厨房には汚れた皿や鍋、フライパン、その他調理器具が溢れ返っていた。山のように積もったそれらを、シルク達三人はがちゃがちゃ音を立てながら洗い場で磨いていく。三人の顔には不満が顕著に表れている。
「ったく、今日は手伝わねえ日の筈だったろ。こちとらトレーニング帰りで疲れてるのに」
「またハチさん、調子に乗って注文たくさん取るから。私達が手伝わなきゃ一体何時までかかったか」
「ううーっ、お腹減ったぞ! 早く晩御飯食べたい食べたい!」
愚図る三人をよそに、レジで八谷は銭勘定に没頭している。今日もそれなりの売り上げだったようで鼻歌など唄っている。
「ふふん、どうも腰の調子が悪くってねえ。この歳になると一人で店を回すのも大変なんだよ」
「それならそれで、もっと注文受ける量をセーブしろって。いつも勢い任せでじゃんじゃか働かせやがって……」
息を吐いてシルクは水道の蛇口を止めた。自分の食器洗いノルマを達したので、続けて箒を持って店内の掃除に取り掛かる。
「ゴタゴタ抜かすねい。アンタらの食費分も稼がにゃならんのが分からんかい。この大食いウマ共、つべこべ言わずさっさと片しなっ」
レジの抽斗を尻で押し込むと、八谷は売上金を持って二階の金庫へ向かった。
学園でトレーニングをして帰宅後、店が多忙で回らないので急遽シフト入りの要請を受け、はや午後九時前。三人はもう空腹の限界だった。
店自体は既に閉めてある。八谷が二階に上った隙を見計らい、三人は厨房の端に置いてある今晩のまかないへ飛び掛かった。片付けの最中ではあるが、成長期の空腹にはやはり勝てない。
「オイラ食べるぞッ」特にダッツは猛烈で、食器の擦れ音も辞さず食い付く。
おかげですぐにバレた。直後、八谷の雷が落ちたのは言うまでもない。
それから数十分してやっと全て片付き、本格的に夕食を食べられるようになった。
今日は一階の店内テーブルにまかないを広げ、三人と八谷は遅い夕食を摂る。量が多いので二階の居間まで持っていくのも面倒だった。
「今日ねえ、クラスでブラック下宿の話が出てね」
食事をしながら雑談していると、ランが今日クラスであったことを話題に挙げた。
「ブラック下宿? 何だいそりゃ」ワインボトルを口にしながら八谷が返す。
「ここみてえな場所だよっ」生姜焼きを摘まんだままの箸で、シルクが指差した。
行儀悪いよ、と八谷が苦言を呈する。
ランは掻い摘んで話の内容を説明した。
「ふうん。今はどこも安価で有力な働き手が欲しいからね。まあトレセン近辺のこの辺じゃ、アンタらウマ娘はうってつけの人材だわな」
とりわけ造作もなく八谷は評する。
その反応にシルクは少しむっとした。
「だからって今日みたいのは勘弁だよ。店が大変なのは分かるけど、こちとら走ることが本分なんだぜ」
シルクに続いてランとダッツも声を上げる。
「そうですよ。私達、これでも今年からクラシック期なんだから」
「コキ使うの反対、春レースのために、春闘! 春闘!」
シルクら三人は今現在、ジュニア期のウマ娘だ。春からは、競走ウマ娘にとって最も貴重な一年といわれるクラシック期に突入する。競走能力が加速度的に成長し、生涯で一度しか出走できない三冠レースが待ち受ける期間。その直前である今は、なるべくトレーニングに充てたいのが本音だ。
ドン、とワインボトルが机を叩く。三人は思わず身を硬くする。
八谷はへべれけ顔で三人をじっと睨み回す。
「……分かってるよ。クラシックに向けてトレーニングしたいんだろ。セーブするよセーブ」
存外にも素直な返答に、三人は肩透かしを食らった。何か言い返してくるのは必定と思っていたからだ。
基本的には圧政を強いる家主・八谷は時折、不自然なくらい物分かりが良い時がある。
「……にしても、ブラック下宿なんてネタにできてるうちは、アンタら気楽なもんだね。世の中には、アンタらウマ娘の『本能』を食い物にするような奴もいる」
急に声の調子を落として八谷はぼそぼそと語り出した。顔は既に酔いで赤い。
元から饒舌な家主は、酔うと妙にしんみりと語りたがる癖を三人は思い出す。
「どういうこと? 『本能』って」
取り敢えず会話のボールを投げ返したランに、八谷は目線を向けた。
「アンタらウマ娘は、走る為に生まれてきたって言うだろ。その本能だの運命だのに従って、全国からトレセンに大勢集まってくる。レースで一着をもぎ取るため、殺伐とした競走界で押し除け合い蹴落とし合う。才能・努力・運、あらゆる要素が噛み合った数百数千のうちのほんの一握りだけが勝者となり、それにあぶれたヤツは見向きもされず消えゆく超実力史上の世界。まだケツの青いアンタらみたいな生娘が、そんな社会の不条理を詰め込んだような過当競争に晒される競走界の是非は一旦置くとして。
それでも……ウマ娘ってヤツは取り憑かれたように競走界に身を投じる。そこで大成する者なんて一パーセントにも満たない修羅の世界なのにね。『レース』とアンタら『ウマ娘』は切っても切れないもんで繋がってる。習性、といえるがあたしに言わせりゃそれは呪縛だ。そんなアンタらウマ娘の本能を、体良く利用しようとする連中がいるってのさ」
「何が言いてえのさ」シルクは八谷の真意を咀嚼しようと続きを請う。
すっかり酔いが回ったのか、ワインボトルを一挙に飲み干し据わった目で女家主は続ける。
「……ウマ娘は走るため、レースを続けるため、少しでも長く競走界にいようとする。たとえ周囲が咎めようと、身体を潰すことになろうと。レース以外に生きていく道なんざ幾らでもある筈なのに、なぜだい?
それが宿業ってもんだからだ。アンタらはその本能に抗えない。
昨今、不況の煽りで校外下宿の雇われ学生が増えて、その中で過重労働のブラック下宿に苦しんどる子が出とるって話だったが、レースのため、走り続けるためなら、ウマ娘は何だってやる。それこそ、タダ働きでも──、…………」
力説してきた語り口は、肝心なところで突然中断した。八谷は頭を下げ、椅子に座り込んだまま項垂れてしまう。
「あっ……これまずいわ」
「うわ! バケツ、バケツ!」
ランとダッツは即座に反応した。八谷家に下宿してはや一年、既にトラブルシューティングは身に付いていた。
八谷は直後、口から虹を描いた。床に向かって一直線に伸びたそれは、ダッツが持ってきたバケツで受け止められる。毒を食らわば皿まで、と言わんばかりにランには背中を摩られ、八谷は「おろろろ」と呻きもはや無遠慮に虹を巡らした。
実をいうと、彼女は酒に弱い。
「間に合って良かったぞ。うう、臭っさ……」
「あーあ、ハチさんそんな強くないのに、語り出すとお酒進んじゃうから」
先程まで神妙な語り部だった八谷は、介抱されすっかり気が抜けたらしい。ひとしきり戻した後は、店の椅子を連ねて横たわりイビキまでかき始める。
「もう、そんな所で寝ると風邪ひくし腰も悪化しますよ」
「仕方ないなオバちゃん、二階まで運ぶぞ」
「誰がオバちゃんだい……お姉さんとお呼び……ぐぅ……」
ダッツとランに担がれ、八谷は二階へと送られていく。
シルクはその間じっと考えていた。結局、肝心な部分は聞けずじまいだったが、ふと思い当たる節があった。
──レースのため、走り続けるためなら、ウマ娘は何だってやる。それこそ、タダ働きでも──酔い交じりに八谷が零した言葉で、昼間のクラスでの一幕を想起する。ブラック下宿談義で盛り上がる中、ぎこちない笑顔を張り付かせ、身を硬くしていた数名のクラスメイト達。
どことなく胸騒ぎを感じながら、シルクも後片付けの為に席を立った。テーブル上に残った残飯にラップをかけて、明日の自分達の食事に回せるように冷蔵庫に運ぶ。
そしてその作業中にもう一つ、何の気なしに、ふいにある疑問が心から湧き出てきた。
(あのチビは、どこに住んでるんだろう)
チビとは、エリモのことだ。
何故かは分からないが、エリモも自分達のように校外から通っている生徒だろうとシルクは思った。両親はおらず、一昔前の孤児院みたいな場所で、引っ込み思案で人付き合いが苦手故に窮屈な集団生活をしていて──
ぽつぽつと唐突に浮かび上がった、どこか既視感のある心象を、シルクは頭を振って打ち払った。
(……なに考えてんだアタシは?)
言葉にできない予感めいたものが胸騒ぎを加速させる。シルクは小さく舌打ちして冷蔵庫の戸を閉め、自分も二階の居間へと上がっていった。