照明が落とされ薄闇に包まれた中山レース場で、十万観衆のサイリウム光が蛍のように揺蕩う。
小判型コースの中央に設置されたライブステージは水を打ったように静まり返っていた。静謐は周囲に伝播していき、観客席のさざめきも次第に収まっていく。
場内の全てが静止し沈黙に包まれた数秒後、暗闇に包まれていたライブステージが煌々と彩り豊かな光を放った。
爆発したようにスタンドから歓声が上がり、ステージに三人のウマ娘が登場する。場内全体に響き渡るイントロBGMが流れ出し、マイク片手に舞い躍りパフォーマンスを開始した。
この日のメインレース、東京ダービー上位を飾った三名によるウイニングライブだ。その中には無論、二着だったシルクも含まれていた。
曲名「winning the soul」。クラシック三冠レースでの定番選曲である。
『光の速さで駆け抜ける衝動は
何を犠牲にしても叶えたい強さの覚悟』
歌唱が始まり場内のボルテージが上がっていった。
華やかなステージ演出、大音響のBGM、勇壮に舞い踊る三人。大勝負の後に残った余熱を再び焚き付けられ、場内は一時の狂騒に酔いしれる。
スタンド最前席まで乗り出したランとダッツは、ペンライトを振りながら舞台上でパフォーマンスに勤しむシルクを見守っていた。
「すごい、すごい、すごいぞ」
ダッツは無邪気にはしゃいでいる。彼女の視線は舞台上のシルクに注がれている。
「しゃがんでよダッツ。見えないわよ」
それを窘めながら、ランも一緒になって舞い踊るシルクにしばし見入った。そつなくウイニングライブをこなすシルクの姿を目にして、どこか安堵の気持ちがあった。
壮絶なシルクの過去を吐露され、ランとダッツは少なからず衝撃を受けた。入学以来同じチームで過ごしてきた仲間に、そんな辛い過去があったのかと。そして軽々しい気持ちで聞き出そうとしていたことを内心悔いた。
しかし語り終えた後のシルクの表情はどこか晴れやかだった。「吐き出しちまった方がいい」といった島原の思惑は存外にも功を奏したように思えた。今まで誰にも言えず苦悩してきたことを、言葉にして打ち明けられたのは精神衛生上良かったのかもしれない。
全てを吐き出し、今後への決意を表明し、ウイニングライブへ向かったシルクの背にはいつもの壮気が戻ったようにみえた。ランとダッツは「過去は過去。母親を取り返す努力を仲間として応援する」と告げて送り出したのだった。
『時には運だって必要と言うのなら
宿命の旋律も引き寄せてみせよう
走れ今を まだ終われない
辿り着きたい場所があるから
その先へと進め』
曲はサビにさしかかっていた。観衆のボルテージも最高潮を迎えている。
賭博化宣言後の観衆は騒然とし、是非を問う声やその場で反対を表明する叫びもあったが、レースが終了してウイニングライブが始まると、皆そちらに夢中の様子だった。まだ彼ら彼女らにはこれから到来する嵐の実感が乏しく、取り敢えず目の前の勝者を称えるライブへ没頭する逃避観がはたらいたのかもしれない。それでもダービー後のウイニングライブとして例年通りの賑わいを見せてはいた。
ステージを舞う三者は一丸となり、華麗なパフォーマンスを花開かせる。その中にあっても歌唱力やダンスの切れはシルクが頭一つ抜けて見えるのは、身内の贔屓目だろうか。
これも幼少期の英才教育で身に付けてきたものだとしたら合点がいく。思えば正義の不良児として世に蔓延る不貞や非道を捻じ伏せてきたのも、その教育によって得た叡知や膂力の賜物といえるのかもしれない。
吐露させてしまったのは不本意かもしれないが、ランとダッツにとっては孤高だったシルクの身の上を少しでも理解できたことで、以後もこの正義を貫く風雲児についていこうと思えた。
「あれ、そういえばエリモはどこいったんだ?」
演奏が終わりに近づいてきた頃、ふいにダッツが周囲を見回した。
「さっきまで一緒にいたのにね」
ペンライトの手を止めランも首を巡らす。
シルクのライブの観覧には、元々エリモを含めたチーム・アルルバの三人で来ていたのだ。しかしライブが始まるといつの間にか、エリモの姿が忽然と消えてしまっていた。
「トイレにでも行ったのかな。せっかくのシルクのライブなのに、勿体無いぞ」
「うん。それにしても……エリモちゃんもなんだか今日の途中から、口数少なかったわよね」
ランの懸念は、控え室でシルクと黒霧が対面して以降のことを指していた。あそこからシルクは殺伐とし、エリモも口重になった。
「シルクが思い詰めてたから、エリモも心配だったのかなあ。さっきの過去の話を聞いてる時なんか、顔が真っ青になってたぞ」
「旧知の仲だっていうエリモちゃんでも、知らない話だったのかな」
「……」
「……」
しかしこの時、口には出さなかったが二人は感じていた。
一聞して筋の通っているように思えたシルクが語った過去の話に、言い知れぬ違和感があったこと。
そしてこれと関連し、エリモがシルクの昔馴染みだというのは、現時点ではエリモの自称でしかないということにも思い当たる。
くすぶり出したこれら疑念が火種となり、後に災いとして降り掛かることを、彼女達は未だ知らない。
***
観客席上層に位置する展望席は、一般席の狂乱とは打って変わり閑散としていた。
ウイニングライブの音響が微かに響く中、照明を絞られたフロアの隅のソファにふんぞり返った島原は、携帯電話を耳に当て通話の声を発している。
「……ああ、今ちょうどウイニングライブをやってる。様子はまあ、安定したかねえ。レース後に全部話して、ちっとは頭が整理されたみたいだ」
競走界関係者向けの特別席が並ぶこのフロアは場内を見渡せる眺望が売りだが、ウイニングライブの観覧には距離が遠く生の音響も十分に味わえないといった理由で、ライブ開始後は殆ど人が居なくなる。レース中にこの場にいた者の多くは今頃下の一般席でライブの喧騒に交じっているか、あるいは件の改革宣言の対応に奔走しているに違いなく、ひっそりした雰囲気の中に島原の声が静かに響いていた。
「で、そっちはどうだい。……問い合わせ殺到でてんてこまい? そうだろうなあ、あんなご大層に演説打たれりゃなあ。これから忙しくなるねえ。……え? そっちは暇だろうって? わはは、そりゃ事実だけど、お前ほど忙しくはならんけどさあ。……うん、まあ、一段落したらまたハチさんの食堂に顔出せよ、飯ぐらい奢るぜ。最近手伝わされて料理できるようになったんだ。……ああ、分かってる、黒霧の動向に気を付けろってんだろ。はいよ、それじゃまた連絡するわ。残業お疲れ、浜野監事殿」
通話が終わり、携帯をポケットに仕舞う。小さな溜め息が微かに漏れる。
その様子を傍の柱にもたれて見守っていた八谷が、躊躇いがちに声を掛ける。
「どうすんだい……これから」
島原はもう一度息を吐く。表情のない顔でにやりと口を曲げる。
「決まってます。賽は投げられました。
島原はソファを立ち、展望窓から眼下のライブを俯瞰しながら続けた。
「さっきシルクの奴、なかなか鋭い事を言ってましたね。賭博化で競走界やウマ娘にもたらされる弊害。金が絡んでレースが穢される、と。まだ女子高生って年齢の娘が、宣言を聞いた一瞬でそこまで危機を予見できるのは大したものだ。だがね、所詮は子供の走り知恵だ。アイツは分かっていない、真性の悪に染まった人間がやる、悪魔の所業ってものを。これから競走界を襲うのはそういうものだ。ならば俺達がとるべき道はもはや一つしかない」
いつになく熱のこもった島原の言説に、八谷は息を呑む。
「やっぱり、やるのか」
「ええ。この時のために俺達は生きてきたんです。
そこまで言いかけて、島原は急に口を噤んだ。
八谷は怪訝そうに眉を寄せたが、一拍遅れてその理由を察し、思わず身構えた。
気配がしたのだ。他に誰もいない筈の展望フロアに、もう一人、誰かがいる気配。
はたして二人から数メートル離れた通路の影から、慎重な足取りの人影が一つ、ぬっと姿を現した。
「あの、トレーナーさん」
遠慮がちなその声の主は、エリモだった。
ランやダッツたちと共に、観客席にライブを見に行った筈のこの子がなぜここに。聞かれるべきではない会話の一端を聞かれたと思い、八谷の顔には微かに狼狽が滲む。
だが、より動揺すべき──競走界を消滅させるという恐るべき発言を漏らした──島原の方は、微動だにせずエリモをじっと見据えている。
「どうしたの。せっかくお前の親友がライブやってるのに、見てやらないのかい」
事もなげに島原が言葉を投げ掛ける。
「トレーナーさんに……どうしても聞きたいことがあって来たんです」
牽制するようにエリモが問い返す。いつもの儚げでか細い声色との明らかな違いに、傍らの八谷は面食らう。
「なんだいあらたまって。そんな真剣に見つめられちゃ、オジサン照れちゃうなあ」
軽妙に応じる島原だが、それを意に介すことも無くエリモは問い始めた。
「トレーナーさんは……知っていたんですか。ジャスティスちゃんに、昔、何があったのかを」
「それって、さっきシルクが話した過去のこと? そりゃまあ一応ね。チーム・アルルバに加入した時に、ある程度アイツの経歴は調べたなあ。ほら、トレーナーとして一応把握はしとかなきゃいかんからさ。アイツは自分から言おうとせんから、苦労したよ」
「そうですか……それなら」
一拍間を置いたエリモは意を決するように目線を上げると、続けざまに問う。
「それなら、分かっているんですね。あの黒霧という人のことも」
「黒霧……シルクのオヤジさんのことかい。あれがどうしたんだ」
「とぼけないでください」
その瞬間、八谷も、そして島原も息を呑んだ。エリモの低い声に、核心に踏み込んでくる気配があった。
「私は昔、ジャスティスちゃんと一緒に過ごした時期がある。その時、ジャスティスちゃんの家に連れて行ってもらったこともある。そこで見たことがあるんです、ジャスティスちゃんのお父さんを」
エリモは一気に捲くし立てる。普段控えめで口数も少ない彼女が悲壮な面持ちで、秘められた真相に迫るべく、そしてこう問うた。
「あの黒霧って人は、
空気が凍りつくのがはっきり感じられた。
八谷は口と目を開けたまま、その場で固まっていた。
島原も目を見開き、暫しの間立ち尽くす。
だがやや間を置いた後、驚くべきことに彼の口からは、くぐもった笑い声が漏れ出した。
異様な雰囲気に八谷は眉を顰め、エリモは緊迫した表情のまま微動だにしない。
「フハハハ……。エリモダンディー、お前さんをウチのチームに引き入れたのは、どうやら正しかったらしい」
狂ったように笑いながら島原が云う。
しかし直後、
「でも悪いけど」瞬時にして笑みを引っ込め真顔に戻った彼は突き放すように告げる。「その問いに答えるつもりはないよ」
それだけを言うと、島原はその場から歩き出す。まるでこれ以上の追及を躱そうとするように。
「待って、トレーナーさん!」その行く手を阻むようにエリモは大の字で立ちはだかる。そして懇願するように訴えかける。「あなたは知っているんでしょう。ジャスティスちゃんがなんでああなっちゃったのかも、あの黒霧って人との関係も、全部分かっているんでしょう? お願いです、教えて下さい」
「参ったねどうも」
エリモの請願にも島原はまるで取り合おうとしない。頭を掻き、やれやれと首を傾げてみせる。
「ほら、妙なこと言ってないで。今からでもライブを見に行こう、な」
おどけた表情でそんなことも言い出した。
エリモは眉を逆立てた。せっかくシルクのウイニングライブ観賞を中座してまで、訊き質すためにやってきたのに、島原はシルクに関する秘密をはぐらかそうとしている。それはこの数年間、あの唐突な別れの日からずっと探し求めてきたものだ。
今日のレース前、控え室に現れた黒霧という男を父と呼んだシルクに、エリモは凄まじい衝撃を受けた。なんで、ジャスティスちゃん。その人は違う、お父さんじゃない──。このことがシルクの秘密に関連していない筈がない。そしてその子細を知るであろう島原と今、対面している。
ここまできて、何も得ず中途半端で終われない。私は決めたんだ。ジャスティスちゃんを必ず取り戻すのだと──。
脇を素通りし退散しようとする島原の腕を、エリモは意を決して『掴んだ』。呆気に取られる島原をよそに、内に秘めたる第六感を最大限に発揮してその深層心理へと潜り込む。