三分タイマーが鳴る。手早くアラームを止めた島原は、脇に置いていたカップ麺をおもむろに手に取り、器用に片手で蓋を剥いていく。もう片方の手は、机上に置かれた書類を忙しくなく捲っている。
木箸を割り、身体の前に置いたカップ麺を片手で啜る。その間も彼の目線は書類上を次々と辿っていた。『第五十七回皐月賞出走要綱』と銘打たれたその書類の束を見つめる目は、いつになく真剣だった。
「失礼するよ」
「ん」
トレーナー室の戸がノックされる。島原が返事をすると、軋み音を立てて戸が開く。
「なんだ、またか浜野。最近よく来るなあ、暇なのか?」
「暇とは失敬な。色々と用事があるんだよ、なにせ
「ん、そりゃ、まあな……」
含みのある科白に、島原は曖昧に応じる。
浜野は机の横に歩み寄ってくると、一緒になって書類を覗き込んできた。
「クラシックの出走登録かい。これは三冠レースの緒戦、皐月賞のものだね」
「ああ」
「君のチームからまた大レースへ出走するウマ娘が見れるとは、感無量だな」
しみじみとした口調で浜野は言う。
島原も、何かを噛み締めるように頷いた。
「
煙草を手に取り、火をつける。物憂げに紫煙をくゆらすと、島原は抽斗から判子を取り出し、出走登録用紙のトレーナー承認欄に捺印した。
***
四月の柔らかな日差しを受け、青々としたターフが輝く。その空間は間も無く来る勝負の時に向け、焦げ付くような緊張が高まっていく。
『さあ、いよいよやって参りました。第五十七回皐月賞、クラシック三冠の緒戦であります。今年も栄光を狙うウマ娘が集結しました。厳しい関門を潜り抜けた一八人の入場であります』
場内実況が響く中山レース場。スタンドに詰めかけた数万の観衆の声援を背に、地下バ道から続々とウマ娘たちが姿を現した。
皐月賞の本バ場入場である。ジュニア期を経て競走者としての若々しい矜持を体得した、数百数千の中から出走権を勝ち取ったクラシック期の一八人。そのいずれもが、各々の個性を反映した煌びやかな衣装を纏っている。G1レースでのみ装着を許される勝負服だ。
『漆黒の勝負服がいま星となって輝くか。1枠1番、内で不気味なソーズマイシート……続いて2番が……』
出走者紹介をされながら、自信と緊張を綯い交ぜにした表情を浮かべ、続々と入場してくる一八人。
その中には見慣れた顔ぶれもあった。
『考えるより先ず脚が出る。世間を騒がすチーム・アルルバの切り込み隊長、7枠14番アルダッツ』
赤基調のスポーティな勝負服に身を包んだダッツが、手を振りながら入場する。緊張よりも、これからG1レースに臨む好奇心が勝っている様子だ。
『姉ムーブが光るチーム・アルルバの苦労人か、5枠10番のランナイジェル』
ダッツに比べて幾分緊張の面持ちでランが続く。ワンピース風の勝負服は藍色でシックな装いだ。
『そしてこれもチーム・アルルバ。小さいバ体にキレがある、見せるか追い込みのダンディズム。3枠6番エリモダンディー』
他の出走者より二回りは小柄なエリモが、ターフの感触を確かめるようにゆっくり入場する。黒基調の和装ドレスが、純朴な彼女によく似合っていた。
『……以上紹介した一八人で争われます。さあ、間も無く、今年のクラシック緒戦、皐月賞のファンファーレです』
出走者達を鼓舞するように、音楽隊のファンファーレが鳴り響く。スターターが赤色旗を振り、観衆のボルテージが一段上がる。ゲート前に集ったウマ娘達は各々覚悟を決め、出走ゲート枠に一人また一人と収まっていく。
『勝つのは果たしてどのウマ娘か。第五十七回皐月賞、態勢完了』
全てのゲートインが終わり、一瞬の静寂。
直後、ガチンと緊張が弾けるような音と共に全ゲートが放たれた。
『ゲートが開いて、スタートが切られました!』
そのスタートの瞬間を、シルクは同地の観客席から見ていた。
レースが始まり周囲の観衆が熱を帯び始める中にあって、彼女は静かにレースの模様を見守っていた。スタンド前のストレートから発走した出走者が眼前を疾走していく。ダッツやラン、そしてエリモが一団に揉まれながら横切っていく。
「よお、これ食うか? 美味いぞ」
横から声がした。トレーナーの島原がどて串を差し出してきた。レース場内の売店で買って来たのだろう。もう片手には同じものが数本入ったカップ容器を手にしている。
「いらねえよ。それよりレース始まったろうが」
シルクは意に介さず、ターフを駆ける一団を目で追い続けている。
島原はばつが悪そうに自分で串を食むと、どっこいしょと隣に腰掛けた。
「そうむくれるなよ。まだダービーも菊花賞もあるんだから、焦ることは──」
「むくれてなんかねえ。それより今はアイツらの応援だろ」
宥める島原に、シルクは強く言い被せた。それで会話は途切れた。シルクは腰を浮かせすっかりレースに見入っているらしい。島原はやれやれと頬を掻き、もう一本串を食んだ。
シルクは皐月賞への出走は叶わなかった。クラシックに向け率先して研鑽を積んできた彼女だったが、オーバーワーク気味の練習ぺースが祟ったのか、先日行われた皐月賞への叩き台となる毎日杯(GⅢ)では三着に留まり、今レースの出場機会を逸した。ラン達の懸念が的中した格好となったのだ。
それに対し、シルクのトレーニングに牽引された形で実力を上げた他の三人はというと、
ダッツは朝日杯(GⅠ)三着、ホープフルS一着、
ランは報知杯弥生賞(GⅡ)一着、
エリモは若駒S一着、すみれS二着、
と所定の競走成績を残したことで皐月賞選考レースを生残し、出場にこぎ着けた。シルクはファン支持数が少なからずあったものの、惜しくも選出を逃したのだ。
『レースは向こう正面に入っています。さあ、それでは先頭から見て参りましょう。この辺りで一気にタイムキングメンが先頭に立ちました。そしてブリリアントサン抑えて二番手。……』
レースは中盤に入っていた。スタンドの反対側にあるバックストレッチを出走者が一丸となり進む。
アルルバの三人は中段から後段にかけて散らばっていた。
ダッツは中段外側、ランはその後ろのバ群内に、そしてエリモは最後方集団の内側にいた。
皐月賞は二〇〇〇メートル。その折り返し地点はもう過ぎた。誰もがラストスパートを意識しつつある。
『さあ、最終コーナーをカーブして直線コース。ブリリアントサン先頭だ、まだ三バ身のリードがある。このまま逃げ切るか?』
最終直線に入る。全ての走者がスパートに入った。
「行け! ラン、ダッツ、エリモ! 走れッ」
シルクが大声で叫んだ。
ウマ娘達が必死の形相でスタンド前を駆け抜ける。自らの全力を出し切ろうとしている競走者の貌だ。だがその中にも、まだ余力を残している者と既に限界を迎えている者の違いがあることを、シルクは如実に感じ取った。
──コイツはまだ伸びる。アイツはダメだ、もう墜ちる。
その直感通り、目の前で走者達の明暗が分かれていく。限界を迎えたと思しき走者は伸びることなく沈んでいく。
その墜ちゆく者達の中に、アルルバの三人も含まれることを感受したシルクは途端に言葉を失った。
「ダメッ……届かない!」
「む、無理だぞ~ッ!」
「……くう……!」
尚も突出するトップ集団から、ラン、ダッツ、エリモは最終直線で完全に引き剥がされた。
シルクの奮起に触発される形で、三人もこの春に実力を大いに伸ばしてきた。数週間前までとは比較にならぬ程、各々競走能力を向上させたのだ。しかしそれをもってしても、同世代の頂点がぶつかり合う舞台では一筋縄ではいかない。そもそもクラシックレースというのは、出走できること自体が奇跡とも言われるのだ。
そしてそのまま、先頭のウマ娘から決勝線を割っていった。
『外からメジロブライト懸命に追い込む。間を割ってきたハクリュウオー。シビルサンダーも来ているが。先頭はなんと、ブリリアントサン! ブリリアントサン、逃げ切った!』
レースは序盤から逃げ戦法を採ったウマ娘が優勝し、決着した。
勝ち時計二分二秒五。白熱の二分間ではあったが、傍から観戦していた側からすれば呆気ない一瞬に思えた。しかし実際にレースを走った者達にとっては長い長い二分だったろう。
結果としてランナイジェル六着、エリモダンディー七着、アルダッツは九着だった。三人はゴール後ターフ上に横たえ、苦しげに息を継いでいた。三人とも出走者十八人中平均以上の順位をマークした。勝利はならず悔しさはあったが、その表情には、初めてのGⅠレースを、初めて着た勝負服で完走した充足感が浮かんでいた。
「よしよし、三人ともよく頑張った。GⅠでこれだけやれば上等上等。さすがは我がチーム・アルルバのウマ娘だぁ。とはいっても、俺はろくに指導してないんだけどなぁ」
わはは、と自嘲しながら島原はどて串を景気よく噛み千切った。彼なりに三人のレース結果に満足をしている様子だった。
しかし、島原はすぐに喜色を潜め、窺うように隣に視線を向ける。
「…………」
シルクはレースが終わっても暫く無言だった。掲示板が確定しても、上位者へのインタビューが始まっても、ずっとターフを見つめていた。
島原は声を掛けず視線を前に戻す。黙っていても、隣のシルクの肩からは心情がひしひしと伝わってくるようだった。
皐月賞を走り切った仲間への賛嘆。自分も走りたいという意気。
そして、「GⅠを獲れば望みを叶える」と豪語した男、黒霧を見返す機会を一つ逸した悔恨。
これらは渾然一体となり、得も言われぬ焦燥感をシルクから醸させていた。
(今はあの男の思う壺か)
そんなシルクを見て、人知れず島原は心中で危機感を募らせた。
そしてターフ内では、乱れた息を整えて起き上がったエリモが不安げな表情でスタンドを見上げていた。見つめる先には、観衆に紛れて茫然と立ち尽くすシルクの姿。
(ジャスティスちゃん……大きなレースで一緒に走るって、昔に約束した。一緒に、走りたかったな……)
自身のレース結果への関心も忘れ、エリモは心中で寂しく呟いた。