堅牢な鉄格子の嵌った窓の外は橙色の炎に埋め尽くされていた。廊下の方からは異常な熱気が立ち昇り、戸の隙間より灰色の煙が流れ込んでくる。部屋の温度が急激に上がり、咽るような息苦しさをエリモは感じた。
「げほ、げほっ」
床にうつ伏せてハンカチで口元を覆ったが、息苦しさにたまらず咳き込んだ。煙が確実に部屋に溜まり呼吸を苛んでいくのを実感する。
もっと早くに力づくで部屋を出ていれば──咽せて滲んだ視界を見つめながら、エリモは後悔していた。
懲罰として老婆に自室へ閉じ込められて以降、エリモは動けずじっと辛抱していた。その間にシルク達が屋敷の解放活動にやって来たことはおぼろげに感知していたが、敢えて部屋から飛び出していこうとはしなかった。懲罰用の「バ房」と化した部屋の戸締りが思いのほか厳重だったからだ。戸口には錠を掛けられており、直接外に通じる窓には外周柵と同質の鉄格子も嵌められている。その気になればウマ娘の怪力を用いて抜け出すことは可能だろうが、屋敷の設備を損壊してまで逃げ出すのは繊細な彼女には躊躇われた。
ジャスティスちゃんがきっと来る、気付くはず。それまで待とう──心のどこかでそんな期待もあった。よってエリモは辛抱を続け、窓から外の様子を窺っていた。部屋の配置上、その窓から外の動きは見えなかったがシルクの優勢を信じ彼女は待ち続けた。
しかし事態は急転した。途中、発破音がしたかと思うと、外の庭先に火が立つのが見えた。
何が起こったのか、どうなっているのか。窓の格子の合間から状況を確かめようとしていると、みるみるうちに庭全体が燃え上がっていくのを認めた。乾燥した空気や屋敷の木造も手伝って、火勢はどんどん強くなり屋敷に燃え移ろうとしている。
さすがに異常事態であるとエリモも思った。身の危険を感じ部屋からの脱出を決意した。窓の外の庭は既に火が差し迫っているので、部屋の出入りに使う戸を押し破ろうとした。それなりに頑丈で施錠もされていたが、本気で体当たりすれば一分足らずで破れる強度だった。
ところがその最中に再び発破音がした。外から屋敷の中へ、何かが飛び込んでくるような音もする。車が二次爆発を起こしたことによるものだった。
これに尻込みしたエリモの手が止まる。そのほんの少しの隙にも、火の手が屋敷内を驚きの早さで侵食していく。
気を取り直して再度突破を試みようと戸に手をつくが、あまりの熱さにのけぞった。火が回った影響で廊下の温度が異常に高まり、戸板が熱されていた。さらに戸の隙間からは燃焼による煙が漂い、室内の空気も侵し始めた。
自身を覆い始めた灼熱の中、エリモは戸を破るべく抗った。それでも充満してくる火災煙に咳き込み呼吸を阻害され、瞬く間に抵抗は途切れその場にうずくまる。息を得ようとして幾度も咽せ返り、涙で目を腫らした。
やがて手足にも力が入らなくなり、身体が徐々に重苦しくなっていく。身を焦がすような暴威の熱が間近に迫っているのに、身動きが取れない。
(ここで終わるのかな)
ふとそんな諦観がよぎった。我が事ながら他人事にさえ思える淡白な心境だった。
周囲の者達から悪辣な扱いを受け、どこへいっても溶け込めず疎外されてきた幼少の頃から、生への執着は希薄だった。そんなものは手放した方が楽になれそうに思ったこともある。この局面に至ってふいに開き直れるのは、そうした悲愴な経験で得た擦れた精神の功罪だった。
だけど、とも思う。エリモの脳裏にシルクの顔が浮かぶ。それは彼女にとって唯一の心残りだった。
長い時を経て、ようやく再会できた古い友。暗い道を進むしかなかった自分に光を灯し、新たな生きるすべを示してくれた、またとない友。
「大丈夫。私が必ず、あなたを取り戻すから──」あの峠のレースで再会した時そう誓った。かつてあなたが私に光をくれたように、今度は私が、
だからこんな所で諦めたら、ダメだね。そんなんじゃジャスティスちゃんの隣に並ぶ資格はない──。
身の底から湧き出た不思議な活力に衝き動かされ、エリモはやっとの思いで身を起こした。まだ終われない、やらねばならないことがある。
とはいえ室内は既に黒煙が充満し、迫る火災熱で真っ赤な陽炎に包まれている。もはや長くは持たない。万事休すかと思われた。
その時だった。
凄まじい破砕音を立てて部屋の戸が木っ端微塵に砕け散った。施錠に使われていた錠前もろとも戸板は吹き飛び、炎で赤く染まった廊下の光景が見える。
それを背景に浮かび上がる人影が一つ。全身をずぶ濡れのフードで覆った人物が、蹴破りポーズで泰然と揺らめいている。
「てめえはっ」
その人物は室内でうずくまるエリモを認めるや否や、猛然と飛び込んできた。エリモの小さな体を引き起こし、強引に小脇へ抱え込んだ。
「なにしてやがんだ」
エリモはされるがままに、怒声を張り上げるその人物の胴にひしと掴まる。彼女には、それが誰なのかが触れた感覚ですぐに分かった。
退路の廊下は既に火勢で塞がれたと見るや、フードは迷うことなく喊声を上げて格子戸の嵌った窓へダイブした。
「こんなところでぇっ!!」
どれほど猛烈な勢いで突っ込んだのか、格子戸はいともたやすくひん曲がって基部ごと弾け飛んだ。窓を突き破った二人はひと纏まりになって宙を舞う。
そして、その直後であった。ついさっきまでエリモの居た部屋も含めた、屋敷の一部分が轟音とともに爆裂した。火災が家のガス管にまで達し、局地的に爆発を生んだらしかった。瓦や窓ガラス、木材が飛び散り、瞬間的に強烈な爆風を生む。
その爆風が幸運に作用したのか、炎が燃え盛る庭の上を煽られるように飛び越した二人は屋敷の柵をも越え飛翔した。危険地帯をやり過ごした二人は、この瞬間に最後の脱出者としてブラック屋敷を後にした。
強風によりフードが捲れ飛び、その人物の姿が露わとなる。エリモは目を潤ませながら──シルクジャスティスの決死の横顔を見つめていた。