マツノスズカゼはチーム・メブスタのエースランナーだった。
昨年のクラシック期は三冠レースへの出走こそ叶わなかったものの重賞を三勝し、「週刊競走ブック」の表紙を飾る快挙も遂げた。彼女の昨季の躍進もあって所属チームのコース優先権は拡大し、春のレースを直前に控えた今はその権利をふんだんに行使して毎日のようにグラウンドで練習をしていた。
使用権を奪われコースを押しやられた者達の恨み辛みもどこ吹く風で、マツノはこの日も優雅にチームメイトとともに模擬レースを始めた。春戦線が近いとあって、本番に向けた仕上がりを意識せねばならない時期だ。下等な競走相手になど構っている暇はない。エリート志向の強い彼女は、得意顔でコースを駆けた。周囲に自分の存在を誇示するように。
他のチームメイトを牽引するように先行していた彼女だが、不意に背後の騒めきを感じ取りちらと後方を見遣る。
「な、なによアンタ!」
「ウチらとやろうっての!?」
見ると、追走するチームメイトらに交じり、一人見慣れないウマ娘が紛れ込んでいる。
いや、見覚えならある。学園で問題児と囁かれている不良、シルクジャスティス。今しがた、グラウンドの使用を巡って揉めていた相手だ。
それが剣呑な表情を浮かべ、模擬レースに中途乱入して追ってくる。意味するところは考えるまでもない。
「不良風情が割り込んできたというの。いいわ、遊んでやる」
ふんと鼻を鳴らしてマツノは最初のコーナーへと踊り込んだ。
この模擬レースは芝一六〇〇メートルという短距離レースだ。コースをおおよそ三分の二周したゴール板が決勝線となる。
短距離はマツノの十八番だった。昨季獲った重賞も全てそれに類するレースで、絶大な自信を持っていた。実績も無い若輩者に負ける道理などない。抜けるものなら抜いてみろ。
コーナー途中で後ろを見る。シルクはまだ数メートル後方、後方集団に紛れていた。同じメブスタの面々が口々に突っかかっている。
「ジュニア上りが私達に挑むなど」
「生意気なのよ、抜かせるか」
「身の程を教えてやるわよ」
メブスタの面々は完全にブロック態勢だった。横一列に並走しており付け入る隙がない。こうした連携は個人戦となる本番レースでは不要なものだ。明らかにシルクに対する妨害に他ならなかった。
シルクは表情を変えず、ぴたりと続行したままだ。
コーナーが終わり最終直線に入る。短距離戦だけあり、早くもレース終盤である。
先頭で抜けてきたマツノはカーブ明けの立ち上がりからスパートを掛けた。口角を上げ、得意な表情を浮かべる。既に彼女の中の短距離必勝パターンに嵌っているのだ。あとは直線を逃げ切るのみ。
もらったな、と思った矢先だった。後ろから口々に呻くような声が上がる。
「なっ!?」
「外から!?」
「嘘でしょ!?」
つられてマツノも振り返る。
カーブ明けの直線で、後続のチームメイト達が抜かれる瞬間が目に入った。シルクが大外から、まとめて一気に抜いたのだ。
なんと不甲斐ない、とマツノは舌打ちした。自分ほど短距離に長けていないとはいえ、あんなジュニア上りのウマ娘に易々と抜かれるなんて。このレース模様は大勢の野次馬たちも見ている。その目の前で醜態を晒すことなどあっては、チームとして立場が無いではないか。
とはいえ、自分に限っていえば勝敗はもう見えている。このままゴールまで走り切って決着。
一着はもう、手中にある。
「はっ、もう決まりさよ!」
抜かれた連中、あとでどう詰ってやろうか。そんなことを思い浮かべながら残る距離を詰めていく。
あと三〇〇、二五〇、二〇〇。決勝線が迫る。
ゴール際では集ったギャラリーが口々に何かを喚いている。
一五〇、一〇〇、五〇。
完勝だ。やはりこの距離で私がやられるか。そう思いゴールラインへあと一足を差し出そうとした瞬間、彼女の真横に栗毛がたなびく。
「なにが決まりだ」
「へっ!?」
シルクが差した。俄かに周囲でどよめきが起こる。先に彼女がゴールを割る瞬間を、ギャラリーの誰もが目撃した。
信じられない、というような表情でマツノは両手を膝についた。
何故だ。どうして負けた。ジュニア上がりなんかに。いつの間にあんなに追い上げてきたのか。スパートが甘かったのか。そもそも短距離は自分の十八番だったはず──。困惑と悔恨が頭で渦巻く。
「どうだ」項垂れたマツノの頭上に、シルクの声が降り掛かってくる。「アタシの勝ちだ。よって、この場に限っちゃテメエらより上って実績ができた。これで納得したろう、さっさとコースから退くんだな」
メブスタの面々は何も言い返せなかった。たったいま衆目の面前で打ち負かされた事実がある以上、以後のコース優越権主張は無意味でしかない。さらに言えば、シルクはレース開始後の途中参戦というビハインドの中で全員を抜いたのだ。
だがマツノだけは、まだ納得が出来なかった。
「な、何故なの。私が短距離で負けるなんて。ありえない、何かの間違いなんだわっ」
シルクの末脚が見事だったことも、自身に慢心があったことも認めざるを得ない。だが、マツノの傷ついたプライドが潔く引き下がることを許さなかった。
「も、もう一度よ。もう一度勝負すれば、次は私が……!」
あくまで食い下がる。誰が聞いても負け惜しみとしか聞こえないが、プライドを砕かれなりふり構えないのだ。
「ほうー、もう一度勝負すれば、ねえ」
「そうよ、認めないわ。一度きりのまぐれなど!」
「いいさ、やってやる。だがそこまで言われたからには、アタシからもヒトコト言わせてもらう」
シルクはスンと息をついて、三白眼で睨み返した。
「そういう“たられば”は、競走界じゃ禁句だと思うがな。もし枠番が違えばとか、誰彼が出走してればとか、もう一回レースすればとか、そんな議論は不毛でしかない。たとえ模擬レースだろうと、一期一会のレースを死ぬ気で走る、それがアタシたちウマ娘の本質だろう。違うか」
マツノはハッと身を竦めた。否、彼女だけでなく、周囲で見守ったギャラリー達もこれを聞き、目から鱗のような表情をした。
競走者である以上、シルクの言葉の意味はその場の誰もが本来身に染みて知っている。レースにやり直しも、二度目もない。結果が全てなのだ。
「今のはまぐれだからもう一度やれば勝てるってか。面白ぇ、上等だ。気が済むまで受けて立つ。どうした、かかってこいよ」
シルクは顎を上げ、上向けた手を前後に振った。
この挑発にもはやマツノは乗れなかった。先程言われた「レースのたられば」の話が効いていた。再戦すれば勝ち目はある。だがシルクは巧妙にも、他のギャラリー達にも「たられば」の話を聞かせた。そのうえでたとえ再戦し勝利したとしてもタブーを破った無意味な勝利でしかなく、衆人環視の前でそれを遂行するのは、自尊心の強いマツノにとって逆に自身を貶める愚行となりえた。
全てが、シルクの術策通りだった。不意打ち気味の模擬レース乱入で相手を電撃攻略し、それに反駁の隙を与えぬよう説き伏せる。これら智略により、ものの数分間でコース利用権は奪回した。
「……その気がねえなら、いい加減退いてくれ。アタシたちだって練習時間が惜しいんだよ。クラシックに挑まなきゃならねえんだからな」