翌朝から合宿が始まった。
朝食後に部屋に戻った四人はまずミーティングを行った。事前に組んできたトレーニングプランを基に、実際の合宿所の設備でどういう行程で進めていくかを打ち合わせた。
今回の合宿テーマは「長所を伸ばす」だ。春のクラシックを終えて、四人は自身のレーススタイルをおおむね確立させてきた。シルクとエリモは差し、ランとダッツは先行、という風に。その脚質をブラッシュアップする思いを込めたテーマだった。
ミーティング後、午前練習のため四人は外に出た。いきなりグラウンドに出るのではなく、合宿所近くの河原へ向かう。山の麓を横切る二級河川があり、これに沿う形で遊歩道がずっと続いている。合宿所の設備ではないが、ここは主にウォーミングアップ目的でウマ娘達が使うランニングロードだった。
「じゃ、いくか」
ストレッチをしたのち、シルクを先頭にランニングが始まった。四人縦列で河原の沿道を流していく。身体をほぐすのが目的なので、全力は出さない。
日差しが燦々と降り注ぐ割には、避暑地だけあって風は澄んで心地よい。河のせせらぎや沿道の木々がマイナスイオンでも発しているのか、息を吸うと体内が浄化されるようだ。
「なんか、走ってるだけで気持ちいいぞ!」
ダッツが小気味よく声を出す。他の三人も同感だった。いつもの学園でのトレーニングとは違った新鮮味があった。
しばらく進むと、沿道が途切れる箇所が見えた。そこが丁度折り返し地点となる。
その付近は、それまで自然味溢れていた風景が一変して河川の両岸が真新しいコンクリートで拡幅されており、人工的に整備された感があった。
それを目にしてランが「そう言えば、ここだったわね」という。
四人は折り返し地点で立ち止まり、コンクリート造りの河川を俯瞰した。
「あれからすっかり整備されたな。まあ、あんな事がありゃ当然か」
シルクが云い、ランとダッツが頷く。
エリモはよく分からないようで、三人を見回しキョトンとしている。
「エリモちゃん。シルクたちで子供を救助した話、前に話したでしょう」すかさずランが補足した。こういう気配りにやはり定評がある。「ちょうど一年前、ここがその現場だったのよ」
合点がいったように、エリモは瞬きして耳をぴんと立てた。
昨年の合宿中のことだ。ゲリラ豪雨により合宿所近くの河川が氾濫し、流域の岩場に地元の子供が数名取り残されるという水難事故が起きた。レスキュー隊が到着するも救助は難航し、時間と共に水嵩はどんどん増していく。このままではと誰もが最悪の展開を思い浮かべた。
だがこの時、シルクが同じ合宿所に居合わせたウマ娘を総動員し救助活動を支援した。数十名のウマ娘が互いを抱えることでひと繋ぎの橋「万バ橋」を架けるという奇策で、子供達を救ったのだ。後にこの策は「ブラック屋敷」から下宿生を解放する際にも用いられた。
その救助活動の現場となったのが、いま四人がいる場所なのだ。治水整備により、周囲一帯が氾濫していたかつての面影は薄い。事件を受けて行政が河川を拡幅したのだろう。
「あの時はまだチーム・アルルバに入る前で……合宿には私もシルクもダッツも個人参加していたのよね。それが途中のある日、合宿所にいたらシルクが押しかけてきて、お前ら全員手を貸せ、って叫んで……あれやこれやとついていったら、救助活動に巻き込まれたっけ」
ランが懐かしむように云う。
「あれからだったなー、何となくオイラ達がつるむようになったの。学園に戻ったら一緒に大目玉食らったしなー。無茶をするな、って色んな人に叱られたぞ!」
ダッツはどこか誇らしげに語った。
「あの時はお前らが率先して手伝ってくれたっけな」
河の水面を見つめながらシルクは鼻を擦った。
このすぐ後に三人はチーム・アルルバに加入することとなる。そこまでの一連の話をしばし三人は語り合った。エリモはその話に、興味深そうに相槌を打っていた。一年前はまだ駆け出しに過ぎなかった自分達が、今ではクラシック戦線にいるのがあらためて不思議に思える。
「っと、いつまでも油を売っていられねえ。戻るか」
やがてシルクがランニング再開を促した。そうね、と三人も頷く。以後の練習メニューもしっかり取り決めてある。初日からのほほんとして行程を乱すのは忍びない。
「帰りはオイラが引っ張るぞ!」意気込んだダッツが復路の先導を買って出た。
「待ってダッツ。速いわよ」すぐ飛び出していったダッツにランも続く。
アタシたちも行くぞ、とシルクがエリモに顎をしゃくった。
エリモは頷きかけたが、その視線がシルクを逸れたところで固まった。何かを見つめている。
なにか、とシルクもつられて振り向く。
河川の対岸。そこにある木々の合間に何かが動いているのが見えた。距離にして一〇〇メートル足らず。
煤汚れた灰色の作務衣が目につく。
きのう合宿所の門外にいた男だ、とシルクはすぐ思い当たる。
よく見ると、男は何かを肩に掛けている。身の丈程もある巨大なスコップに見えた。まるで何かを掘り起こすのに使うような。
(今度は何やってんだ)とシルクは思った。この河川の対岸にあるのは山だけだ。何処かに通じる道らしい道も無いと記憶しているが、そんな場所へ何をしに行っているのか。それとも何かしらの施設があるのか。
と、その時、人影が木々の合間でふいに立ち止まった。ごま塩頭が微かに揺れる。
直感的にシルクはたじろいだ。男がこちらの方に振り向いたように見えた。川を隔ててそこそこの距離が離れているにも関わらず、あの落ち窪んだ眼窩からの視線を感じたのだ。
不良児として世間を渡り歩いてきたシルクは、ガンを飛ばされる程度のことは慣れ切っている。相手が大人の男であろうと、気に食わなければ睨み返して怯ませるくらいわけもない。しかし作務衣の男から受けた視線に、シルクは何故か抗い難い畏怖のようなものを感じた。川のせせらぎの音が遠くなり、耳鳴りがして頭の芯が揺さぶられる。何かに吸い寄せられるように、徐々に心拍が増す。
「……ティスちゃん、ジャスティスちゃん」
引き戻されるようなエリモの声で、はっと我に返る。小さく首を振ってシルクはもう一度対岸に目を向けた。ごま塩頭はいつの間にか消え失せている。
「あの人……あんなところで何してるんだろう」
エリモが訊ねてくる。知らねえよ──とつっけんどんに返そうとした口の中が乾いていて、シルクはもごもごと言い淀んだ。気付けば脇の下にも嫌な汗をかいている。
「ねえ、ジャスティスちゃん」
「……この辺の住人かなにかだろ」
「そうかな」
「いいから、さっさと行くぞ」
不穏な気配を振り切るように、シルクはエリモを連れて強引に駆け出した。