老婆はその場でうずくまり背を震わせたままだった。今の騒ぎも意に介さず取り乱し、恐慌状態にあるように見えた。
やれやれ、とシルクはあらためて嘆息する。相手がこうなってはどう落としどころをつけたものか。これまで成敗してきた数々の相手の中には、泣き落としや油断させる目的でこうした振舞いをする者もいたがこの老婆はどうも様子が違う。どうやら何かトラウマめいた過去が思い当たり咽び泣いているようで、演技とは思えない。
「分かっていない……アンタたちは……レース、危な……怪我……ううう」
老婆はその間にも涙声でぶつぶつとうわごとを漏らしている。
やれ仕方ない、最後にガツンと言い聞かせて終わりにしてやるか──思案の末シルクはそう決めた。二度とブラック下宿でトレセン生を苦しめることのないよう念を押し、この場は手打ちにしようとした。
「おい、婆さん──」
しかしその時だった。不意に鼻腔に異臭が漂ってきて、シルクは呼び掛け声を止める。
身に覚えのある臭いだった。今まで嗅いだことが何度もある。街中でガソリンスタンドの脇を通ると鼻につく香り。
ガソリンの臭いだ。
ふと脇に目を向けると、ひっくり返ったオープンカーを不良達が協力して押し戻そうとしている。
「ふぐぐぐうっ」
「重てええ……」
「畜生、兄貴の車をこんなにしやがってぇ」
車は不良達数人がかりの力もあって、転覆状態からすぐ復帰された。既に車体は半壊しているにもかかわらず、不良達はまだ諦め切れないらしい。
「くっそー、これしきで」
「修理代は高くつくぞ!」
歪んだドアを抉じ開け乗車すると、シルクへ再戦する態勢を整えようとしている。
嫌な予感がシルクの肌を衝き、思わず叫んだ。
「おい待て、エンジンを回すな!」
「あ? 何だとぉ?」
「ガソリンが漏れてるかもしれねえ、エンジンを点火させんじゃねえ!」
「何をごちゃごちゃと、このまま引き下が──」
シルクの忠告は、無知蒙昧な不良達が理解するには一足遅かった。
車がキーを回し、エンジンを点火させる際にはスパークが生じる。その際車体が損傷してガソリンが漏れていようものなら、引火して炎上する危険性があることをシルクは知識として知っていた。しかし不良達はそんなことは露知らず、停止した車を再起動するべくイグニションさせてしまった。
本来、市販の車は安全基準を満たしていてそう簡単に引火したりはしない、が、不良達の車は荒唐無稽に手を加えた魔改造車だ。ゆえにこうしたトラブルへの耐性は薄くなっている。
案の定、エンジンが回されたと同時に赤炎が弾けて車を一気に覆った。
「どわー!?」
「あちち、アヒィ!?」
不良達は衣服や髪に火を帯びつつすぐさま車から飛び降りる。悪運が強いらしく、すぐ逃げ遂せたので軽い火傷だけで済みそうだった。
「言わんこっちゃねえ……!」
だが問題はそれだけで済みそうにない。
「何だ? 火が、地面を走って……」
なんと火元となった車から、周囲の庭園へと炎が瞬く間に拡がっていくではないか。いくらなんでも延焼が早すぎる。
ふと、シルクは周りの地面に染みのような模様が四方八方に伸びているのに気付いた。
まさかこれもガソリンか──そういえば、さっき自分を追い回す際にあちらこちらに車体をぶつけていた。その時から漏れ出していたとすれば、既に屋敷の庭一帯に撒き散らされてしまったのではないか。だとすれば延焼の早さに納得がいく。
「こりゃマズいぞ……!」
乾燥した冬の気候や、屋敷が木造の日本家屋であることも加味すれば、あっという間に大火となる。単なる車両火災の域に留まらぬほどに──そう予期したシルクは咄嗟に動いた。
「ラン、ダッツ! 皆と協力して柵をぶち破れ!」
まず退路を確保すべく、柵の外の仲間に指示を飛ばす。
付き合いの長さで要領を得ているらしく、二人は即座にシルクの声に従った。
「この柵を、破っちゃえばいいのね!?」
「わ、わかったぞ!」
柵の中は準密室状態だ。癖のある門扉は一斉に複数人の通行ができず、外周柵はよじ登って脱出するには体力面で老婆が不適。火の回りが早く身の危険が迫っている以上、シルクは手っ取り早くクラス一同による柵の破壊を選んだ。
「ここを押し広げて隙間を作るわ。皆で左右に引っ張って!」
「急ぐぞ! せぇのーっ!」
ランとダッツの音頭に合わせ、柵の一点に寄り集まった三十名超のウマ娘が力を込めて外周柵を引き破る。さすがに途方もないエネルギー量だ。ちょっとやそっとではびくともしない鋼鉄製の柵はさけるチーズの如くぐにゃりと拉げ、あっという間に人ひとりが通れるだけの隙間が出来た。
「シルク、ここを通って!」
ラン達は必死に脱出を促した。柵の外から見ていると、火勢の強さが明らかだった。撒布されたガソリンにより早くも庭全体に火が立ち、建物にも延焼するのは時間の問題だ。
「さあ、ぼさっとしてねえで早く外に出ろ。焼け死にてえか!」
シルクはまず不良連中を外へ脱出させた。車を失い火に巻かれ恐慌状態にあった彼らには、シルクの鶴の一声がよく効いた。
「に、逃げろォーッ」
「死にたくねえぇ!」
我先にと柵の隙間をぎちぎちに詰め合い突破していった彼らは、脱出を果たすと散り散りに壊走していった。今回の火災に関わる重要参考人であるが、構っている場合ではない。
「ちっ、アンタもいつまでそうしてんだ!」
その間に老婆の方へ駆け寄り、強引に引き起こした。周囲に広がった真っ赤な炎を前にしても、老婆はその場で茫然としている。
「火……、火が……ああ、同じだ……あの時と」
「またぶつぶつと何言ってやがる。立て、火に巻かれるぞ!」
「あの子も、あの日……火の中で……ワタシのせいだ、ワタシがあの子を一人にした……! うわああああ──」
解釈不明な繰り言を宣い、パニックを起こす老婆に対しこれ以上加減する余裕は無かった。
「ああ、くそ! 大人しくしてろっ」
シルクは無理矢理老婆を抱え上げた。手足を揺すって暴れる老婆に構わず、火の手を避け脱出口まで一足飛びした。
直後、先程まで二人が居た草地も陽炎に飲まれていった。出火から僅かの時間ですっかり火は庭を覆いつくしてしまった。本体の屋敷にも所々で火が燃え移り、本格的な家屋火災に移行しつつある。
「どうどう、お婆さん暴れないで」
「ぅぷっ、お腹叩かないでオバサン……」
柵外で待つランとダッツへ老婆を引き渡し、シルクも柵の裂け目に足を掛ける。
と同時に、背後で大きな炸裂音がした。振り返ると火元となった車体の部品が飛散するのが見えた。二次爆発を起こしたらしく、火の玉のように飛散した大小幾つもの残骸が屋敷の襖を突き破って中に飛び込んだ。
誰かが119番通報したのだろうか、遠くに消防サイレンが響き始めた。気付けば柵の周囲にもちらほらと野次馬が集まってきている。
穏便にブラック屋敷解放を遂げるはずがすっかり大事になってしまい、シルクは人知れずため息をついた。
こうなると事後処理は難儀しそうだ。学園や生徒会、さらには警察からも様々な聴取を受けることは想像に難くない。また、火災で老婆の屋敷に少なからず被害を生んだのもさすがにばつが悪かった。火災の直接原因を作ったのは不良少年達とはいえ、自分の立ち回りいかんでは防げたとシルクは自省する。当然これについてものちに追及されるだろう。
とはいえ、ブラック下宿に囚われていたクラスメイトを救うという目標はこれにて達されたことになる。
「シルク、早くこっちに」
「のんびりしてると火が来るぞ!」
チームメイト二人に促され、頷いたシルクは最後の脱出者として柵を跨ごうとした。
しかしその時だ。
頭頂の耳から尻尾の先まで貫くような電流がシルクに走った。それは慮外の第六感とでもいうべき鮮烈な直感だった。
動悸がする。肌が粟立つ。まだだ、まだここを去ってはいけない──そんな余寒がしてシルクは今一度、屋敷の方へ振り仰ぐ。
視界には、火に炙られ外側から赤黒く変色していく屋敷の光景がいっぱいに映る。火は恐るべき早さで屋敷内へ回り始めた。依然として火勢が衰える気配はなく、もし取り残されている者などがいればひとたまりもないだろう。
まさか、と無意識のうちにシルクは呟いていた。第六感が告げた最悪の光景が、脳裏を掠めた。
そしてその予感を裏付けるように直後、柵外で一人のクラスメイトが悲鳴を上げる。屋敷に囚われていた下宿生の一人だった。皆が振り向き注目する中、顔面蒼白となったそのウマ娘は震え声で告げる。
「た、足りないの。あと一人、人数が足りない……まだ誰か、あの屋敷に取り残されてるかもしれない……!」
「そっ、それって」その言葉にいち早く思い当たったのはランだった。「……エリモちゃんなんじゃ!?」
燃え盛る業火を背に、瞬間、そこにいる誰もが凍り付いた。