正義の名のもとに   作:李座空

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さまようものたち(6)

 レジに並ぶ会計待ちの列を見て、鍋を振る八谷薫は小さく舌打ちした。状況にもよるが会計は最優先だ。退店客を待たせるとクレームに繋がりやすく、それを何名も待たせている。

 テーブル席に目を向けると、お腹を空かせて料理を待つ学生グループと視線がかち合った。通常なら一〇分足らずで提供しているものを、もう二十分近く待たせている。その横に座る来店したてのサラリーマングループは、未だ水が出されないことに苛立ちを募らせているに違いない。

「お待たせしてすみませんねえ。お会計は合計二五三〇円で……えっ、会計は別々で? ……時間かかっちゃうからまとめてじゃだめ? ……あっ、ダメですか……ではまずこのからあげ定食大盛の方は……六八〇円ですねと……、あっ、間違えた、並盛でレジ打っちゃったよ。あ、ご注文ちょっと待って下さいね~、水もすぐ持っていきますからあ」

 本来なら釈迦力になって店内タスクを消化していかねばならない状況だが、この日の接客係を担う島原はというと、マイペースな動きで慣れないレジ打ちに没頭している。その間にも店内のあらゆる箇所でタスクが滞留していくのが、熟練店主の八谷をやきもきさせた。

「なにチンタラやってんだい」

 痺れを切らした八谷は鍋の火を消すと、注文票と水入りコップを満載したトレイを手に客席へ乗り込んだ。素早く水を配り注文を取ると、厨房に戻って盛り付けを完了させる。その片手間に取った注文に必要な調理行程を組み立て、新たな鍋に火をつけ揚げ物をフライヤーに投じていく。

「そら、そこの出来上がったやつ、二番テーブルの学生さんに提供」会計待ちをようやく捌いて息を吐く島原へ、短く鋭い声で指示する。「そのあとライス盛り。並二丁、大三丁。済んだら一番テーブルの片付けをしながら、全ピッチャーの残量チェック。聞いてんのかい」

「そんなにいっぺんに言われても。俺はショートクタイシじゃないのよ」

「無駄口叩かず、動く!」

 八谷の叩き出すような一喝に、島原はうへっと呻いて店内を駆けずり回る。

 夕方のピークタイムである。この日も絶賛営業中の「はちや食堂」は客足が絶えない。ただその回転率は従来に比べて悪い。いつもシフトに入るチーム・アルルバのウマ娘が合宿のため不在で、例によって店番に不慣れなトレーナーの島原が穴埋めをしているからだ。

 来客を捌き切った時には、すっかり夜更けになっていた。いつもならとっくに片付けも済み、ひとっ風呂浴びて夕食のまかないをつまんでいる時間だが、まだ席や厨房には汚れた食器や調理器具が散らかっている。

「なんて売上だい。あの娘らと店を回してりゃこの三倍は利益があったよ」

 この日の売上げ伝票に目を通しながら、八谷はふんと鼻を鳴らした。

 後ろの厨房では、皿洗いに回った島原ががちゃがちゃと音を立てている。

「そう言わないで下さいよ。たまにしか手伝わないヘルプに期待し過ぎですって」彼は口をへの字にして泡まみれの両手を上げた。

 八谷はそれを無視し、ピリピリした様子でレジの銭勘定を済ませていく。

「そう苛々しないでよ~、売上悪いのそんなにご不満?」

「黙って手を動かしな」

 その後も八谷はつんけんした様子だった。ようやく全部片付き、テーブルでまかないを広げた時には日付が変わる直前だった。

 白ワインを開けた八谷は、一足先に八宝菜を食んでいる。

「機嫌直して下さいよ。俺が段取り悪いのは謝りますから、ねえ」

 自分の豚カツをもそもそと食べながら、島原は申し訳なさそうに切り出す。

 八谷は箸を止め、じろりと島原を睨んだ。

「私が言いたいのはそんなことじゃない」

 ワインボトルを引っ掴んでそのまま煽り、ぷはっと息を吐き机上に叩き置く。思わず胸を反らせた島原の方へ、八谷はずいと身を乗り出した。

「なんで合宿に同行しないんだい。あの娘ら四人を育てるトレーナーの義務はどうした。こんなところで、役に立たないヘルプなんかしててどうする」

「だから、言ったでしょう。俺の車、学園の門にぶつけて壊しちゃったの。代車を使いたくても、不良トレーナーの俺は貸してもらえないから、浜野に頭下げて付き添いを頼んだの。んでもって、合宿中は先輩が大変そうだから、この店を手伝ってるんじゃないですか」

 両手を挙げながら島原が答える。

 全てその通りだった。数日前に島原の愛車は経年不良でハンドルがイカれて自損事故を起こした。その際学園の通用門を破壊したため大目玉を食らい、業務用車を借りることも出来なくなった。そのため浜野が車を出し、アルルバの合宿につきっきりで向かっている。そしてシフトの四人娘が抜けた「はちや食堂」へ、体の空いた島原がヘルプに名乗り出たのだ。

「だ・か・ら、合宿にアンタもついていきゃよかったろうが。浜野君の車にはもう一人くらい乗れたろう」

「知っての通り、俺なんて邪魔者トレーナーなわけですよ。ついていってもアイツら四人の気が散るだけ。練習メニューは一応作って渡してあるから、アイツらはその通りしてくれるだけでいいの。それともなにか、ウマ娘とトレーナーは一心同体だから~とか、古臭い精神論を言いたいんですか」

「古臭いだとぉ。私が教えてた頃は、同じ釜の飯食って同じ風呂の釜に入って同じ布団で寝たもんだ。そうやって絆を深め合うのが、トレーナーとウマ娘のあるべき姿ってもんだろが」

「あのね、中年オヤジの俺がそんなことしたら大問題になっちゃうでしょ」

「話を逸らすねい。トレーナーのイロハを散々仕込んでやったってのに、アンタはそれをよくもここまで蔑ろにしてくれたもんだ。このバカ弟子が、ヒック」

「蔑ろにしてるつもりはないですよ。……先輩、酔ってるでしょ。相変わらず酒癖悪いなあ」

 顔を真っ赤にした八谷を前に、島原は嘆息した。いつの間にかワインの中身も随分減っている。喋る合間にかなり進んだらしい。

 豚カツを食べ終えた島原は缶ビールをちびちびと啜った。ほろ苦いのどごしを味わいながら、彼は昔を思い出していた。駆け出しのトレーナーだった頃にもこうして八谷とよく飲んだ。トレーナーとしての理想、育成論、レース攻略法、担当ウマ娘への想い──杯が進みヒートアップすると、様々なテーマで議論を交わした。古き良きものだった、と今でも回顧できる。

「それよか、一番気掛かりなのは」不意に、八谷が声のトーンを落としてきた。赤ら顔で目が据わっている。「浜野君のことだ。彼、URAの監事だろう。本来なら今頃、賭博化の対応で一番忙しいはずだ。それがどうして、合宿の付き添いのために数週間も体を空けられるんだい」

 島原はビール缶を口につけたまま一瞬静止した。

「それはまあ、俺の数少ない友人ですから。愛車を壊して凹んでる俺を憐れんで、息が詰まる事務所勤めの気分転換ついでに、快く引き受けてくれたわけ」

「ホントにそれだけか」

 呂律の怪しい声だったが、島原は目線を上げた。「何が言いたいんです?」

 ワインボトルを飲み干した八谷がドン、とボトルを置き、腕を組んで見下ろしてくる。

「アンタら、私に協力を要請しておきながら、こっちから聞くまで肝心なことは話そうとしない。そういう事がままあるからね」

「…………」

「浜野君が合宿について行ったのには、他にも理由があるんだろう。そしてアンタがついて行こうとしないことにも……何かワケがあるね。そうだろう?」

 島原はゆっくりと缶に残った麦酒を飲み干し、笑った。自嘲的な笑みだった。「やっぱ鋭いね、先輩」

 酔っ払っていても、否、酔っているからだろうか、飲酒時の八谷は鋭い指摘をすることが昔からある。そのことを島原は思い出した。

「女の勘を甘く見んじゃないよ。で、浜野君は向こうで何をやってるんだ」

 島原はテーブル端に置いてあるテレビのリモコンに手を伸ばす。注意を逸らそうとしているのがバレバレなので、八谷はリモコンの間近にボトルをドン、と置いた。

「わかったわかった、言えばいいんでしょ」恐々とした表情で島原は手を引っ込める。「その前に、一本吸わせてよ」

 ポケットからライターと煙草を取り出し、島原は席を立つ。この日は夕方から忙しくほとんど吸っていないのだ。

「そのまま逃げんじゃないよ」

 八谷に釘を刺され、分かってるって、と島原は手のひらを揺らす。店内は禁煙なので外で吸わねばならないから、彼は施錠した戸口へと向かう。

 しかし、戸口の方に向いたまま、島原の動きが急にぴたりと止まった。そのまま動こうともしない。

「どうした、何して……」

 不審に思った八谷が声を掛けたのと、島原が戸口へと崩折れたのはほぼ同時だった。がたがた、と音を立てながら、中肉中背の体がもたれ掛かるように倒れる。

「おい、どうしたんだ。しっかりしな」

 ただ事ではないと悟ったのか、八谷は席を立って即座に駆け寄った。

 いてて、と島原は苦笑いを浮かべている。意識はあるらしい。だがよく見ると、彼の両手両足は小刻みに振動している。まるで彼のものではないかのように。額にはびっしょりと変な汗が浮いている。

「あはは、車ぶつけた時に、むち打ちでもしたかなあ」

 何食わぬ顔で島原が云う。まるでこの症状が出るのをもとから分かっていたかのような口ぶりで。

「でもあんた、怪我はなかったんだろう」

 すっかり酔いから醒めた八谷が、抱え起こしながら訊く。島原が車の事故で負傷したとは聞いていない。今日一日はちや食堂で働いていた間も異変らしいものは見られなかった。何故急に倒れたのか。

 だが、思い当たる節があった。ややあってから八谷はそこに思い至った。

「アンタ、まさか──」

「うん。先輩の考えてる通りだと思う」先回りしたような科白を、島原は呟く。「少しずつ、こうして症状が出てきてるんだ。“代償”ってやつでしょうね」

 何かを諦めたような島原の呟きで、八谷ははっとした。

 頭の中に一本の線が通った。話が見えた。全てが繋がった。

「代償って……アンタ、ハンドルがイカれたってのはもしや、嘘かい?」

 八谷の問いに島原は応じない。口元を曲げ、自嘲的な笑みを浮かべるのみ。

「浜野君の行先も……アンタが行かなかったのも……例の『バ綜研』がらみだね。そうなんだろう?」

 島原は肯定も否定もしなかった。ただ目を閉じ、ふぅと小さい溜息を吐いた。

 八谷にとってはそれが自ら立てた仮説の的中に他ならないと実感した。

「いま、向こうにね、俺がこの世で最も会いたくない相手がいる。俺、そいつに会うのが怖いんだよ。会ったが最後、何をしでかすか分からないから」

 震えつづける自分の手を見つめながら、島原が云った。その声も、心なしか震えているように聞こえた。

 

 

 ***

 

 

 浜野はひと気のない合宿所の玄関ホールを足音を消して進んだ。時刻はまだ朝五時にもなっていない。玄関のドアをくぐると、真っ白な朝霧が立ち込めている。合宿所がそれなりに山奥にあるからだ。視界は十数メートルか。

 門を開け、車に乗り込む。陽が昇り始めているが、起床しているウマ娘はまだほとんどいない。起こさぬよう、最小限にアクセルをふかしながら合宿所の外へ出る。

 助手席に置いた書類に時折目線を落としながら、浜野は車を進めていく。書類にはある場所の地図が描かれていた。そこを目指しているようだ。

 落ち葉や木の枝の散乱した林道を少し進むと河原に出た。朝霧の発生源はこの河の水だろう。河川一帯はより濃い霧に包まれている。

 流域に沿うように伸びる道を、慎重に運転する。有視界はほんの数メートルしかない。この道はウマ娘たちもウォームアップのランニングで使うという。この早朝から走っている者がいないとも限らない。

 しかし誰に遭遇するともなく、しばらく進むと沿道が途切れた。ランニングの折り返し地点だ。その付近は、河川の両岸が真新しいコンクリートで拡幅整備された感がある。

(この辺りかな)口の中で呟いて浜野は車を降りた。

 右手にはダッシュボードから取り出した双眼鏡を持っている。一帯は依然霧が濃い。聞こえてくるのは川のせせらぎと、どこからともない鳶の鳴き声だけだ。

 ダメ元で双眼鏡を目に当てる。覗き込んだ先は対岸の上方だった。地図上には本来は何も無いはずの場所。八の字状の望遠視界に映るのはやはり白霧のみ。

(少し朝早過ぎたか)浜野は頭を上向けふむ、と唸る。

 しばらくその場に立ち尽くしていた。ときおり双眼鏡を覗き込みながら、昨晩のウマ娘達の会話を思い返す。

 最近この合宿所の周りで奇妙な人がたむろしている。白髪交じりのスコップを担いだ男。その人物は主に山手の方へ出向いていく。それについて合宿所では怪談めいた噂が立っている。

 そういうことなら明日、合宿所の周囲を見回りしてみよう──浜野はそう言った。そうして今、彼はここにいる。

 その噂になっている男の正体に、浜野は心当たりがあった。そして今回、アルルバの合宿に同行してきた理由の一端でもある。

 山からの吹き下ろし風がそよぐ。薄着の浜野は思わず身震いした。夏場とはいえ避暑地の早朝は気温も低い。

 一度出直すべきか。そう考えた直後だった。

 吹き下ろした風で周辺の霧が流され、一時的に視界が川の対岸まで開けた。

 その時浜野は見た。白霧に紛れて佇む人影が。

(もしや)

 咄嗟に浜野は車に乗り込んでいた。エンジンを始動してその場で転回する。もと来た川の沿道を走り、対岸へ渡る橋を探す。

 やや行ったところに古びた沈下橋があった。橋上は舗装が古くガタガタだが、速度を緩めず渡り切る。しかし対岸へ渡った先は木々に覆われたあぜ道だった。自動車の通行には困難な荒れ模様だ。

 止むを得ず運転席から飛び降りた。そのまま荒れた道を駆け足で進み、先ほど人影が浮かび上がった地点を目指す。再び霧は濃くなってきている。川を渡ってからより顕著だ。

 あぜ道を進むさなか、気付く事があった。地面の泥に無数の足跡がついている。それも最近つけられた感があった。こんな辺鄙な地点に人の往来が多くあるとは思えない。

(この足跡も彼が──)

 そんなことを思い浮かべた直後だった。浜野の視界が不意に上に飛んだ。続いてドスンという衝撃とともに左足に鈍い痛みが走る。目の前が瞬間的に真っ黒に塗りつぶされる。

 ぐわ、と思わず呻いた。咽るような土の臭いと味がする。すぐさま理解した。穴に落ちたのだと。

 負傷状態は。足はどうなった。何故こんなところに落とし穴が。痛みを堪えながら身を起こそうとする。頭上を見上げると、霧に塗れた白い空があった。穴の深さは二、三メートル程。なんとか自力で這い上がれるくらいか。足の痛みを庇いながら、ひとまず穴から脱出せねばと手で土を掴む。

 が、その手がギクリと制止した。穴の上から俯瞰してくる顔が覗いた。件のごま塩頭の男だった。

 落ち窪んだ眼窩からのぎらついた視線に、浜野は硬直した。しばしの間、足の痛みも忘れ、二人は上下から睨み合う。

 どれだけの時間をそうしていただろう。穴の上の男は、口元をかすかに動かした。何かをしゃべったのだ。そののち、白霧に紛れるようにすうっと消えていった。

 金縛りが解けたように浜野は速い息を吐く。緊張が解けて足の激痛が蘇ってくる。渾身の力で穴をよじ登りながら、先程投げ掛けられた言葉を反芻する。

 ──オマエハ、ハマノカ。

 ──オマエモ私ヲ、恨ンデイルノカ。

 ──タチサレ。

 ──カカワルナ。

 ごま塩頭の動いた唇は、確かにそう言った。

 

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