それ以後、シルクは一言も口を利こうとしなかった。険しい表情のまま、パドック、出走前検査、本バ場入場と、決められたプログラムをこなしていく。
あらためて見せつけられたシルク父子の確執が、ラン達には気掛かりで仕方なかったが、間も無く彼女らもレースを走らねばならない。一旦そのことは脇に置き、気持ちを切り替え自分の走りに集中することとした。
『……以上、本バ場入場致しました一七人により、今年の栄えあるダービーウマ娘を目指して争われます、第六十四回目となる日本ダービーであります』
実況に煽られるように、スタンドから歓声が上がる。今日のこのレースを見るため訪れた十万を超える観衆の熱気で、場内は微かに揺れている。
『返しウマを終え、ゲート前に走者が集って参りました。皐月賞ウマ娘ブリリアントサン、表情が多少硬いが気迫を感じます。メジロブライトは覚悟を固めたか、黙想し勝利を思い描いているかというところ。そして目下二連勝中、ダービーの最終切符を手に乗り込んできたシルクジャスティス。ご覧下さい、このいかめしい表情。初のクラシックに臨む彼女の心境は如何程のものでしょうか』
スターターが上がり赤旗が振られる。ファンファーレが鳴り、出走者たちがゲート入りを開始した。
チーム・アルルバの四人の枠番は、
シルクジャスティス3枠5番
エリモダンディー4枠7番
ランナイジェル6枠12番
アルダッツ3枠6番
となっていた。
「シルク、その、頑張ろうな。気にするなよ!」
出走前、ゲートが隣同士のダッツが遠慮がちに声を掛けた。どうしても気掛かりで、声を掛けずにいられなかったのだ。
「ああ」
シルクは抑揚なく応じた。しかしその目線はゲートの先を向いたままだった。
***
「アンタ。こんな大事な日にもギリギリで来やがってまあ、一体どういう了見してんだい、ええ?」
観客をかき分けて現れ、謙った表情で低頭する島原に八谷は呆れ声を上げた。売店で買ったどて串片手にやってきたことがより油を注いだ。
「いや……どうも交通規制で道が混んでたもんで。それに朝から何も食ってなくて、小腹が空いちゃいましてね」
言い訳がましく島原が言うので、八谷はため息をついて額を手で押さえた。一本どうです、とどて串が差し出されたが、要らんわ、と押し返す。
「まったく、あの娘らが可哀想だよ。せめてレース前に控え室に行って、ハッパくらい掛けてやれってんだ。これじゃ放ったらかしじゃないかい」
「俺の激励なんか無くても、アイツらちゃんと走りますから。むしろ、余計なお世話だって煙たがられるだけですよ」
「ふん、つべこべと言い訳ばかり。とんだクソボケの下についちまったもんだよ、あの娘らも」
「まあまあ、今はこういう距離感でやっとるもんで」
詰ってくる八谷を前に、から笑いで島原は茶を濁した。
八谷はこの日、店を臨時休業してレース場に観戦に訪れていた。我が家に下宿する四人全員が出走する大レースとあって、現地で応援してやろうという親心だった。
しかしその案内役を務める筈だった島原が遅刻間際に会場に現れ、しかも担当ウマ娘のレース前フォローも碌にしない様を目の当たりにし、すっかり呆れ果てていた。
「情けない。見下げ果てたトレーナーになったもんだ。こんな風に育てた覚えはないんだが」
「はは……それを言われると弱っちゃうな。でも、俺だってなりたくてこうなったわけじゃないですよ。それにほら、弟子は師匠に似るともいうし?」
お小言を浴びせられ続けてさすがに辟易したのか、島原は下唇を突き出し戯けてみせる。
だが、ついさっきまで臍を曲げていた八谷がしんみりとターフを見つめているのを横目で気付き、バツが悪そうに頭を掻く。
「……かれこれ何年になるんですかね。俺が新人トレーナーだった頃、先輩に散々しごかれたの。今思えばあの頃が一番楽しかった」
合わせるように、島原も遠い目をしながら言う。
しかし八谷は「やめな。女々しいったらない」とぴしゃりと撥ねつけた。同情を拒む響きがあった。
傷付いたような表情を島原は浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。
暫しの沈黙が流れる。コース上では、出走ウマ娘たちのゲートインが始まっている。
「……それで、どうなんだい」間を空けたのち、八谷が切り出した。「あの娘らは今日のレース、いけそうかい」
「うん、いいんじゃないですか。皆、相応に仕上がってますよ。俺の指示なんかなくとも、自分達で率先してトレーニングをやり切った。四人とも、二重マルを付けたいくらいだ」
でもね──、と目を伏せ島原は続けた。
「良くて二位止まりです。一人、凄いのを纏ったやつがいる」
断言するような口調に、八谷は思わず振り向いた。昼行灯な振る舞いだった島原が、そう語る時のみ、何かを諦めたように表情を消していた。
(島原、やはりオマエ──今でも
八谷は内心慄く。そして追及しようかと逡巡する。目の前の冴えない中年男が断言した『順位予想』について。
だが今度は島原が、それ以上は聞くなと言いたげに明後日を向いて煙草を取り出した。ライターを取り出すが、場内禁煙であることを思い出したか、ゆらゆらと首を振って仕舞う。
「それより問題は、レースが終わってからだ。トゥインクルシリーズの歴史が変わる」
若干の緊迫感を滲ませ、島原は代わりに手にしたどて串を食い千切った。
直後、ターフ内のスターティングゲートが開放された。