ニュータウン方向へ伸びる都道の只中にアラームが鳴り響く。
陽が落ち薄暗くなった歩道で手押し車を止めた老婆は、懐からその音の発振源たる機械を取り出した。手のひらに収まるほど小型の端末が、赤ランプを点滅させ鳴動している。
老婆は唖然とし、端末に触れてアラームを停止させた。その表情はたちまち険しいものへと変貌していく。
今しがた鳴動した端末は、老婆の屋敷のセキュリティシステムと連動しているものだった。屋敷を囲う柵に何者かが触れたことが、警戒情報として送信されてきたのだ。
老婆にとってそれは、自身の屋敷に下宿する誰かが柵に触れ逃げようとしている、という意味に他ならない。
再び手押し車を押し始めた老婆は、それまでと比べ物にならない歩調でずんずんと進んでいく。その姿からは怒気と恐慌が見て取れる。
とはいえやはり歳を重ねた身。数百メートル先の交差点にまで至ったところで、既に老婆はぜえぜえと息を吐いた。皺くちゃの顔面は蒼白になり、脚はふるふると振動する有り様だ。
「ぐぬぬ、あの子たちを、レースになんぞ出させは……」
それでも老婆は呻きつつ足並みを継続する。異変が起きているであろう屋敷へいち早く戻ろうと。一体何が彼女をそこまで駆り立てるのだろうか。
と、老婆が交差点を進もうとしたその時だ。
一台のオープンカーが躍り込んできた。派手なエンジン音を響かせながら猪突してきたその車は、ちょうど眼前を横断しようとしていた老婆の姿を認め急制動をとった。余程速度がでていたのか、甲高いブレーキ音を鳴らした車両はつんのめるような格好で老婆の目の前で停車した。
驚いた老婆はその場で尻餅をつく。
「何しやがるこのババア、危ねえだろ、この車が目に入らなかったのか!」
運転手がオープンカーから身を乗り出して叫んだ。まだ若い学生風の少年だ。同乗している他の数名も同様の風体だった。
「いきなり何だよ急ブレーキ踏みやがって、おでこぶつけたじゃんか」
「イキがって飛ばすからだよ」
「うるせえ。兄貴から借りたこの車はなあ、ピーキーなんだよ。それに、あの婆さんが急に飛び出してくるから悪いんだ!」
各々勝手に喚き散らす彼らは、見覚えのある面子だった。あの喝上げ不良連中だ。
この日も学校をサボタージュしていた彼らは、ツテで借りた車を乗り回してあちこちを練り歩いていた。一日中遊び呆けたシメに繁華街でラーメンでも食べようと、街道を飛ばしているさなかに老婆と出くわしたのだ。
「おうおう、婆さん。どう落とし前つけてくれるんだ──って、げげっ……」
いつもの不良節で老婆を脅しつけようとした不良達だったが、すぐにその正体に思い当たる。
「ぎゃっ! こいつは……」
「あ、あの偏屈ババアじゃねえか。逃げろっ!」
老婆の異常性を既に身をもって知っている彼らは激しく狼狽えた。車を急発進させてすぐさまその場を退散しようとする。
しかし、その進路上に再度立ち塞がった老婆により遮られた。
轢かれるとただでは済まないのに何を考えているのか。不良達がそんなことを思い浮かべた隙を狙い澄ましたかのように、老婆はぬるりとオープンカーへと歩み寄ってきて──まるで呼び止めたタクシーに乗り込むかのように──颯爽と後部座席へと乗り込んだ。
突然のことに、不良達は呆気に取られ言葉が出てこない。
「出しな」
「……へっ?」
「早く出すんだっ。先導するからワタシの家へ向かうんだよっ。早くおしっ!」
鬼の様な剣幕で迫られ、不良達は竦み上がる。
「いやいやいや!」
「何で乗っけなきゃならねえんだ」
「お、降りろよっ。俺の車だぞ!」
やっとのことで言い返した不良達だったが、その目の前で老婆は懐から革財布を取り出し中身をちらつかせた。中には、札束が詰まっている。数十万はくだらない額だ。
「早くおし……謝礼は弾む、手遅れになる前に、さぁ」
皺まみれの顔に汗を滲ませ、絞り出すような声で老婆が告げた。
何故ここまで必死になるのか、不良達には皆目見当がつかない。
が、一つだけ単純明快なことがある。それはこの老婆のいう通りにすれば、たんまりと謝礼が貰えるであろうということだ。ただでさえ金に目がない単細胞の不良達が、そこを見逃すわけがなかった。
「お、おいどうするよ」
「あれだけ貰えりゃ当分遊ぶ金に困らねえぜ……!」
「でも相手はあのババアだぞ」
「バカ、よく考えろ。ちょいとアッシーするだけで大金ゲットだぜ」
「だ、だよな。しゃあねえな!」
「い、急いでんなら仕方ねえ。婆さんしっかり掴まってろよ!」
金に目が眩み買収された不良達は、喜び勇んで車を発進させた。
慣性に激しく揺さぶられる後部座席で、老婆は瞳に執念の炎を滾らせていた。
***
屋敷では下宿生達の脱出がほぼ完了しつつあった。
柵の内側で順番待ちをしていた残り数名が万バ橋を渡り、先に脱出して外側で待ち受ける下宿生達の輪に囲われていく。このままいけば解放劇は無事に幕を引けそうである。
無論これで万事解決するわけではない。脱出を果たした下宿生達は留年回避すべく年度末まで登校し続けねばならないし、そして何より、これからの寄宿先を改めて見つける必要もある。人並みの競走生活を取り戻すための課題は多く残されている。
それでも今は、誰もがほっと一息といった表情を見せていた。
(よかったな)
そんな下宿生達を見ながらシルクはそう思った。
荒唐無稽な事をした自覚はある。クラスメイト達を扇動し、担任を恫喝したうえ、仮にも他所様の住居へ忍び込んでは逐電を教唆した。後にこの件が露見すれば、また学園側から槍玉に挙げられるのは目に見えている。
それでもシルクは正しいと思ったからした。自分と同じウマ娘の競走生活の危機を見過ごせまいとして、明快かつ最短の手段をもって己が正義を執行した。後に自分が非難されようと、過激な行動を咎められようと、後悔はしない。これがトレセン学園入学以降、方々で超法規的所業を繰り広げてきたシルクの一貫した流儀だった。
しかし、どうやら感傷に浸るのはまだ早いらしい。
どこからともなく轟いてくる爆音を一同は察知する。それは徐々に音量を増し、接近してくるように感じられた。
「車のエンジン音……?」そう思ったと同時にシルクは電流の如き危機感を知覚した。そして、すぐさま万バ橋を構成するクラスメイト達に発令する。
「おいっ、今すぐ橋を戻せ。この態勢のままだと不味い」
「え、急になに!?」ランが慌てて訊き返す。
「この近付いてくるエンジン音、妙だ。家主が帰ってきたかもしれねえ。急げっ!」
シルクのがなり声は、根拠無くとも一同を突き動かすには十分な切迫感だった。それを受けて万バ橋はすぐさま撤収に掛かる。
「傾斜復元、橋を起こせえッ!」
屋敷の柵を越えるアーチを形成していた一同は組み上げ当初のタワー状に復元すべく、やおら柵の外側へと上体を起こすように跳開していく。そうして橋を垂直状態に戻したところで、上に登った者から順次下降し万バ橋を解体する段取りだった。
とはいえ下宿生の脱出まで橋を維持し続けただけあり、一同それなりに疲労がある。垂直状態への復元動作は思った以上に緩慢だ。
屋敷側のたもとを務めたシルクが、ようやくタワーの上へと戻ってきたその時。屋敷の一つ隣の角を猛烈な勢いで曲がり込んでくる一台のオープンカーが目に留まる。異常な爆音を発しているのはその車に違いなかった。
つづけて下宿生達が次々に狼狽の声を上げた。彼女らは見た。車の後部座席から体を乗り出し、こちらを険しく見据える老婆の姿を。
嫌な予感は的中した。家主は、戻ってきたのだ。
「そこの家だっ。その屋敷で止めるんだっ」
老婆は車を操る不良に命じた。
「ははーっ仰せのままに!」
たんまり謝礼を貰えると思い込んでいる不良達は、今やすっかり老婆の奴隷と化していた。
けたたましいスキール音をまき散らした車は門扉の横、脱出した下宿生達や撤収途中の万バ橋が集う場所目掛け迫ってくる。反射的に一同はそこから飛び退いた。
「うわっ、やっぱり家主よ!」
「か、帰ってきちゃったの!?」
「こっちに来る!」
「どわ──っ!」
その喧噪の影響か、動揺が伝播したのか。解体の只中にあった万バ橋が俄かにぐらりと揺れる。上部に乗っていたシルクは瞬間、投げ出されるような感覚を覚えた。
「く、崩れるわっ!?」
「危ない、落ちるー!?」
直後には、万バ橋は左右に揺られながら瓦解をはじめた。橋を構成していた者達はころころと地面へ転げ落ち、柵の外側で折り重なってひっくり返った。
「いたぁ……。どうなってるのよ一体」
上から二番目を構成していたランも振り落とされ、腰を押さえながら身を起こした。彼女をはじめ、万バ橋が崩れたことで大きな怪我をした者はいないようだったが、即座に緊迫の事態を悟り喚声を上げた。
「シ……シルクッ!」
見ると柵の内側──すなわち、屋敷の敷地内にシルクがただ一人、転落しているではないか。橋の崩落の際てっぺんにいた彼女は特に大きく煽られたため、運悪く屋敷側の方へと転げ落ちてしまったらしい。
さらに悪いことに、地面に突っ伏したままのシルクは起き上がる気配がない。打ち所が悪かったのか、気を失っているのだろうか。
「シ、シルクしっかりしろ! おい、シルクーっ!」
ダッツも叫んで呼び掛ける。
「大丈夫なの!?」
「た、立ってー!」
「解放運動のリーダーが!」
クラスメイト達も柵外から声を掛ける。
土壇場で思いも寄らぬピンチが訪れた。不運にもシルクだけが、屋敷の敷地側に取り残される事態となってしまった。
せっかく解放された下宿生達も、協力してここまできたランやダッツ、クラスメイト達も、ブラック屋敷解放の立役者であるシルクを見捨てていくことなど出来ない。
ここに至ってウマ娘達は、柵を挟んだその場に釘付け状態とならざるを得なくなった。このままでは解放活動は不完全となる。
果たしてその局面を察知したのか、老婆は能面を歪めると懐から小さな端末を取り出した。先刻、ダッツが柵に触れた情報を受信した機械だ。それを操作すると、すぐ横の門扉が重い音を立てて開いた。あの端末を使えば、屋敷のセキュリティ関連を一通り取り扱えるらしい。
「中に車をつけなさい」
老婆は不良に指図し、開け放たれた門へと車を進ませた。車両が通ると即座に門は閉じられ、屋敷の敷地内に停止した車から老婆は降り立った。そして、倒れ伏したままのシルクの方へ近づいていく。
まずい。窓際クラス一同に危機感が走った。
老婆は既に見抜いている、シルクが今回の脱走劇の首魁であることを。そのシルクへ何らかの制裁を加えるつもりではないか。だが柵外へ逆に隔離されてしまった立場の一同には、シルクを援護する術がない。
同胞の危機を見守ることしかできないのか──。ランがそう歯噛みしたのと、地面に突っ伏していたシルクがついと立ち上がったのは同時だった。
「えっ……シルク!? あなた大丈夫なの!?」
ランの問い掛けにシルクはちらと横目だけを寄越した。落ち着いていながらも気迫の籠った目だった。まるで「あとはアタシがやる」とでも言いたげな。今まで気を失っていたとは思えない様子だ。
それだけでランは察す。
もしや、シルクはわざと柵の内側に残ったのか。仲間を安全な柵外に退避させてから、家主と一対一で直接対峙するために。気絶していたのは相手をおびき寄せるための単なるフェイクだった──。
「ケリはアタシがつけてやる」
キッと目を吊り上げ、シルクは指をこきりと鳴らした。