本競走界の上位層がいくら強かろうが、そこに至るまでの差別が如何に苛烈であろうが上等。それくらいは端から予想していたことに過ぎない。登ってやる、欧州で味わって来たどん底から、この国の競走界の天辺まで――。
だが昨年、状況は激変する。永世大不況の影響で著しく経営が悪化したURAの『ある男』が、『恐るべき宣言』を行ったのだ。その急進的かつ破壊的な内容を受け、瞬く間に日本競走界は混乱に陥る。
ブリッツもその内容に戦慄した。「どこの国でも、大人ってやつは狂っている」というのが最初に抱いた感想だった。
それ以降、世の中ではURAの発表した『宣言』の是非を巡る論議が沸騰。ニュースやワイドショーを騒がし続け、今なおその騒動は収まる気配がない。やがては反対署名活動をする者や、レースをボイコットする者まで出始め、いよいよ競走界は混迷に突入していく。
始まったその嵐の渦中で、ブリッツは虚無感に囚われていた。何故こんなことになるのか、天辺を目指し上り詰めていこうと決めた日本の競走界で、どうしてこんなことが起きるのか。『宣言』の裏に垣間見える薄汚い大人の事情を嗅ぎ取った彼女は、欧州での一幕がトラウマのように蘇り、競走意欲をまたも喪失していた。
走るモチベーションを削がれ、マル外であるがゆえに学園内で孤立していた彼女は、日に日に無気力になっていった。世間が『宣言』の話題で騒ぎ続けるのをよそに、ぼんやりと帰郷の二文字すら浮かぶようになっていた。
そんなブリッツに初めて声が掛けられたのは、退学届を書くかどうか悩んでいた頃だった。
「アナタ、海外から来たウマ娘デスネ?ワタシたちと同じネ」
いつものように独り寂しく学園の中庭で昼食を食んでいた時のことだ。彼女を囲むように、数名のウマ娘が声を掛けてきた。日本のウマ娘ではなかった。ブリッツと同様、肌や瞳の色が異なるマル外の者達だった。
話によると彼女達は、マル外ウマ娘のみが集まる校内サークルのメンバーだという。サークル名は『フォーリナ』。直訳して異邦者を意味する言葉だ。日本競走界が大きく揺れ、逆風吹き荒れる昨今、孤立しがちで心細くなったマル外同士が身を寄せ合う駆け込み寺的なものとして発足したという。
彼女らに手を引かれるまま、物は試しにブリッツはその集まりに顔を出してみることにした。学園のクラブハウスの隅にフォーリナの集会場はあった。国籍もばらばらな、数十名のメンバーが集い、卓を囲んで談話に興じている。出自も価値観も多種多様な面子であったが、彼女らはかつて自分もそうされたように、ブリッツの来訪を温かく迎え入れた。マル外への排他意識が蔓延する学園内でも、そこだけは空気が違うようだった。心のよすがを失いかけていたブリッツにとってそこは、久々に安らかな気持ちを与えてくれる場所に思えた。
かくしてブリッツは『フォーリナ』に顔を出すようになり、程なくして正式メンバーに加入した。それまでいなかった交流相手ができ、虚無な学園生活にささやかな潤いが生まれ始めた。
当初より学園では奇異の目を向けられる『フォーリナ』は、学園外での活動に注力していた。彼女達は学園内の寮には属さず、校区に程近い場所にシェアハウスを置いていた。衣食住を共にし、学園の勉強や、不得手な日本語を互いに教え合い、共同でトレーニングも実施。馴染まぬ日本の地で暮らす彼女らは独自のコミュニティを形成し、家族のように身を寄せ合って競走生活を過ごしていた。
競走成績上位者に優先され、滅多に借りれない学園のレースグラウンドの代わりに、フォーリナは山奥の峠道を自分達のトレーニングコースとして使っていた。東京と神奈川の県境にある大垂水峠である。アップダウンがあり急コーナーの多いテクニカルコースでの鍛錬は、フィジカル面で日本のそれより恵まれたマル外にとっておあつらえ向きだった。いずれ来る本格的な競走デビューに備え、四輪車やバイクで峠を駆ける走り屋に入り混じり、彼女らは爪を研いでいたのだ。
競走へのモチベーションを再び取り戻していたブリッツも、精力的に峠を走り込んだ。過酷な峠コースに適応するのは早く、あっという間に峠のタイムを塗り替えるほどの力を示す。フォーリナの仲間からはその脚力に一目置かれるようにもなった。ブリッツにしてみれば幼少期から野外で走り込んできた経験が大いに活きていた。クラブチーム時代に培ったノウハウも相俟って、峠に適した効率的な走法やトレーニングパターンの勘案はお手のものだった。
その手腕を買われ、ブリッツは仲間からフォーリナのリーダーに推薦される。満場一致であった。これまで明確な代表役はおらず、いちサークルの域を出なかったフォーリナは、ブリッツという主導者を得たことで大きく動き始めることとなる。
今はとにかく力をつけよう。この峠で走り込んで鍛え上げた脚でいずれはトゥインクルシリーズへ本格的に参戦し、並居る日本のウマ娘達を見返してやる。そうしたスローガンを掲げ、ブリッツは同じ境遇のマル外達の支柱となった。
それからしばらくしたある日のこと。いつものように峠でトレーニングをしていたところに、思わぬ来訪者があった。カメラやメモを手にした数名の記者達だった。聞けば彼らは競走界関連の特集を組むため取材したいのだという。参入したてで物珍しいマル外ウマ娘という存在に、是非ともクローズアップしたいのだとか。
早速フォーリナ内で取材可否の話し合いになった。メンバーの大多数は、取材に消極的だった。特集を見るのは日本国内の人間だろうし、見世物のように扱われるのは御免だ、という声が多く上がった。チームとしては取材拒否で意見がまとまるかと思われた。
だが方針が決まると思われたその時、「受けようじゃないか」ブリッツの一声で決定は翻る。リーダー権限により半ば独断で取材許可を下すことになり、メンバーからは困惑と反発も見られたが、ブリッツには考えがあった。
「取材はすればいい。ただし、撮らせてやるのはこの峠で走る姿だけだ」
そう云って、ブリッツはメンバーを率いて峠の全開走行をこれでもかと見せつけた。過酷なトレーニングで身につけた、峠を走破する豪快な脚力と繊細な脚捌き。日本のウマ娘達と一線を画す、マル外ウマ娘の派手なパフォーマンスに、記者達は釘付けになっていた。
ややあってから、その際の映像が地上波で流れた。競走界の動向を報じる番組のおまけ特集的な内容だったが、これを受けてフォーリナの周囲で変化が起き始めた。映像を目にしたウマ娘達の中に、自分達に挑戦しようとする者が現れだしたのだ。彼女らは学園で正面切って対決を申し出てきたり、峠に直接乗り込んで勝負を挑んでくる者もいた。そうした者達は、峠で走ることへの好奇心だとか、マル外に負けていられないだとか、地上波デビューしたことへの当てつけなど、短絡的動機で挑んでくる者が多かったが、そんなことはどうでも良かった。
挑戦者達を、ブリッツ達は片っ端から相手した。そしてその全てを完膚なきまでに退けた。トゥインクルシリーズでそれなりに実績を持つ相手も中にはいたが、峠のレースではまるで歯が立たなかった。峠という特異な地形、何より公道の急カーブに適応する術を、挑戦者達は持ち合わせていないからだ。ここに至り、峠をホームグラウンドとするフォーリナには、挑戦者達は決して敵わないという図式が成り立つ。これこそがブリッツの狙いだった。
あとは簡単なものだ。「峠で無敗のフォーリナ」という話題が次々と挑戦者を呼び、それを返り討つ。これを繰り返すうち、チーム・フォーリナの名は徐々に世に広まっていく。峠のレースにはギャラリーまで現れるようになり、次第にファンを名乗る者まで現れるようになった。G1級の第一線を走るウマ娘ほどとはいかないが、フォーリナとそれに属するウマ娘達の名は確実に浸透し、一定の支持を集めるようになった。マル外を理由に学園内で疎外され、日陰を余儀なくされた頃からすれば、大きな躍進を遂げたことは紛れもない。
そしてブリッツの企図した真の目的はここからだった。話題が話題を呼び、フォーリナが世間の注目を得てきた頃合いを見図って、続々とメンバー達はトゥインクルシリーズにデビューした。一定以上の支持(ファン数)が無くては出走条件未達とされるレースが多い昨今、最初からある程度の人気を有した状態でデビューすることは競走界を生き残るうえで有効だった。並の者では出走すら出来ない重賞レースやグレードレースでも、出走条件さえ整えてしまえばあとは走るのみ。そこでこそ、これまで峠で積み上げてきたマル外の脚が活きるのだ。
全ては、URAがこれから起こす『恐るべき変革』に堪え忍び、なによりも自らの糧とするため――かくしてフォーリナはブリッツの手腕により瞬く間に急成長を遂げた。メンバーは自分達の地位も向上させた彼女へ畏敬の念を込め、いつしかボスと呼び慕うようになった。
まだまだやれる。この異国の地でも自分達はやれるんだ。もっと強くなってやる、こいつらと共に――ブリッツ自身、自分達の更なる飛躍を信じてやまなかった。それだけの気力も意欲も、新たに出来た仲間達と共有できていた。
だが、盛者必衰という言葉があるように、いつまでも上手くいくほど物事は甘くはなかった。
トゥインクルシリーズへの出場を開始しだすと、峠での活動に制約を課されるメンバーが徐々に出てきた。公式レースへの出場やそれに向けた調整などにより、これまでは峠で走っていた時間をそちらに割く必要があるからだ。だがその間にも、峠で無敗のフォーリナに挑む者達は途絶えることがない。
ある夜のレースでのことだった。例によって催された峠のレースで、フォーリナは苦戦を強いられていた。主力メンバーの多くがトゥインクルシリーズ出走のために欠場したことと、逆に出走明けで疲労が蓄積した面子により強行したことが災いしていた。
そのレース終盤、先頭を往くブリッツは焦燥を隠せなかった。自身にも知らず知らずのうちに溜まっていた疲れにより、脚運びは思わしくない。他のフォーリナの面子は、存外にも食い下がってきた挑戦者達によって既に抜き去られている。その頃には、野良レースが世間で浸透してきたこともあって挑戦者の質も格段に上がり、峠に適応した走法を見せる者も現れだしていた。それでも無敗の看板は堅持してきた。自分達の競走者としての価値を保つために。しかし、疲労という如何ともし難い不利を背負っていてはどうにもならない。
ゴールが近づき、挑戦者達が背後にまで迫ってくる。差すつもりだ。ブリッツは足掻いた。これまで地道に築いてきた無敗の看板を下ろすわけにはいかない。そうなればフォーリナの、自分達マル外の評価は落日を迎え、トゥインクルシリーズでの競走活動にも影響を及ぼす。負けるわけにはいかない。絶対に。
ヘアピンコーナーにブリッツは全開でなだれ込んだ。真横に並んだ挑戦者達を押しのけ、最短のコーナリングラインをもぎ取った――が、その時思わぬ事態が起こった。挑戦者達がカーブ中に突如転倒し、そのままリタイヤしたのだ。無論、ブリッツが接触して転倒させたのではない。挑戦者達は自ら足を滑らせて倒れたようだった。
ブリッツにはすぐに原因が分かった。峠で走り込んできたからこそ分かった事だ。挑戦者達は、凍結箇所を踏んだのだ。ブリッツが最短ラインを奪った際、進路変更を余儀なくされた彼女らは偶然そこに足を踏み入れてしまい転倒した。ただそれだけの話だった。
転倒した挑戦者達からは抗議も非難も無かった。それどころか公道の急カーブ対応を誤り自爆したと、自省する有り様だった。峠に熟知していないが故に、凍結箇所の存在とその怖さに気付いてすらいないらしい。期せずしてその夜は、相手の不運により無敗の看板は守られた。
だがその日から、ブリッツの心の奥底に仄暗い靄がかかるようになる。
以降、峠のレースでたびたび転倒者が出るようになっていく。峠で不慣れな者が無茶して故障することはもとからあったが、その頻度は目に見えて増えていった。いずれも、ブリッツに追い迫った走者がカーブで転倒する、というものばかりだった。
そう、偶然にも発見してしまった「妙技」を、ブリッツは明確に戦術として使用することを覚えたのだ。
フォーリナのメンバーもさすがに怪訝に思った――というよりは、薄々勘付いていた。リーダーは峠の凍結箇所を利用し、競走相手に転倒を誘発させているのだと。しかし異議を申し立てる者はいなかった。ブリッツがそうしなくては負けていた可能性があったからだ。それすなわち、自分達を含めたフォーリナ全体の名が地に落ちていたかもしれない。加えて、フォーリナの地位向上に尽力してきたことへの恩義もある。
ついには、ブリッツに妙技を教えてくれと頼み込む者も出始めた。ブリッツ不在の峠のレースもあり、その際は子分達が無敗維持をしなくてはならない。当初は後ろめたさも躊躇いもあったが、ブリッツは次々に子分達へ妙技を伝えていった。
使用するのは勝利が危ぶまれる瀬戸際のみ、と定めた自戒ルールも早々に破られていく。増加の一途を辿る挑戦者達への対応とそのレベル向上、習熟してもなお重い峠レースの負担軽減などを理由に、フォーリナのやり口は徐々にエスカレートしていった。出場者の半数近くを葬るレースもあった。
後悔はある。葛藤も常にあった。無敗を守り自分達の名声を固持するという利己的な理由のために、無知な挑戦者達を多く罠に嵌めてきたのだ。それによって大きな故障を負い、トゥインクルシリーズのレースを棒に振った者もいるだろう。心が痛まない筈がない。
だけど――と、そのたびにブリッツは自らにこう言い聞かせる。
力無き者は無知だ。欧州での最終試験で、自分は何も知らぬまま力ある者に裏で爪弾きにされ、どん底を味わった。そんな目に遭うのはもう御免だ。喰われる側から喰う側になってみせる。不条理を飲み下してそう誓った。
喰われる奴が悪い、無知な相手が悪い。それが身をもって味わった弱肉強食の摂理そのもの。自分は、この過当競争の世で生残する為に必要なことをしているだけなんだ――。
それでも、無敗が続くのに比例して、心のしこりは日に日に肥大し絶え間なく疼く。偶然編み出してしまった業深き妙技。それは自分だけでなく、周囲に悪しき影響を与え、変えてしまった。餌食になった走者達は勿論のこと、自分に付き従ってきたフォーリナの仲間達も変貌させてしまった。出会った当初は気の良い温和な仲間だったマル外連中は、今ではブリッツが妙技とともに植え付けた歪曲した野心により、純粋な競技者としての道を踏み外しつつある。
こんな事をする為に自分は日本に来たのか?もはや多くの者を巻き込み過ぎた。一体いつまで続くのだろう。気付けば、あの最終試験で自分を陥れた薄汚い奴と、自分は全く同じことをしている――。峠での転倒工作も、策謀に塗れた無敗の看板も、全て終わりにするべきなのだ。
……だが、しかし。
今更、後戻りは出来ない。ここでやめてどうなる。
自分はいい、自分だけならば。しかしこの極東の島国で、腐心していた自分に居場所を与えてくれたフォーリナのメンバーはどうなる。フォーリナが背負う業は、もとは自分が一人ではじめたもの。責任は全て自分にある。それを自分の勝手で投げ捨て、残されるメンバーたちに背負わせるような真似は出来ない。
往きつく処まで、突き進むしかないのだ。
だから。
***
残るカーブは一つしかなかった。ゴール前の最後の左ヘアピンコーナー。スタミナを消耗しきった走者が縺れ合い、悲喜こもごものドラマを毎回提供する最終コーナーだ。
そこで差せなければ、勝敗は決定的となる。カーブの立ち上がりで前に出ていた者の多くが、そのままトップでチェッカーフラッグを浴びるからだ。シルクを追う立場となったブリッツが勝つにはこの最終コーナーで抜き返す他ない。
しかしブリッツの狙いは、それとはまったく異なる次元へ向かっていた。この土壇場で鬼気迫る脚を見せたシルクは、既にブリッツがどうこう出来る範疇を超えている。ブリッツをインベタ攻めで華麗に抜き去ってからも脚の伸びは衰えず、その勢いはもはや手が付けられない。
ゆえに、ブリッツは既に手段を決めていた。最終コーナーで差し返せば勝てるなどという駆け引きは、既に頭の中には無かった。
「うおっ、ブリッツが負けてる!二位だ!?」
「抜き返せるわよ!ま、まだ!」
「この最終コーナーで魅せてくれーっ!」
ギャラリーで溢れ返る最終コーナーへついに差し掛かる。渦巻く声援を突き破るようにして、ブリッツはラストスパートを掛けた。だがそれはコーナリングをするためでも、シルクを抜くためでもない。彼女は眼前を駆けるシルクの背中目掛けて、猛然と突っ込んでいく。
(お前に負ければ峠の不敗神話は終わる。それだけは許すわけにはいかない)
このままいけばコーナリング態勢のため減速するシルクに追突する。それでもブリッツは速度を落そうとはしない。
(フォーリナの面子は保たせてもらう)
何かを察知したのか、シルクが振り向く。ブリッツの仕掛ける最後の策に勘付き、逃れるように咄嗟に再加速する。が、もうコーナーに差し掛かっている。止まらない。止められない。両者はオーバースピードでアウト側に大きく膨らんでいく。
(悪いが、お前に逃げ道はない)
ギャラリー達が騒めき、どこからか悲鳴が上がった。
(このレースの結末は、お前と私とのダブルクラッシュだ……!)
目を見開いたブリッツは、追いついたシルク目掛けて肩を打ち当てた。
彼女の狙いとは、自分とシルクの相打ちリタイヤだった。リーダーである自身を犠牲に大敵を潰すことで、あとは後続してくる子分にトップを託す。それにより無敗を継続させる目論見だったのだ。
衆人環視の前で堂々とダブルクラッシュなど、凍結路誘引に比べてあまりにも露骨でリスキーである。それもリーダーたるブリッツが実行したとあっては、無敗が守られようともフォーリナの名に少なからず傷がつく。
それでも最悪、悪名は自分だけが被れば済む。無敗の看板を守れるなら、アイツらを守れるならそれでも構わない。最終攻撃を敢行したブリッツの胸中には、それしかなかった。
ところが、両者がクラッシュしたその直後。
後ろから小突かれバランスを崩したかに思われたシルクが、飛翔した。アタックで受けた衝撃を利用したかのように宙を舞う姿は、ブリッツの視界の中をスローモーションで流れていき、彼女はそれを、虚を突かれたような面持ちで見つめていた。
「おぉぉらあぁ――――ッッ!!」
その日一番の鬨の声。シルクは目の前に差し迫ったアウト側の壁――すなわちガードレールに飛び入ると、猛々しく蹴り上げて天翔けた。最後のカーブ、そこで見せたのは、起死回生のガードレールキックターン。その手際の華麗さに、ブリッツはまたも思い知る。先刻のインベタ攻めと同じだ。
(アイツ、まさかこれも、読んでいたっていうのか――。後続の連中にトップを取らせようと、私がダブルクラッシュを仕掛けてくることも、読んで――)
ブリッツはそのまま、単独でガードレールに強かに激突し、散った。激しく跳ね飛び、錐揉みする視界の中にほんの一瞬、哀しげに微笑む男が映った気がした。
欧州で、自分を見出してくれたあのスカウトだった。