さまようものたち(1)
水浸しになった暗闇の通路をひた走る。水中に無数に散らばる瓦礫が足取りを狂わせ、焦燥をより一層加速させる。
ばしゃばしゃと水を蹴る音が、煤けたコンクリートの通路を不気味に反響していた。
それは自分達のものだけではない。遥か後方からも、徐々に差し迫ってくる音が一つ。着実にその足音は、自分達のもとに近付きつつある。
どうして、なんでこんなことに──。
意識が朦朧とし、歩くことも覚束ないシルクジャスティスを傍らに抱えながら、エリモダンディーは悲愴に顔を歪めた。体力はもう限界に近い。
通路の角を曲がる。一縷の望みを託し天を仰ぐ。
その視線の先には、自分達が入ってきた筈の『出入口』が液状化した土砂で埋め尽くされているのが見えた。
そんな、もうここも──。
絶望に沈みかけたとき、背後からの足音が急激に大きくなったのを感じた。
追っ手がもう間近に迫っている。すぐそこの角にまで。
もはやこれまでかと、エリモの脳裏をここに至るまでの数日間が走馬灯の如くよぎる。
***
数週間前。
夏の日差しが降り注ぐ近郊の街並みが、窓外を流れていく。朝のニュースでは今日も全国的に真夏日になると告げていた。事実、車の外は灼熱といえる気温になっている。
そんな外界から隔離され冷房のよく効いたワゴン車の車内では、少女達のかしましい声が響いている。
「むむむ、よし、これだ! ……うわっ、またジョーカーだぞ!」
「ダッツお前、なんで自分から言うんだよ。ほんと、ババ抜きに不向きなやつだな」
カード片手に悶絶するアルダッツを、シルクが首を傾げて窘める。
「おかげで私達は負けなしだけどね。次のサービスエリアでもアイス、奢ってもらうわよ」
そう言いながらダッツの手札を一枚引いたランナイジェルが、ペアになったカードを山に捨てた。彼女はそれで上がりだった。
「次のサービスエリアは、人参アイスが有名みたいです」
早々にイチ抜けしていたエリモが、高速道路のパンフレットを捲りながら言い添えた。
やがてドベに沈んだダッツが奇声を上げ、車内の笑いを再び誘う。
チーム・アルルバの四人は、後部座席でトランプに興じていた。旅行気分で和気藹々としてみえるが、彼女たちが座るさらに後ろの荷室には、四人分のトレーニング用荷物が満載されている。いま彼女達は夏の合宿を行うべく、地方への移動真っ只中だった。
春のクラシック戦線が終わり、八月となっていた。例年この時期、トレセン生は能力と士気を高めるため、猛暑続きの都内を離れ避暑地で合宿を行うのが慣例になっている。アルルバの四人もその御多分に漏れず、これよりその行程に臨むところなのだ。
「ああもう、ババ抜きなんてヤメヤメ! 次は銀杏ボンバーで勝負だ!」
「な、なにそれ?」
「それを言うならインディアンポーカーだ。言っとくがババ抜き以上にダッツには向いてねえぞ」
ああだこうだ騒ぎながら、往きの道中から四人は盛り上がっている様子だ。
「君たち、そろそろ休憩だ。十五分程止まるからね。おそらくこれが合宿所までの最後の休憩になるよ」
運転席でハンドルを握る男が、バックミラーを見遣りながら云う。気さくな声に、四人は「はあい」と応じる。
「またコーヒー、買ってきましょうか?」
気遣い上手のランが尋ねた。
運転席からは遠慮がちに「ではお言葉に甘えて。すまないね」と返事がくる。
「いいんですよ。車出してもらってるんだから、それくらい」
やがて某サービスエリアの案内標識が見え、車は左レーンに逸れた。
駐車場に止まったワゴン車から、いの一番に飛び降りたダッツがお手洗いに駆けていった。「も、もれるー!」ジュースを飲み過ぎたらしい。
「走ると危ないわよダッツ。エリモちゃん、さっき言ってたアイス、見にいこっか」
「はい」
ランもエリモを引き連れ、サービスエリアの建屋に向かっていく。
運転席の男は車外に出て、ぐっと伸びをした。都心に比べ気温は抑えめで、運転に疲れた体に風が心地いい。
「すまねえな浜野さん。島原のオッサンの代わりに合宿の付き添いしてもらって。仕事とか、大丈夫なのか」
ドアを閉めながらシルクが云う。
「はは、構わないよ。仕事のことなら心配御無用、今のURA事務局は居るだけで息が詰まりそうだからね。私にとってもいい気分転換になるよ」
ポロシャツにスラックスというラフな格好の男──
チーム・アルルバの主宰トレーナーといえば島原だ。本来ならば彼が合宿に同行するのが筋だが、今回は彼の知人である浜野がその役目を担っていた。
「わるいね。そもそも島原のオッサンがクルマをぶっ壊さなけりゃ、浜野さんに迷惑かけなかったのに」
「彼の愛車は年季が入ってるからね。いつ壊れても不思議じゃない代物だったから、致し方ないよ」
「愛着あるなら、もっと大事にしろよな。あのボコボコの車体で学園に出入りするたび、生徒から指差して笑われてんだぜ。そもそもまともに車検通してんのか? でなきゃあんな事故しねえだろ」
「まあ、それもそうだ」浜野は苦笑いを浮かべた。
数十年も乗り換えず走行距離は十万キロを超えている島原の所有車≪パブリカ・スターレット≫は、数日前に経年が祟って故障した。ハンドルがいかれたのだという。通勤時に発生したこのトラブルにより、彼の車はトレセン学園通用門に激突。不幸中の幸いで怪我人無しの単独事故で済んだが、学園教務課ではその後ため息と怒号が飛び交い、生徒間ではお笑い草にされた。
合宿が間近に迫っていたため、島原は急遽知人の浜野に送迎役を依頼したのだった。「送り迎えするだけでいい、向こうでのトレーニングはアイツらが全部勝手にやるから頼むよ」と。それを浜野が承服して今に至る。
「でも浜野さんって、結構忙しいんだろ。確かURAの監事? だっけ。その権限で、URAの業務車でも貸してやればよかったんじゃないか」
シルクは車内で出たゴミを一纏めにしてサービスエリアのダストボックスに押し込む。
「そうしてやりたかったが、彼に車を貸すとどんな状態で返却されるか分からないと、申請が通らなかったようだ」
「あー、ぶっ壊されちゃかなわねえしな」浜野の言いようにシルクは苦笑した。学園の門ごと中破した島原の愛車を思い返す。
「おまけに愛車を失くしたショックで、どうやら寝込んでしまったようでね。とても来れる状態じゃない。困った御仁だよ」
「それホントかよ。相変わらずだな、あのオッサン……担当ウマ娘の合宿に同行しねえって、中央のトレーナーが聞いて呆れるぜ」
「まったくだ」つられて浜野も悪戯っぽく口を曲げた。
アルルバの四人にとって、浜野とはこれまで面識は皆無だった。島原からは「URAの知り合いが合宿の付き添いをしてくれるから」としか事前に聞かされておらず、そもそも学園内で与太者扱いされている島原に、付き添いを頼めるような相手がいたことも意外だった。
だが当日になり行きの車内で交流するうち、島原の友人らしからぬ浜野の温和でとっつき易い紳士的な性格にほだされ、四人は彼にすぐ懐いた。不良節が濃く斜めに構えがちなシルクでも、既に軽口を言い合えるほどだ。
「ふー、スッキリした。漏れるかと思ったぞ……」
「待ってたわよダッツ。さあ早く、人参アイス四人分の会計待ちよ」
「げっ。勘弁して欲しいぞ、もう今月分の小遣いが……。エ、エリモ助けて!」
「ご……ごめんなさい。これ以上ダッツさんにお小遣い貸すなって、みんなに止められてるから」
「うぎゃ! どうやって夏を越せばいいんだ──!」
斯くしてアルルバ一行と浜野は合宿地へ向かう。秋以降のレースシーズンに向けた合宿は、彼女らにとって青春の一ページに残る思い出となるはずだった。
彼女達はまだ知る由も無い。この合宿中に悪夢のような出来事が待ち受けていることを。
一同を乗せた車は料金所を抜け一般道へ降りた。
野山が広がる地方某所である。人家もまばらで、森林地帯を切り拓いた長閑な道をしばらく走ったところに、合宿所はあった。
「あっ、見えたぞ!」
ダッツが後部座席から身を乗り出し前方を指差す。その先には、コンクリート造りの建物が山の木々に囲まれ見え隠れしている。
細道を辿り程なくして到着した。それなりに年季の入ったスポーツ研修センターのような施設だ。正門には「日本トレセン学園指定合宿所」と書かれたプレートが掲げられている。定礎板を見ると日付は二十年以上前で、バブル期よりもずっと前に建立されたようだ。
「よし、みんな着いたよ」
浜野は車を施設玄関前に横付けした。
「ふわぁ、さっそく荷物下ろさなきゃ」
途中からうたた寝していたランがあくびをしながら降車する。後部トランクを開き、他の三人もそそくさと鞄を下ろしていく。
「ここに来るの、一年ぶりだな!」
両肩に鞄を担ぎながらダッツが云った。昨年、彼女を含めたシルクとランの三人はここで合宿をしたのだ。三人にとっては、訪れるのは二度目となる。
「そうねえ、懐かしい。あの時確か大雨で川が氾濫して、近所の子供たちを助けるってシルクが無茶して、大騒動になったっけ」
「そんなこともあったな」
言いながら三人は合宿所の背後に聳える裏山を遠く見上げた。
傍の木々から蝉の鳴き声がけたたましく響いている。空は雲一つない快晴で、日差しはあるがやはり都会のそれより幾分柔らかい。
荷物を下ろし終え、浜野は車を駐車場へ移しにいった。その間に四人は施設に入館しておくことにした。ホテルではないので、出迎えなど当然無い。四人はそれぞれ荷物を抱えて、玄関から中に入っていく。
ふいにその時、視線を感じた気がした。シルクは足を止めてこうべを巡らす。
車が入ってきた正門の向こうに、ぽつりと人影があった。離れているためか、蜃気楼に揺れる姿ははっきりとしないが、見知らぬ人物が門の向こうからこちらを見ている。
怪訝に思いシルクは目を凝らした。
よく見ると人影は男のようだ。日焼けした肌に黒い作務衣、そして短く刈られたごま塩頭が特徴的だった。
男はまるでこちらを窺うように、微動だにせず注視してくる。真一文字に唇を引き結び、感情の見えない落ち窪んだ眼窩は、どこか不気味な印象を抱かせる。
(なんだありゃ、追っかけか?)
アスリートである競走ウマ娘には熱心なファンもいる。その中にはいわゆる「追っかけ」をするような者もおり、著名なウマ娘ともなればその練習風景を一目見ようと合宿所にファンが詰めかけることもあるという。
だが、どうもそうではないようにシルクは思えた。直感的に心にざわつくものを感じた。それは様々な事象に首を突っ込んできた彼女が、トラブルが惹起する前に決まって感じ取る危険信号のようなものだった。
「ジャスティスちゃん、どうしたの?」
「……なんでもねえ」玄関口から動かないのをエリモに促され、シルクはつっけんどんに応じる。
もう一度門の外を振り向くと、先程までいた男の姿は失せていた。