正義の名のもとに   作:李座空

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2.エリモダンディー

 エリモダンディーと呼ばれるその少女は、地方都市の郊外にある寂れた山村で生まれた。ベルリンの壁が崩れ東西冷戦が終息、グローバリゼーションが進行するかに思われた矢先、中東で湾岸戦争が勃発。大阪では花博が催され、日本の元号が新たに『永世』へと変わる一方で、バブル崩壊の足音が徐々に聞こえ始めてきた、そんな時期だった。

 少女の両親は小さな牧場を経営し、牧畜を生業として生計を立てていた。取り扱うのは牛から豚、羊、鶏等その時々で多岐に渡り、それ以外にも趣味で飼育する犬や猫、魚類らによって、山手の放牧場は常に賑やかしい気配が絶えなかった。牧場の半径数キロ圏内には他の民家もなく、動物と自然の音だけを聞く牧歌的生活を、少女は生まれた頃から送ってきた。

 物心がついた頃から、少女は牧場の仕事に参画するようになった。父母から強要されたのではなく、自ら進んでのことだった。周辺に人家がめっきり無く、友人のいなかった少女にとって牧場の動物たちは友達代わりの存在であり、その触れ合いはかけがえのないものだった。

 日が昇る前より起床し、動物達を見て回り朝の餌やりや水替えをこなし、昼前には山道へ動物の行列を従え散歩に出かける。山の中腹に着けば父や母と弁当を広げ、ひとしきり運動させた動物らを収牧し帰路につく。牧場に戻ってからは後片付けの仕事を手伝ったのち、日が落ちる頃には一家で夕食を囲み、焚火で沸かした釜風呂を上がればベッドで自然と眠りに落ちる。それが毎日の繰り返しであった。

 動物を相手にするので少なからず危険はあり、何より体力仕事なので、両親は最初の頃、娘の見守りを欠かせなかった。怪我をさせてはならないという親心からだったが、少女は存外にも動物達との交感に秀でており、どの動物からも好かれている様子だった。牧場の中を歩いていれば、構えといわんばかりにその周りに動物達が参集し、愛らしく小突き回る光景がすぐ見られるようになった。

 力仕事に関しても、然したる問題は無かった。その名が顕すように、少女は『ウマ娘』だった。脚力をはじめとして、通常の人間とは比べ物にならない運動能力が備わっている。まだ幼いとはいえ、人間に比べて体重も力も強い動物達を相手にするにも不足ない体力を少女は有していた。

 そして、特筆すべきことがもう一つある。少女にはある不可思議な『特技』があったのだ。

 いつも通り山へ動物たちを引き連れ、昼下がりに牧場に帰り着いた時のことだ。突然一頭が放牧場に倒れ伏した。成体の牛だった。大きな体を揺すりながら牛はその場で苦しそうにのたうっている。

 怪我でもしたのか、と父がすぐさま全身を見回すが外傷は見当たらない。となれば、体内に何か変調をきたしている可能性が高いのだが、傍から見ただけでは原因特定は不可能だった。

 獣医を呼ぼう、と父は慌てて連絡を取ろうとする。その様子を見ていた少女が、冷や汗を浮かべ目を瞑る牛の額を撫で始めた。暴れられると怪我するぞと注意するも、少女は何らかの意図を持ち触れ続ける。その姿に、安易に立ち入れぬ神妙な雰囲気を感じたかと思った矢先、少女は確信の声色で告げる。

「お父さん、電話を貸して」

 連絡の繋がった獣医に、なんと少女は動物の体内の不良箇所を具体的に告げたのだ。無論少女に、獣医としての知見がある筈も無い。苦しんでいた牛に手を当て、触れただけだ。

 だが後に、説明された病状を半信半疑のまま駆けつけた獣医は驚愕する。少女の告げた病状が正確だったのだ。

 少女は後にこう述べている。手で触れると牛さんがどこを痛めているのかが伝わってきた。声とかじゃなく、まるで直接心に話しかけるように――と。

 その能力が本物であると少女の両親は徐々に認識していく。以後の日常生活において肌と肌で触れ合う機会があるたび、少女は両親がその都度思い描いていた心象を巧みに言い当ててみせたのだ。

「お父さん、慌てなくとも厩舎はもう掃除しておいたよ」

「お母さん、今晩はカレーなの。楽しみだなあ」

 と云ったふうに。

 簡潔にまとめると、少女は人・動物を問わず肌で触れた相手の意思をおぼろげながら感じ取れるらしい。長時間触れ合えばその分多くの意思を読み取れ、そうでなければほんの少し。相手が伝えたいと思うものほどよく聞き取れ、そうでないものは曖昧にしか感じ取れない、といった風に。

 両親は戸惑いながらも、我が娘の不可思議な才能に感嘆した。如何にしてそんな能力を身に付けたのだろうか、と。だがそれをあえて深刻に考えようとはしなかった。自分達の娘に芽生えた『特技』を気味悪がったり変に捉えるのは不憫に思ったし、赤ん坊の頃から動物達に囲まれて育ったという超自然的な影響や、ウマ娘として生を受けたが故に偶然発現した、特別な能力ということで納得し受け入れたのだった。

 そうして自然の中で動物達と育ち、健やかな幼少期を過ごした少女はその生活がずっと続くものと思っていた。父や母や動物達に囲まれながら暮らし、いずれは自分が牧場を継ぐことになるのだとも。少女はそれが当然のことと考え、そうしたいとも思っていた。

 牧場仕事がすっかり板についてきた娘へある日、父は訊ねる。

「エリモ、お前さぁ、動物達のことは好きかい」

 少女はうん、と迷い無く答えた。動物さん達は家族だもの、とも言った。

「そうかぁ。でもこれからは動物だけじゃなくて、人間の友達も作らにゃならんなぁ……」

 父親は少女の頭を撫でながら、寂しげに言った。

 人間の友達なんて言っても、この牧場の近辺には誰も住んでいないよ。それに私にはお父さんやお母さん、動物の友達もたくさんいる。だから寂しくなんかないのに――。

 父の言葉の真意が当時の少女には分からなかったが、一家の生活に暗雲が垂れ込んできたのはそれから間も無かった。

 

 

 永世大不況。バブルが弾けたことにより日本を瞬く間に覆った経済不況の波は、銀行・証券会社など金融機関の破綻を呼び、多数の企業倒産や従業員のリストラを巻き起こし経済に大打撃を与えた。バブル景気に沸き、経済発展がこれからも続くと信じていた人々にとってそれは青天の霹靂であった。

 波紋は、両親の牧場経営にも多大な影響を及ぼした。細々と繋がっていた取引先や提携相手が、一つ、また一つと姿を消していった。いずれも地方の中小企業や小口顧客で、不況の波にあおられ資金繰りを悪化させ潰れていったのだ。

 牧場の収入も日に日に目減りしていった。そうなると、牧場で動物達を飼育していくにも金がかかるので、徐々に頭数を減らさざるを得なくなった。

 大きな荷台を載せたトラックが、牧場に頻繁に往来するようになった。飼われていた動物達はそれに運ばれ、次から次へと牧場を去っていった。去り際の動物達はみな、暴れようとしたり、全身に冷や汗をかいたり、縋るような目をしていた。見送る父親や母親はそれを見て、心を暗くした。

「どうして、皆を遠くへやっちゃうの。私達と一緒の家族なんだよ」

 動物達が運び出されるたび、少女は両親に抗議した。生まれ育った時から傍にいて、慣れ親しんできた動物達との別れを受け入れられなかった。家族のように思ってきた相手を失うのが辛く、動物が去るたび少女は自室に籠って泣いた。

 皆、どこへ連れていかれるのだろう――。訴えかけるような動物達の悲愴な姿を思い返し、少女もまた暗澹たる思いだった。とはいえ、少女にどうこう出来る問題ではなかった。両親が困窮し、苦渋の思いで牧場を存続させようと行動しているのも分かっていたからだ。

 そうして飼育数を減らし、牧場はなんとかやり繰りしようとした。しかし、結局そこに残ったのは少なくない負債だけだった。

 残留する動物達も数えるほどになった頃、見知らぬ大人達が牧場を訪れるようになった。人相の悪く、柄の悪い大人達だった。

 両親は彼らが来るたび、少女を自室に籠っているよう命じた。大事な話し合いがあるから邪魔をしないように、と告げて。

 話の内容は少女も薄々察していた。自室にまで聞こえてくる罵声や怒号の数々が、いま自分達家族と牧場の置かれた状況を物語っていた。両親の努力も空しく、牧場の経営は傾いていった。

 それでも少女は健気に、数の減った動物達への世話を続けていた。残り少ない家族となった彼らに食事を与え、親愛をもって接し、日課の散歩を欠かさなかった。動物達と一緒にいる間は、不安も幾らか忘れることができた。

 今まで共に過ごしてきた家族と、もう離れたくはない。だけれど――。

 少女は物思いに耽る。牧場は、家はどうなるのだろう。自分たちはどうなるのだろう。

 そんな不安が顕在化しだした頃、幼いながらに少女は別れの時を予感する。

 いつもと同じように、動物達と散歩に出ていた、昼下がりの山道だった。彼らの様子がいつもと違った。従来なら少女の誘導するまま、素直についてきた動物達は、まるで帰路に着くのを惜しむように振る舞う。そこには少女を当惑させるメッセージが込められていた。

 どうか、元気で。今まで私達といてくれてありがとう……。

 最後に肌と肌で触れ合った動物達から、『特技』でそんな意思を感じた。声なき声で、そう感謝されたように感じた。

 その日の夜更け、両親に起こされた少女は乗用車に乗せられ、山を下ったところにある駅に連れられる。わけも碌に聞かされぬまま降ろされた駅前の広場で、少女は両親から汽車の切符を握らされた。

 これに乗って、幾つも県を跨いだ先にある親類のところを訪ねなさい。両親はそう言った。

 お父さんとお母さんは?少女のその問いに答えぬまま、両親は娘を汽車に乗せて出発を見送った。肌寒く、湿った雪が吹き荒れる夜だった。今となっては、その時交わした数少ない会話も記憶に薄い。

 少女が両親の顔を見たのはそれが最後となった。

 

 

 以後数年間、少女は各地を転々とした。

 最初に身を寄せた親類のもとでの生活は長続きしなかった。遠縁のその一家も当初より貧困の中で生活を営んでいたため、食い扶持が一人増えただけでも負担が大きかった。程なく少女は一家の中で「お荷物扱い」され、衣食住の贔屓をされるなどぞんざいに扱われるようになる。

 働かざる者食うべからずだよ。家計の悪化につれ意地悪く変貌していった一家の母親はそう宣い、少女に学校へ碌に通わせず、代わりに賃金労働を課した。平日も休日も問わず、街の中心部にある古ぼけた食品市場に送り出され、物運びを手伝わされた。そこは経済的に困窮した者達が集う、日銭を得るための労働施設だった。

 身体を動かす肉体労働は苦にはならなかったが、少女はそこで初めて社会の荒波を味わう。市場での勤労は大勢の人間がひしめき合う中でこなさなくてはならず、集団内でのコミュニケーション能力を要されたが、山間の牧場で動物に囲まれて育ち、他人との接触に乏しかった少女は、これに大いに苦慮した。平たく言えば、人間関係を上手く構築できなかった。

 薄汚れた市場で働く、下層社会の精神的余裕のない者達が、そんな少女に寛容である筈も無い。他者との交流が不得手で、仕事の能率も上がらない彼女が市場でも除け者にされ、居場所を追われるのに時間はかからなかった。

 そしてその際、少女の有する『特技』は負の方向へと作用してしまう。他者と肌で触れ合う一瞬、少女は相手の意思を否応無く知覚する。だがそこで彼女が触れたのは、切羽詰まり品性を欠いた人間達の醜い一面だった。

(こいつ、まだここに居たのかよ)

(わたしの仕事を盗るんじゃないさね、頓馬が)

(ちょろちょろと邪魔だよ、目障りだ)

(給料泥棒め)

 何故、こんなにも拒絶され蔑ろにされるの。人同士の世界はどうしてこんなに混沌として複雑なんだろう。私はただ、皆と一緒に頑張りたいのに――。

 これからは動物だけじゃなくて、人間の友達も作らにゃならんな――父親の言葉通りに立ち行かない実情を思い知り、少女は日ごとに塞ぎ込むようになっていく。

 相手の意思を汲み取るという自分の『特技』が仇となり、かえって自らを傷つける諸刃の剣であることも悟った少女は、無意識のうちにその能力を封印していった。少女の置かれていた劣悪な環境でその力を使ったところで、思い知るのは侮蔑や中傷、嘲罵といった醜い感情ばかりであり、それに対処するにはまだ彼女は幼すぎた。

 自分ひとりぶんの食べる金すら満足に持ち帰れない少女に、親類は早々に見切りをつけ、さらに別の親類のもとへと追いやった。そこでも少女は家族の一員としては受け入れられず、厄介払いの鉢が回ってきた扱いをされるだけだった。

 誰にも必要とされず、疎まれ、虐げられ、追われる。そんな過程を何度も繰り返し、日に日に少女は心を擦り減らしていった。

 果て無い流浪のうち、やがて行き着いたのは山間の小さな町にある孤児院だった。最後に頼った親類から置き去るようにして預けられた、近親者のいない子供たちが収容された児童養護施設。今にも倒壊しそうな古ぼけた木造学舎に、数十人の児童と、数名の教職員が共同生活を営むそこもまた、少女にとっては苦境の場だった。

 依然、人付き合いが不得手で心を閉ざしがちな彼女は、やはりそこでも溶け込むことは出来なかった。他の児童からは避けられ、教職員らからも腫れ物同然に見られ、早々に施設内で孤立する。

 それだけならまだしも、年代の近い児童達の一部からは、閉鎖した環境下での憂さを晴らすため、虐めの対象とされるようになる。靴隠しに始まり、私物を損壊されたり、水をかけられたり等、陰湿な悪行は枚挙に暇がない。誰も庇おうとする者も、助ける者も現れることはなく、少女は心を無にして嵐のような日々を凌ぐことに専念した。

 そんな生活の中に、希望を見出すのはどだい無理な話だった。苦痛に耐えるだけの日々を過ごすうち、心を砕いていった少女は次第に、生きる目標を見失っていく。

 当初は父母と一時的に離れて暮らすだけだと思っていた。生計を立てていた牧場での生活を追われはしたが、必ず両親は迎えにきてくれて、家族のもとへと戻れる。そんなささやかな希望が、蝋燭の灯が消えていくように、徐々に薄れていくのを少女は感じていた。

 ――もう私は、この世界で独りぼっちになってしまった。父と母にも、もう会うことは叶わない。牧場で一緒に過ごした動物たちとも。私を受け入れてくれる場所も、人も、もはやどこにもないのだろうか。

 寒い、寂しい。

 誰か、傍にいて欲しい。

 私を独りにしないで――。

 夜毎、孤児院のベッドで少女は目を腫らして泣いた。乾ききって、ひび割れて、崩れてしまいそうな自らの心を保とうと。

 

 

 幼いながらに生きることに絶望していた少女に、大きな転機が訪れたのは数年が経過してからだった。

 初春の空気が肌寒いある日、孤児院の課外活動で少女は外を出歩いていた。施設のある街中から川を渡り、朝から昼過ぎにかけて野山を散策しつつ、周辺道路の清掃を並行して行うという簡素なボランティア行事だった。

 教職員に先導されるまま、児童たちは清掃道具片手に課された役割をこなし、あっという間に昼を迎えた。一同は、幹線道路沿いにある地域の古ぼけた公民館で足を休め昼食休憩をとることになる。

 各々仲の良い児童同士が輪を作り、幾つかのグループに分かれて昼食の団らんが始まる。狭い公民館の一室が賑わうなか、やはり少女はいずれの輪からも外れ、部屋の片隅で細々と配食を口に運んでいた。

 昼休憩が終わりに近づき、少女が手洗いのために集団を離れた間のことだった。他の児童が悪戯で教職員に、全員集合している旨を告げたことにより、一団は少女を残してその場から出発してしまう。

 少女はすぐに置いて行かれたと気付くが、どうしようも無い。一団が向かった方向も分からず、土地勘が無い場所に取り残されたので手立てが無かった。

 ――ならばもういっそのこと、このままどこか遠くに行ってしまおうか。

 なんなら、生まれ育った牧場に。

 父と母が待っているかもしれない、あの故郷に戻りたい――。

 現実に嫌気がさしていた少女はぼんやりとそう思い立ち、一人ぼっちの着の身着のままでその場を発った。

 行くあてもなく、少女は歩き続けた。車の行き交う幹線道路をひたすら歩き、山手の住宅街をわき目に峠を越え、果樹園の広がる野山を掠め、鬱蒼とした林道を分け入っていくうち、陽は西の空へと傾いていった。

 日没は早く、街灯もまばらで薄暗くなった道を進むうち、暗闇の中で少女は立ち止まる。昼食以降飲まず食わずで、ろくな休憩もなしに寒空の下を歩き続けたのだ、さすがに疲労感を禁じ得ない。出奔した当初にはあった解放感や休心も、すっかり行く当てのない不安に変わってしまった。

 帰りたい。お父さんとお母さんのもとに帰りたい。私を必要としてくれる人がいる場所に行きたい――。そう願いはするものの、自分ひとりの力ではどこへも行けず、結局はどうしようもないという現実をあらためて突き付けられる。

 ぐう、とお腹が小さく鳴る。晩ご飯、どうしよう――そう漠然と考えていた時だ。

 視界がぐらりと横滑りした。夜闇で足元確認が不十分なまま林道を歩いていたので、意図せず足を踏み外し滑らせたのだ。気付いた時には足先が林道の崖からはみ出て、少女の身はそのまま転がり落ちていく。突き抜けるような風と、土や木々に幾度となく全身を揉まれる感覚を味わいながら、彼女の意識は遠退いていった。

 次に気が付いたのは翌朝、日の出の頃合いだった。

 額に冷たいものが滴る感触で目が覚めた。体じゅうの痛みを堪えながら、少女はゆっくりと身を起こして周囲を見回す。

 倒れていたのは、野山の麓近くにある沢だった。すぐ横では、大地から沁み出してきた山水が小さなせせらぎを作り、下流へ滾々と流れていく。頭上では野鳥が鳴きながら、低い空を旋回している。

(生きてる……?)

 崖から滑落し体じゅうが傷だらけにはなったものの、ウマ娘特有の丈夫さ故に最小限で済んだらしい。

 地面を這って沢までいき、水を手で掬って飲んだ。決しておいしい味ではなかったが、ずっと水分補給をしていなかった体が潤される。よろけながらもなんとか歩けるのを確認すると、沢から岩場を伝って下山を目指した。

 しばらく歩くと山道はすぐ途切れた。視界は大きく開け、水田や畑、いくばくかの宅地だけが見える長閑な光景が広がる。日が昇って間もない空は朝焼けでほの白く、新たな一日の到来を雄大に告げている。心を揺さぶられる光景に、少女の大きな瞳が揺れる。

 かつて故郷の牧場でも見た。早朝に動物たちの世話をする傍目に、山の稜線から現れる日の出の光景。

 だけど今はその光景を、誰とも見ることはない。この世界で私は孤独になってしまった……。

 少しずつ東の空へ昇っていく太陽を尻目に、力無く少女は歩き出そうとする。山道は終わり、幅広な農道に出た。両側には田畑がどこまでも続いて見える。この道がどこへ通じるのかも、自分がどこへ向かうのか知る由も無い。ただ分かるのは、自分ひとりではもうどこへも行けない。なにものにも到達し得ることはないという諦観だけ。

 そんな感傷に浸っていたその時だった。

 少女が呆然と立ち尽くしていたすぐ真横を、一台の乗用車が横切った。黒塗りの、いかにも高級車と分かるリムジン車だった。少女と対向していちど後方へ走り去ったそれは、停車したかと思うとすぐにバックしてきて、少女の手前でまたぴたりと止まる。

 呆気に取られていると、車の後部座席がゆっくりと開かれる。その車内から、水色のシルクワンピースを纏う女の子が現れた。栗色の髪に特徴的な大きい耳が二房と、切り揃えられた尻尾が揺れる。少女と同じ『ウマ娘』だった。

 両者の目線が交錯する。

 瞬間、二人は見つめ合ったままその場で固まった。言葉で言い表せない奇妙な感覚が胸中をよぎる。互いに面識などなく初対面の筈なのにどこかで会ったことがあるような――そんな空気が一瞬だけ、両者間に流れた。

「どうしたの。あなた、怪我してるの」

 少女と同じくらいの年齢と思しきシルクの娘は、すぐさま駆け寄ってきて少女の前で膝をついた。そして、てきぱきとした所作で少女の全身を視診する。

 突然のことに、少女はされるがままだ。

「お嬢様、学校のお時間が……」

 車の運転席から降車してきた燕尾服の男が遠慮がちに云う。運転を務めていたこととその服装から、娘の執事であるらしい。

 それに構うことなく、シルクの娘はひとしきり少女を診たのち、

「それよりこの子の手当てだよ。すぐ屋敷に戻って」

「ですが……」

「いいから早く、車を出して」

 矢継ぎ早に言い被せると、少女の手を引き車へと乗り込んだ。

 その場で転回したリムジンはすぐ発進し、農道を逸れて山手へ伸びる道に入る。フロントガラスを覗けば遥か前方、緩やかな丘陵の中腹に洋風の大きな屋敷が見えた。車はそこを目指しているらしい。快調に速度を上げていく。

「あなた、どうしてあんな所にいたの?」

「ひとりなの?」

「痛むところ、ない?」

 到着するまでの間、娘はしきりに少女に話しかけてきた。

 少女は依然困惑したまま、返事もままならぬ様子でシートに座り身を硬くしている。そもそも見ず知らずの相手に突然車に乗せられるという、傍から見れば拉致まがいの目に遭っているのだから無理もない。

 しかし同時に、得も言われぬ安堵感を少女は感じていた。初対面の見知らぬ相手に心配され構われるという経験が少女にとっては初めてだった。故郷を出て両親と別れてから過ごしてきた過酷な環境の中で、これまで親身に接してきた相手はいない。シルクの娘からは、少女を救済する意思が感じられた。

 この人はどうして私なんかに構うんだろう――少女は隣に座る娘を窺うように見遣る。同時に振り向いてきた彼女と、意図せず目が合った。

「そういえば言ってなかったね」シルクの娘は声を弾ませると、はにかんだ笑みを浮かべてこう告げる。「シルクジャスティス。あたしの名前だよ」

 

 

 ものの十数分で車は目的地に着き、降車した少女は目を丸くした。日本とは思えない、巨大な洋風建築の屋敷が眼前に聳え立っていた。豪奢な建造物を前にして腰が引けそうになるが、その中へシルクが手招きをするのだから、さらに驚きを隠せない。

 屋敷に上がるなり、そこかしこから使用人らしき大人たちがわらわらと集まってきた。

「お嬢様、学校はどうされたのです」「お忘れ物ですか」「お父様に叱られますよ」口々に投げ掛けられる疑問の言葉に意も介さず、シルクは少女の手を引いたままずんずんと屋敷の廊下を進んでいく。

 屋敷内には多くの部屋があったが、そのうちの一室に連れ込まれた。学校の保健室のような、消毒薬の香り漂う部屋だ。屋敷でお抱えの医師が詰める医務室らしい。

「この子を診てあげて。……いいから早く、怪我してるんだよ」

 突然連れてきた素性不明の少女の診察を要求されて医師は戸惑うも、先ほど運転手にした問答よろしく、シルクは強く命じる。

 薄々少女も分かってきた。この娘は屋敷の主の一員なのだろう、ゆえに使用人の大人たちは要求を聞き入れる。つまりこの人はお嬢様だ。こんな立派な家に住んでいるだけあってさぞかし裕福なのだろう。それがどうして私なんかに構うのだろう?

 大した怪我などはなかったらしく、傷の手当てが済むとまたも廊下に連れ出された。

「ここはあたしの部屋。入って」

 次に向かった部屋は、上階にあるシルクの私室だった。おずおずと中を覗くと、天蓋付きのベッドや壁面をびっしり覆う本棚、高級そうな茶色い学習机が整然と並んでいる。

 二人きりの部屋で、シルクは座るよう促した。少女はどこへ腰掛けるべきか悩んだが、ベッド上に一緒に座ろうと云われ従った。高級であろう寝具はふかふかで、いつも少女が使う孤児院の硬い床敷きの布団とはまるで違う。

「さっきね、食堂でくすねてきちゃった。一緒に食べよ」

 えへへ、と白い歯を覗かせシルクはポケットから包装された菓子袋を取り出した。中身はセピア色をした焼き菓子で、装丁からして安価な代物ではなさそうだ。

 昨日から何も食べていない少女は、無意識のうちに口内に涎を生む。しかし手当てを受けたうえに食べ物まで恵んでもらうのは気が引けて躊躇する。

 それを見かねたのか、シルクは自ずから包装を解いて焼き菓子を手に取り少女の口元にまで運んできた。

「お腹空いてるでしょ。食べなよ」

 観念して少女は菓子を口にした。ほんのり控えめな甘みのマドレーヌ。一日ぶりの食物だけあって食欲を大いに刺激され、その一口を皮切りに気付けば夢中で頬張っていた。

 その様子に気を良くしたのか、シルクは自分が食べるつもりだったもう一袋も差し出した。

 そんなに急いで食べると喉に詰まるよ、と忠告されるよりも先にパウンド片が気管に入ってむせる。咳き込むうちに目から涙が滲み、背中をさすられた。

「あはは。言わんこっちゃない」

 からからとシルクが傍で笑った。

 つられるように、少女もまた自然と笑みをこぼした。笑うのなんていつぶりだろう、と思う。

「あの、どうして助けてくれたの」

 焼き菓子を平らげたのち、気になっていたことを訊ねた。考えてみれば、少女にとっては施しを受ける理由が思い至らない。田舎道の只中に、年端もいかない少女がぼろぼろで独り佇んでいれば保護されるのは、ある意味では当然だが。されども赤の他人のシルクがここまで献身するのは何故なのか。

「うまく言えないけど、放っておけないって思ったから」

 少し考えたのち彼女はそう云うと、両手の指先を合わせ気恥ずかしそうに語り始める。

「あたしのお母さんが前に言ってたの。自分の道理を信じて、正しいと思ったことをしなさいって。それは『正義』っていうんだって。あの時あたしは、あなたを助けなきゃって思ったの。そうするのが正しいって、感じたから」

 彼女は自分の母が説いた道義のこと、自分の名前はその意味を込めて命名されたこと、助けたのはその心に従ったからだということを話した。恥ずかし気ではあったが、自身の名の由来も絡めて話す際の彼女は、心なしか誇らしげに見える。

 それだけ『シルクジャスティス』は、正義を冠する自らの名に、ささやかながら自負を抱いているのだろう。

 話に聞き入っていた少女には、高潔に感じられる話だった。状況に流されるまま周囲に溶け込むことも出来ず、心を閉じた放浪の日々を送ってきた自分と異なり、目の前の同年代の子が明確な意志を持ち行動する姿は眩しさを感じさせ、羨望を覚える。

 だけど、と同時に思う。

 この子は環境が恵まれているからだ。

 こんな大きな家に住むだけあって、さぞかしお金持ちで裕福な家庭の一員なのだろう。生活に余裕があれば、精神的にも余裕が生まれるもの(少女自身がその反対を経験してきたので分かるのだ)で、この高尚な考えもあくまで豊かな生活基盤の上に成立している。

 つまるところ自分を助けてくれたのも、そうした余裕からくる気休めの同情に過ぎない。もっと言えば、持つ者の持たざる者への戯れに過ぎないのではないか。

 助けてくれた事にはもちろん感謝はしよう。でも住んでいる世界が違うみたいだ。私とあなたとでは……。

 幼いながらに殺伐として擦れた日々を送ってきた少女はそうした猜疑心を拭い去れず、かえって隔たりを感じた。

「でも、本当はそれだけじゃないよ」

 しかし、ひとり疑心暗鬼に陥る少女をよそにシルクは鼻を掻きながらさらに続ける。先刻名の由来を語った時よりも頬を朱くしながら、真っ直ぐに少女を見つめ直した。

「あたしと、友達になってほしいの」

 最初に会った時と同じ奇妙な感覚が再度奔る。

 友達になってほしいという予想しなかった言葉を受け、少女も思わず目を逸らし、顔を俯けた。

「と、友達って、どうして」

 動揺で声を上擦らせながらやっとの思いで訊き返す。何故か早鐘を打つ心拍に合わせ、経験したことの無い高揚が湧く。

「あたし、この家でずっと暮らしてきた。自分で言うのも何だけど、両親はお金も持ってるし、私にお勉強だってさせてくれるし、使用人さんも沢山いるし、とっても恵まれた暮らしをさせてもらってる。だけど、それが窮屈に思う時があるの。何ていうか、こんな部屋の中に閉じこもって勉強ばかりしているより外の世界に出て、わーって走り回りたくなるような感じ。こんなのただの我儘だよね、でもあたしは――」

 シルクはそれからしばらく話を続けた。今度は彼女の身上話だった。

 自分は幼い時から厳格な教育を仕込まれてきたこと。心底では勉学漬けのそんな日々に辟易していること。本当は勉強云々よりも、普通の子どもらしく外に出て友達と一緒に遊んでいたいという本心。しかしそれは、スパルタ教育を課す彼女の父親には怖くて言えず、きっと聞き入れてはくれないということ――。

「……だから、たまにでいい。ちょっとの時間でもいいの。あたしと、遊び友達になってくれませんか」

 ひとしきり話した後にシルクの娘は真っ直ぐ見据え、真摯にお願いした。

 二人はその際手を握り合った。触れ合う手のひらから、少女は相手の心情を感知する。無意識のうちに、久方振りに少女はあの『特技』を使っていた。手を取ったシルクの意思を汲み取った。

(――あたしをここから連れ出して。

 外の世界に一緒に。

 あなたが、連れて行って――!)

 それは、意外な感触を伴うものだった。初対面時からきびきびとした印象を受ける娘から『特技』を駆使して感じ取ったのは、どこか悲愴ささえ滲ませる心の叫びに思えた。察知できたのはほんの一瞬だけで、その深層の意味までは到底分からない。

 しかし当惑しつつも、少女はおぼろげにこう思う。

 ひとりで外の世界に出て以来、酷い環境の中であらゆる負の感情に触れてきた。だが今目の前の子から注ぎ込まれたのは、真っ直ぐで純粋な親交を結びたいという希求だった。それは少女にとって初めての心揺さぶられるシンパシーで、生まれて初めて他者から必要とされたのだ。

 ――あなたは環境が恵まれているし、自分をしっかり持っていて、『正義』という立派な考えもある。貧困の中、独りで生きていくしかない私なんかとはまるで違う。あなたは違う世界の人だ。きっと相容れない筈。

 だけど今感じたあなたの想いは、友達になって欲しいという心の叫びは紛れも無い純粋なものだった。眩しすぎるほどに。

 打ち震えるようなものを全身に受け、そこでようやく理解する。今、自分の内から湧き出る喜びの感情。これもまた随分久しぶりに感じたもの。

 私も友達が欲しかった。かつてともに過ごした家族のように、心を通わせる相手が欲しかった――。

「ええっ、どうしたの。何で泣くのさ」

 気が付くと少女はさめざめと泣いていた。

 思わぬ反応に最初はあたふたするも、涙の真意を何となく察したシルクも受け止めるようにして肩を抱いてやった。

 かくして二人の奇妙な交友は始まった。それがウマ娘の魂により運命付けられたものとは知らぬままに。

 

 

 翌日から早速、二人の交流がスタートした。

 陽は西に傾き空が茜色になってきた頃、エリモは孤児院から単身抜け出し北風の吹く街道を駆けて行く。

 昨日、シルク家の車で送り届けてもらい施設に帰ってきた後、教職員には出奔したことをこっぴどく叱られた。そんな昨日の今日にもかかわらず、孤児院から忍び出るのはガードが緩く容易だった。もとより教職員から腫れ物扱いされていたこともあって、叱りこそされたが表立った問題さえ起こされなければ放置するつもりらしい。

 少女にとってそう扱われるのは寂しくはあったが、待ち合わせ場所に向かう足取りは弾んでいた。

 街外れを流れる川を望む堤防に、草むら混じりの広場があった。堤防公園として作られたそこには幾つか遊具もあったが、もともと過疎地域であることと冬が近い季節柄か、人の気配は無い。そこが、二人が昨日別れる前に決めた待ち合わせ場所だった。

 先に着いたエリモが公園内の時計を見ると約束の五分前だ。風は依然として冷たく、寒さを堪えながら公園を掠める道沿いに目印となるよう立ち尽くして待つ。

 本当に来てくれるのかな、と若干の懸念を抱きだした五分後、時間きっかりに例のリムジンが現れて目の前に停車する。

「ごめん、待ったよね」

 シルクは運転手の使用人に断りを入れて、一時間だけですよ、と釘を刺されたうえで車から降りてきた。彼女は学校だけでなく様々な習い事を掛け持ちしておりスケジュールがタイトで、その中から捻出した一時間らしい。

 二人は公園に入ってベンチに腰掛けた。園内には、他に人っ子一人見当たらない。

 遊び友達になるという名目で初めて会合したわけだが、エリモの方はどうしてよいのか分からず、所在無く目線を泳がせた。同年代の友人と遊ぶこと自体が彼女にとっては初の経験である。

 どう切り出せばいいのだろう、黙ったままじゃ気まずい。そう考えて何か喋ろうともごもごしていると、

「オニごっこしよう!」

 口火を先に切ったのはシルクの方だった。言うが早いかベンチから跳ね起きると「最初はグー、ジャンケン……」と繰り出してくる。

 互いに出したのは『パー』と『グー』。

 エリモの負けだ。いきなりのことで咄嗟にグーをそのまま出してしまった。

「私が逃げるからつかまえてごらん」

 得意げに微笑んでシルクが一足先に園内を駆け出した。

 鬼ごっこ、これもエリモは初経験だ。孤児院で他の児童がするのを見ているが自分が混ぜてもらったことはなかった。鬼役と子役に分かれ、鬼が子を追いタッチするというシンプルなルールを思い出して見様見真似で追い掛けてみる。

「わ、速っ!」

 存外にも、エリモはすぐさま追いついてみせた。かつて牧場仕事で鳴らしただけあり、体力は折り紙付きだ。開始三十秒と経たぬうちに追い込んでタッチを決めてみせる。

「次はあたしが追いかけるから!」

 攻守交代で、次はシルクが鬼役だ。エリモは園内の地形の起伏を駆使しつつ、付かず離れずの距離を保ち逃げ回った。

 声を張り上げながらシルクも追い回すが、思いの外苦戦しているのは彼女の方らしい。比較的勉学中心の生活をしてきた為か、同じウマ娘であるものの体力面では一歩譲るようだ。

「ぜえぜえ、やるじゃない。でもまだだよ!」

 それでもシルクは人懐っこい表情のまま、何度でも追い縋ってきた。容易に追いつけないなりに、工夫したり挑むのも苦にならないようで、僻みなどなくただ純粋に追いかけっこを楽しんでいる様子だ。

 おっかなびっくりで始めたエリモも、次第に昂ぶってきた。誰かとこうして体を思い切り動かすのはいつ以来か、久々の爽快感に血沸き肉躍るようだ。二人きりではあるが、知らず知らずのうちに鬼ごっこという単純な遊びに熱中していた。

 数回攻守交代をしているうち、公園内の時計が時報チャイムを響かせた。一時間が経過したことを報せる合図だ。あっという間だったと二人は感じる。

「お嬢様、そろそろ……」

 使用人が車を公園の傍まで寄せてきて、開けた窓から声を掛ける。約束の時間だ。シルクは汗を拭った手を上げ応じる。

「ごめんね、そろそろ帰らなきゃ。今日はありがとう」

 名残惜しそうにシルクが向き直る。エリモも同じ気持ちだった。

「あのっ」

「うん?」

「また明日、同じ時間に、ここで待ってるから」

 何も考えなしに、言葉が口を衝いて出たことにエリモは驚いた。

 あっという間だった一時間、だけどそれはささやかながらとても心躍る時間だった。

 また一緒に遊びたい、逢いたい。その想いがそのまま言葉として発せられた。

「もちろん、またね」

 それに満面の笑みで答えたシルクは、車の後部座席に乗り込むと去っていった。薄暗くなった街道を進んでいくリムジンのテールランプが見えなくなるまでエリモはじっと見届けた。

 

 

 以来、ほぼ毎日公園で顔を合わせて二人は遊んだ。

 夕暮れ時の一時間のみと限られた時間ではあったが、エリモは孤児院の教職員や児童らに白い目で見られながらも欠かすことなく公園に通い続けた。

 シルクもその約束をふいにすることなく毎日現れた。元々は彼女の方から遊びに誘ったこともあってか、会うことを楽しみにしている様子は同様だった。

 最初のうち、二人は公園で鬼ごっこやかくれんぼといった野外での遊びに興じた。いずれもエリモにとって自分がやったことの無かったものだが、どうやらシルクの方も同じであるらしい。

「お父さんがね、こういう遊びはさせてくれないの。時間の無駄だ、って」そういったふうに時折不平を漏らすのがなんだか寂しげで印象的だったが、毎度それを吹き飛ばし忘れるように、彼女も思い切り体を動かすのを満喫した。

 

 

 時期が経つにつれて、二人は公園以外の場所にも出かけるようになる。

 年度が変わって春を迎える頃。

 お花見をしてみたいとシルクが言い出した。公園から幹線道路を下ると数キロ行った先に道の駅があるのだが、その周辺に桜並木があるのでそこを目的地にしようという。なんでもシルクは生まれてこの方、屋敷の周辺地域を自分の足で歩いたことがほぼ無いらしい。ゆえにいつもと趣向を変え、お花見というものを一度体験したいというのが発起理由だそう。

 エリモも孤児院周辺からろくに外へ出た試しがなく、興味を持ったので話に乗った。

 シルクが使用人に頼み込んで、渋々の承諾であったが二人はいつもの公園から桜並木まで徒歩で向かった。

 ちょうど満開の時期だ。視界を覆い尽くさんばかりに咲き誇る桜の花を見上げながら、二人は並木の合間を駆け回った。時折風が吹くとピンク色の花吹雪が舞い、二人の肌を心地よくくすぐっていく。

「うわあ、綺麗だなぁ」

「うん」

「来てよかったねえ」

「うん……」

 この頃にはすっかり二人は打ち解けていた。しっかり者のシルクが、薄弱なエリモを牽引するという関係性がいつの間にか定着した。

 

 

 気温が高まりうだるような夏が到来する。

 今度は川で水遊びがしたいとシルクが言い出した。二人の住む地域は年間通して比較的寒冷な気候ではあったが、真夏となれば猛暑日もある。野外の公園にずっといればさすがに大量に汗をかく。

 善は急げと次の集まり時、シルクは自宅から水着を二着持ってきた。自分が着用するものと、もう一着は水着など持っていないというエリモのためのものだった。いつもの公園は堤防公園として造成されただけありすぐ傍には川が流れていたので、早速二人はその川岸に足を踏み入れた。

「おおー、これは」

「つ、冷たいね」

「ふっふっふ、それ!」

「つ、冷たいってば」

 手で掬った水を撥ねさせ、はしゃぐシルク。逃げ回るエリモは、猛暑とは裏腹に冷えた川水に身を竦めた。

 借りた水着は、サイズが大きめだったようで動きづらい。というのも、春から夏にかけてシルクは成長して体が少しずつ大きくなってきた。思えば当初はエリモの方が有利だった鬼ごっこも、体の成長によるものか、体を頻繁に動かすようになった効果か、最近は互角の勝負になってきた。

 かといってそれをエリモが僻むような事はない。二人の関係性はその程度で擦れ違うものでは最早なかった。

 

 

 紅葉が徐々に深まり秋が来る。

 食欲の秋とはよく言ったもので、いつも通り公園で遊び回った帰り際、シルクは焼き芋を作ろうと宣言する。唐突に何かを提案されるのは、もうすっかり定番となった。

 昔、牧場で枯葉を集めて焼き芋をしたことをエリモは話した。シルクは仮にも令嬢だけあってか、そういった事はしたことがないらく興味津々だ。

 公園のような公共の場所で勝手に火を起こすことは出来ないので、シルクは屋敷で焚火をしようと提案した。庭の隅に小型の家庭用焼却炉が庭に備え付けてあるので、それを利用すれば出来るのだという。

 またあの巨大な屋敷にお邪魔するのは少し腰が引けたが、今回も勢いに引っ張られて翌日、エリモはリムジン送迎で屋敷にやってきた。

 時間が限られているということで早速、庭の焼却炉に火を入れ、用意していた芋をアルミホイルに包み加熱を開始する。焼却炉は火が強すぎるのでうまく加減して焼かねばならないが、そこはエリモに一日の長がある。焦げ付かぬよう火を通し、巧みにまず一つ作り上げた。

 ホイルを剥ぎ、皮を?くとほくほくに焼けた黄金色の芋がまろび出る。

「美味しそう」

 感嘆を漏らしたのは焼き芋初体験のシルクの方だ。口端には今にも涎が溢れそうになっていて、令嬢という立場が形無しである。

 なので、エリモは実食を先に譲ることにする。湯気を醸す芋を渡すと、「いいの!」と言うが早いかシルクが食い付くが、

「熱ぅ!?」

 予想通りの反応。焼きたてで温度が高すぎたのか、シルクは口をもごもごせわしなく開閉させた。その様がいつものしっかり者の姿と比すると可笑しくて、エリモも思わず笑う。

 自分が初めて食べた時も同じだった。あの時は口の中をやけどして泣いちゃって、お父さんもお母さんも慌てていたっけ――。

 不意に懐かしい思い出がよぎり、ハッとする。もう「懐かしい」と思ってしまう程、あの故郷での日々から遠くへ来てしまったとあらためて気付く。

 父と母は、いまどこで何をしているのだろう。また逢える日はくるのだろうか?

 そう思うと少し切ない気持ちになり、エリモは黙りこくってしまう。

「どうしたの?」

 俄かに沈黙されて心配になったのか、なんとか熱々芋を咀嚼したシルクが不安そうに覗き込んだ。直ぐに気を取り直し、何でもないと首を振る。

 一人で世界に放り出されてから苦しいことは沢山あった。自分に嫌気が差すことも一杯あった。その果てに、一時は殻に籠って心を閉じてしまっていた。自らを取り巻く環境は依然として厳しいままだ。

 だけど、今の自分には友達と呼べる相手がいる。少しだけ気を許せる、心の殻を開いてもいい相手が。

 何となくまだ大丈夫、歩いていける、と思える。あなたが手を引いてくれるから。

 

 

 年の瀬が近付く冬。

 豪雪地帯である二人の住む地域もまた、到来した寒波の影響で雪が降り積もり一面の銀世界へと変化する。いつもの公園も真っ白に化粧され、ただでさえ人が来ない場所ゆえ敷き詰められた新雪は白一色で誰かに踏まれた形跡はない。

「すごい、真っ白だ、雪合戦しよう!」

「ま、待ってよ」

 そこに初めての足跡をつけるのは例によってこの二人だ。いつもの時間にやって来た二人は我先にと園内に突入、冠雪を踏みしめる感触を確かめながら雪合戦に興じた。大人なら寒さに音を上げ屋内に閉じ籠るレベルの低気温だが、子供は風の子というべきか。かつ、ウマ娘でもある彼女達は活動許容限界が常人より広いのか。

 しばらくは雪を投げ合いはしゃぎ回ったのち、体が少し温まってきた頃合いでシルクは雪を投げる手を止める。

「そういえば、そろそろ始まるよ」

 彼女は園内の時計を見上げると、ベンチへ駆けていき座った。上着のジャケットから、小型のポータブルテレビを取り出すと、アンテナを伸ばして画面を点ける。

 ああ、今日もなんだ。その様子を見ながらエリモも隣に座った。

 傍から画面を覗き込むと、芝生を敷き詰めた広大な競技場らしき景色が映し出される。青々とした芝の競技コースには幾人もの走者が我先にと必死の面持ちで駆走していて、その模様を実況する音声が漏れ聞こえてくる。

『……残り二〇〇メートルを切りました、残り二〇〇を切った、ビワハヤヒデか、トウカイテイオーか……』

 シルクは画面を食い入るように見つめている。寒さも忘れたような彼女の目は憧憬に輝いているようにエリモには思えた。

 ここ最近、シルクは夢中になっているものがある。それはウマ娘同士が走り競い合うレース競技――「トゥインクルシリーズ」である。世間の注目を集める国内有数のスポーツエンターテイメントであり、脚力自慢のウマ娘達がしのぎを削り合う、苛烈かつ絢爛たる世界。年間を通し開催されるレースはたびたびメディアに取り上げられ、大レースともなれば社会現象にもなるほど人々の関心を集めるのだという。

「トゥインクルシリーズって、知ってる?」

「あたし達と同じウマ娘が、競走するの」

「今度、テレビで中継されるから見てみよう」

 前々から、シルクはその話題を話すようになってきた。遊びの最中に、レースの模様を一緒に観戦しようとテレビまで持ち込むようになった。ウマ娘同士で行われるというその競技に興味を抱いているのは明らかだった。

 そして、こうも説明した。

「ウマ娘とは、走るために生まれてきた。ときに数奇で、ときに輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。それがあたしたちの運命――なんだって。習い事で先生から聞いたんだけどね」

 僻地で生まれ育ち世情に疎いエリモも当初はそういうものか、こんなものもあるんだ、程度の認識で話に付き合っていた。しかし『競走』にシルクが関心を強め傾注していくさまに、いつしかエリモ自身も引っ張られていくようになる。

 トゥインクルシリーズや、レースの事や、ウマ娘の運命の事なんかはよく分からないけれど――

 でも、あなたが行くところになら、私も行ってみたい。

 あなたと一緒なら――。

 遊び相手として交流し、はや一年。それは孤独と絶望の淵にいた自分に新たな居場所をくれた親友への、エリモの純白な想いだった。

 

 

 年を跨ぎ、季節は廻り、初春。

 定例の時間に合わせて、エリモは街路の歩を進めていく。初めて出会った時のように澄んだ空気が肌寒い、しかし冬のピークはすっかり終わり、上った陽が昼下がりの大地をくまなく照らして気温を押し上げた、そんな日だった。

 到着した公園を見渡すと、長い間積もったままの雪もようやく完全に解け、その下にあった地面が露わになっている。所々で目に留まる青い新芽は、間も無く訪れる春を予感させる。

 と、早めに園内に歩み入ったエリモの足がはたと止まった。

 いつも二人がはしゃぎ回る公園中央広場から川の上流方向に目を向けると、サッカーグラウンドにもなりそうなだだっ広い空白地があった。今まではずっと雪に覆われていたそこは、積雪前は立入りも憚られる程の雑草に覆われた荒蕪の地と思われていたが。

「公園の隣、こんな風になってたんだ」

 いつの間にやって来たのか、隣に現れたシルクが不意に云う。

 整備状態もまばらで雑草地帯の多い堤防公園はその実、全体で見ると川沿いにかなりの面積を有しているのは知っていた。しかしいま目の前に姿を見せたそこは、雪に埋もれている間に雑草が枯れたことで若干痩せているふうには見えるが、ランニングにも適しそうな平滑地が開かれている。

「走って、みようか」

 ぽつりと告げられた提案に、エリモは心が揺さぶられる感覚があった。今まで味わったことの無い特異な、それでいてどこか懐かしさを覚える高揚。

 シルクが云った「走ろう」という言葉の意味。それは今までしてきた鬼ごっこや追いかけっことは似て非なるものだということを、エリモは本能的に理解した。

 途中でカーブして戻って来れば一キロ以上はありそうな、眼前に突如現れた即席のコース。

 今まではテレビ越しに観るだけだった。今からそこで、自分達もそれに見立ててレースをしようというのだ。

「いくよ」

「うん」

 必要以上の言葉は要らなかった。地面に線を掘り、スタートラインとした地点に立ち止まった二人は小さく息を吸い、前傾に身構えた。互いにもう分かっている。これからやろうとしているのは単なる遊びではない、「競走」だ。

 シルクが手にした小石を空中に放る。数メートルの高さを舞ったそれは重力に従ってすぐ目の前に落ちた。それが合図となり、二人は弾かれたように発走した。

 まるで違う。

 脚の運び、手の振り、走る姿勢も。鬼ごっこや追いかけっこの時とはまるで異なる感覚を確かめるように、噛み締めるように二人は大地を駆けた。

 肌を掠める鋭い風も、左右を圧倒的な速さで流れる景色も、怖いくらいの勢いで過ぎ去っていく地面も、全てが未経験の筈なのに、何故か身体が元から知っているようで。

 全力で駆け抜ける充足感、突き抜けるような解放感。走る事で得られる、この次元すらも超越しそうな爽快感。

 ウマ娘として生を受けたのはこのためだったのではないか、自分達はこのために生きてきたのではないか――「走るために生まれてきた」という言葉の意味の一端を、二人はその瞬間確かに感じた。

 草地の外縁を端まで駆けて弧を描いてカーブし、元のスタートラインまで戻って来た二人は殆ど同時にゴールした。実際のレースなら審議となり写真判定がなされるだろう。だが今は勝敗などどうでも良く、この即席レースで味わった圧倒的感覚を咀嚼し吟味し、その余韻を味わうことに夢中だった。二人は深く息をしながらその場で倒れ込み、並んで空を見上げる。その表情はお互いに晴れやかで屈託無く、どこまでも清んでいた。

「あなたに謝らなくちゃいけないことがあるの」

 落ち着いてきた頃合いで突如シルクの方が切り出す。

 云いながら身を起こした彼女は真剣で、エリモも思わず居住まいを正した。

「初めて会った時に、遊び相手になって欲しいから友達になろうって言ったよね。でもあれは、本当は違うの……嘘をついていたの」

 いつになくこわごわした面持ちのシルクは、そう前口上を告げたうえで躊躇いがちに語り始めた。

「今よりずっと小さい時。トゥインクルシリーズの観戦に行ったことがあるの。お父さんが偉い人に招待されたとかで、一緒に連れて行ってもらったんだけど、今でもあの臨場感は覚えてる。テレビじゃなくて実際に目の前で見るレースは迫力があって、凄かった。

 そしてその時から、いつか自分もここで走りたい、大きなレースに出られるようなウマ娘になりたいって、そんな思いが芽生えるようになった。エリモは、あたしが最近レースに興味を持つようになったって思ってるみたいだけど……本当はその時からだったの。

 私はレースの世界に興味を持つようになった。現地観戦にはいけないけど、テレビでレースを観たり、気になったウマ娘のグッズをお母さんに買ってもらったりして、どんどんレースにハマっていった。将来あたしもそうなりたいって。

 でも、ある日それを知ったお父さんは……あたしにレースのことは忘れろって怒った。そして集めていたグッズとかも全部捨てられちゃった。『お前は勝者にならねばならない。あんなに不確実で運任せな、不条理渦巻く世界に進ませるワケにはいかん』って言ってさ。お父さんは、あたしには走る才能がない、だからレースに出たって成功できっこないって、きっとそう考えていたんだと思う。

 それからお父さんの『教育』はどんどん加速していった。望むと望まざるとにかかわらず色んな事を学ばされた。学校も友達付き合いが無いくらい厳しい私学に入れられて、それが終われば習い事がぎっしり。そんな毎日をあたしは課せられた。

 あたしは、そんなの望んでいなかった。レースに出ることへの、走る事への憧れはずっと心の中で燻っていた。お母さんはそのことを分かってくれていたから、時々お父さんに自由にさせてあげてって抗議してくれたけど、無駄だった。お父さんの力は強くて、次第に誰も逆らえなくなっていった。

 だからあたしはこう考えた。あたしが走る姿を見せて、もしかしたら才能があるかも、ってお父さんに思わせればいいんじゃないかって。

 とはいえ、あたしの生活はお父さんに完全に管理されている。殆どは勉学の時間に費やされていて、身体を動かす時間は必要最低限の体育授業程度。とても走るための体力作りなんて出来っこない。

 せめて、運動する時間が作れれば。それもウマ娘のレースに出られるだけの基礎能力を高めてくれる協力者――すなわち、自分と同じウマ娘の同志がいれば。そのウマ娘と日常的に活動し、身体能力を高めていければ。

 そう思い始めた矢先だった。いつものように車に乗せてもらって通学していた時、私の目の前に一人のウマ娘が現れたのは。

 そう、それがあなただった。

 遭難しボロボロになっていたあなたをあたしは連れ帰った。突発的な行動だったけど、この機を逃す手はないと思った。あなたに手当てを施し、そのうえで友達になってくれるよう頼み込み、毎日会う算段を取り付けた。習い事の日程にも自分で出来る限りの手を加え、あなたと会う時間も捻出した。

 遊ぶようになってから、あたしはとにかく身体を動かして自分の基礎体力把握とそれを伸ばす事に専念した。その為の下調べやトレーニング知識は予め分かってた。昔からレースやウマ娘に関することは興味があり理解していたから。おかげで最初は牧場育ちで体力のあったあなたにも、半年かかってようやく太刀打ちできるようになった。

 そこまできてようやく筋道が立ってきた。このままいけば、もしかしたら本当にあたしは走りの世界を目指せるかもしれない、レースの世界――トゥインクルシリーズに出られるかも、そう本気で思い始めた。今までずっと燻らせていたレースへの思いは再度膨れ上がり大きくなっていった。あなたにレースの話を持ち掛けるようになり、嬉しがって一緒にテレビを持ち寄って観戦までするようになった。

 そして今日。この一年で身に付けた力を試そうと、あたしは初めて『競走』を試みた。今までの鬼ごっことかの遊びじゃない、本格的な『競走』。それは予想以上の手応えだった。やっぱりあたしはこれがしたい、レースの道を目指すんだって、あらためてそう思えた……。

 もう、分かるよね。

 本当はあたし、友達が欲しかったんじゃない。自分が走りの道に進むため、あの日偶然、都合良く目の前に現れたあなたを利用していただけだった。友達になってくれたあなたの好意にかこつけて、あたしは……」

 そこまで云ってシルクは俯き、押し黙った。その様子はしおらしく、いつもの覇気もない。

 全てが真実だろう、紛う方ない本心なのだろうとエリモは素直に受け取る。

 そう考える根拠もあった。思えば初対面のあの日、友達になろうと手を取り肌と肌で触れ合い、『特技』で意思を汲み取ったあの時。

(――あたしをここから連れ出して。

 外の世界に一緒に。

 あなたが、連れて行って――!)

 悲愴ささえ滲ませた、ほんの一瞬だけ知覚できたあの心の叫び。今聞いた話を照らし合わせれば、いくぶん合点がいく。

 シルクはエリモに連れ出して欲しかった。父親のしがらみに囚われた日常から脱却し、走りの世界に行くために。あの日エリモへ友達になりたいと嘯いたのは、所詮は自分の為だった――。

 今になってそれを打ち明けた理由も何となくエリモには分かる。一年間の付き合いで、シルクは純粋で真っ直ぐで本当は嘘なんてつけない性分なのは既に察している。その後ろめたさがしこりとなって残り続け、今日の『競走』により心身が解放されたいま、吐露せずにはいられなくなったのかもしれない。

 奇妙な話だ。二人の出逢いはささやかな嘘に端を発するものだというのだから。

 そこまで理解し得たエリモはしかし――憤りなど無く、むしろ打ち明けられたことに喜びを見出していた。

 シルクはこんな事をわざわざ自白せずとも、胸の内に秘め続けることも出来た筈だ。それを敢えて腹を割って話したのは、エリモに対して不誠実だという罪悪感や、正直でありたかったという意思が働いたに違いない。それは今の彼女の思い沈む表情からわかる。

 ゆっくり歩み寄り、エリモは顔を近づけた。シルクも顔を上げ、二人の目線が真っ直ぐ交わった。

 昔から口数は多い方じゃない。上手く言葉に出来るだろうか。でもあなたが打ち明けてくれたのだから、今こそ私も日頃からの想いを伝えよう――

「確かに私達の出会いは、偶然だったかもしれない。一緒に走る相手を望んだ時、タイミング良く目の前に私が現れただけなのかもしれない。

 でも、その出会いは私を変えた。ひとりぼっちで暗闇の中をずっと歩いていくしかないと思っていた私に、光の道筋を作ってくれた。あなたとの出会いは紛れもなく私を変えてくれた。

 それに、最初に会った時にこう言っていたね。

 自分の道理を信じて、正しいと思ったことをするのが『正義』なんだって。私を助けなきゃと思って、助けてくれたって。

 だから私にとっては、あなたは偶然なんかじゃない、必然だったんだよ。私を救ってくれたあなたの『正義』は、絶対嘘なんかじゃないよ――」

 こんなに喋ったのは初めてかも知れない。云ったそばから、きちんと伝わったのかどうか不安になったエリモは紅潮した。

 しかしすぐにそれは杞憂に終わる。シルクの方から、思い切り飛びついたからだ。巻き込むように草地の上を転がった二人は二転三転したのち止まる。

「ありがとう……」

 シルクはそのまま縋るように抱きしめながら、エリモの肩に顔を埋めて涙を零した。今のエリモからの返答を受けて、心中で押し留めていたものが溢れたようだった。

 裕福な家庭や恵まれた環境に身を置きながらも、特有のしがらみや苦悩を背負い、それでもなおしっかり者として振る舞ってきた友が初めてみせた脆い姿。

 最初に会った時は真逆だった。友達になってくれるのが嬉しくてエリモが泣き、シルクは宥める側だった。その時と逆の立場になった今ならば分かる。

(あなたは最初から嘘なんかついてなかったと思う。あなたもただ友達が欲しかったんじゃないかな――)

 そんな結論に達したエリモは、ようやく自分達二人は真の意味での『親友』になれたような気がした。

 

 

「決めた」

 すっかり泣き止み、解散の時間が迫ってきた頃になりシルクが唐突に云った。もういつもの調子だ。何を決めたの、とエリモが問うと目元を拳でごしごし拭い、にかっと笑いながら答える。

「あたし、トレセン学園に入る。うんと体力つけて走るの早くなって、トゥインクルシリーズに出てやる。お父さんや誰かに強制されるんじゃない。それがあたしのしたいこと、あたしの信じてきた正しいと思ってきた道理、あたしの正義だ!」

 腰に両手を当て、彼女は高らかに宣う。

 数多のウマ娘が本能的に目指すという競走の世界。大いなる至上命題へ挑戦する意志を、彼女はここで初めて明確に表明した。

「私も、一緒に行く」

 エリモも頷き、胸を張るシルクの横に並び立つ。勢い任せや惰性などではない。彼女も既に心に決めていた。

 出会って以来、あなたは私の手を引き、色々なものを見せてくれた――あなたが行く場所、見る景色、触れる世界へ、私も一緒に轡を並べたい。

 競走の世界には辛く苦しいことも待ち受けているだろう。でも立ち向かっていける気がする、私達二人なら。

「じゃあ二人で、レースを走ろう。でっかいレースで一緒に走ろう!」

 エリモの賛同に異を唱えることもなく、シルクは大きく声を弾ませた。

 そして、どちらからともなく互いに小指を差し出し、

「約束だよ!」

「うん!」

 大いなる目標を取り決め、そう誓い合った。

 この時、二人の間には純粋な夢と希望、信じられる友がいる安寧が満ちていた。その形象は彼女たちの成長に合わせて大きく膨らみ、ともに往く未来への門出を彩っていくかに思われた。

 だが、二人がともに過ごせたのはこの日が最後だった。

 

 

 翌日、公園にシルクは姿を見せなかった。

 交流を始めて一年以上経つが、何の予告も無く彼女が約束を反故にしたことはかつてない。

 何かあったのだろうか。学校か習い事か家の用事か。多忙な彼女のことだ、急用が入って致し方なく――と思いながらも、エリモは約束の時間を越えても公園で待ち続けた。そのうち道路を横切る車の音にまで「来てくれたのかな」と一喜一憂するようになり、寂寥を募らせていった。

 本当の意味で親友になれた。トレセン学園に入ってトゥインクルシリーズに出て、大きなレースで一緒に走ろう――そう約束もした。あの誓いが偽りのはずがない、あなたの希望に満ち満ちていた眼は間違いなく本気だった。なのに、

(ジャスティスちゃん、どうして――)

 エリモは思い煩った。友が現れぬ間、四六時中原因を思案するも思い当たる節はなかった。

 結局、日が暮れて辺りが暗闇に包まれ、業を煮やした孤児院の職員が探しに来るまで待っていたがシルクは現れなかった。

 しかし翌日、思いも寄らぬ形でその理由の一端を知ることとなる。

 きっかけは孤児院の職員同士の立ち話を偶然耳にしたことだった。昼過ぎ、この日もエリモが公園へ出向こうと院から忍び出る機会を窺っていた時のこと。児童達からも噂好きとして認識されている中年の女性職員らが数名、孤児院の事務室前で井戸端会議にしゃれ込んでいる。

 いくら自分が諦め半分に放任されているとはいえ、孤児院から外に抜け出すうえで職員の目に留まるのは好ましくない。よって、エリモはこの時も雑談中の職員らに目立たぬよう迂回しようとしたが、漏れ聞こえた談話の内容に足を止めた。

「そういや知ってる?ここの街外れの山の中腹に住んでる資産家の話」

「ああ、あの“お屋敷”のこと?」

「前までよく豪勢なパーティーを開いてた羽振りのいい主人の家よね。それがどうしたの」

「昨日の夕方ねえ、私見ちゃったの。あの屋敷に救急車やパトカーがサイレン鳴らして走っていくのを。あれは絶対何かあったわね」

「何か、って何さ」

「さあ。そこまでは知らないけど」

「なによー、そこが重要でしょうに」

 傍から聞けば中身のない、彼女らがいつもやっている他愛のない噂話だ。しかしそれはエリモにとって聞き捨てならないものだった。

「それ本当ですか」

「な、何よ。珍しく喋ったかと思ったらこの子」

「本当なんですか、その話!」

 詳細を聞き出そうと職員らに食ってかかったエリモだったが、彼女らから大した情報を得られる筈も無く――居ても立っても居られなくなり、直後、制止を振り切り孤児院から飛び出した。

 確かめねばならなかった。シルクの来訪がはたと途絶えてしまったことと、職員らが話していた屋敷で起きたという「何か」。それらがとても無関係には思えなかったからだ。

 公園へ向かうつもりだった予定は変わり、その足取りは山の中腹にあるあの屋敷へ。車に乗せて連れられたことしかないので正確な経路は分からない。なのでひたすら山の方を見上げ、屋敷のある方位に向かっていくという方法で少女は道を辿っていった。

 途中の横断歩道の信号待ちも惜しく、車列の間隙を強行突破した。クラクションの音が背中を粟立てたが止まっていられなかった。

 平野地を抜け建物はまばらになり、木々が道路脇に繁る峠道に入る。なだらかで冗長な坂を、息せき切って駆け上がっていく。屋敷までは遠い。視界には見えているが、山の中腹との標高差もあって、エリモの脚力でもそう易々と辿り着けそうにない。

 徐々に落ちていく脚のペースと裏腹に胸騒ぎは収まらず、嫌な予感が加速する。孤児院の職員達は何かがあったと邪推していた。緊急車両が向かうような事態があの屋敷で起こったのだ、と。

 どうか何事もあって欲しくない。直接会って顔を見て確かめたい。それだけを思い、エリモは必死に屋敷への上り道を駆ける。

 その時だった。

 坂を上っていくエリモと擦れ違うように、目の前のカーブから躍り出てきた一台の乗用車が目に入る。どこにでもあるような、地味な灰色の大型ワゴン車だった。それは何ら変哲のない対向車のうちの一台に思われた。

 しかし、それを目にした途端にエリモは鋭敏に感じ取った。その感覚の赴くまま、思わず立ち止まって少女は見た。眼前を擦過していくワゴン車の後部席のスモークガラス越しに、座席にもたれている自分と年端変わらぬ少女の姿を。

 それは紛れも無くシルクだった。が、最初の一刹那、エリモはとてもそれがシルク当人とは信じられなかった。

 何故なら車に乗せられていた彼女は――あの未来の夢を誓い合った時の煌々と輝く目とは打って変わって――生気の抜けた虚ろな目をしていたからだ。

「ジャスティスちゃん!」

 一呼吸遅れて我に返り思わず叫んだ。それに応じるわけもなく、車はその間にもどんどん坂道を下り遠ざかっていく。

 一体どこへいくのか。どうしていつものリムジンじゃないのか。あの光の欠けた瞳は何を意味するのか。

 疑問は沢山あったがそれどころではない。エリモも元来た道を駆け降りだした。それまで以上に懸命に車を追い掛けた。必死に追い縋った。でないと、二度と会えなくなるような気がして――。

「待って、……っ、待って」

 だが、ここまでで既に相当な体力を消耗してしまっている。意思とは裏腹に、脚はもつれ息継ぎが追っつかない。どんどん距離は離されていく。

 行かないで。

 独りぼっちだった私に初めて出来た友達。

 私に光をくれたかけがえのないひと。

 私を置いて行かないで――。

 前方の交差点で車が停車した。赤信号に捕まっている。

 もう脚は限界だ。アスファルトを踏み締める感覚は希薄になり、両膝は自分のものでないかの如く震え痺れる。針でも呑み込んだかのような鋭痛が肺を苛んでいる。

 それでも両手を差し出し、縋るように、間近にまで迫った。後部座席の窓へ駆け寄り、呼び掛けようとした、が――。

 あと一息で、手が届きそうになりかけたところで信号が変わった。再発進した車の排煙を浴びせられて咽る。その間に車は交差点を左折し終えると、見通しのある直線をぐんぐん加速していった。

 陽の落ちていく空にエンジン音は吸い込まれ薄れていく。瞬く間に車の尾灯も見えなくなった。

 どうして、

 なぜなの。

 何の説明も、別離の挨拶も無かった。突如降って湧いた不条理に胸が鋭く締め上げられ、大粒の涙が零れる。

 一緒に行くって、二人で約束したのに。

 ジャスティスちゃん――……。

 あまりにも唐突な別れに、再び孤独になった少女は路上にうずくまり、声にならぬ声で慟哭した。その叫びさえも山から吹き下ろす風に掻き消され、誰にも届くことはなかった。

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