競走界改革宣言(1)
頬杖をつく手がすっぽ抜けて島原は目を覚ました。寝覚めの悪さに閉口した彼は、空あくびをして辺りを見回す。小窓から差し込む陽光は橙色になっている。その西陽に照らされ、机上には作成途中だった教務課への始末書が並んでいる。
ろくに整理されていない雑多なトレーナー室に島原はいた。トレセン学園内で与太者トレーナーと揶揄される彼は、そこに一人で篭っていることが多い。
前夜の深酒ですっかり二日酔いの彼はこの日、午前のトレーナー定例会議をすっぽかして昼出勤し、雑務に取り掛かるもすぐに惰眠を貪り、今に至っていた。こなすべき業務は殆ど捗らず、二つ名通りの不良トレーナーぶりを発揮している。だがこれは特段珍しいことでも無く、彼は一日中トレーナー室で昼寝して終わる日もある。比較的自由裁量となっているトレーナー業ゆえに許されるものだ。
今日もこのまま寝潰して終業するかと思われたが、目を覚ました島原の胸は騒めいていた。嫌な予感を感じ取っていた。
果たして直後、トレーナー室のドアがノックされた。島原の部屋に訪問する者は普段皆無だ。彼の主宰チームに属するシルクたちでさえ滅多に寄り付かない。
島原の返答を待つことなく、ドアはおもむろに開かれた。戸口の隙間から、一人の男が現れた。
「やあ、島原トレーナー」
地味な色合いのスーツで身を固めた、島原と同年代と思しき男は謹直な声色で告げた。
「なんだ、浜野か」島原は小さく息を吐いた。そうしつつも表情を緩めてはいなかった。浜野と名乗る男が訪ねてきた意味を考えていた。「こんな場末のトレーナー室まで、わざわざどうした。緊急の要件か」
「緊急といえば、緊急だな」浜野は戸口に立ち尽くしたまま、腕を組んだ。部屋に入る気はないらしい。というよりは、その後の展開を予期し、そうしているようだった。
「“あの男”がこの学園に来ている。君の担当のウマ娘に接触すると思われる」浜野は声を低くしてそう告げる。
その言葉に島原は目の色を変えて席を立った。傍に丸めてあったヨレヨレのジャージを羽織ると、足早に戸口に向かう。
「おい、島原」
浜野の呼び止める声も聞かず、島原はそのまま外に出て廊下を突き進んでいった。その背には微かな焦燥が見て取れる。
残された浜野は肩を竦めたのち、島原の後を追うことにした。
去り際、浜野はトレーナー室を一瞥した。すっかり散らかった荒れ放題の場末の間。部屋の主の厭世的な心境を投影したようだ、と思い浮かべる。
(お前も随分苦しんだようだな。ゆえに我々は為さねばならない。あの計画を)
心中に何かを噛み締めながら、浜野はゆっくりと戸を閉じた。
***
その男の来訪は突然だった。
シルク達はこの日、放課後に学園のグラウンドでトレーニングに励んでいた。日本各地のURAレース場と同規格で造成された小判形トレーニングコースの使用は、抽選予約制だ。しかし実際は重賞勝利経験等を持つ成績優秀者の優先権が強く、メイクデビューしたてのチーム・アルルバが使用できる頻度はそう多くない。
「あと4ハロンよ。シルク、エリモちゃん、ダッシュ!」
「いけーっ、最後の直線だぞ!」
コース脇でタイム計測をするランナイジェルとアルダッツが囃す。その目の前を二つの影が目にも留まらぬ勢いで擦過する。
シルクジャスティスとエリモダンディーだ。殆ど並んだまま二人はゴール板を模したポールをパスし、そのまま地面にへたり込んだ。
「ぜえ、ぜえ、ラン、どうだった」
「いいじゃない。またタイムが縮んだわよ。ちなみにエリモちゃんもね」
「そ……そうなんだ。やったあ」エリモが控えめに笑顔を浮かべる。
シルクはけっ、と息を吐いた。
「なに呑気なこと言ってる。この程度じゃクラシックの第一線にもまだ届かねえ。GⅢ以上に出るような連中は、もう既に数段上の実力をつけてるんだからな」
ドリンクボトルを飲み干しながら彼女は云う。それは自分にも言い聞かせるような口ぶりだった。
「のんびりしてる間はねえ。折角借りれたトレーニングコースだ、もう一本走ってくるよ」
「ええっ、まだ走るの? もう私たちくたくたよ」
「はえー。シルク、元気だなあ」
既にトレーニングの時間は終わりに差し掛かっている。皆、疲労もそれなりにあった。それでもあと一本と意欲を見せるシルクをランとダッツは見送った。
「ジャスティスちゃん、私も……」エリモが追従しようとしたが、疲れでもたつくうちにシルクは駆け出していた。
昨シーズンにメイクデビューしジュニア期を終えた四人は、この春からクラシック期に突入する。生涯に一度しか挑戦できないクラシック三冠レースも控えており、まずはその出場権を得ることを目標にシルク達はいつになく真剣に練習に打ち込んでいた。
クラシック目前のこの時期は、競走ウマ娘として一気に本格化を遂げる時期だ。競走能力が飛躍的に向上するタイミングに行うトレーニングこそ今後の成長を大きく左右する。シルクはそれを知っている。故に、体力の許す限り誰よりも多く走り、力をつけたかった。
既に陽は暮れかかっている。ラン達がへばっている場所から半周し、向こう正面の直線に出た。西陽に目を細めながら、シルクはペースを上げる。疲れはあるが、まだ伸びる。我ながら良い脚だ、と考えていたその時だった。
不穏な予感が背中を掠めた。思わず走駆を中断した彼女は、コース脇の小さく盛り上がった土手を見上げた。そこには太陽光線を背に、人影が一つ佇んでいる。
「久しぶりだな。シルクジャスティス」
名前を呼ばれる。その瞬間、シルクの肌が粟立った。同時に、全身の血の巡りが加速し、呼吸が乱される感覚を味わう。頭の奥が打ち震え、指先がちりちりとする。
咄嗟に反応が出来なかった。それだけの衝撃を受けていた。長い間をかけて、シルクは絞り出すような声で応えた。
「オヤジ……ッ」
仕立ての良さそうなスーツに身を包む、長身瘦躯のその男は土手を下りておもむろに歩み寄ってきた。彼は余裕めいた微笑を浮かべている。
「なんでアンタが、ここにいる……」
「近くで用事があったついでだよ。それとも、いけないかね。父親が愛娘の顔を一目見にくるのは」
「ふざけるな。なにが、なにが愛娘だ」
父を名乗る男の飄々とした振舞いに、シルクは顔を歪める。そして身構えながら全力で相手を睨み付けた。その目には憎悪すら浮かんでいる。見た目だけなら不良ウマ娘といわれる彼女がそうするので、その姿には相当の迫力があった。
「そう邪険にしないでくれたまえ。難しい年頃とはいえ、斯様な振舞いは聡明に育った君の品格を落す。そうは思わないか」
それでも男は臆した様子を見せない。両手を広げ薄ら笑い、あくまで余裕を崩さない。
しばし対峙は続いた。じっと睨み据えるシルクと、不遜な表情でそれを睥睨する男。両者の間には異様な空気が流れ、その場を澱ませる。
「まったく、あの時と同じだ」
男がぼそりと言った。
なにが、とシルク。男はそのまま続ける。
「あの忌々しい、館での最後の夜……お前が私に歯向かったあの時と同じだ。今のお前はまるで、品性を欠いた獣だよ」
その言葉でシルクの中の何かが切れた。彼女は地面を蹴って飛び掛かった。男の襟首を掴み、持ち上げると、心の叫びが喉を衝いて出た。
「何が獣だ、何が品性だ! どの口で言いやがる。誰の所為で、誰の所為でああなったと思ってる!? オヤジ……アンタが! 母さんを、アタシをあんなに苦しめたから! だから、だから……!」
シルクの手は震えていた。いつしかその顔は悲痛に歪んでいた。
驚くべきことに、男はそんな彼女の様を見てなお冷笑していた。愉悦すら、浮かべていた。
男はそのまま何も答えなかった。が、数秒後、小さく鼻を鳴らすとシルクの掴み手を打ち払い、突如踵を返した。
「待ちやがれ。どこへ行く!」我に返ったようにシルクは叫ぶ。
「君とはゆっくり話がしたいと思っていたのだが、どうやら今は虫の居所が悪いようだ」
「アンタと話すことなんかねえ」
「本当にそうかな?」
「……なにが言いてえんだ!」
乱れた襟元を正しながら、男はもう一度振り向いた。
「お前はこれからトゥインクルシリーズでクラシック期に挑むと聞いている。ほんの一握りの選ばれし者だけが勝利を得られる、競走界の栄えある大舞台。そこで結果を収めるのは並大抵のことではなかろう。早い話が、親としてその手助けをしてやろうというのだよ」
シルクは激しく首を振った。
「ふざけるな、手助けなど。アタシがアンタなんかに頼るとでも思うのか!?」
「誤解してもらっては困る」男は指を立てて左右に振った。「手助けとは言ったが、私がすることはただ一つ。お前と“賭け”がしたいのだよ」
「賭け、だと?」
「そうだ。もしお前がG1レースを獲ることがあれば、私はお前の望みを一つ聞き入れよう」
望み。アタシの望みを聞き入れる、だと――。シルクはその言葉の意味を咀嚼する。
「どうだ。走ることへの意欲が湧いてこないかね」
いつの間にか会話の主導権はすっかり男の手中にあった。シルクはその一挙手一投足に翻弄されていた。
そして、男の言う「望み」という言葉にシルクは思い当たるものがあった。その真意を問い質さんと口を開きかけた。しかしそこで、対話は中断されることとなる。声が挿し込まれたからだ。
「困るなあ、トレーニング中のウマ娘の邪魔をされちゃ。担当トレーナーに話も通さずにさ」
どこからともなく現れた島原が、男の背後に立っていた。鷹揚な言葉とは裏腹に、急いで駆けつけてきたかのように息が上がってみえる。
「おや、これはこれは。シルクジャスティスの担当の。島原トレーナー、でしたかな」
島原が現れても男は余裕を崩そうとはしなかった。彼は、島原へも睥睨するような目を向ける。
「
島原の口調はいつもとどことなく違った。普段のものぐさな印象が失せ、代わりに相手を静かに威嚇するような響きがあった。
それを受け流すように、男は一瞥すると身を翻した。
「これは失敬、まったくもって貴方の言う通り、無礼な事をした。私はこれで退散させていただくとするよ」
頭を下げて宣うと、言うが早いか男はトレーニングコースから離れて遠ざかっていく。
「あ、おい!」シルクは思わず制止する。
「いい返事を期待している。いずれまた来る、さらば」
男はもう振り返らなかった。軽く手を挙げると、そのまま土手の向こう側へと消えていった。
直後、ラン達三人が駆けつけてきた。
「おーい、シルク何やってるのよ。怪我でもしたのかと心配したじゃない」
「あれ、いつの間にかトレーナーもいるぞ。珍し。何してたんだ?」
なかなかシルクが戻ってこないので気になったのだろう。しかし彼女らもその場に残ったシルクと島原のいつもと違う様子を察したのか、首を傾げている。
「あの……さっき誰かと喋っていませんでした?」
エリモがおずおずと訊ねた。
「あー、練習を邪魔する野次馬がいたから追っ払ったの」島原は何食わぬ顔で答えた。
シルクは何も答えず、男が消えた方向をじっと見つめていた。背の小さなエリモには、土手の先を見上げるシルクの顔がよく窺えなかった。