トレセン学園を南下して多摩川を渡り、西へ数キロ進むとニュータウンが広がっている。四半世紀前に高台を切り拓き、「多摩の田園調布」を目標に開発された住宅街は、映画『耳をすませば』の舞台となった街でもある。
整備された閑静な街並みが続くその一画に、明らかに異様な雰囲気を放つ邸宅が存在した。
建物自体は一昔前の日本家屋で、四、五世帯がまるごと居住できそうなほど大きな住宅である。
が、目を引くのはその敷地を覆うように張り巡らされた鋼鉄製のうすら高い柵で、箇所によって二重三重にも据付られたそれは人の侵入を阻むのは勿論のこと、容易に破壊することも出来そうにない。
それだけ見れば、家主が対外セキュリティを厳重にしたいのだと思うだろう。しかし、この邸宅を覆うそれはまるで──その中に在る者を抜け目なく収監しようとする「牢屋の檻」を思わせた。
「遅くなって、すみません」
「た、只今帰りました」
その邸宅の中、ちょうど建物の中央に位置する居間にて。
ぎこちない笑みを浮かべながら数人の少女が帰宅の挨拶をする。紫色の制服を着たトレセン生だった。
畳を敷き詰めた広い居間の奥に正座していた老婆が、帰宅報告を受け破顔する。
「おお、おお、ご苦労様だね。仕事はどうだったかえ。なにせ私の知り合いの高級料亭の料理番だ、アルバイトとはいえ緊張感があってよかろう? さあさあ、夕餉も向こうに置いてあるから、温め直して食べなさい。汗かいたんなら先に風呂でも構わないからね」
あの喝上げ不良達を、ひと睨みで追い払った老婆だった。
ニコニコと笑みを浮かべる老婆の口調は柔らかく、懇ろな印象を与える。昼間に不良達と相対した時とはまるで違う。
しかし帰宅したウマ娘達は老婆の前で、慄くように背筋をぴんと伸ばしたままだ。
「あ、あの、大家さん。私達、話があるんですけど」
「その……私達、もうすぐメイクデビューを考えてるんです」
やや間を置いてから、ウマ娘達は遠慮がちに老婆へ相談事を始めた。腫れ物を扱う様な、慎重でおどおどした口調で。
「だから、働く時間をもう少し調整していただけないでしょうか」
「ちょっとでもトレーニングする時間を作りたいんです。春のレースも、もうすぐ始まるから」
彼女らはこの老婆の邸宅を下宿先として住んでいるトレセン生だった。それも、昨今の流行に漏れず家賃代わりの労働力を提供するスタイルで生活しているらしい。
そんな彼女らもシルク達のように、本格的なレース参戦を間近に控えワークライフバランスを見直したいとのことで、家主であり雇主でもある老婆に直訴するところだった。
「レース、だって?」
だが、話を聞いた途端に老婆の様子は豹変した。声のトーンはぐっと落ち、にこやかな笑みは消え代わりに般若の如き形相が浮き出る。
「レースなんか、出なくていいんだよっ。アンタ達は、この家で、私と契約を結んで住まわせてもらっている身だろうっ。だから私の決めた事は、絶対なんだよっ。レースなんか出なくたっていいんだ、ウマ娘だから、レースに出なくちゃいけないなんて誰が言った、誰が決めたんだいっ。オマエ達は黙って私の言うとおりに従って働いてればいいんだっ。さもなくば飯だって抜きにするよっ、家の外の柵をもっと立てて、学園にだって行かせなくするよっ。いいかい、二度とレースに出たいだなんて言うんじゃあないよっ、分かったかっ」
ヒステリックに声を荒げ、ぜえぜえと息を切らし老婆は一気に捲し立てる。取り付く島もない、鬼気迫る勢いだった。
ウマ娘達は剣幕にすっかりたじろいでしまい、涙目になる者もいた。
「まったく、アンタらウマ娘ときたら、二言目にはレース、レースって……あんなもの、絶対許しはしないよ、絶対だ、……怪我し……潰れ……くらいなら……」
しゅんとなった入居者達をじろりと見渡し、老婆はぶつぶつと繰り言を呟くと、畳の上をよろよろと歩き居間を後にする。
「そこの、新入りっ」
廊下に繋がる襖を開けると、ちょうど外で待ち控えていた少女に老婆は命じる。
その少女もトレセン生らしかった。
黒鹿毛のこぢんまりとした、気弱そうなウマ娘。
「私はもう寝るよ。後片付けをしておくんだよ、いいね」
未だ溜飲の下がらない声色で告げると、老婆は薄暗い廊下の角に消えていった。
エリモダンディーはその背を、憂惧と憐憫のこもった目で見つめていた。