正義の名のもとに   作:李座空

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第一章
峠の交錯(1)


 フロントガラス越しに前方を見渡せば片側三車線を覆い尽くす車列に、赤色尾灯が寝起き眼に染みる。

 朝の甲州街道上り線は通勤・通学車両でごった返しており、青果市場辺りからはとりわけ交通の流れが悪い。主要因はトレセン学園の関係車両によるもので、一つの信号で複数回足止めされるのも当たり前だ。元から高額だった学園内の学生寮の家賃が年々跳ね上がり、止む無く近隣から通学する生徒が増えたという裏事情も拍車をかけているらしい。

 左足を貧乏ゆすりしつつ、ハンドルを握る島原保貴(しまばらやすき)はフロントガラス上の車内時計を見遣る。いつもならまだ深い眠りの中にいる頃合いだ。

 早起きは三文の徳というが、珍しく早起きしたってのにこれか――そう思いながら白髪混じりの頭を掻いた。通勤・通学の時間帯に車を走らせるのがしばらくぶりで、学園周辺の一般道は早朝から渋滞するのを忘れていた痛恨に歯噛みする。

 苛立ちをほぐそうとジャージの胸ポケットから何本目かの煙草を取り出そうとするも、それも丁度空箱だ。

「ちぇ、もう切らしてやんの」

 買い溜めの持ち合わせもなく、項垂れてハンドルに顎を乗せる。

 助手席側の窓外を、薄紫色の学園制服を着たウマ娘らが複数人駆けていった。路側帯を徒歩ですり抜けしていったのだ。原付バイク以上の機動力を有する学園生は、渋滞など意に介さずストレスフリーで学園まで辿り着ける。ズルいぞお前ら、と心中で毒づく。

 前方車列がようやく動き出したので、ブレーキペダルから足を離し、クリープ現象を利用してじりじりと前進する。数秒そのままで詰めたのち、車間距離が広がったので、アクセルを弱く踏んですっと加速。これでようやく信号を抜けられるかと思った矢先、目と鼻の先で灯る黄色信号。

 もう勘弁してくれ抜けるぞ、と強く踏み込もうとしたと同時、交差点左方に雌伏するパトカーが目に入り慌てて白線手前で停止する。

 ネズミ捕りに気付けなかったのか、右の追越車線から飛び出てしまった他車はたちまち餌食となり、一巻きのサイレンで道路脇へ誘導されていった。

 嗚呼、南無三。

 ひとり呟きながらハンドルから顔を上げて男は苦笑した。

 その脇の同乗者のいない助手席に、ひらりと何か舞い落ちた。開け放しだったダッシュボードの収納ボックス。雑貨や書類やらが無造作に押し込まれていたそこから急停車した際のショックで、一枚の写真が抜け落ちたのだ。

 経年で随分と色褪せた、セピア色の古い写真だった。

 薄緑のターフを背景に、数名の大人達と一人のウマ娘の少女が横並びで写っている。レース後に撮られた記念写真であろうか。特異な勝負服を纏う少女は満面の笑みを浮かべながら、背丈ほどはあろう優勝レイを肩から提げている。

 信号待ちの間、男はおもむろに写真を手に取り、術無い表情で眺めながら思いを馳せる。

 ――この子が今の自分を見たらどう思うだろう。未練がましくトレーナーの真似事を続けている自分を。

 あまつさえ、自分はこの競走界に災厄を齎そうとしている――。

 物思いに耽りかけたその時、車内に着信音が鳴り響いた。男の携帯電話だ。使い古されたガラケーをズボンポケットから取り出し、画面に表示された発信源の名前を確認して眉を顰める。「学園事務課」とあった。

 嘆息したのち、受話ボタンを押し込む。

「はい、島原ですが。……あぁ、おはようございます。今ですか。国立インター手前の交差点で絶賛渋滞中であります。定時出勤を今日こそはと意気込んでいたところで――

 え?ウチの担当バが。……はぁ、県境の峠で。……はぁ。……あぁそうですか。毎度、ご面倒をおかけしまして申し訳ありません。直ちにこちらで確認いたしますので、詳細は後ほど……

 ……え?これで何度目か……と。は、それは重々承知しております。こちらでもきつ~く言い聞かせておきますので。……はい、……ハイ、ハァ。分かりました。ハァ、それでは……」

 通話が終える頃にはげんなりした顔になった男は、携帯を助手席に投げ出すと、青信号となった交差点を左折した。

 急遽出した左ウィンカーは、学園とは異なる方位だ。脇道に逸れた車は路地を縫って国立インターチェンジ入口へ辿り、そこから中央自動車道に乗った。

 結局今日も遅刻か。

 料金所でそうぼやいた男にとってはその実、支払わねばならない高速代の方が痛かった。もう何度目か分からない「身内の尻拭い」には最早、経費が下りないのが分かっていたからだ。

 合流車線に進み、思い切りアクセルを踏み込んで本線へ合流する。速度の上昇とともに車体は激しく振動し、開け放していたダッシュボードの中身が今度は丸ごと助手席とその足もとへ落ちた。

 ろくに暖房も効かない車内には、ひゅうひゅうと隙間風も入り出す。身を切るような冬の風に首筋をくすぐられ、男は思わずくしゃみを一発。跳ねた鼻水が口元にまで滴る。

「うへぇ、きたな……」

 ハンドルを放した左手で、助手席に積もった雑貨と書類の山から紙を一枚摘む。A4サイズの更紙にお堅い書式。学園からの業務書類だ。その文が一瞬目に留まるも、気にせず人中に押し当てちーんと鼻かむ。

『宛:島原トレーナー殿

 発:トレセン学園人事部人事課

 表題:就業状況への警告

 本文:表題にある通り、本文書は、貴殿の就業状況改善をあらためて督責するものである。貴殿においては、再三再四指摘しているにもかかわらず、度重なる遅刻、欠勤、提出義務書類未提出、定例トレーナー会議欠席、担当ウマ娘の監督不行届等、本校が定めたトレーナー就業規則及び服務規程の不履行を多数確認している。

 特に、貴殿の主宰する『チーム・アルルバ』に属するウマ娘は、貴殿の監督不行届に起因する素行悪化の傾向が顕著である。

 ついては来る○月△日、貴殿に対し業務進捗及び勤労意思確認の面談を行うため、学園に出頭されたい。詳細は――』

 そんな内容が記された書類は直後、くしゃくしゃに丸めてハンドル横の灰皿へ押し込まれた。

 くたびれ様相の中年おやじ・島原の運転する古めかしいトヨタ《パブリカ・スターレット》は今にもくたばりそうな唸りを上げ、八王子・相模湖方面への下り線を物凄い勢いでひた走る。走行距離二〇万キロ越えの旧車が爆走する姿はどこか滑稽で、朝ラッシュで混む上り線のドライバー達の目を引いていた。

 

 ***

 

 遡ること数十分前。

 まだ陽も上がらぬ夜明け前だというのに、峠道の沿道にはギャラリーの若者達がたむろし、そこかしこで無邪気に輪を作りはしゃいでいる。気温は氷点下を下回るかどうかという冷え込みにもかかわらず、彼ら彼女らはスポーツ観戦者のような熱気を醸しながら、各々押さえたロケーションで今か今かとその時を待ち侘びていた。

 東京都八王子市と神奈川県相模原市を繋ぐ大垂水峠(国道20号線)は昔から走り屋の聖地と云われている。峠区間の全長およそ六キロ、車両が通常走行した場合の所要時間約一〇分、ヘアピンやタイトなコーナー区間が連続する、走り応えのあるいわば「山のサーキット」である。

 今日に至るまで、そこではスピードに魅せられた猛者達がチューンを施した二輪や四輪を駆って限界に挑んできた。目にも止まらぬ速度でストレートを駆けたと思えば、その勢いのままに急カーブをギリギリのコーナリングでクリアしていく。吠える猛獣の如く響き渡るエンジンやドリフトの音。ミス一つ許されないギリギリのハンドルワークから繰り出される意地とプライドの激突。刺激を求める若者らにとってそれらは一つの確立されたエンターテイメントであり、走り屋にギャラリーが附く所以でもある。

 そう、今夜この大垂水に集ったギャラリー達のお目当ても、やはり峠のレース観戦なのだ。

 しかし一言にレースといっても、この日ここで行われるのは四輪車両やバイクによるモータースポーツではない。

 今宵の大垂水峠の主役となる者達は、既にその戦いの火蓋を切っていた。

「来たぞ、足音が聞こえる」

「こりゃ団子状態だ、のっけからバチバチじゃないのか」

「先頭は誰なの、先頭は!」

「そんなの、『チーム・フォーリナ』に決まってるわ!」

 高尾リサイクルセンター前のロングストレート。ここもギャラリー達が多く陣取るスポットであり、そこに集った連中は今まさに興奮の歓声を上げる。

 それもその筈、このストレートに間も無くレースの先頭集団が現れようというタイミングだった。八王子方に目線を向けると険しい上り勾配の高速カーブを背に、夜街灯を浴びながら走者集団が姿を現す。

 やはりそれは単車でも四輪車でもない。一見するとヒトに似ていながら、頭頂に突き出る二房の耳に、腰部からたなびく長い尻尾が特徴的な異種族。常人を遥かに凌ぐ脚力を以て、生身のまま最高時速六〇キロ以上で疾駆する彼女らを人々はこう呼ぶ。「ウマ娘」と。

 推して知るべし、今宵の峠の主役は彼女らである。

「ダッツ、こっちよ!」

 リサイクルセンター前のストレート。コース上で待つ青鹿毛のウマ娘が、向かってくる走者集団へ向けて目一杯声を張る。彼女の周囲では他の娘達も同様に、向かってくる集団へ我が位置をアピールするように口々に叫んでいる。

 コース上で待ち構えていたウマ娘達と、走ってきた集団が次々に交錯した。ここまで走ってきた者達はその際、めいめい腕や肩に巻いていた「タスキ」の腕章を手渡していく。

 路上で待ち受けていた者達は助走しながらそれを受け取ると、続々と蹴り出し峠道を上がっていった。走者交代の為に待ち構えていたのだ。

 リレー式レースが施行されているようである。次走者にバトン代わりのタスキを託した走者達は、続々とその場の路上に座り込んだり膝をついたりして息を整えた。八王子側からヒルクライムで急坂を上ってきたのだ。誰もがそれなりの消耗をしてきたらしい。

「頼んだぞー、ラン!」

「お疲れダッツ、あとは任されて」

 ダッツ、と呼ばれた娘もつつがなくタスキを繋ぎ、委譲された青鹿毛がカーブに消えるのを見届けたのち路上に大の字で天を仰ぐ。

「ぜえ、はあ、しんどー……ヒルクライムきつ過ぎ」

 名をアルダッツといった。赤色に近しい鹿毛を短く切った、腕白で人懐こそうな見た目のウマ娘だ。ダッツと呼ばれていたのは渾名だろう。

 他の走者のタスキパスが一巡したのを見計らって、ダッツは沿道へと待避する。見渡すと、ギャラリー達が寄り集まってきて贔屓の走者の健闘を称えたり労ったりと、賑わいができている。

 リサイクルセンター前に集まっていたギャラリーは、担当区間を走り終えた贔屓のウマ娘との交流目当てだったのだろう。差し入れを手渡す者や、首ったけに会話しようとする者、カメラ片手にツーショットを求める者、色紙を抱いてサインをねだる者と様々だ。

 夜明け前の人里離れた峠であるという点を除けば、ありふれた競走ウマ娘とそのファンの交流風景だ。

 しかしその場に集ったギャラリーの殆どは、ある一箇所に殺到していた。輪の中心にはとりわけ衆目を集める、派手派手しい見た目のウマ娘達がいる。目鼻立ちや体つき、煌びやかな髪色が日本育ちのウマ娘とは一線を画した、どこか浮世離れして見える走者達だ。

「凄いな、今夜も『フォーリナ』が一区トップ独占だ」

「流石はこの峠で走り込んでるだけのことはあるわ!」

「キレのあるコーナリング、シビれたよ~」

「写真撮ってよ、ツーショットで!」

「サインして、サイン!」

 独特な雰囲気を醸す彼女らを囲い、ファンの若者らが浮き立つ。

 それを諫めるように『フォーリナ』の面々の一人がキザに手を振り上げて応じる。

「フン、当然サ。この峠はミー達のホームグラウンド。トゥインクルシリーズで鳴らしたストロングなウマ娘であろうト、ここじゃミー達走り屋『フォーリナ』の敵じゃなイ。たとえダービーウマ娘だろうガ、三冠バだろうガ、来るなら来いダ!Ahahaha!」

 カタコトな言葉遣いから放たれる傲岸不遜な宣言に、ファン達はさらに喝采を上げた。

 フォーリナ(foreigner)――訳すると「異邦人」を意味するチーム名と浮世離れした外見が示す通り、彼女達は異国育ちのウマ娘だ。

 日本国外で産まれたウマ娘は所謂「マル外」扱いで、長年日本のトゥインクルシリーズへの出場には大きな制約を課されてきたが、段階的にその制限が緩和されつつある。そうした背景もあり、日本競走界で旗挙げを目論む海外産まれのウマ娘が近年見られるようになってきたのは、遍く知れた話だ。彼女達もその口である。

 その一方で「チーム・フォーリナ」は、この峠を根城に走り込む野良レーサーとしての一面も有していた。構成員の全てがマル外ウマ娘で占められ、日本のウマ娘には無い破天荒でアウトローな気質が若者の支持を集めているらしい。所属人員は数十名を数え、チーム内でも数組のリレー面子を組んで峠に繰り出してくるという。

 特筆すべきことに、「フォーリナ」は峠の野良レースで一度も部外者に負けたことがないのだという。それは峠の無敗伝説として巷でも噂になり、その無敗を打ち破ろうと挑戦する者も日夜絶えない。

 その実、今宵の峠各所に馳せ参じたギャラリー達も「フォーリナ」の応援と活躍を見に来た者がほとんどだ。この峠のレースのメインイベンターは無敗の王者フォーリナであり、他の走者は挑戦者という対決構図が見て取れた。

「今夜も見せてヤル、この峠のヒーローが一体誰なのかをナ!」

 交流のひと段落の締めに、フォーリナのキザ娘が決まり文句で場を沸かせる。ギャラリーの盛り上がりもひとしおだ。

(よく言うよ。やってくれたな、アイツら)

 それを傍目にダッツは唇を噛み、内心で毒づく。

 そして、予測された事態が裏側で進行していることをあらためて認識した。峠の麓からの第一区区間を走ってきた彼女はつぶさに見てきたのだ、「チーム・フォーリナ」の隠された一面を。

「気をつけろよ、ラン!」

 すっくと立ち上がり、山頂方位を見上げダッツは叫んだ。タスキを託した相手――ランと呼ばれたウマ娘が走り去った方角へ。

 高く響いた声に周囲の誰もがぎょっと振り向く。フォーリナの面々も一瞬呆気に取られたものの、肩を竦めると居丈高にダッツを睨み据えた。

 夜明けの迫る峠の木々が、風に煽られざわざわと不穏に揺れていた。

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