くたびれた内装の合宿所の廊下を、アルルバの四人と浜野は先導されるままに歩いた。廊下の所々に埃や汚れが目立つのは、施設の古さの所為だけではないようにみえる。清掃が追いついていないのだろうか。
「ごめんなさいねえ。ここの施設、去年より従業員が減っちゃってねえ。ほら……不況のせいでここも人手、削られたの。いつまでもボロボロのまま。嫌になるわねえ」
先導する丸顔の女管理人が言い訳がましく言った。彼女曰く、この合宿所はバブル期の競走ブームに併せて設備更新される予定だったらしい。だが程無くして永世大不況に突入して計画は頓挫、さらにはURAの人員整理が始まり、施設の現状維持がやっとだという。苦笑交じりにそう述べる表情には疲れも覗いており、今の時期は一層大変なのだろうと察せられる。
やがて一同は宿泊部屋へと案内された。「はい、ここがウマ娘さんのお部屋ね」
十畳ほどの広さの四人用宿泊部屋だった。畳敷きの和室に、テーブルと小さなテレビだけが置かれている。他にはベランダに出る開放戸が一つと、洗面所がある。総じて簡素だが、寝泊り用途には不足なしといったところだ。
「僕は別棟の部屋だからね。夕食時にまた落ち合おう」
浜野はそう告げると管理人に引き続き先導されていった。ウマ娘達の宿泊棟は女性棟なので、浜野は男性棟に別の部屋が割り当てられている。
時刻はもう夕刻近い。移動に半日費やしたので、この日はもうトレーニング予定は無かった。部屋へ荷物を置き、寝具やアメニティの確認等泊まり支度をしたのち、四人はようやく落ち着いた。
「車乗ってただけなのに疲れたぞ。ご飯まだかな」
ダッツが畳に大の字で倒れ込む。同時にぐうとお腹を鳴らした。夕食は合宿所の食堂で摂る手筈だが、時間にはまだ早い。
ふいにシルクが腰を上げた。
「夕飯まで時間潰しに、散歩でもするか。明日からこの合宿所をフルに使うんだ、施設全体をざっと下見しよう。車内で凝り固まった身体も少しはほぐせるだろ」
「そうね、食前のちょうどいい運動ね」ランが提案に頷いた。
エリモもこくりと首肯する。
ダッツは空腹ゆえに当初渋ったが、三人が部屋を出ていくので結局ついてきた。
宿泊棟を出て、もとの入ってきた施設玄関に出た。玄関は広いホール型になっている。受付カウンターの奥にある事務室では、先程案内してくれた女管理人や他の職員たちが動き回っているのが見えた。受付脇には待合ソファが並んでいて、既に合宿に訪れていたウマ娘達が休憩がてらちらほら座っている。ホールの隅には合宿所全景の縮尺模型が展示されており、その傍に施設のパンフレットやイベントの広告チラシが陳列されていた。
「どれどれ」
合宿所のパンフレットを一枚拝借したシルクは、皆の前で館内見取り図のページを開いた。それによると合宿所には様々なトレーニング設備があるようだ。屋内には体育館型のアリーナが大小幾つかあり、本格的な筋トレマシンを備えたスポーツジムや温水プールもあるらしい。屋外には複数の小判型コースをはじめ、巨大坂路コースも備わっているようだ。
「だいたいは去年来た時と変わってないみたいね」
「だな。これならある程度、予め組んできたプラン通りにやれそうだ」
流し見ながら、四人は館内図を頼りに施設を順繰りに見て回ることにした。
最初に玄関ホールから近いメインアリーナを横切る。一〇〇メートル四方はある体育館で、合宿中のウマ娘が各々シャトルランや柔軟体操をしている。他のサブアリーナでもほぼ同じ光景が見られた。
ジムフロアでは、トレーニング器具相手に格闘するウマ娘達も見られた。力自慢の者が、この期間に一層その長所を伸ばそうとしているようだ。
「すごいね……」
エリモが真剣な目でトレーニング風景を見つめながら云う。チーム・アルルバに遅く加入した彼女は合宿参加自体が初めてで、学園と異なる合宿特有の空気が新鮮なのだろう。
屋外に出てみると、小判コースを駆け回っているウマ娘が多数いる。ターフやダート、バ場状態を変えた幾つものトレーニングコースは実力を伸ばさんとする猛者達で絶え間なくひしめき合っていた。
今後のレースで立ちはだかるかも知れない敵情を目の当たりにし、四人も少なからず刺激を感じたようだ。
「こりゃ、明日から忙しくなるぜ」
「そうね。頑張らなきゃ」
「うん……!」
「その前に、腹ごしらえしたいぞ」
見回っているうちに程よく時間が経った。各施設でトレーニングに励んでいたウマ娘達も、徐々に引き揚げていく。夕食の時間はもうすぐだ。
「いい時間潰しになったわね。でもさ、本当のところは」部屋に戻る道すがら、ランがシルクを小突いてきた。いたずらっぽい表情だ。「エリモちゃんがこの合宿所初めてだから、案内してあげたかったのよね」
「は? いきなり何だ」
「ほら、私達三人は去年合宿に来てるから勝手は分かってるけど、それを敢えてシルクから見て回る提案をしたのは、エリモちゃんのためかと思ってさ」
ランは微笑ましそうにくすくすと笑ったが、その頭をシルクは両拳で挟むとぐりぐり圧迫した。
「いたた、何するのよ」
「うるせえ。さっさと戻って食堂行くぞ」
早々にランを解放したシルクは、足早に歩いて行ってしまった。いからせた肩が、余計なこと言うなと語っているように見える。否定も肯定もしなかったのは、ある意味図星なのかもしれない。
「相変わらず素直じゃないわねー。ねえ、エリモちゃん?」
「えっ。うん……」話を振られたエリモは照れくさそうに頷いた。
相変わらず奇妙な距離感の二人だと、ランは頬に手をやりながら思う。
「ねー、早く行こうよ。オイラお腹空いたってば!」
後ろからダッツにせっつかれ、ランとエリモも廊下を進んだ。
どこかから夕餉の香りが漂ってくる。合宿への移動日となったこの日は、夕食ののち部屋でゆっくり過ごして終わる予定だ。
***
四人が合宿所内を練り歩いていた頃、浜野は別棟の宿泊部屋に案内されていた。男性用の部屋で占められている棟で、この時期は合宿の付き添いにやってきたトレーナー等の学園関係者たちが使っている。
その中の一室に落ち着いた浜野は、部屋に荷物を置き、備え付けの湯沸かし器で茶を淹れ一息ついた。府中より半日かけて運転してきたのが、初老の体にはそれなりに堪えている。それでも気分が安らかなのは、車内でアルルバの四人と交流して若者のエネルギーに多少なりとも触れたからだろうか。
URA監事という役職を持つ彼は、本来ならいま渦中にあるURA事務局で忙殺されているはずの立場だった。日本ダービー後に常務理事の黒霧が発出した競走界賭博化宣言により、現在URAを取り巻く情勢は混沌としている。世間は賭博化の是非を問う話題一色に染まり、ニュースやワイドショーでは毎日のように賭博化に纏わる報道合戦が繰り広げられ、反対運動が全国で散発するなど社会問題に発展しつつある。日比谷に所在するURA本部はその対応に連日追われており、局内の電話は終日鳴り止まないほどだ。
そんな本来の職場の席を外し、友人の島原の依頼を受けてチーム・アルルバの合宿に同道してきた浜野だが、実はそこにある裏事情が絡んでいることを、四人には話していない。
「……さてと」
空になった茶碗を置くと、浜野は鞄を手繰り寄せた。中から書類を取り出して机上に広げる。URA事務局から持ってきた仕事の書類だ。長期間職場の席を外すため、内職をするのに持ってきたのだ。
しかしそれら業務書類は一旦脇に置き、浜野は一枚の封筒を手に取った。その封筒には綴じ口に封印が捺されており、表面には小さい赤字で「極秘」と印字されている。
ペーパーナイフで丁寧に開封し、中からホチキス止めされた書類の束を取り出す。何かの写真や、地図と思しき古ぼけた図面が紙面の多くを占めている。一枚目の表題ページは次のように銘打たれていた。
《極秘:バ綜研(●●合宿所近傍)に関する調査要綱》
その表題を見つめる浜野の表情に翳りが差していた。アルルバの四人と接していた時の温和なものとは打って変わり、冷たく無味な目線で、極秘と銘打たれた書類を捲っていく。私は私の仕事をせねば、口の中でそう呟き淡々と書類に目を通していく。
何のための書類か、どういう仕事をしようというのか。
しかし彼が作業に没入しかけたその時、ハッとした顔で書類を綴じた。畳から立ち上がった彼は、窓の外に目を向ける。外には合宿所を取り囲む雑木林が目に付いた。陽がまだ高いわりに、鬱蒼としており陰気な光景だ。
その木々の合間に何かが動く気配がした。浜野は身を屈めてそれを注視した。作務衣を纏ったごま塩頭の男が、何かを担いで雑木林の奥へ分け入っていくのが見えた。細長いスコップらしきものを肩掛けしているように見える。
合宿所の職員が施設周辺で作業でも行っているのか。さして関心の無い者ならばそういう風に思うのだろう。
だが浜野は神妙な顔で、男の背が林の奥に消えるまで見つめていた。彼の目にはほんの一瞬だが、ごま塩頭の日焼けした横顔がはっきりと見えたのだ。
「やはり──」胸の底に鉛が落ちる感触を味わいながら、浜野は呟いた。「彼もここに、導かれてきたか」