はちや食堂に帰宅し戸を開けると、様々な料理のこうばしい匂いが漂ってきた。厨房は既に臨戦態勢のようで、開店前の仕込みで数多くの調理工程が進行中のようだ。調理場の鍋やフライヤーは同時進行で火を噴き、既に完成した炒め物や揚げ物類、炊飯された米などがシンクの上で大量にストックされている。
この日は開店直後に別口で大量注文が入っていたが、これだけの下準備が済んでいれば通常来客も捌けるので、開店後のスタートダッシュで躓くことはない。暖簾を出すにはまだ早い時間だが、今すぐにも店を開けられる状態が既に出来上がっていた。
「ただいま、って、わっ。もう準備殆ど済んでるじゃない」
「本当だ。これならラクチンだぞ!」
ランとダッツが喜色を露わにした。開店前の仕込みは彼女達がこれまで受け持ってきた作業だが、その大部分が既に済んでいるので、すなわち楽ができる。
「帰ったかい。今日はちょいと余裕があるから、茶でも飲んで一服してから入りな」
開店前のレジを弄りながら、八谷が小気味よさげに言った。営業開始前にはいつもカリカリしている彼女も、今日は目に見えて悠々としている。
「ハチさん、今日はいい感じね。仕込みも殆ど終わってるし」
「ああ。あの子にも手伝ってもらってるからね。アンタらより先に帰ってきて、やってくれてるよ」
「へえ、凄いぞ! もう仕事覚えちゃったんだ」
「まさに即戦力だわね。これなら今月の連続黒字更新も夢じゃないねえ」
ランとダッツ、八谷は持て囃しながら厨房に目を向けた。見ると、身の丈に近いほどの大鍋を抱えながら調理場を行き来し、健気に作業をこなす小柄な黒鹿毛の姿が目につく。
エリモダンディーだった。鍋やフライヤーを危なげなく操り、シルク達三人が帰る前から厨房に詰めて仕込みをこなしていたのは彼女だった。
「おうい、エリモや。仕込みご苦労さん。お茶入れたからアンタも一服しな」
「あ……はいっ」
準備が一段落し、暖簾を出すまでまだ猶予がある。八谷はエリモも呼んで、皆で一服しようと店内の卓を囲った。
「エリモちゃん、もうこの家には慣れた? 仕込みを手伝ってくれて私達も助かるわ」
先に座ったランが、エリモのために椅子を引きながら訊いた。
エリモは照れ臭そうに目を下に向け、恭しく頭を揺らす。
「ふふん、オイラにも後輩ができて鼻高々だぞ」
「よく言うね。おっちょこちょいでミスの多いアンタは、戦力的にはもう負けてんじゃないかい」
腰に手を当て得意げに宣ったダッツを、八谷がおどけて一刀両断する。
「むむ、そんなことないぞオバちゃん!」
「この前、千円札と万札間違えて大目玉食ったのは誰だい? 料理ひっくり返してお客をラーメンまみれにしたのは?」
「そ、それは言わないで欲しいぞ!」
にやにや笑いながらの詰問に一同がどっと沸く。それにつられてエリモも笑みをこぼしている。気安い空気が店内にぱっと花咲くようだった。
それを尻目にただ一人、シルクはいそいそとジャージを羽織って出支度をしている。運動靴に履き替えると、出された茶も飲まずに戸口に向かっていく。
「ちょっとシルク、どこいくの」ランが呼び止めた。
シルクは素っ気無い声で「買い出し」と返す。
「どうせ明日以降の食材、まだ仕入れてねえだろ。行ってくる」
「今は構わないよ、ゆっくりおしよ」
そう八谷がフォローしたがシルクは応じず、戸を締めて出て行った。
店に残った一同は呆気に取られる。珍しく開店前にひと休憩挟めるというのに、シルクはわざとらしい理由をつけて輪に加わらず出て行ってしまった。普段からさばさばした性格の彼女だが、こういう形で協調性を欠くたちではない。ましてや肉体的にきついと言って嫌がる買い出しに率先して向かうのが奇妙だ。
「ったく変な子だね。もともと今日は買い出しなんか頼んでないのに」
八谷のぼやきにランとダッツは頷いた。しかし口には出さないものの三人にはシルクの妙な振舞いに、それとなく思い当たる節はあった。
何故かシルクは、八谷家の新参者であるエリモを避けるような態度を取っている。
買い出しに向かう市場への幹線道路を駆けながら、シルクはうんざりした気持ちを持て余していた。ただでさえ屋敷の一件で疲労が溜まっているというのに、何ゆえ一層疲れる買い出しなどやっているのかと自らを呪った。
開店前に一息入れる機会などあまりない。下校後にシフト入りするまでに気分転換が出来るので、普段ならば喜んで満喫しただろう。だが一服する一同の輪の中にはエリモがいた。それだけでシルクはそこに加わる気が失せ、やりたくもない買い出しなどと嘯いて店を出てきた。
こんな非合理的な事をこの先続けるわけにもいかないことは分かっている。なにせエリモとはこれから同じ八谷家の屋根の下で生活せねばならない。そう理解はしていても、胸の奥にはもやもやした感情が漠然と横たわっている。
しかし結局のところは、自分の身から出た錆だ──シルクは三日前の出来事を回顧していた。
あの時、炎上していく屋敷を前に一同は愕然としていた。火の回った屋敷内にあと一人、下宿生が取り残されていると発覚したからだ。しかもそれは外ならぬエリモだった。既に炎に包まれた屋敷内へ救助にいく勇気は誰にも無かった。下手をすれば自身も火に巻かれ命を落とす。
しかし絶望的な空気が漂いかけたその時、ただ一人シルクだけが動いた。炎から身を護るため用水路に浸したずぶ濡れのフードを被り、屋敷へ突入した。いくら何でも危険だと周囲から制止の声が上がったが、見向きもしなかった。
屋敷の中は既に火が所々に回っていた。部屋は数多くあり煙も充満していて長くいられそうにない。そんな中で人探しをするなど無謀極まりない、ミイラ取りがミイラになるだけだ。頭ではそう分かっていた。だがその渦中で身体が勝手に動いた。何故か分からないが引き寄せられるようにエリモの居る部屋へと導かれ、彼女を発見した。そして今にも煙に巻かれそうなエリモを抱え、ガス爆発の寸前に部屋の窓を突き破り脱出を果たした。
その後、現場に駆けつけた救急隊によって二人は最寄りの病院へ搬送された。幸い両者ともに大した負傷は無く、即日退院で済んだ。
後から冷静に考えても、何故あんな命知らずな行動に出たのかシルク自身分からなかった。あの火災の中に飛び込み、エリモを救出できたのは運が良かったという他無い。下手すれば自分も死んでいたかもしれない。いくらシルクでも、自身の命にかかわる行動は選択しない。それでもあの時は体が勝手に動いた。エリモが取り残されていると知った瞬間、理性的な判断をも凌駕する何かが、頭の中で弾けたのだ。
しかし、その翌日にはさらに驚く展開が待っていた。
各方面から事情聴取に追われる中、シルクは学園内で島原にばったり出くわした。直属のトレーナーである彼も対応に追われていたのか、目の下に隈を浮かべていた。面倒事を起こしたことでまたやっかみの一つでもこぼされるかとシルクは身構えたが、彼は造作もなく唐突にこう告げてきた。
「今日からうちのチームに新メンバーが加わるぞぉ。エリモダンディーって子だ。ひとつ、面倒見てやってくれや」
思わず「はあ?」と素っ頓狂な声を上げていた。
聞けば、老婆の屋敷を失い路頭に迷っているから引き取ることにした、と島原がいうではないか。おまけにチームに加えるのみならず、八谷家に住み込ませる手続きまで済ませたというではないか。気紛れな昼行灯・島原の奇行には慣れたつもりだったが、屋敷の一件の事後処理も吹っ飛ぶような急展開にシルクは絶句した。
その日からエリモはチームのトレーニングに参加し、八谷家に荷物を抱え引越してきた。気弱でおどおどした雰囲気の黒鹿毛少女は、既に面識があったのか、ランやダッツにはすんなり迎え入れられた。八谷には初日から仕事を叩き込まれ、はちや食堂の新戦力として教育されつつある。
峠のレースで出会って以来、エリモを忌避するシルクにとっては青天の霹靂としかいいようがない展開だ。だがよくよく考えれば、シルクがブラック下宿の解放活動をしたからこそ、結果的にエリモは屋敷を追われ八谷家に転がり込んで同じチームに加入することとなった。エリモの急接近という、シルクにとって不本意なきっかけを作ったのは他ならぬ彼女自身なのだ。
これが、身から出た錆という所以だった。