府中市街はまだ暗闇に包まれていた。冬の遅い日の出までは一時間近くあり、街路にはうっすらと霧がかっている。
はちや食堂の店舗前で、ジャージ姿のシルク達三人はストレッチに勤しんでいた。早朝ランニング前の準備体操だ。手足に肩、膝を伸ばし、寝起きの体に火を入れる。
朝に弱いダッツは目が半分しか開いておらず、あとの二人に補助されている始末だ。
「おはよ、朝からご苦労なこったね……」
店の勝手口が開き、寝間着姿の八谷が顔を覗かせた。欠伸をしつつポストから牛乳瓶を取り出した彼女は、その場でごくごくと飲み始める。
「ハチさん、アタシら朝練で走ってくるから」
「帰ったら朝ごはん、作るの手伝いますね」
「むにゃ、行ってくるぞ……」
軽く挨拶を交わした三人が朝霧の中へ走り込んでいくのを、八谷は寝ぐせの残る髪を掻きながら見送った。牛乳瓶はすぐ空っぽになり、残り一滴まで煽ると勝手口横の蛇口で水洗いして、またポストに戻す。
──そうだったねえ、あの子ら一応メイクデビューしたんだもんねえ。走るため、レースで勝つために生まれてきたウマ娘の、逃れられぬ宿業か──。
自分も店の前で起床体操をしながら、ふと八谷は懐かしい思いに駆られた。それと同時に、店を回すシフトのことがよぎり渋面を浮かべる。
「ま、それでも働いてもらうけどね」
空瓶と入れ替わりにポストから取り出した新聞片手に、八谷は踵を返して店に戻っていった。
陽が昇り通学の時間帯となる。
トレセン学園正面入口も登校者のラッシュがピークを迎えていた。あと十数分で予鈴が鳴るというタイミングであり、各教室に繋がる廊下は多くの生徒が行き交いごった返している。
高等部棟の最も隅に位置する教室へ、三人は予鈴直前のタイミングで滑り込んだ。早朝トレーニングののち、八谷の店で支度してきたので登校時間はぎりぎりとなった。
「おっ、シルクたち今日はセーフだ」
「いつも遅刻か欠席ばっかりなのに」
「チーム・アルルバの問題児にしては珍しいじゃん」
教室に入ると、既に着席していたクラスメイト達が囃した。言葉だけなら皮肉や悪態なのだが、彼女らの口調には親しみがあった。
「へん。時間通りに来て悪いかよ」
口を尖らせながらシルクも自分の席に鞄を置く。
「昨日の昼、生徒会に呼び出されてたじゃない」
「鬼の副会長の長説教食らってたでしょ」
「叱られてついに改心したとか」
周辺の席のクラスメイト達は身を乗り出してなおもシルクを小突く。
「そんなもんに怖気付いてられるか。アタシ達は健康優良不良ウマ娘だッ。品行方正な上澄み連中の権威になんぞ、屈してたまるかってんでいッ」
おどけた顔で宣うシルクに、クラスメイト達は賞賛と茶化しを込めて笑い声を上げた。
傍目のランとダッツはその様を見て、クラスにおけるシルクの意外な大衆性にあらためて感心する。
もはや説明不要だが、シルクジャスティスは学園内外で札付きの問題児として名が通っている。そんな彼女だが、クラスメイト等身近な者からは一定の人望を集めていた。第一印象がバリバリの不良であるのと裏腹に、曲がった事を嫌い、面倒見がよく義理堅い性格というギャップが、身内からは大きく支持されていた。
しばらくクラスメイト達と戯れていると本鈴が鳴り、担任教諭が入って来て朝礼を始めた。愛想の無さげな四十路女性教師が、出欠を取るため生徒達の名を次々に呼んでいく。
生徒の数は二十名にも満たず、平均的なクラス人員の半分以下だった。一分足らずで点呼は終わり、担任は連絡事項説明に入ろうとする。
「おい、先生」シルクは挙手してそれを制した。「アタシ達、呼ばれてないんだけど」
「ああ、いたの」担任は悪びれなく言った。「今日も遅刻だと思ったわ」
教室中がどっと湧いた。ぞんざいな扱いをされてシルク達は閉口するが、実際に遅刻も欠席も多いので返す言葉もない。
三人はそのまま黙り込み、担任が淡々と朝礼を完遂するまでやり過ごす他なかった。
「ちぇっ。朝から気持ち良く登校したってのに、気分悪いぜ」
「本当だぞ。あの担任の先生、いつも冷たいぞ!」
朝礼後の隙間時間、シルクとダッツは早速愚痴をこぼす。
「まぁ、あのセンセ、この窓際クラスを嫌々引き受けてるんだろうし。誰にでもああいう塩対応よ」
頬杖をつきながらランが宥める。
「ふん。窓際クラス、ね……」ぽそりと零しながらシルクは空席の目立つ教室を流し目に見た。
シルク達が属するクラスは「窓際クラス」と揶揄されていた。「窓際」とは組織において閑職に追いやられた者を指す言葉であるが、それになぞらえるようにこのクラスの生徒はもれなく訳アリだった。
シルク達のように生徒会や学園に目をつけられた不良生徒や、トゥインクルシリーズで数十戦して未だ未勝利という駄バ、そもそもトレーナーから声が掛からず出走経験すら無い名ばかり競走バ、学園に納めるべき学費を滞納する債務者、その他諸々。要は、健全なトレセン生の範疇を何かしら逸脱した生徒を寄せ集めた訳アリ学級である。
そんなクラスゆえ、構成員たる生徒の入れ替わりは激しい。このクラスに集められた者達は学園側にとって謂わば「お荷物」であり、諭旨退学や転校、就職先斡旋というかたちで学園から逐一放逐され、そして他クラスからリタイヤ予備軍がまた送り込まれるという連鎖を繰り返していた。クラスに空席が多いのはそうした理由だ。
その実態は誰が呼んだか「トレセン学園の追い出し部屋」。百花繚乱たる競走界の裏側、その最底辺の景色と忌避されるクラス。そんな教室を受け持つ担任教諭に、真っ当な対応を求めるのは端から誤りであることは、シルク達三人も他のクラスメイトも皆分かりきっていた。
「またウチのクラス、人数減ったわよね」
頬杖を解いたランが、ふと呟いた。
シルクも同感だった。
「そのうちまた『補充される』んだろ。そういうクラスなんだから」
「でも寂しいぞ。せっかく仲良くなった、って子も、ちょっとしたら退学したり転校したりしちゃうから……」
ダッツがしんみりとした面持ちで云った。
それを聞いてシルクは、以前引退レースに向けたトレーニングを依頼してきたクラスメイト達を思い出した。フォーリナへの仇討ちを決意させたかつての仲間だ。シルクともそれなりの交流はあったのだが、転校した今となっては、どこで何をしているのか知る術もない。
「どうかしてるんだよ。この世の中も、今の競走界も」
シルクは机上に突っ伏して目を閉じた。ちょうど教壇に一限目の担当教員が現れたところだが、お構いなしだった。
昼。府中市街に正午を告げる防災無線のチャイムが流れる。
学園でも昼休憩が始まり、午前の授業を終えた生徒達が和気藹々と廊下を往来する。ビュッフェ形式の大食堂に向かう者、持ち寄った弁当や軽食を教室や校庭で広げる者、用意を忘れたのか或いは貧困ゆえか何も食さず茫然と過ごす者など百人百様だ。
シルクは、教室で昼食を摂ることにした。ランとダッツも一緒で、三人で机を寄せ卓を作る。三者とも弁当を持ち寄っていて、中身は共通だ。八谷家の有り合わせ食材で拵えたものだった。
食事しつつ他愛のない雑談をしていると、教室のドアが開いて例の担任教諭が入室してきた。朝夕のホームルーム以外で殆どクラスに関わろうとしない担任が昼に現れるのは珍しく、在室する生徒はみな注視する。が、担任は黒板の中央に一枚のプリントをマグネットで貼り付け、「これ全員読んどくように」とだけ云い置くと早々に去っていった。
やはりドライだなと思いながらも、一同は取り敢えず言伝通り黒板前に寄り集まってプリントに目を通す。
学園から生徒に向けた通達文らしい。最前に陣取った生徒が、皆にも聞こえるよう本文を搔い摘んで読み上げた。
「なになに……、
学園寮以外から通学する全生徒への注意
近年、トレセン学園近辺の下宿先から通学する生徒が増えています。しかしながら生徒と家主との間で、賃貸契約に関するトラブルが多数確認されています。
具体的には、家賃代わりに不当な長時間労働を強いられる等により、授業やトレーニングを欠席せざるを得ず、学園生活に支障をきたす生徒が増えています。これは健全なトレセン生の成長や競走界の発展を阻害するものであり、学園はこうした状況を厳粛に受け止めています。
このような事案に当て嵌まる生徒は、以下の学園生活相談窓口までご相談下さい。
……だってさ」
内容は、トレセン学園周辺で浸透する特殊賃貸契約の負の側面に関する注意書きだった。学園側もこれについて把握しているらしく、もし困っている生徒がいれば相談に乗るということらしい。
これに対し、「窓際クラス」の生徒達は皆一様の反応を示した。
「これ、まさにウチの下宿先のことだわ」
「同感。私の所なんて新聞配達の販売店兼ねてるから、朝刊と夕刊の配達殆ど毎日やらされてるー」
「それだけならいいじゃん、あたしなんて家主が工事現場の親方だから、休みの日は現場手伝いよ。汗だくなるし日焼けもするしもう最悪」
「こんなの相談して何してくれるってのよ。あのお高い寮にタダで入れてくれるっていうの」
「そんな訳ないでしょ」
「学園側も、訳アリ生徒なんか抱えておきたくないのよね」
「下手に相談なんてしたら、退学候補入りがオチだわ」
窓際クラスの生徒達は皆、校外下宿生だった。それ故か、注意文の指摘事項にはみな身に覚えがあるようだ。いつしか皆の話題は下宿先への愚痴一色となった。家主や労働環境、果ては学園側への不平不満を、皮肉を交えて謗りあう。
それを聞いていると、シルク達は八谷家の待遇は比較的有情に思えた。
「皆、苦労してるのね」
しみじみと云いながらランは食後のカップコーヒーを注いだ。シルクやダッツの分を含め三杯分。自身はブラックだが、他の二人の分には角砂糖を投入。特にダッツのものには幾つも入れる。最早コーヒー牛乳だ。
「八谷のオバちゃん、この前酔っ払ってる時に言ってたぞ。ウチなんて待遇はマシな方だ、もっと悪どいことしてるヤツはいるんだーって」
喜び勇んでダッツはコーヒー牛乳を煽った。淹れたてで熱かったのか、顔を歪め舌を出す。
「悪どいことって、過剰に働かされるってこと? ……その点でいえばハチさんも大概な気はするけどね」
「そうだ、オイラ達働かされすぎなんだぞ。ロンドン手裏剣を要求するっ! モト冬樹! モト冬樹!」
「……ダッツ、なに言ってるの?」
「労働者の権利、ストライキ、のことだろ」眉間に手を当てシルクが補足する。
ランは危うくコーヒーを吹き出すところだった。
そうやって取り留めなく談笑して教室内をぼうっと見渡していたところ、不意にシルクは奇妙な違和感を感じた。
「……?」
教壇の前で、先程から下宿談義に熱中しているクラスメイト達。彼女らは明け透けに愚痴を言い合い憂さ晴らしに興じているふうに見える。
しかしその輪の中で数名の生徒だけが、ぎこちない笑顔を張り付かせているように見えた。心なしか、体もこわばっている。ブラック下宿ネタで盛り上がる他のクラスメイトに比べ、その数名だけどうも様子が違う。
が、違和感の正体を確かめる間も無く予鈴が鳴った。
次の授業が程なくして始まる。集会はお開きとなり、クラスメイト達は各々の机に戻っていった。