古き良き日本家屋といった風情の屋敷に潜入したダッツは、エリモに先導され応接間へ通された。
畳敷きの応接間は調度品や家具が程よい間隔で配され、落ち着いた雰囲気を醸している。どこからか漂ってくる香の匂いは、ダッツがかつて暮らした祖父の家を思わせた。
「ははあ、やっぱりでかい家だなあ。部屋もおっきいし、中はきれいだ」
八谷の下宿とは全く異なる屋敷内の風景を、興味の向くままにあちこち見回す。
「あのう、これどうぞ……」
座布団に胡坐をかいたダッツへと、エリモは来客用の湯呑み茶碗を差し出した。中身は渋みを抑えた緑茶だ。付き合わせにお茶とよくあう和菓子も皿に載せて供応する。こうした対応もエリモの仕事の内だった。
「食べていいの! いただきます!」
ダッツは出された茶菓子を見るなり頬張った。腹が空いていたらしく、一瞬で平らげてしまった。
そのがっつきぶりにエリモは目を瞬く。
「このお菓子美味いな! でもやっぱ、ちゃんと昼ご飯、食べとくんだったなあ。シルクってば、いきなり送り込むんだもんなあ。うう、お腹空いた……」
ぶつぶつと呟くダッツはさておき、エリモは気を取り直し来客応対に舵を戻す。
「間も無く家主が来ますから、もう少し、待ってて下さい」
「あ……うん! オイラにはその、お構いなくってよ、だぞ!」
たどたどしくダッツは答える。シルクからなるべくボロを出すな、と釘を刺されたことを思い出した。
しかし偵察という性に合わないことを任されたとあって、いかんせん地に足が着いていない。
そわそわするのを抑え込もうと、ダッツはぺちぺちと頬を叩いた。その弾みで今度はお腹がぐう、と鳴る。まるで落ち着きがない。
そんな姿を、エリモは待ち控えながら不思議そうに見守っている。
ふと、二人の目が合った。
「あの、なにか……?」
「そういえばお前、シルクと昔からの友達なんだっけ」
間を持たそうと、ダッツはその場で思いついた疑問を投げ掛けることにした。
以前にもランが同様の質問をしたことがあったが、その際、ダッツはうたた寝していたので覚えていない。
エリモにとっては二度目のやり取りだったが、その時と同様に伏し目がちに応じる。
「……そう、です。小さい頃から知り合いで、いつも一緒に遊んでたの。ジャスティスちゃんは……私のたった一人の友達だったから」
エリモは身を揺らし、照れた表情を浮かべる。
その様子がどこかいじらしく、ダッツも屈託無く「へえ、そうなんだ!」と相槌を打つ。
しかしすぐさま、ランと同じく根本的な疑問が浮かんでくる。
「でも変だな。シルクの方は、そんな事知らない、エリモの事なんか知らない、って言い張ってたぞ!」
ダッツに問われ、エリモの瞳が微かに揺れた。眉尻は下がり、困り顔になっている。
「ってことは、
額に指を押し当てながら、ダッツはうーんと唸りだした。
疑いを向けられているようで、エリモは気弱そうに身を竦める。
が、やがて肝を据えた表情に変わると、「嘘じゃないです」と言った。大声ではないが、何か強い意志を感じさせるものだった。
「……そっか。ごめんな、変なこと言って」呆気に取られたダッツだったが、やがて両手を広げ楽観した表情で答えた。「お前、嘘をついてる匂いがしないぞ。もしかしたら、単にシルクが忘れてるだけかもしれないな!」
自分で云いながら、ダッツは納得顔で大きく頷いた。
エリモも呆気に取られたが、ダッツの素直で野性的な言動に感化されたのか、口元を綻ばせた。それにつられてダッツも白い歯を見せた。
天然で空気が読めず落ち着きのないダッツだが、親和的な雰囲気を作り、即興で他者と打ち解けるのは上手かった。
偵察という役割は早くも忘れかけているが。
「あの、ダッツさん。この屋敷に下宿するつもりなら……辞めておいた方がいいです」
急に顔色を変え、エリモは切り出した。
「ど、どうしてだ?」偵察という本題を思い出し、ダッツは慌てて訊く。
「ここに住むウマ娘たちは、皆、学園に通う時間も割いて働かなくちゃいけないんです。トレーニングしたり、レースに出る余裕は、殆ど与えられないの。だから……下宿先を探すのなら、他を当たった方がいいと思います」
エリモは深刻な面差しだった。なんとなく友好的になったダッツを思っての忠告だった。
さすがのダッツも、真顔にならざるを得ない。
「そんなに大変なのか、ここって」
「……はい。私もここには住みはじめたばかりだけど、先に住んでる皆の様子を見ていると、とても……」
沈んだ表情のエリモを見て、ダッツはおぼろげながら直感した。シルクの立てた仮説はどうやら当たっている。このブラック屋敷は、本当にブラック下宿らしい。
まだ何かある、それをもっと偵察して暴かねば、自分はそのためにここへ来た。そんな使命感がはたらき、ダッツは身を乗り出す。
「エリモ、もっと詳しい事を聞かせて欲しいぞ!」
自分には難しい判断は出来ない。だが無線を通して話を聞いているシルクやランなら一計を案じてくれる。そう思い、協力的になってくれているエリモから更なる情報を引き出そうとした。
「何を吹き込んでいるのかね、エリモさんや」その時だった。地の底から響いてくるような、おどろおどろしい声がしたのは。
エリモもダッツも、驚いて跳ね上がる。
見ると、応接間と廊下を隔てる襖に小さな穴が開かれていて、そこにぎょろりと三白眼が覗いているではないか。
「いけないねぇ。折角の下宿希望のお客様を、追い返すような事しちゃあ」
襖がシャッと開かれ、家主の老婆が応接間に入り込んできた。口角を上げ、気の良さそうな笑みを浮かべている。が、目は全く笑っていない。
初対面のダッツには、その表情は般若の面に思えた。
「あう、その……」
蛇に睨まれた蛙のように身を硬くしたエリモは、返事をしようとするも言葉が出ない。老婆の剣幕に萎縮してしまったらしい。
「エリモさんや」
「は、はい」
「お客様は、あとは私が。アナタには風呂場の掃除でも頼もうかね。ついでに、今日もお参りに行くから道具を準備しといておくれ。それから……後で話があるからね」
「う……」
「聞こえなかったかね。さっさと用事をこなしてきなさい、分かったかっ!」
「は……はいっ」
老婆の怒号に追いやられるように、エリモは応接間から出て行った。
エリモに対し凄味を醸す老婆から、ダッツの野生の勘はただならぬものを感じ取った。おそらくこの老婆が、クラスメイト達に過重労働を強いて続々と不登校の沼に沈めている、ブラック下宿の根源なのだと。
「さて、どうも慌ただしくて済まないねえお嬢さん。名前は、アルダッツさんだったかえ? ウチに下宿したいから、内見に来てくれたんだってねえ。わざわざこんな所までご足労頂いて。事前に連絡をくれれば送迎くらい寄越したのに」
様相を一変させ、いやに温和になった老婆に、ダッツは怯まず立ち向かった。
「……オバサン、オイラ分かっちゃったぞ。オバサンがクラスの皆を、働かせてまくってるんだな。皆、学園に行きたいのに、レースにだって出なきゃいけないのに。それを邪魔するなんて、それって、“ジドーギャクタイ”っていうんだぞ!」
食い下がるダッツを、老婆は無表情になって見つめている。
「だから、その、ここにいる皆をカイホウして欲しいぞ! 一杯働かせるのも、勘弁して! オイラ達ウマ娘は走ることが本当なんだ、走らなきゃいけないんだ! 皆本当に、困ってるんだぞ!」
言葉も語彙も足りていないが、ダッツなりの精一杯の説得だった。偵察という所期の目的を逸脱した行為だが、言わずにはいられなかった。
老婆は何も答えようとしない。しわがれた頬を細かく震わせ、何かをじっと逡巡している。
一触即発。かと思われたが、その直後。
ぐぅ──ぅぅ──
応接間に、唸り音。空腹の鳴き声が派手に響く。
「あ、あれれ……」
同時に、立ち上がったばかりのダッツはその場で膝をついた。
力が抜けるようだった。これからブラック屋敷の主と対峙するというところで、彼女は萎れてしまう。
「おんやぁ? お嬢さんもしや」その隙に付け入るように、老婆は再び相好を崩した。そして、ダッツのもとにしゃがみ込んでにたりと嗤う。「お腹、空かしてるねぇ?」
図星を指され、ダッツは思わず肩を揺らした。
老婆の指摘は当たっていた。シルクのブラック下宿調査に付き合ってからこっち、ダッツは朝食以降何も口にしていない。いつもならとうに昼食を摂り昼寝に洒落込む時間帯にもかかわらず、屋敷への潜入とそれに伴う緊張により抑え込まれていた空腹感が、この局面で急激に首をもたげてきたのである。
それは、育ち盛りでよく食べるダッツにとって堪え難いものだった。昼食を欠き脱力したダッツは、顔が濡れて力が出ないア⚫︎パ⚫︎マンも同然だった。
「オ……オイラ平気だぞ、空腹ぐらい……」
それでもダッツは歯を食いしばった。俯瞰する老婆を強く睨み返した。
空腹にかまけて老婆のペースに乗せられてはならぬという直感があった。偵察を任された責任もある。ここで負けてなるか、空腹くらいで屈するものか。
しかしそんな健気な反骨心は、いとも容易く砕かれる。
「お嬢さん、遠慮なんていらないからねえ」
老婆はぱんぱんと手を叩いた。それに呼応するように襖が開き、廊下から屋敷に先住するウマ娘達が数名入室してきた。そのうちの一人は、人力車のような籠を曳いている。
「お前たち、居間にお運びしろ。もてなしておやり」
老婆に命令されるがまま、先住者達は動きの鈍ったダッツを抱えて籠へ座らせた。
「わーっ、なんだ、なんだー!」
ダッツを乗せると、先住者達によりエッサホイサと曳かれた籠は、応接間を出て廊下をずんずん進んだ。広い屋敷を右に左に往くと、程無くしてだだっ広い居間へ到着する。
「どわーっ!? あいたた……」
停止時の踏ん張りで、ダッツは籠から前のめりに転げ落ちて尻餅をつく。しかし、その痛みを感じている暇はなかった。
鼻腔をくすぐる食の香りに、ダッツははたと身を起こした。見ると、眼前の居間の机上には溢れんばかりの御馳走の山々が連なっているではないか。
それは、先住ウマ娘達が昼食として食んでいた満漢全席だった。誰もあまり手を付けようとしなかったので、その殆どが残ったままだ。空腹極まる今のダッツの目には、まさしくそれは宝の山に見え、思わず口から滝の如く涎を垂らした。
「ほうら、お腹空いているんだろう。構わないよ、食べても。おかわりだってあるからね」
いつの間にか背後に立った老婆が、畳み掛けるように唆す。圧倒的食欲を前に、風前の灯火となったダッツの理性を溶かすように。
「この屋敷に住めば毎日、たらふく食わせてあげるよぉ。食に不自由はさせないからねぇ」
「あう、う、ううう……」
目をぐるぐる回しながら悶絶するダッツ。その視界には盛り付けられた食の連峰が迫ってきている。ダッツが操縦してきた偵察機はもはや燃料切れで、その山稜に不時着しようとしていた。
「さあさ、冷めないうちにたんと召し上がれ。アルダッツさんや、これを食って……アンタもここの『家族』になるんだよっ」
強かに宣言しながら、老婆は会心の笑みを浮かべた。
偵察の使命感と抗い難い空腹感でせめぎ合っていたダッツの情緒はその瞬間、滅茶苦茶に弾けた。
「オ、オ、オイラ。お、お、お腹減ったぞおおおおおぉぉ!! ────……」
とめどない食欲に圧し負けたダッツは喊声を上げ、満漢全席の只中に飛び込んでいった。大蛇のようにのたうち回った彼女は、目に入った御馳走を欲望のままに片っ端から平らげていく。その脳裏に、もはや偵察の二文字は無かった。
また一人犠牲者が……と悲嘆にくれる面持ちの先住ウマ娘達。
老婆は嗤いを浮かべたまま満足げにひとり頷き、その光景を俯瞰していた。