昼休憩でがらんとしている店内にノックが響き、八谷はまかないを食べる手を止めた。昼営業が終わってもう小一時間経つ。外には「準備中」の札も出してある。街の大衆食堂としての色が強い「はちや食堂」に、営業時間外に誤って訪れる客は殆どいない。
「悪いけど昼休みさね。出直しとくれ」
店内カウンターに座ったまま八谷は声を張った。長い飲食店営業で鍛えた喉による、戸外へも聞こえる声だった。顔も出さず接客業としてはぞんざいな応対だが、この店を切り盛りしてきた彼女流のやり方だ。
しかしノックの主と思しき戸口に佇む人影は立ち去るどころか、扉越しに呼び掛けてくる。
「先輩、ご無沙汰してます」
再び八谷の箸が止まる。彼女に微かな動揺が走っていた。
休憩中もつけっぱなしの店内テレビの音声が響く中、カウンターを立った彼女はやや重い足取りで戸口へ向かい、扉を挟んで人影と対峙する。
「……島原か?」
「はい」野太い男の声が外から帰ってくる。八谷にとって聞き覚えのある、嫌でも忘れられぬ声だった。
「何の用だ」
「お願いがあってきました」
「……」
「開けてもらえませんか」
「…………」
胸騒ぎに八谷は押し黙った。神妙な面持ちでしばらく思案したのち、彼女は施錠を解いて戸を開け放つ。
戸外には、くたびれたジャージ姿の中年男がポケットに両手を入れ立ち尽くしていた。チーム・アルルバの主宰トレーナー、島原である。
ただ、いつもなら無気力で気怠げな笑みを浮かべている不良トレーナーは今、謹直な面差しで八谷を見据えている。
「どうも。こうして会うのは……シルク達の下宿を頼みに来た時以来、ですか」
「能書きはいい」八谷は食い気味に言い被せた。「何しにきた」
島原は小さく肩を竦めると、八谷の肩越しに店内をじっと見た。
何かと思い八谷も振り向いた先には、つけっぱなしの店内テレビでちょうどニュース番組が放映されている。
「おや、この火災事故、早速ニュースになってるんだなあ」
テレビを見ながら島原は大層に呟いた。
八谷にはそれがわざとらしい口調に聞こえた。これみよがしな振舞いが島原流の重要な話をする前振りであることも、彼女は知っていた。
「詳細は追々報道されると思うんですが……昨夜隣の市であったこの火災事故、どうもシルク達が一枚噛んでたらしくて。いつもの正義の愚連隊ってやつですな。昨晩学園に連絡が入って、担当トレーナーの僕は真っ先に状況確認に駆り出されててんやわんや。おかげで一睡も出来てませんよ、あはは」
乾いた笑い声を上げながら島原が言う。
「そんなことは知ってる」八谷はにべもなく返した。「私も昨夜、聴取の立会いや身元引き受けに行ったんだ。あの連中ならいつものことだろう」
「ではもう気付きましたか。火災現場の、トレセン生を下宿させてた屋敷の家主。一人暮らしのお婆さんだったようですが、その名前が──」
「言うなっ」
話を遮るように八谷はきっと睨んだ。敵意すら滲ませる目だった。
「偶然とは思えないんです」島原はそれを動じることなく受け止め、冷静な声色で続ける。
「何かこう、今まで欠けていた歯車が噛み合ってとても大きなものが動き出そうとしている……そんな気がするんですよ。先輩なら分かるでしょう。賽は投げられた。時間は限られている。年末に控える『例の改革』が為されるまでに、俺達は──」
「言ったはずだ、私ゃそれには反対だと。アンタらに手を貸すつもりはない!」
再度八谷が口を荒げる。二人だけの店内が静まり返る。
重い沈黙に包まれる中、しばしの後に島原はふっと自虐的な笑みを浮かべた。
「……分かってますとも。先輩の考えも、俺達がやろうとしてることの罪深さも」
八谷は背を向けた。島原を招き入れたことを後悔して太い溜息をつく。「先輩」と称されることに虚しささえこみ上げた。懐かしき上下関係が解消されてもう何十年経つだろう。自分達の歯車が狂ってもうどれだけ経っただろう──。
回顧する背中に、仕切り直した島原の声が伝播してくる。
「本題に入りましょうか。先輩の家にね、もう一人下宿させてやって欲しいウマ娘がいるんです」
「…………」
「例の屋敷に下宿してた子の一人らしくて。家が焼け落ちて困ってそうなもんで。あと一人くらいならここ、住めるでしょう?」
「もしや……」何かがぴんときて八谷は眉をひそめる。「例の、シルクの旧友か」
「その通り。その子は──」大きく頷いた島原の表情には、いつもの憎々しげな微笑が戻りつつある。「──シルクにとっての、鍵になるやもしれぬウマ娘です。お願い、聞いてくれますよね。先輩」
八谷は振り向き後輩の狸顔を忌々しく睨んだ。が、観念するように長い溜息を吐くと店内の椅子に座り込んだ。
「小賢しいね。ウマ娘に関する頼み事なら、私が絶対に断れないと分かっていて」
「その小賢しさを俺に仕込んだのは先輩です」
島原は両手をポケットから出した。直立した姿勢のまま前傾し、頼みます、と頭を下げる。
先輩っていうな、と告げて八谷はもう一度溜息を漏らした。
***
還暦間近のひ弱な風体の男が、教壇に立ち終礼のホームルームを行っている。前任の四十路女担任が依願してクラス担任を降りた影響で急遽その後釜に据えられた彼は、大勢の前で喋ること自体が生来苦手なのか、生徒への業務連絡もたどたどしい。
「えー、これで連絡は以上ですかね。それでは解散……ああそうそう、今日も校門や通学路にマスコミ関係者がちらほら見られますが、周知した通りあまり相手にしないように。では……」
ようやくクラスは解散となり放課後となる。教室に座した欠員無しの「窓際クラス」総勢約四十名は、一日の課業の疲れを労わるように各々屈伸したりため息を吐いたりしている。
「おうい、あなた達いつまで寝てるの。今日は店番手伝う日よ。早く帰って仕込み手伝わないと、またハチさんに文句言われるよ。さあ起きた起きた」
いち早く帰り支度を済ませたランが、隣席で突っ伏して寝ているシルクとダッツの背を揺すった。最終限の授業が終了してもなお惰眠を貪る二人は、気怠い表情で顔を上げる。
「あちゃー、またやっちゃった。お昼ご飯食べてから今までずっと寝ちゃってたぞ」
ダッツが恥ずかしそうに耳を掻く。昼食で満腹になり午後の授業をことごとく寝潰すのは彼女の常道だ。
一方のシルクは、寝起きの充血した目を擦りながら不機嫌そうにあくびを漏らしている。昼寝ですっきりした風情のダッツと異なり、熟睡中に起こされたといった様相だった。
「眠そうね、シルク」
「……昨晩は反省文やら始末書やら片付けてたんだ。理事長宛てだのURA宛てだの生徒会宛てだの、書き分けるの面倒でコピペしたら突き返されたんだよ」
「ただでさえこの前の一件の聴取で忙しいのにねえ」
「まったくだ」と言い捨てシルクは鞄を机にどかっと乗せた。
ブラック屋敷の一件から三日が経った。解放された下宿生達は学園生活への復帰を果たし、留年の危機を脱していた。クラスは全員出席し本来あるべき教室の光景を取り戻しつつある。
一方で、騒動後の事後対応は難儀なものだった。屋敷が火災炎上したことにより消防隊や警察、さらには大くの野次馬が殺到してその後の現場は混迷を極めた。翌日には一連の騒動が新聞やテレビニュースで公表され、関係者はみな事情聴取や説明に数日間追われることとなった。
とりわけ、解放活動の急先鋒に立ったシルクは事件直後より各方面から審問を受けることとなる。燃え盛る屋敷を脱出後に救急搬送されたかと思えば、病院で警察官からたっぷり聴取を受け、退院後には出待ちしていた報道関係者から質問攻めにされた。やっとの思いで学園に這い戻れば、今度は生徒会室に呼び出されて学園の重鎮達から散々に詰められた。
そんな嵐のような三日間を過ごし、さすがのシルクにも疲労が滲んでいる。
「シルクさん、これ飲んで元気出して。にんじんゼリーよ」
「私はこれ、ロイヤルビタージュース」
「カップケーキも合わせてどうぞ」
「学食の招待券、この前廊下に落ちてたの。あげるわ」
「このバナナ、熟してておいしいから」
帰り際に、机の前を横切るクラスメイト達がシルクに様々な物品を置いていった。いずれもブラック屋敷から解放された生徒達だ。老婆の屋敷を失ったため次の下宿先を探さねばならず、多忙なのは彼女らも同様だがそこはお互い様だ。シルクに助け出され本来あるべき競走生活に戻れた彼女らは、相応の恩義を感じているのだろう。連日の取り調べに晒されるシルクを気遣い、こうして差し入れを続けている。
こんなことしてもらうために動いたんじゃないんだが、と呟きつつも差し入れを鞄にしまうシルクは心なしか面映ゆい。
「ほら早く帰りましょ」
「おう」
「だぞ!」
学園を出て、三人はいつもの下校路を早足で進んだ。ランの言ったように、今日は八谷家での定例勤労がある。例によって「はちや食堂」のシフトを手伝わねばならない日だった。
その道中、通りの交差点で信号待ちをしていると横から数名のグループが寄り集まってきた。各々がマイクやカメラ、手帳を片手に我先にとシルクのもとへ群がってくる。
「失礼します。私、ウマスポ新聞部の者ですが。三日前のブラック下宿火災騒動のことをお伺いしたく……」
「月刊トゥインクルの××です。その一件で、大勢のウマ娘を解放し助けたシルクジャスティスさんに独占取材願えませんか」
「火災原因を作った非行少年や、トレセン生を虐げた家主について何かコメントは」
「年末に控える競走界構造改革についても一言!」
彼らはいずれも報道関係者らしかった。幾つかの社局の取材陣が徒党を組んで待ち伏せしていたのだろう。取材対象はやはりシルクで、ブラック屋敷解放事件に関する話を聞きたいらしい。
それに対してシルクは一瞥もくれず、
「学園や警察が発表していることが全てです。この場で答える事は何一つないので、失礼」
慇懃無礼に敬語で宣うと、信号の変わった横断歩道へ足取りを進める。
「ちょっと待って下さい。今回の件で、世間ではあなたを賞賛する声が多く上がっているんですよ」
「そう、だからシルクジャスティスさんの生の声を皆待っています」
「ヒーローインタビューだと思って、一言だけでもお願いしますよぉ」
取り付く島のない対応に、報道陣は容易に諦めず追い縋ってきた。引き剥がされまいと執拗についてくる。
事件後、シルクに対する世間の評価は好意的なものが多数を占めていた。ブラック屋敷のいびつな実態と、火災の直接原因となった不良少年達が早々に出頭して事実関係を認めたこと、そして結果的に多くのウマ娘が競走生活離脱の危機から救われた点が、各種メディアから早々に報じられていたからだ。
無論シルクにも今回の騒動において責任の一端はあるが、以前から繰り広げてきた義賊的活動の下地もあって、今回の行動にも肯定的かつ協賛的な世論が多く上がっていた。
報道陣はそんな彼女からさらなる記事を書く材料を引き出したく、待ち伏せしていたのだ。
だがシルクはマスコミに対して常々一線を引くようにしている。一挙手一投足を都合良く解釈し切り取って、世論を煽る材料とされるのが嫌だった。自分の細かな言動を面白可笑しく記事にされ、不快な思いをしたこともこれまで何度かある。
相変わらずのマスコミの節操なさにシルクは肩を竦め、彼女はランとダッツに小声で耳打ちした。
「おい、撒くぞ」
「そうね」
「分かったぞ」
次の歩行者信号が点滅を始めたのを契機に、三人はスパートを掛けた。
「ああ、待って下さい!」
「一言だけ、一言だけでも」
「信号が変わっちゃったわ!」
ウマ娘の駈歩にヒトが追いつけるものではない。足止めを食った報道陣を尻目に、三人は遥か彼方まで逃げ遂せた。
「撒けたみたいね」
「やったぞ、オイラ達の勝ちー」
駅前通りまで辿り着いて三人は一息ついた。もう追ってはこれまいと踏み、足取りを常歩へ戻す。
「好意的に報道してくれるのはいいけど、この三日間付き纏われてばっかりよね」
「隙あらばオイラ達にもインタビューしに来るぞ。オイラ達にブルーベリーはないのか、ブルーベリーは!」
「それを言うならプライバシーだ。あの件に関してはもう方々で散ざっぱら説明したっての。時間の無駄ってやつだ」
ああだこうだ愚図りながら三人は駅前ロータリーに差し掛かる。京王電鉄府中駅の高架橋をくぐり、北側へ抜ければシルク達の家であるはちや食堂は程近い。
ふと見上げると、駅前ビルの街頭テレビジョンにニュース映像が映し出されていた。アナウンサーがニュース原稿を読み上げており、その横に小窓映像で半焼した日本家屋の光景が映っている。
『三日前、東京都多摩市の住宅街で起きた火災事件に関して、警察は屋敷の所有者である
追井氏は以前から下宿するトレセン生に過度な労働を課し、競走環境から不法に離脱させたなどとして取り調べが進められています。警察によりますと、追井氏は調べに対し支離滅裂な陳述を繰り返しており、今後は精神鑑定も視野に入れた聴取が行われる予定で、その心理状態が争点となるとの見解も──』
アナウンサーが説明する背景で、警察関係者に囲まれながら警察署へ連行される老婆の映像は、既に様々なニュース番組で流されていた。動画内の表情はすっかり萎れ、水分を失った瓜のようにみえる。
彼女には、今まさに世間から批難が集中している。束縛的な生活で留年寸前に追い込まれたトレセン生への同情が、そのまま老婆へのバッシングに繋がっていた。ワイドショーや週刊誌などは早くもトレセン生の労働賃貸借構造の是非も絡めた特集に傾注しており、当面はブラック下宿問題が全国規模で取り沙汰されそうだ。これが契機となり、昨今の競走ウマ娘の居住環境改善に向けた機運が高まることは間違いない。
「結局あのお婆さん、何者だったのかな。下宿生を過剰に働かせて学園にも殆ど通わせず、レースにも出させない。なのに家では十分に食事を摂らせてたり、平時はいたって優しかったみたいだし。あらためて思うとウマ娘を大切にしてたのかそうでなかったのかよく分からないのよね」
街頭テレビを見上げながらランがぽつりと言った。
シルクは目線を空に向け、やや考える素振りの後「さあな」と返す。
「ただのレース嫌いの偏屈な婆さん、ってだけでもなさそうだがな。過去に訳アリっぽい事もぶつぶつ言ってたが、精神鑑定するって話も出てる。急に怒ったり喚いたり泣いたりで情緒不安定だったし……よく分からねえ」
「でも、あのオバちゃんの用意してくれた満漢全席は美味しかったぞ。美味しいもの食べさてくれる人に、悪い人はいないぞ」
「そこは関係ないんじゃないかな……」ランがコケそうになる。
「お前が豪勢なモン食ってる間、アタシらは大変だったんだぞ」
「お、怒らないで欲しいぞ!」ダッツは首を竦めた。
下宿生達の解放を果たしはしたが、対決相手であった老婆──追井風子については謎が残った。
レースやURA、トレセン学園といった競走界自体に悪感情を露わにしていた追井風子は、それらからウマ娘を遠ざける目的で下宿を営んでいた。労働を課し屋敷に束縛するなどしたものの、それ以外の下宿生の衣食住は厚遇している。牙を剥くのは下宿生達が競走生活に拘わろうとする時のみで、それ以外の場面ではウマ娘を丁重に扱っていたのだ。それこそ「我が子」のように。
そんな歪曲した言動をしていた理由は結局分からずじまいだ。気にはなったが、それを調べるのはもはやシルク達の役目ではない。
「もう知る由もねえことだ。行こうぜ、もうすぐシフトの時間だ」
そうぶっきらぼうに云いながらもシルクはふいに思い出していた。屋敷を覆う炎に照らされながら、悲痛に叫ぶ老婆の顔を。
『ワタシのせいだ、ワタシがあの子を一人にした……』
あれはどういう意味だったのか。何を悔いていたのだろうか。まるで、子を失った母親の叫びのようだった──。
のちにシルク達はその真相に触れることになる。
だがそれは、全てが手遅れになってからのことである。