昼下がりの府中市内では、至る箇所で交通規制が敷かれていた。幹線道路は車両で溢れ返り、輻輳する交差点では誘導灯を手にした係員が交通整理に追われている。
京王電鉄府中レース正門前駅でも列車が到着するたび満杯の人が吐き出され、その人混みは連絡通路を経て東京レース場へ続々と流れていく。
六月に入ったこの日、東京レース場でクラシック二冠目のレース、東京ダービー(GⅠ)が実施されるのである。三冠レースの中でも特に注目され、誉れ高い「ダービーウマ娘」を決するレースだけあり、それを一目見ようと集まった群衆により府中界隈は今まさに混雑のピークを迎えていた。レース場に入っていく誰も彼もがダービーに関する下馬評を口々に語り合い、期待と興奮を滲ませている様子だった。
『……東京第八レース、むらさき賞は以上の結果で確定となりました。時刻は一五時を回ったところであります。さあ、場内の観客席も徐々に熱を帯びてきましたでしょうか。いよいよ次が本日のメインレース、第六十四回東京ダービーであります』
ダービーは第九レース、一五時三〇分の発走予定だった。レース場までの混雑をかき分け、数時間前に会場入りしたチーム・アルルバの四人は、割り当てられた出走者控室で準備をしていた。
「さて、これでよし。この服を着るのもこれで二度目ね」
姿見で身なりを最終確認しながら、ランが声を弾ませる。勝負服の着付けを一番早く済ませた彼女は、隣で手こずっているダッツの手伝いに回った。
「そうだなー、これを着ると何だか身が引き締まって、いつもよりいい走りが出来そうな気がする。オイラ、この服好きだぞ!」
マウンテンパーカー風の上着をぱたつかせ、ダッツも意気込み満点の様子だ。
「……おい、もういいって。あとは自分でやるから余計なことすんな」
控室奥のフィッティングルームからはシルクの狼狽が聞こえてきた。
「駄目だよジャスティスちゃん、折角の勝負服だもの。うんと着飾らないと」
窘めるようなエリモの声が続く。どうやら初めて勝負服に袖を通すシルクの手伝いをしているようである。
何だかんだ言って距離は縮んでいるようで、ランとダッツは二人の声を聴きニヨニヨと微笑んでいる。
ややあって、フィッティングルームのカーテンがしゃっと引かれた。
「わあ……シルク、綺麗。似合ってるわ」
「オオッ……いつもと雰囲気が違うぞ! オトナっぽいぞシルク!」
二人は一瞬見入ってから、口々に賛嘆した。
ドレス風のホワイトワンピースの上に、同じく純白色のタキシード風ジャケット、シンプルながらも気品を漂わせる装飾を散りばめ、それらに見合うよう普段のざんばら髪は梳かされ、まるで良家の令嬢を思わせるシルクの勝負服姿がお披露目された。
その背後では、同じくすでに勝負服装備を済ませたエリモが、やり遂げた感を出し、満足げに汗を拭っている。
「あらあら。髪まで整えて。エリモちゃんにしてもらったのね」
「うーん、いい意味でいつものシルクと別人みたいだぞ!」
「……そんなにまじまじ見るな。調子狂うだろうが。大体、ここまでやれなんて頼んでねえぞ」
「えへへ、今のジャスティスちゃん、お人形さんみたいで綺麗だよ」
「けっ、なにがお人形さん、だ」
そう毒づきながらもシルク自身満更では無さそうだった。初の勝負服に、特別な高揚を感じているのかもしれない。
この一か月、シルクはそれまで以上に苛烈に自身を追い込んだ。過酷なトレーニングで再度不調をきたすのではという懸念もされたが、このダービーに向けてシルクは完全に仕上げきった。その間は常に殺伐としており、安易に声を掛けることも憚られる雰囲気があったが、今こうして一喜一憂する姿は普段の直情な彼女に戻ったようで、四人の中には和やかなムードがあった。
「いよいよ……ダービーね。デビューした頃は、出走できるなんて夢にも思ってなかったわ」
「そうだなー。なんだか、遠いところに来たって感じだぞ。でも、初めてチームの皆で走れるし、オイラ楽しみだ」
「今思えば、私達がクラシックにまで這い上がれたのは、シルクに引っ張ってもらったようなものよ。私もダッツも、エリモちゃんも、アナタに触発されて頑張ってこられたからね」
「ふん、そのアタシが一番出遅れたわけだがな」
頬を膨らましたシルクに、皆が笑う。大レースを前にした緊張をほぐす、価値ある時間だった。
「そういえば、トレーナー、こんな大事な日にも顔出さないわね」
「きっとまた遅刻だぞ。それか寝坊かな!」
「あのオッサン、皐月賞の時なんか観客席でどて串食ってたぞ。トレーナーのくせにやってることが普通の観客と一緒だぜ」
「うわ、ずるいぞ! あそこのどて串、美味しくて有名なんだぞ」
「言っとくが、アタシは食ってねえからな」
他愛無いやり取りをしていると、控え室に放送が流れてきた。
『お知らせします。第九レース出場者はパドックへお進み下さい。繰り返します──』
出走前のパドックでのお披露目の招集だ。
行くか、と四人は腰を上げた。いよいよ勝負の時が迫る。
「あの……ジャスティスちゃん」
控え室を去る段になって、微笑みながら待ち控えていたエリモがシルクの袖を引っ張った。
「今日のレース、本当に、ジャスティスちゃんと走るのを楽しみにしてたんだ。昔、約束してたから……」
「うん? またお前のムカシバナシかよ」苦笑しながらシルクは両手を上向けた。この頃にはエリモの根無し言のいなし方を、ある程度身に付けてきていた。「まあ、お前がそれで頑張れるってんなら、それでいいんじゃないか」
頬を掻きながら適当に応じる。
その直後、ふっと目線が合った。シルクを見上げるエリモの純粋な目を見た瞬間、シルクの心の奥底で何か込み上げるものがあった。
昔の、約束──。何のことだか分からない。分からないはずなのにどこか懐かしい。
脳裏に、水彩画のようにおぼろげな光景が唐突に現れる。近くに川が流れる、どこかの公園。そこのベンチに腰掛ける、幼い二人のウマ娘。そして──
「おや、まだ此処に居たかね。間に合ってよかったよ」
さらなる幻影が湧き出かけたその瞬間、控え室の戸口から聞こえた声にシルクは我に返った。
そして同時に、全身がかっと熱くなった。一気に目を吊り上げ、振り向いた先に憎き相手を見据えたシルクは、威嚇するように言葉を絞り出した。
「オヤジ……てめえ、なぜここに……!」
「おっと、これは失礼。今日も虫の居所が悪いようだね。レース前でナーバスだったかな」
言葉とは裏腹に悪びれる様子も無く、突如現れた黒霧は戸口にもたれながら傲岸不遜に微笑を浮かべていた。
「質問に答えろ……何しにここへ来やがった」
「そんなもの決まっていよう。今日はダービー、トゥインクルシリーズ最高峰ともいわれるレースが開催される。その晴れ舞台に臨む愛娘に、一言激励をと思い馳せ参じたのだよ」
いつかと同じようなやり取りに、瞬間的に気が遠くなるような憤激を覚えたシルクは──かつてと同様に、黒霧と名乗る男の胸倉に掴み掛かっていた。
「ふざけるな。目障りだ、急にまた姿を現したと思えば、アタシを煽ろうってのか。どこまで人をおちょくれば気が済むんだ、アンタは!?」
押し倒さんばかりの勢いで、父に詰め寄る。
「ちょ、ちょっとシルク!?」
「わっ、わー! よすんだ!」
突如訪れた修羅場に、ランとダッツが間に割って入る。大レースを前に問題を起こすべきではない。そう判断してシルクを強引に引き剥がした。
「はなせ、お前ら、これはアタシの問題だ」
「問題もへったくれもないわ、レース前によしてよ。騒ぎになれば、出走を取り消されちゃう可能性もあるのよ!」
「ぐ……!」
ランに制され、シルクは全身から力を抜く。それでも鋭くいからせた眼は、依然として憎き父を睨み据えている。
襟元を正した黒霧は、その目線に対し愉快そうに睥睨してみせた。
「ふん、結構。その有り余る力を、是非ともレースで発揮していただきたいものだね。素晴らしい走りが期待できそうだよ」
そういって黒霧は一人で笑う。
皮肉交じりの響きに、シルクは唇を噛んでわなわなと肩を震わせた。
「……さて、激励はこれくらいにして」
ふいに笑いを引っ込め、黒霧は口を引き結んだ。そしてシルクの前に屈み込むと、面前に人差し指を立てた。
「まだ聞いていなかったな。この前私が持ち掛けた『賭け』の返答を、ダービーの前に聞いておこうか」
シルクの目が虚を突かれたように開かれる。
賭け。
GⅠレースで勝利を獲ることがあれば、私はお前の望みを一つ聞き入れる──。
それにより走ることへの意欲を与えてやる──。
以前対面した際、黒霧はシルクにそんな提案をした。要は、褒美をちらつかせてハッパをかけようというものだ。
無論そのことを忘れてなどいなかった。むしろ常に心の中でその答えを温めてきた。
そう、最初からシルクの「望み」は決まっていた。
ランとダッツから肩を離し、悠然と直立したシルクは、父の眼前に指先を突き付けた。そして、絞り出すように怨讐を込めて言い放つ。
「答えは決まっている……乗ってやるさ、アンタの賭けとやらに。GⅠを勝ったら、アタシが失ったものを返してもらう! 母さんを……母さんを返してくれ……!」
母というワード。意外な希求に、周囲が息を呑む気配があった。
そして要求を聞き届けた黒霧は──目を妖しく光らせ、口を嗤うように歪めた。
「いい答えだ。その望み、お前がGⅠを勝利した暁には必ず果たそう。では今日のレース、健闘を期待しているよ──」
そう言うと黒霧は踵を返し、あっさりと控え室から出ていった。シルクの様子から何か確信を得たような、愉悦の表情を残して。
部屋に残された四人を痛い沈黙が包む。
「ね、ねえ。さっきの人、シルクのお父さんなの? 以前、学園のグラウンドに顔を出してた……」耐えかねて、ランが問うた。
「あのオジサン、何回か、テレビで見たことあるぞ。確か、URAの偉い……」ダッツも疑問を訊ねようと続く。
それらを遮るようにシルクは手を翳した。
「今はそんなことどうだっていい。これからレースだろうが」
凄味のある、それでいて拒絶も感じる声に、二人はそれ以上口を挟めなかった。
先程までの和やかな雰囲気は跡形も無くすっかり霧散していた。
「行くぞ……」
振り向くこともなく、シルクは部屋を出ていった。せっかく梳かした髪は、怒髪天を衝いたように元通りざんばらになっている。
ランとダッツも、困惑しながら慌てて続いた。
その背後で、エリモが口を開いたまま表情を凍りつかせていたことに、他の三人は気付いていなかった。
「ジャスティスちゃん、なんで……?