皐月賞は指を咥えて見ているしかなかったシルクだが、それに刺激されたのか、すぐさま反応を見せる。
休養を終えた彼女はトレーニングを再開。停滞していた調子を立て直したうえで出走した若草ステークス(OP)で一着を獲る。未勝利戦以来となるトゥインクルシリーズで二つ目の勝ち星だった。
このレースでは、シルクの走法の基幹ともいえる差し脚が完成を見たといえた。通過順位[10-10-9-9]で最後方を進んでいた彼女は最終直線で一気に捲り、上がり3ハロン三四・八秒という記録で一着をもぎ取ったのだ。上がりタイムはゴール前六〇〇メートルの走破タイムのことを指し、それまでのレースで三六~八秒台にとどまっていたことに比べれば、末脚の強靭化を示す数字といえた。
ただ、この勝利だけではクラシック二冠目となる東京ダービーへの出走は難しい状況だった。ファン支持票数だけでなく、やはり重賞での勝利経験が無くては、ダービー出走選考に大きなハンデとなる。
東京ダービーまで残り一か月。シルクは京都レース場へ乗り込んだ。無論、重賞での勝ち星を挙げるためだ。
レース名は毎日放送京都クラシック特別(GⅢ)。このレースは東京ダービー前の最後の前哨戦と位置づけられており、例年上位者が滑り込む形でダービーへの出走権を獲得することから、ダービー直前の「東上最終便」と呼ばれていた。
最終コーナー途中から、全ての走者が仕掛けに入った。第3コーナーから下り勾配のついた京都レース場特有の地形も相俟って、速度の乗った状態で一団が第4コーナーになだれ込む。
『さあ、先頭は依然シムスパラディン、その外にプリーネライター、黄色い帽子のタイムキングメンも来ている』
スタンドの前に迫る一団へ歓声が飛ぶ。ダービーへの最後の切符を賭けた一戦だけあり、観る側も否応なしに昂るというもの。
レースは大詰めだ。残すは最終コーナーを抜けての直線のみ。全員が全力スパートをかけていた。必死の形相を浮かべる走者もいれば、鬨の声を上げる走者もいる。自分がラストチャンスを掴むのだと主張するように。
「シルク、行けー!」
「もうちょっとだぞ!」
「ジャスティスちゃん、頑張れ!」
その走者達の中にいる戦友に向け、観客席から腰を浮かせたラン、ダッツ、エリモがエールを送っていた。彼女たちも仲間にはっぱをかけようと精力的だ。
果たしてそれが通じたのか、直後、団子状態となっていた中団からただ一人抜け出してきた者がいた。
『おおっ、ここで一気に来た。シルクジャスティス、大外を通ってシルクジャスティス、四番手から三番手を窺ってきた!』
シルクだった。歯を食いしばり、腕を振り抜き脚を踏み出していく。前走者が三人いたが、その差が瞬く間に縮まっていった。コーナーを外回りながらも、内の走者を強い脚運びで一人また一人と抜いていく。
『残すは直線、先頭はプリーネライターに変わったか、大外からシルクジャスティス、プリーネが内、外がシルク。あとゴールまで二〇〇メートルであります』
渦巻く声援を割くようにシルクは駆けた。無意識のうちに彼女も鬨の声を張り上げていた。
「ウオォ────ッッ!!」
怒号のような喊声は、シルクの闘争心と執念を顕現したようだった。
そしてついに視界にゴール板が迫る。
『プリーネか、シルクか、プリーネか、シルクか!』
前走者が並んだかと思うと、シルクの視界外へと消えた。
観客の声が一際膨らみ上がった。ゴール板を越える瞬間、シルクは半バ身差で先頭に躍り出ていた。
『外だ、シルクジャスティスだ! 完全に三番手以下は千切れた! シルクジャスティス豪快に差し切り、ダービー前最後の前哨戦で重賞をモノにしました。世間を騒がすこの任侠ウマ娘が、ダービー最後の秘密兵器となるのでしょうか。これは楽しみであります!』
レースは終わった。シルクはウイニングラップで暫くコースを流し続けた。他の走者達は悔しげに絶叫する者もいれば、項垂れて涙を流す者、茫然と立ち尽くす者など様々だった。
観客の反応も悲喜こもごもだ。彼らは各々贔屓にしていたウマ娘の、ダービーへの最終切符を手にする瞬間を見るべく来場したのだ。スタンドのそこかしこで歓声や悲鳴、ため息が飛び交っていた。
毎日放送京都クラシック特別は決着を見た。シルクが文句無しの優勝を飾り、これでダービー出走をほぼ確実としたのだ。
「やったわねシルク! これで、皆で揃ってダービーよ!」
「ウオォー、オイラ感激したぞ!」
「ジャスティスちゃん、おめでとう!」
ウイニングランを終えたシルクが戻って来たところを、アルルバの三人が出迎えた。
この三人も皐月賞までの戦績から、ダービー出走をほぼ当確としていた。三人にしてみれば、自分達のリーダー格であるシルクが、クラシック戦線に出遅れたことが唯一気掛かりだったのだ。しかしこれで晴れて、四人で轡を並べダービーの舞台に臨むことができる。
特に感激を露わにしていたのはエリモだった。
「これで、大きなレースで一緒に走れるね。ずっと夢見てたんだから。やっと、一緒に……」頬を上気させてそう語り掛ける。
まるで積年の悲願が叶うかのような大仰さに、傍らのランとダッツはたじたじだ。
だが、シルクはそんなエリモに目もくれず、遠い彼方を睨み据えていた。レースでかいた汗を乱暴に拭い、荒い息を吐きながら、誰へともなく独白する。
「ようやくだ……これでようやく、GⅠの土俵に立った」
その鬼気迫る表情にエリモは思わず身を竦めた。
「絶対だ。絶対に獲る、GⅠで一着を、勝利を……」
今回の勝利は真の目的への通過点でしかない。
そう自身に言い聞かせるよう宣うシルクが、エリモにはよからぬものに憑りつかれた傀儡のように思えた。
***
「よぉし、勝った、シルクが勝ったよ! いい差しだったじゃあないか。ははっ、これであの娘ら揃ってダービーだね、よくやったじゃないかい!」
はちや食堂に置かれたテレビ中継を見て、八谷は喜色満面で叫んでいた。画面には毎日放送京都クラシック特別を終え、ウイニングランに勤しむシルクの姿が映されている。
昼休憩中の店内はがらんとしており彼女一人しか座っていない。だが、店の奥の厨房からはがちゃがちゃと物音がする。見ると、似合わぬエプロン姿の島原が、包丁としゃもじを両手に右往左往している。
「おい、何やってんだい島原。もうレース終わっちまったよ。担当ウマ娘のレースも見てやらないで、それでもトレーナーかい」
「はいはい、シルクが勝ったんでしょ。見なくたって分かりますよ。そもそもお店の手伝いやらせといて、テレビ見る暇もないのに、よく言いますな」
島原は気怠そうに応じながらネギをみじん切りにする。まな板を叩く音がぎこちなく響いている。
「最終コーナー辺りから大外から上がっていって、直線でごぼう抜き。末脚が上手く嵌ったでしょ」
「あん? 見てもないくせによく展開が分かったね。それはトレーナーの勘かい、それともアンタ自身の能力ってヤツか」
「さあ、どっちでしょうねえ」島原は鼻息を鳴らす。
切り終えたネギをタッパーに纏めると、鶏肉をひょいひょいとフライヤーに放り込んでいく。ぼちゃん、ぼちゃんと油が跳ねる音がし、あちち、と島原はごちた。
「にしても……僕、いつまで先輩の店の手伝いやらされるんですか?」
今更な質問をされ、八谷は渋面で振り向いた。
「あの子ら四人はクラシック関連で当面は忙しいんだろう。だったら暇そうなアンタの手を借りるしかないじゃないか。そうでもせにゃ店が回んないよ」
「だからって、ロクに自炊もしない中年おやじに飲食店員やれってねえ。先輩、人使いも荒いし……」
「なんだって?」
「いや、何も……熱っちい」島原は油の跳ねた指を耳たぶに当てた。
シルクたち四人が下宿する八谷家では、家賃代わりに食堂での勤労を課している。だがクラシックに臨む昨今は、走りに集中させてやりたいという八谷の判断により、店を手伝う回数は相当数免除されていた。しかしそれでは店舗経営に差し障ることから、当面の間、八谷はチーム・アルルバのトレーナーである島原をヘルプに駆り出していた。ろくに働かない不良トレーナーといわれるだけあり、時間を持て余していた島原は嫌々ながらもピンチヒッターを務めているわけである。
「ふうー、やっと終わった。これで夕方の仕出し弁当の仕込みは済みましたよう」
「へん、あの娘らに比べりゃまだまださね。時間をかけすぎだよ、もっと効率よくおやり」
「ただのヘルプが張り合う気なんてないですって。一本、吸っていいです?」
島原が煙草を取り出したので、八谷が「厨房の外でやんな」と一喝した。
その直後、店の戸口が叩かれる音がした。
「誰さね、まだ夜営業には早いんだが」八谷は壁の時計を見上げた。夜の暖簾を出すにはまだ早い時間だ。今提供できるものはない。追い返そうか、と腰を上げようとする。
しかし、それより早く動いた島原が戸口の手前に乗り出した。堅い顔つきになっている。誰が来たのかを察しているようだった。
「入れよ、浜野」
施錠を解き、島原は造作も無く来訪者を招き入れた。
いつも通りの地味な黒スーツを着た浜野が、小さく頭を下げて戸口をくぐってきた。
「やはりここだったか、島原。それに八谷さん、御無沙汰しておりました。営業時間外にお邪魔してすみません」
浜野が謹直にもう一度頭を下げた。
「あ、アンタは……浜野君、か」
表情が強張るのを自覚しながら八谷は応じた。
彼女にとっても、浜野という男は見知らぬ相手ではなかった。それどころか、ある種の因縁を持つ相手といえた。
「この三人で顔を合わせるのも随分と久しぶりですね」
がらんとした店内を見渡しながら、しんみりとした面持ちで浜野が言う。
「ああ、奇しくも
紫煙をゆっくり吐きながら、島原は遠い目をした。
八谷はそんな二人を見ながら、脳裏をよぎる過去の苦い記憶に思いを馳せる。そしてこの二人の男が纏う、途方も無く深い業をあらためて認識し、胸が締め付けられる思いがした。
「おっと、感傷に浸る為に来たわけじゃないんだ」
急に生真面目な顔になった浜野が、声のトーンを落とし、話を切り出した。
「今日のレースで、君のチームのシルクジャスティス君がダービー出場を確実にしたな」
「そのようだが、それが何か?」島原が頷く。話の当たりが既に付いているのか、彼の表情も重くなっていく。
「URA上層部より今しがた仕入れた情報だ……」浜野は目を鋭く光らせ、一拍置いて続けた。「あの男、黒霧が動くぞ。ついに『例の宣言』をするつもりだ。一か月後、まさしくシルク君も出走する、東京ダービー開催のその日にな」
浜野の言葉に島原は顔を歪め、吸っていた煙草を口元から離した。
八谷は、軽い眩暈を感じた。遂に始まっちまうか、と心の中で呟き天を仰いだ。