京王電鉄府中駅の北側には住宅街が広がっている。陽が西に傾き橙色に染まる街並みを、帰宅ラッシュのサラリーマンや学生が足早に通り過ぎていく。
家路を急ぐ者達の行列には、薄紫色のトレセン学園制服を着たウマ娘が散見された。彼女らは、いわゆる「通学組」のトレセン生である。
トレセン生は学生寮へ入寮することが元来義務付けられていたが、元から寮賃が高額であったうえ、ここ近年の値上げにより負担が増し、経済的理由で入寮困難となる生徒たちから通学許可を求める請願運動が起こった。これが認められた現在は、比較的家賃を抑えられる近隣の下宿先や、実家から通学する生徒が多く見られるようになっている。
そんな需要を見込んでかここ最近、府中駅北側には学園生向けの下宿用賃貸物件が数多く登場していた。かつて江戸時代に府中宿場町として栄えた同地は、現代において、利便性が高く何よりそれ自体がステータスと言える寮生活を諦めたトレセン生たちの、門前町と化しているのだった。
帰宅者の波に紛れ、シルク、ラン、ダッツの三人も駅前通りから路地に入り家路に就いていた。
「帰ったらちょうど五時前ね。今日はお店の手伝いしなきゃだから、晩御飯は八時過ぎってところかしら」
「うへえ、八時まで食べられないのか。オイラもうお腹減って来たよう」
「お前、昼飯いちばん食ってたのにもう腹減ったのかよ」
「そうだぞ。シルクが焼きそばパン取っちゃうから、満腹にならなかったんだぞ!」
「なにい。じゃんけんで決めたんだから文句無しだぜ」
「まあまあ。夕食のまかないに期待しましょうよ」
やがて三人は、住宅や商店の居並ぶ路地の一角にある店舗兼住宅の前に辿り着いた。二階建ての古ぼけた建屋の中腹に『はちや食堂』の傾いた看板が掲げてある。どうやら飲食店らしい。周辺には食欲を煽る香りが漂っている。
準備中の木札を提げた一階の引き戸を開け、三人は「ただいま」といって中に入った。三、四つのテーブルと、十席あまりのカウンター席が詰める、いかにも大衆食堂然とした店内の風景。
揚げ物調理のジューシーな音がする奥の厨房から「はいおかえり」と太い声が通り、エプロン姿の恰幅の良い女性が顔を覗かせた。
「あんたら、帰っきていきなりだけど仕事だ。ランは厨房で焼き物とフライ、開店までに野菜のカット。ダッツは食器出しと盛り付け、片手間に大釜でスープ作り、開店したら注文取りね」
彼女が食堂の店主、
帰ってくるなり八谷に捲し立てられ、ランとダッツは顔を歪めた。
「えー、もしかして今日も注文一杯取ったの?」
「ブー、八谷のオバちゃんいつも人遣い荒いぞ!」
「じゃかあしいね、かき入れ時だよ。働かざる者食うべからず、いつも言ってんだろ。無駄口きく暇がありゃ、そら働いた働いた」文句垂れる二人をおばちゃん気風で捻じ伏せる。
ラン・ダッツは口を窄めながらも、通学鞄を置くと即座に言われた作業に取り掛かる。
「それとシルク、アンタは買い出し。コメ五〇キロに中華麺三箱、キャベツ五玉、玉葱十玉、唐揚げ生肉五袋、えーと、後はこのメモ見な。市場までひとっ走り、大至急頼むわ」
続いて八谷は買い物リストを手渡す。その量を察したシルクは目を剥いた。
「おい、多すぎだろ、アタシ一人で行けってのかよ」
自分は何をさせられるのかと思えば、よりによって徒歩での買い出しという肉体労働だ。学校帰りで疲れた身には染みる。
「仕方ないだろ、昼の営業でだいぶ捌けちまったし、ウチのクルマがお釈迦になったの知ってんだろ。それとも、アンタのそのウマ娘の脚は飾りかい!」
「この脚はレースで走るための脚だ。労働の為じゃねえやい」
「屁理屈こねてないで行っといで!」
「ったく!」
勢い任せの振りに乗せられるがまま、シルクも鞄と制服を脱ぎ、ジャージを羽織り店を出た。
買い出しを頼まれた市場は、幹線道路を走って片道約十分。行きは手ぶらでいいが、帰りは頼まれた品を一身に担いで戻らねばならない。おまけに、帰宅ラッシュが続いているため足取りには神経を使う。
「ちくしょうめえぇ……ふぬぬっ」
体に秘めた馬力を総動員し、物品が詰まった段ボールの山を抱えてシルクは店に舞い戻った。それだけでもうひと苦労だったが、ここからが本番である。
暖簾を出し夕方営業が始まると、客が押し寄せ瞬く間に席が埋まった。そこかしこの席から注文が舞い込み、ホールも厨房も騒乱状態に突入する。
「シルク、戻ったね。さっさと手洗いうがいして厨房に入りな。買い出し品は冷蔵庫にぶち込んで、コメが足らんから追加で三釜炊いとくれ、あと六時から別注もわんさかあるから見ときなよ」
「あのなあ、これ全部運んでくたくたなんだよ、少しは手心ってもんが……」慌ただしい調理音で、息継ぎ交じりのシルクの声は掻き消える。
「ええ? 何か言ったかい!」
「……やりゃいいんだろ!」
食堂に訪れる客層は近所の住人ばかりだった。仕事帰りのサラリーマン、鳶職の青年達、子連れの家族、テイクアウトをする主婦等、入れ替わり立ち代わり現れる客により店内はめまぐるしく回転していく。
「ダッツ、テーブルの注文早くとってきな!」
「ええと、かつ丼定食、からあげ定食二つ、カレーライス大盛サラダ付き、だぞ!」
「ラン、あと野菜炒めで二番さん上がりだ、早くおし!」
「待って店長。ねえシルク、焼き物タレの買い出し分どこにしまったの」
「なにっ、そんなもん買ってねえ。リストに無かったぞ」
「あんた等ぼさっとしてんじゃないさね。ぐずぐずしてるとまかない抜きだよ!」
狂乱に揉まれるうち、あっという間に時は流れていく。
気付けば時計は二〇時に差し掛かろうとしていた。客足もようやく落ち着き、店内にはちらほらと空席も見られるようになった。
ラストオーダーを過ぎ、三人は皿洗いや翌日の仕込み等の片付けに入った。
「今日もキツかったわね……」
「脚がぱんぱんだぞ……」
「なあハチさん。そろそろいいだろ、上がるぜ」
洗い終えた皿の山を棚上にどんと乗せてシルクが云う。
「あいよ、ご苦労さん。上にまかない置いとるから。片付けは自分らでするんだよ」
八谷は背を向けたまま、レジで銭勘定を続けていた。今日はアンタらもいたから大漁大漁、と満悦の様子だった。
作業が一段落した三人は厨房から店の二階に上がった。店舗兼住宅なので、二階はまるまる住居スペースとなっている。リビングが一つと八谷の私室、それから二段ベッドが二つ並んだ居室が一つという、2Lの間取りだ。
リビングに入ると、中央の座卓に所狭しとまかない料理が並べられている。客を捌く合間に八谷が段取りしておいたのだろう。湯気が立ち、食欲をくすぐる香りが部屋に立ち込めている。
「「「いただきます」」」
座卓に着いた三人は、食欲に押されるまま夕飯に取り掛かった。労働後の食事という至上の味を堪能しながら、みるみるうちに山盛りの料理を平らげる。
「やっぱこれだぞ、働いた後のご飯が旨いぞ!」
「ん~、体重は気になるけどこればっかりはやめられないのよね」
特に買い出しでより消耗したシルクは、無心になって茶碗をかっ込んだ。
食器を各自洗ったのち、順番で風呂に入った。風呂場は一階の厨房裏手にある。後付けで設置したものらしく、浴槽も洗い場も非常に狭くこぢんまりとしたもので、一度に入れるのはせいぜい二人まで。
ダッツとランが先に入ったので、シルクは一階に降りて待っていた。
厨房の火はもう落とされ、一か所だけ点けてあるテーブル席の灯りの下で、八谷がテレビを見ながら八宝菜をつついていた。傍らには彼女が贔屓にしている白ワインのボトルが置かれている。これが意外と合うらしい。
「まかない、ご馳走さま。まだ片付けあるなら手伝うけど」
「見りゃわかんだろ。もう全部済ませたよ」
云いながら、八谷はワインをボトルのまま直飲みした。やっていることは豪快だが、営業中の磊落な雰囲気と打って変わり、静かで穏やかな口調だった。
「風呂待ちか。あんたも付き合うかい」
「未成年に飲酒を勧めるなよ」
「不良みたいなナリして、そういうとこ堅いねぇあんたは」
「これでも道は踏み外してねえつもりだからな」
かっかっか、と笑う八谷に、シルクは息を吐いた。
八谷が見ていたクイズ番組が終わり、テレビ画面はニュースへと移り替わった。キャスターが本日のトピックを告げている。
『……URA構造改革に伴い、再来年度から施行される競バ法の議決を巡って、国会では論議が沸騰。保全派が大多数を占める野党連合は導入に徹底抗戦の構えで、本日行われた参議院本会議は紛糾する事態となり……』
キャスターの音声がぷつんと途切れ、暗転した画面はバラエティ番組へ切り替わった。八谷がチャンネルを変えたらしい。
「気の滅入るニュースばっかりでやだねぇ。あたしゃこっちの方がいいよ」
画面上で乱痴気騒ぎする芸人を見て、八谷はげらげらと笑った。
直後に、奥の方から風呂場の戸が開く音がした。「お風呂空いたわよ」というランの声も。
「おー、空いたかね」アルコールですっかり赤くなった顔を向け、八谷がにんまりとした。「シルク、あたしと入るかい」
「冗談じゃねえ」口を歪めてシルクは後ずさり、「酒臭いからやだよ」入浴セットを抱えてそそくさと退散した。
風呂を上がり、髪を乾かしたシルクが二階に上がるともう十時前だった。
二段ベッドの並ぶ三人の共同居室に入ると、ベッドに腰掛けたダッツは眠そうにうつらうつらしており、ランは鞄の中身を入れ替え明日の準備をしていた。
「明日の目覚まし、どうする?」
「朝練やるからな。五時起きだ」
「ダッツ、起きれるかしら」
「叩き起こして連れてくさ」
「むにゃ、オイラ一人で起きれるモン……」
就寝前の雑用・ルーティンを終えたのち三人は床に就き、消灯した。真っ暗になった居室は静まり返り、府中の繁華街の雑踏音が遠くかすかに響いてくる。
朝から不良退治をし、昼には生徒会で説教され、夕方からは労働を遂行した三人の一日が終わろうとしている。
「ねえ、今日の労働で今月分のノルマは達成よね」ランがぽつりと云った。二段ベッドの下段で寝ていた彼女は、隣の下段のシルクに呼び掛ける。
「ああ。当分はトレーニングに集中させてもらおうぜ。ハチさん、人遣い荒いから釘差しとかねえと」
「仮にも私達、メイクデビューしてるんだものね」
「そういうこった」布団を被り、シルクは横になった。
ランの上段で寝ているダッツはとっくに寝息を立てている。
三人はここ『はちや食堂』に居候している。経済的理由で学園寮に入れない生徒が多くいるという話だったが、彼女たちもそれに該当した。家主である八谷が課す所定労働を、家賃代わりに行うという条件で住まわせてもらっている。
勤労は週に数回。学園が休みの日には一日中働く日もある。内容は言わずもがな、食堂の店内作業や買い出しだ。
こうしたケースは珍しくない。普通の人間と比較にならない体力を有するウマ娘は昔から現場労働で重宝されており、その能率は常人の数倍~十数倍にもなる。経済的理由で学園寮を出る生徒が多くいた背景も手伝って、府中界隈ではそんな彼女らの労働力を買い、その見返りに住み込み宿を提供するという特異な賃貸ビジネスが広く浸透していた。
しかし本来なら競走や学業に専念すべきトレセン生の中に、こうした半労働生活を送らざるを得ない者が多くいることは問題である。この賃貸借契約は家主(使用側)が圧倒的優位な構造となるため、学生側が過当な労働拘束を強いられる等、問題も多いらしい。労働に比重を置くあまり、本分である学園生活や競走活動に支障をきたし本末転倒となる者もいるという。それでも安価な寄宿先を得られる学生側の需要が尽きないこともあり、問題は有耶無耶なまま今日に至っている。
三人にとっての家主、八谷は破天荒な女店主だった。言葉遣いも人遣いも荒く、勢いだけで何でも乗り切ろうとするきらいがある。それが時に度を越した過重労働の呼び水にもなるが、まかない飯もあり必要十分な衣食住を寄与してくれ、競走生活にある程度理解もある八谷のもとでの居候生活を、三人はそれなりに気に入っていた。
程良い疲労を感じながら、次第にシルクの瞼も重くなってきた。明日の朝にするトレーニングメニューをおぼろげに考えていると、ゆっくり眠気が覆い被さってくる。
もう少しで眠りに落ちるかと思われた時、ふとあの黒鹿毛の顔がよぎり、シルクは目を開いた。息を吐き、小さく舌を打つ。
(あとちょっとで、眠れそうだってのに)
峠での一件のさなかに出会った黒鹿毛のウマ娘、エリモダンディー。それ以降エリモは、まるで付き纏うようにシルクの周辺に姿を現すようになった。
一体アイツ何なんだ、とシルクはそのたびに思う。
エリモは初対面時、旧友であるかのように名乗った。シルクにはそんな覚えはまるでない。むしろ現状ではストーカーにしか見えず気味が悪い。だが、そんなエリモの影がふとした時にどうもちらつく。
『大丈夫。私が必ず、あなたを取り戻すから──』
あの言葉は一体どういう意味だったのか。そして、エリモに手を握られた際にほんの一瞬感じた、心を曝け出されるような異様な感覚は。
考えれば考えるほど何故か苛立ちが募ってくる。それを振り払うように、シルクは布団を拉げて寝返りをうつ。
「……眠れないの?」
横からランのささやき声がした。
お前こそまだ起きてるのかと呆れながらも、「もう寝るよ」とシルクは返す。
「考え事してるんでしょ」
「何だよ、考え事って」
「エリモちゃんのことよ」
思わず目を開いた。またそれかよ、とシルクは口を尖らす。
「なんでアイツのこと考えなくちゃいけねえのさ」
「シルクも頑張って思い出そうとしてるんじゃないかと思って」
「何度も言わせんな、アイツとは初対面だって。なにアイツの言う事、真に受けてんだ」
「うーん」ランは真面目な声色だった。「なんだかあの子、嘘を言ってるふうに見えないもの。真剣さが滲み出てるっていうか」
「ふん、どうだか」
「それに今日、アンタが居なくなった後こう言ってたのよ。シルクは恩人だ、私を救ってくれた、光をくれたひとなんだ、って」
「……はあ?」
呆れて絶句した。エリモに対する気味悪さが、シルクの中で一層膨らむだけだった。
「知らねえったら知らねえ!」
図らずも声が大きくなる。慌てて口を噤むと、上の方からダッツの寝言がぼそぼそと聞こえた。
「……恩人……にんじん、もう食べられない……むにゃ」
絶妙な寝言にランは声を殺して笑い、シルクはそっぽを向いた。
これ以上騒がすとダッツを起こしてしまう。二人はそのまま大人しく眠りに落ちた。