ブラック家主の老婆とシルク。
屋敷の敷地内で両者の睨み合いが始まった。日没後の寒さも忘れる緊迫感がその場を満たし、周囲の者は固唾を呑んで見守っている。
先に口火を切ったのは老婆からだった。
「アンタだね。ワタシの子供たちを唆し、連れ去ろうとしているのは」
「子供、だと……」
老婆の言葉を反芻しながら、シルクは悪寒が走るようだった。
自分の屋敷に下宿するウマ娘達のことを指して言ったのか。下宿生達はこの老婆の血の繋がった娘ではないというのに、妙に生々しい呼び方に思えた。
だがブラックな下宿環境でこき使い、学園での競走生活を妨げ、ウマ娘の本懐である「走る」ことを踏み躙っておきながら、いったいどんな思いで子供などといえるのか。
底の測れぬ老婆の暗部を感じ取りつつ、シルクも慎重に切り返す。
「婆さん。あんたの屋敷の下宿生達は解放させてもらう。連中はここの過当な労働と拘束のせいで、まともな競走生活が送れねえ。このままじゃ留年してまともにレースで活躍できず引退になっちまう。それは走ることを志してきた競走ウマ娘にとって不本意で──」
「……レースだって?」
途中で口を挟んできた老婆からおどろおどろしい圧迫を感じ、シルクは無意識に身構える。
果たして直後、くわっと感情を剥き出しにした形相で老婆は一挙に甲走った。
「どいつもこいつも、あんたらウマ娘は皆そうだっ。レースなんてものに何故こだわる、どうしてそんなものに固執するっ。競走? 学園? トゥインクルシリーズ? そんなものは全部、全部……ワタシにとっちゃ糞くらえだよっ。そこにいる何千、何万という者のうち、レースで勝って成功できるのはほんの一握りだろうっ。自信と若さに任せて臨んでいったウマ娘の殆どは、絶望し打ちのめされ、何も得ることもできず去るだけだっ。それが如何に残酷な事実か、若いアンタたちはまだ想像も出来ていないんだっ」
老婆の声はいつしか訴えかけるような悲痛さを帯びていく。それを聞く周囲の誰もが圧倒され、その言葉に耳を傾けざるを得ない。
「勝てなかった者、途中で脱落する者、潰れた者の末路はね、ひたすらに惨めで救いもない。レースってのは、競走界の本質は……そういうムゴイ世界だっ。うら若いアンタらは、その食いモノにされているだけなんだっ。URAに踊らされ見世物にされ、消費されていく家畜そのものだっ。それがワタシには堪えられない、見ていられないっ。だからレースになんぞアンタらは出させないっ。ワタシの家に下宿に来てくれた子達には、レースに関わらない生き方をさせる、その為にワタシは行動してきたんだっ。今更その邪魔はさせないよ、断じてだっ」
奇声で強弁する老婆の目には、やがて涙すら浮かび始めていた。彼女の発した異様な雰囲気は屋敷一帯を覆っていくようだった。
シルク一行は、ブラック環境を強いてきた老婆が晒した底意に衝撃を受けずにはいられなかった。特に老婆の下宿生達にとっては、同じ家に住んでいながら初めて聞く胸の内だけあって尚更だ。
老婆は彼女なりに、競走界に対し極めて批判的意見を抱いているようだ。学園へ通わせずレースから遠ざけようとした理由の大元はそこにあるらしい。それはウマ娘の強靭な労働力を搾取し利を得んとする世間一般のブラック下宿構造とは全く異なるものだ。老婆の語った言葉をそのまま受け取るなら、彼女はウマ娘を「競走」という過酷な世界から掬い上げようとしたのだ。さらには競走界を管理運営するURAへの敵意も感じられる。
では一体何が老婆をそこまで駆り立てるのか。ブラック下宿を経営し、軟禁紛いの手法でウマ娘を競走から切り離そうとする。常識的に考えて、このような迂遠な手段をとること自体が異常だ。そこには未だ見えぬ老婆の闇の深さを感じずにいられない。
「一体何なの……このおばさん」
「お、オイラ怖くなってきたよう」
傍らで見守っていたランとダッツは、毒気に当てられたようにすっかり及び腰になっていた。他のクラスメイト達も全く同様で、場の空気は早くも老婆に掌握されたかに思われた。
「それだけか」
が、その瘴気を打ち払うようにシルクが言葉を返す。「言いてえことはそれだけか」
「ナニッ?」
歪んだ般若面で老婆がつと睨み付ける。周囲のウマ娘達が恐れ慄きひっと呻く。シルクは身じろぎ一つせずそれを見据えた。
「黙って聞いてりゃ、随分好き勝手にウマ娘を語ってくれたな。レースの世界が如何に過酷で残酷なものかだって? 青臭えアタシらにはそれが分からねえだと? んなことは百も承知なんだよ。それを分かった上でみなレースの世界に身を投じてんだ」
勢いのある声色だが、老婆を言い諭すような雰囲気でシルクが続ける。場の空気が押し戻されていく。
「知ってるか? 『ウマ娘は走るために生まれてきた。ときに数奇で、ときに輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。それが運命』、なんだと。学園が掲げるスローガンの一つだ。大仰だが言い得て妙な文言だ。ウマ娘として生を受けたからこそ分かる。そう、アタシらウマ娘は抗えない……本能的に走りの世界を目指しちまう。たとえそれが如何に苦難で険しい茨の道って分かっていようがこの宿命からは逃れられない。挑み続けるしかねえのさ。
走ること、レースで勝つこと。ウマ娘にとってそれは気高い目標であり至上の夢だ。これは何人たりとも侵せない、神聖かつ尊いものだ。理屈じゃねえ。この世に生まれ落ち、名を与えられた瞬間に与えられるかけがえのない本懐なんだよ」
いつしかその場はシルクの論壇へと変化していた。教室での一幕と同じだ。誰もが彼女の卓説に聞き入っている。
「分かるまい。ウマ娘じゃないただのヒトにはこの気持ちは分からねえさ。貴重な青春を走ることに捧げ、確かに大成するのはごく一部の優れた者のみ、走りに固執する余り人生を狂わせた奴だってごまんといる。馬鹿の一つ覚えみてえにも映るだろう。ただそれを見世物だの家畜だのと蔑み、今もって邪魔しようってんなら──婆さん、アンタのしてることはアタシらウマ娘への冒涜だ。そんな独善に身近な者が巻き込まれ、目の前で押し潰されていくのを黙って見ちゃいられねえ。同じウマ娘として許すわけにはいかねえんだ。
だからアンタの下宿生達はここで解放させてもらう。アタシはやるといったらやるウマ娘だ、やめるつもりはないぜ。止められるものなら止めてみやがれ」
そう締め括ったシルクは両腕を掲げ身構えた。その姿からは、老婆の繰り出す如何な手練手管も打破する気概が見て取れる。
現に流れは大きく変わろうとしていた。シルクに論駁された老婆に、俄かに異変が生じる。
「うう、ぐぐ、うううぅ」
すすり泣く様な呻き声を上げながら老婆はよろめきだした。顔色も先程までと違ってどこか悪く、両手で胸の辺りを押さえて苦しげである。
見ると、押さえていた両手の間から首飾りのようなものが零れ出た。ロケットペンダントらしかった。老婆が首から提げていたものだろうか。
老婆はがたがた震える手でロケットの蓋を開いた。ロケットペンダントは開閉式で、中には小さい写真が入っている。老婆は縋るような目でそこに写る少女を見つめていた。無邪気に微笑むウマ娘だった。
「走りたい……走るのが、本懐……あの子も、ずっと言っていた。怪我……してからも……ずっと。うう、うう」
呻きは徐々に大きくなり、とうとう老婆はその場で膝をつき人目も憚らず本格的に泣き出した。先程までの妖気にも似た雰囲気は鳴りを潜め、今の彼女は悲愴さでしわがれた薄弱老人になり下がったかのようだ。
あまりの老婆の弱体化ぶりに、周囲の一同も相対するシルクも思わず呆気に取られた。シルクの舌鋒を受けての変化に見えたが、何が老婆の琴線に触れたのかが飲み込めず、展開が腑に落ちない。
置いてけぼりを食ったかのように当惑する周囲を尻目に、泣きじゃくる老婆は遠い過去に思いを馳せていた。先程の墓参りの時と同様に。
『お母さん、今度のレース見に来てね、絶対だよ』
『お母さん、私勝ったよ。一着をとったんだよ』
『お母さん、私今度はG1レースに出られるんだよ』
『お母さん、お母さん──』
その脳裏には、老婆が愛してやまなかった一人娘の幻影が浮かんでは消えていく。
微笑ましく、愛おしい光景の数々だが、それはある時を境に一変する。
『お母さん、痛い。痛いよう』
『お母さん、私もうレースには出られないの?』
『お母さん、もう私は走れないの? ウマ娘なのに、走るのが本懐なのに。また走りたい、レースに出たい……』
『お母さん、助けて。怖いよ……』
『お母さん、お母さん……』
大事な想い出は悲劇に収束していき、その幻聴が反響して老婆を苛む。
猛烈な悔恨に締め上げられるように老婆は喚き続ける。まるで過ちを懺悔するように。
「ううう、ごめんね、ごめんね、うううう……」
一体誰に向けて何を謝っているのか、知る由も無いシルクは肩を竦めた。すっかり錯乱状態となった老婆を前に、ケリをつけると意気込んでいたのに肩透かしを食らった感じだ。
「な……泣くなよ婆さん。一体どういう展開だよこれ」
こんな形で決着するという想定はさすがに無かったので、どうしたものかと首を捻っていたが、そこへ場違いな声が挿し込まれる。
「や、やいやいシルクジャスティス! そこまでにしやがれ」
すっかり蚊帳の外になっていた不良学生連中だった。彼らはオープンカーから身を乗り出して待ったを掛けている。
「いたいけな老人を泣かせるなんてひでえぞ!」
「そうだそうだ!」
不良達はガラにもなく老婆を擁護する発言をした。老婆を屋敷まで送り届ければ報酬を得られると踏んでいた彼らだが、錯乱した依頼主を見かねて助太刀しようというのだ。このまま老婆が屈する展開にでもなれば、報酬の話が有耶無耶になるのではと危惧しての行動だった。
「何だてめえら。居たのか」
目に入らなかった、とばかりにシルクは鼻を鳴らした。
不良達はムッとする。
「くそ、このウマヤロー。俺らなんぞ眼中にねえってか」
「ここで会ったが百年目、この前の借りを返してやらあ!」
いつになく粋がる不良連中。何せ大金がかかっているのだ。
「それにこっちにはこれがある。兄貴譲りの三〇〇馬力超えのモンスターマシンに勝てるもんかよ、このタコ!」
運転役の不良が盛大にエンジンを空ぶかしする。必要以上の騒音を撒き散らす車は、スポーツタイプのオープンカーだ。その実態は違法改造も織り込まれた文字通りのモンスターマシンだった。いざとなれば、自分が運転するその車をも武器にする腹積もりらしい。
それでもなおシルクは涼しい顔で、
「何でここにいるのか知らんが、これはウマ娘の問題だ。テメエらの出る幕はねえ、とっとと失せろ」造作も無く宣うとしっしっと手を払った。
売り言葉に買い言葉。不良達はなにくそ、と歯を食いしばる。今はそう簡単に引き下がろうとしない。
「いい気になってられんのも今のうちだっ」
運転手の不良は運転席に座り込むとギアチェンジレバーを手繰る。ドライブレンジに入った車はタイヤを派手に空転させると、急加速でその場より発進した。弾かれたように飛び出したオープンカーはシルク目掛け瞬く間に肉薄する。
「危ないシルク!」ランが思わず叫ぶ。不良達は衝突も辞さないつもりだ。
シルクは咄嗟に横っ跳びで回避した。間一髪だ。
車は屋敷の庭園をタイヤで踏み荒らしながら、急転回でなおも迫ってくる。
「避けただとぉ。ちょこざいな!」
「お、おい。流石に全速力でぶつけたらヤバくねぇか?」
「相手はウマ娘だ、それも、あの泣く子も黙るシルクジャスティスだぞ。全力でいかねえとコッチがやられようが!」
「た、確かに……」
「オラオラーッ!」
老婆からの報酬を賭けて、不良達は本気で挑んでいる様子だ。馬力だけは旺盛な車に振り回されながら何度もアタックを試みた。
勢い余って車を外周柵に打ちつけたり、庭園の石垣に乗り上げたりしようとお構い無しだ。錯乱した老婆のように、目先の金に目が眩んだ彼らも何かが吹っ切れてしまったようだ。
柵外の一同からは悲鳴が上がった。
「大変よ! 危ないわ大将が」
「はねられたら怪我しちゃう」
「避けてー!」
柵内では修羅場が巻き起こっている。一歩間違えれば大事故に繋がる事態を目の当たりにしての真っ当な反応だった。
もっともシルクにとっては、この程度は修羅場のうちに入らないらしい。
「バカな真似を。てめえらやっぱ何も懲りてねえようだな」
何度目かの突進を躱しながらシルクはごちた。そして彼女は胸を張って居直ると、向かって来る車に正面から目を据えた。
あわや衝突か。そう思われた直後、車がつんのめるように車体後部をぐわんと宙に浮かせた。
「な、なにー!?」
乗車していた不良達は驚愕のあまり目を剥いた。なんと車のフロント部分の切っ先をシルクが素手で受け止めていた。車体の尻が浮き上がったのは、彼女の力で押し止められたからだ。
「車を使えば勝てるとでも思ったのか? ウマ娘の力をなめんじゃねえ。外野はすっこんでろッ」
力を込めたシルクの腕に青筋が浮かぶ。彼女は車体を掴む手を思い切り上方に振り抜いた。
オープンカーはまるでちゃぶ台返しされたように宙を舞い、ちょうど一回転半し逆さ向きで地べたに墜落した。衝撃でフロントガラスは粉々になり、ボンネットもだらしなく半開きになっている。
乗っていた不良達はというと地面に放り出され、ひっくり返った車とシルクとを見比べながら悲鳴を上げていた。
「ひ……ひえぇーっ!」
「お、俺の兄貴の車が……」
「あばばば……」
柵外のクラスメイト達も開いた口が塞がらない。舌戦から大立ち回りまでやってのけるシルクを前に唯々圧巻だった。結局こうなるのねと、ランは頭を抱えている。
「一応正当防衛だかんな。これに懲りたら車をあんなふうに使うなっ」
まっとうな忠言を吐き捨てると、シルクは再び老婆へ向き直った。